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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
その2です。

富山
歴史の輝き胸に刻み 名刀展、23日限り 富山県水墨美術館で開催
 富山市の富山県水墨美術館で開催中の「大名家秘蔵の名刀展―源平の武将から維新の志士たちまでの愛刀―」(日本美術刀剣保存協会県支部、富山新聞社など主催)は閉幕を翌日に控えた22日、多くの家族連れらでにぎわった。来場者は見納めとなる大名家伝来の名刀を鑑賞し、歴史に彩られた輝きを胸に刻んだ。
 同展では、徳川将軍家、前田家、上杉家が所蔵した刀剣や織田信長、直江兼続らが所持した愛刀など国宝、重要文化財を含む48振が展示されている。この日は、日本美術刀剣保存協会県支部の澤田康則事務局長らによる刀剣の手入れの実演や解説会が行われた。

 実演では、多くの来場者が平安末期と江戸初期の刀を交互に手に取り、刀身を光に照らして刃文の違いを見極めた。大河ドラマを見て武将に親しみがわいたという富山市山室の無職赤尾良平さん(65)は「実戦の跡が残る刀もあり、自分が歴史の舞台に立っているような感動を覚えた」と話し、名残を惜しむように展示に見入った。

 最終日の23日は午前9時半から午後5時(入場は同4時半)まで。観覧料は一般500円、大学生400円、高校生以下無料。







愛知
屏風絵など50点の寺宝展 春日井の薬師寺密蔵院で来月
 1328年に天台宗の寺院として建立された医王山薬師寺密蔵院(春日井市熊野町)の寺宝展が10月4日午前9時から、同院本堂で開かれる。

 今年は幕末期に46代住職を務めた僧侶・円龍に焦点を当て、ゆかりの品々を展示する。無料。

 国の重要文化財「薬師如来立像」などの貴重な寺宝を広く鑑賞してもらおうと密蔵院と郷土史グループ「密蔵院語り部の会」が毎年開いている。

 今回の目玉は、知多市で見つかった円龍作の屏風(びょうぶ)絵。1860年作の6曲で、高さ1・4メートル、幅3メートル。ふすま紙に梅や菊などが墨で描かれている。

 そのほか、円龍が書いたとされる天台宗の問答集や「七仏薬師像」の仏画、趣味で親しんだ和歌、墨絵など計50点が展示される。

 同会代表の大島信衛さん(74)は「円龍が持っていた宗教家と風流人という2つの顔を見てもらいたい」と呼びかけている。

 午前10時と午後1時から、同会講師による講話もある。(問)密蔵院語り部の会・大島さん=電0568(92)1449


三重
風呂敷の「すべて」紹介 四日市市立博物館で特別展
 風呂敷の歴史や文化、使い方を紹介する特別展「包むこころ ふろしき」(中日新聞社後援)が四日市市立博物館で開かれている。11月8日まで。月曜日休館(10月12日は開館し、翌13日休館)。

 幕末から昭和初期の風呂敷や、聖徳太子の遺品を包んだ現存最古の風呂敷を紹介したパネル、風呂敷が使われた様子が描かれた浮世絵など約200点を展示した。リュックサック形やショルダーバッグ形といった多彩な包み方の見本もずらり。同館職員は「風呂敷のすべてが分かる展示にした」とPRしている。

 体験コーナーもあり、ボランティアが基本の結び方「真結び」や瓶を運ぶときの包み方などを教えてくれる。10月24日の午前10時からと午後2時からの2回、現代の生活スタイルに合わせた風呂敷活用術を学ぶワークショップがある。

 観覧料は、大人700円、高校、大学生500円で、中学生以下は無料。問い合わせは、同館=電059(355)2700=へ。


滋賀
龍馬あやかり まちおこし
【ファンがPT立ち上げ】


 県内の坂本龍馬ファンが昨秋結成した「近江龍馬会」が、来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を大津のまちおこしに活用しようとプロジェクトチームを立ち上げた。大津は龍馬を支えた2人の人物の生誕の地とされる。メンバーらは「龍馬にあやかり、大津の街と歴史の再発見につなげたい」と意気込む。(日比野容子)


【歴史講座・石碑建立/支えた2人の生誕地・大津】


 2人の人物とは、龍馬の定宿だった京都・伏見の寺田屋のおかみお登勢(とせ)と、龍馬の用心棒で龍馬とともに殺害された山田藤吉。いずれも大津市中心部の生まれと伝わる。


 「龍馬伝」は幕末の風雲児龍馬の生涯を、龍馬と同郷で後に三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎の視点で描く。原作のないオリジナル作品で、歌手で俳優の福山雅治さんが主演する。


 プロジェクトチームは「龍馬伝」の放映に併せて大津の街を盛り上げるイベントを計画中だ。「『龍馬伝』を近江で10倍楽しむための歴史講座」を10月10日を皮切りに計3回開くほか、寺田屋お登勢や山田藤吉ゆかりの地に石碑を建立し、除幕式にイベントを催す予定。また、専門家とともに街歩きを楽しみながら大津の魅力を再発見するツアーも検討している。


 事業は、大津市が市民活動を支援する「大津市新パワーアップ・活動支援事業」にも選ばれ、60万円の助成金を得た。近江龍馬会の柴田與一郎会長は「近江と龍馬のゆかりのように、意外と知られていない街の歴史や話題を掘り起こし、まちおこしにつなげたい」と話す。


 プロジェクトチームは、ともに活動する個人や団体を募集中だ。活動を紹介する説明会を10月3日、大津市のナカマチ商店街にある「まちなか交流館ゆうゆうかん」で開く。問い合わせは柴田さん(090・2191・5796)へ。


歴史的な訪問 /滋賀
 政権交代が確実視された衆院選さなかのため、それほど世間の耳目を集めなかったようですが、「その時歴史が動いた」と言える出来事がありました。8月21日から3日間にわたる彦根市市民使節団の山口県萩市への公式訪問です。

 幕末の動乱期、彦根藩主の井伊直弼大老が長州の思想家、吉田松陰ら尊王攘夷(そんのうじょうい)派を弾圧した「安政の大獄」。その松陰の地元・萩を、獅山向洋市長や井伊家十八代当主の直岳さん(彦根城博物館長)、公募の市民らが訪れ、松陰の墓をお参りするなど、萩市民と交流しました。松陰死罪から150年の新たな展開でした。

      ◇ 

 歴史を活用した両市の街づくりが国の認定を受ける場で市長の席が隣同士になり、獅山市長が訪問を申し入れてトントン拍子に進んだとのことです。萩市の野村興児市長は「恩讐(おんしゅう)を超えて新しい交流を」と訴え、直岳さんは日本の将来に命がけで取り組んだ2人をしのび、友好的な両市の関係への期待を表明しました。

 松陰の墓を大切に守ってきたグループの会長も「歴史的な事実は事実として受け止め、これからの日本を築くため手を携えていければ」と話しました。一方で、彦根からの訪問話を聞いたときは「心穏やかではなかった。憎いとか敵とか思っていた。会の中には『許さん』という声もあった」という複雑な心情を吐露。井伊大老が水戸浪士らに暗殺されてから108年後に彦根市と水戸市が親善都市になりましたが、萩では1世紀半たってなお「過去」にはなっていなかったのでしょう。

 忠臣蔵の赤穂義士の地元・兵庫県赤穂市側が吉良(きら)上野介(こうずけのすけ)ゆかりの愛知県吉良町で墓参りしたのが、松の廊下の刃傷(にんじょう)から292年。約140年前の戊辰戦争で悲劇に見舞われた会津の長州に対する感情もよく知られ、昨年のある討論会では子孫の一人が「和解にはまだ時間が足りない」と発言。歴史の重さを感じざるをえません。だからこそ、萩訪問は未来志向で歩むための「チェンジ」の一歩と言えるでしょう。

     ◇

 今回の友好ムードの演出に大いに貢献したのが「ひこにゃん」でした。現地で取材した支局員によると、どこに行っても、ひこにゃんと一緒に写真を撮ろうとする市民が殺到。ひこにゃんグッズを持った人も多く、「かわいい」コールも絶えず、まさにアイドル並みの人気ぶりだったといいます。

 今や、ひこにゃんに勝る湖国イメージアップの“顔”はなしというほどの存在ですが、先日、人気番組「探偵!ナイトスクープ」に嘉田知事が顧問として出演していてびっくり。歌手の西川貴教さんや加藤登紀子さんに「滋賀ふるさと大使」に就任してもらうなど湖国の魅力を広くアピールしようとする知事のトップセールスでしょう。確かにテレビの訴求力は強烈で、湖北のパンが紹介されると全国から注文が相次ぎ、別の番組では草津のスーパーの“4円もやし”が取り上げられて強い印象を与えていました。

 県内には趣のある観光資源が豊富にあり、誘致にはPRの仕方がカギでしょう。ただ観光客にとって景色や産物だけでなく、人との接触も大きなポイント。県都で幾度となく経験する「三方よし」ならぬ「一方よし」の接客ぶりが気になるところです。【大津支局長・小林成明】


のり面に浸食防ぐ張り石
高島の岩神堰堤遺跡の構造判明

 滋賀県高島市朽木岩瀬の谷間にある「岩神堰堤(えんてい)遺跡」が、江戸時代に築造された貯水用堰堤で、のり面に浸食を防ぐ張り石を施した珍しい構造であることが、高島市教委朽木村史編さん室の調査で分かった。城郭石垣研究の第一人者で石川県金沢城調査研究所の北垣聰一郎所長(土木技術史)は「古い堰堤だ。構造的には江戸時代よりさかのぼれないが、だれが何のために造ったのか。堰堤の表面に石を張ったものは見たことがない」と話す。

 堰堤は、室町幕府の12代将軍足利義晴が京都を逃れ、朽木に滞在していた時に造園された名園、旧秀隣寺庭園の近くを流れる谷川の上流800メートルの谷間にあり、川を堰(せ)き止めるダムのような形。あふれそうになった時に水を流す構造もある。

 全長48メートル、高さ7メートル、上部の幅3メートルと巨大で、基底幅は最大24メートルで断面は台形。構造は、内部に水を通さない粘土を挟む方法は取らず、古墳を築造したように少しずつ土を盛ってつき固めていく「版築」という工法で造られたとみられる。のり面は土で覆われていたが、一部を取り除くと石積みが露出した。張り石は、20センチから1メートルほどの大きさで、何度か補修されていた。

 1874(明治7)年ごろに作られた絵図に青色の谷池が描かれており、ため池だったともみられる。明治20年代の2度の洪水で、堰堤の南東側3分の1が流されたらしい。

 大規模な土木作業が必要だった堰堤だが、幕末までこの地域を治めた領主朽木氏の文書には全く記載がなく、だれが何に使うために造ったか謎のままだ。朽木村史編さん室の石田敏室長は「水田に利用したと伝わっている。室町時代にあったとされる将軍仮御所にかかわる施設なのかは分からない」と話す。


京都
【京のいろ】「角屋」 揚屋 泰平の世に文人が集う
 秀吉により京に開設された揚屋は、江戸期に入ると大坂(新町)と江戸(吉原)が加わる。泰平の世となり、揚屋には文人たちが集い、身分を超えて和歌や俳句、書、画など風雅な世界を深めていった。三都のうち吉原の揚屋は1760(宝暦10)年に消え、大坂の揚屋は1945(昭和20)年に戦災で焼失した。唯一残った揚屋が、京(島原)の角屋だ。

 ■門口の辻行灯が宴の序曲を告げる

 揚屋である京・島原の角屋は今なら料亭に当たる。色鮮やかな座敷と対照的に、外観はモノトーンだ。南北に走る通りに面した間口は約32メートル。実に壮観だ。間口の狭い京町家を見慣れた町人には、一目で圧倒されそう。それだけに、たとえ一度たりとも角屋に足を運んだなら、きっと、長く自慢話に花を咲かせたことだろう。

 そんな島原のうわさを耳にしたかどうか定かではないが、幕末の知識人、頼山陽(らいさんよう)も訪れた。財団法人角屋保存会の中川清生(きよお)理事長(61)は、こう話す。「頼山陽は、うちの南隣にあった八文字(はちもんじ)屋へ来ています。1818(文政元)のことです。なんとお母さんを連れてきたそうで…」。女性にも広く門戸を開放していたのだ。

角屋の門口は、建物の中央部やや南寄り。太い門柱と両脇上部の赤い大津磨き壁が印象的だ。そこから顔をのぞかせる角屋の家紋(蔓三(つるみ)つ蔦(つた)」を白く染め抜いた大きな暖簾(のれん)は、台所へ入る内用の玄関だ。暖簾の上にある突出した庇(ひさし)は柿葺(こけらぶ)きだ。日本情緒あふれる佇(たたず)まいが、敷石の打ち水にうっすら影を落とす。両側に立つ太い高木は槐(えんじゅ)で魔よけや長寿の木とされる。

 来客用の玄関は門口を入って右に延びる敷石の先にあり、正面からは見えない所に奥まっている。黄昏時、門口から見える辻行灯(つじあんどん)に明かりがともると、宴への序曲が始まる。(文:早瀬廣美/撮影:加藤孝規(たかのり)/SANKEI EXPRESS)

       ◇

 ■角屋と文人 泰平の世を迎えた江戸時代中期の島原には、文人と呼ばれる知識人たちが集まった。中でも角屋6代目、7代目は親交深かった与謝蕪村(よさぶそん)らを招いて島原俳壇をつくるなど、数多くの風雅人を輩出した。また円山応挙(まるやまおうきょ)や蕪村、池大雅(いけのたいが)ら当時の一流画人の作品が角屋の各座敷に現存、重要文化財指定の作品もある。京都市下京区西新屋敷揚屋町32。(電)075・351・0024




広島
神辺出身父子顕彰へ 10月から企画展 
 江戸末期、地理学者伊能忠敬の日本地図作製に尽力した福山市神辺地区出身の箱田良助(1790〜1860年)と、明治政府で大臣を務めた次男榎本武揚(たけあき)(1836〜1908年)の実像に迫る企画展や講演会が10月、市内で相次ぎ開かれる。動乱の幕末、明治維新を駆け抜けた父子の顕彰機運が盛り上がりを見せそうだ。

 箱田良助は伊能の内弟子筆頭として、日本初の実測地図「大日本沿海輿地全図」完成に寄与。榎本家の養子となり幕臣として活躍した。武揚は旧幕府海軍を率いて明治政府に最後まで抵抗したが、新政府では政治手腕を買われて文部、逓信大臣などを歴任した。

 現在も、同市神辺町箱田には生家があるが、父子のことはあまり知られていない。このため、福山城博物館(同市丸之内)は10月3日〜11月23日、「箱田良助と榎本武揚」展を開く。地図作製に使われた江戸期の測量道具、ナポレオン3世から贈られた武揚のフランス製軍服(靖国神社所蔵)など約100点を展示。箱田は天文学や算術にたけ、武揚はオランダ留学で最先端の海運技術を習得するなど、ゆかりの品からは母国のために未来を見据えて行動した姿がうかがえる。

 かんなべ図書館(同市神辺町川北)でも10月1〜25日、同じテーマで書籍や資料を展示。市神辺文化会館(同所)では3日、郷土史家の武田武美さん(80)=同市神辺町西中条=が箱田の実績について講演。県立歴史博物館(同市西町)でも10日、武揚のひ孫・隆充さん=東京都=らを招きパネルディスカッションを開く。



鳥取
近代史を飾った 西部人物伝
 明治から昭和にかけて文化、経済、政治など各分野で活躍した、鳥取県西部地区ゆかりの多彩な顔を、加藤哲英さん(米子市美術家協会会長)の絵と杉本良巳さん(米子市歴史館運営委員長)の文章で紹介する。金曜日掲載。

【67】森脇 要(もりわき かなめ)
1911~99
「菊水レザー」で名声
 森脇要は1911(明治44)年、南部町の関家に生まれ、後に旧名和町の森脇家に入る。森脇家は幕末の刀鍛冶清水藤四郎の孫弟子であった。光徳高等小学校を卒業して家事に従事したが、新技術習得の熱意に燃え、36(昭和11)年戸畑鋳物安来工場(現日立金属)の研究所に入所、藤治人博士の知遇を得て、靖国神社日本刀鍛錬場の研修生となる。ここで技術が飛躍的に向上、40(同15)年に神戸市湊川神社の菊水鍛刀会に主任として赴任する。

 43(同18)年、北満に技術軍属として入隊、終戦で引き揚げると神戸の自宅と鍛刀場は爆撃であとかたもなく、妻は大山口駅の爆撃で死亡していた。悲痛の極みの中で47(同22)年、菊水刃物工場を設立、製品の「菊水レザー」は全国の理容店で使われた。その後、工場は年毎に発展、63(同38)年山陰初の鉄工団地が完成するとその中核となり、彼は専務理事、副理事長に就任、広く地域産業と文化の振興に貢献した。99(平成11)年没、88歳。



山口
ふるさと歴史講座:「幕末青年の志」一坂さんが講演--周南 /山口
 江戸時代の郷校(ごうこう)の建築物として県内で唯一残る周南市安田の徳修館(県有形文化財)の「顕彰保存会」が26日、地元公民館で「ふるさと歴史講座」を開き、約100人が参加した。
 萩市特別学芸員の一坂太郎さんが「幕末青年の志」と題して講演。主に吉田松陰に触れ「松下村塾で学んだのは、みんな近所の子どもたちだった。それがすごい人に育ったのは、松蔭が私利私欲のない志のもと、行動するという自分の生き様を見せて、感化させたからだ」などと語った。


伊藤博文:没後100年記念、先祖墓碑を修復--萩市・報恩寺 /山口
 初代内閣総理大臣・伊藤博文公没後100年を記念し、萩市津守町の報恩寺にある伊藤家先祖墓碑が修復された。

 記念事業実行委(萩市、萩文化財保存協会、萩商工会議所など14団体)が「萩には伊藤ゆかりの歴史的遺産が少ない」として石柱門や玉垣などを修復した。

 費用は市のワンコイントラスト委員会が総額350万円を支援した。伊藤は少年のころ萩に移り、吉田松陰の私塾・松下村塾に通った。幕末から明治にかけて活躍、初代の内閣総理大臣として日本の近代化に貢献した。


大分
幕末・維新の道(4)今市
◆まつり・食で彩り


 緑が鮮やかな山中の上り下りが続き、時に小集落の生活道路を抜ける。県道412号と重なりながら、今市へ。眼前に広がる石畳は壮観だ。よくこれだけ残せたものだ。全長660メートル。幅約8メートルの道の中央約2メートルに、平石が敷き詰められている。


 穏やかな平日の午後、石畳を踏みしめて進むと、両側には「代官屋敷跡」「鍛冶屋跡」「油屋跡」……。挿絵が入った案内板が立つ。街道を進んだ坂本龍馬や参勤交代の藩主らの風景がよみがえりそうになる。よく見ると、所々に最近植えたようなしだれ桜も。石畳に彩りを添えようとする地元の保存会の思いが、開花しようとしている。


 毎年9月上旬にある石畳まつりでは、約1万本の竹灯籠(とう・ろう)で照らされる。住民でつくる今市地域づくり協議会は「夜は灯籠で、天の川になるんです」と誇らしげだ。


 県道に出ると、「若妻の店」の看板が目に入った。地元の女性たちが腕を振るい、ナスやニンジン、ゴボウにシイタケと具だくさんのだんご汁、地元産小麦でつくっただんごを切り、きな粉をまぶした「やせうま」などの郷土料理を出す。ふるさとへ帰ってきたような味わいだ。


 「若い妻の真心の味です」。同店代表者の赤星陽子さん(60)はにっこり笑う。
 この地区に引き寄せられるように昨年移り住んだのは、服飾デザイナーの鶴丸礼子さん(53)。古びた旧農協の建物を改造し、仕事場兼自宅にした。夜になると、台所からも満天の星空が見える。


 「東京などから、いろんな方が来てくれるんです。『いまいちだね』の今市でなく、『ベスト』にしたい」


 歴史を運んだ街道周辺が、新たな表情を見せ始めている。(奥正光)


 ◆ふるさと発信:今市地域づくり協議会長の後藤文男さん(67) 
 石畳まつりは、大分市との合併(05年)後、今市が忘れられないよう地元出身者にも情報発信し、市の一隅を照らそうという思いで始まりました。石畳の両側に植えられたしだれ桜は、あと10年先が楽しみ。少し足を延ばせば長湯温泉もあり、温泉につかって往時をしのんでいただきたい。若妻の店は、だんご汁とかしわ飯が入ったジャンボいなりがおすすめです。



幕末・維新の道(5)久住
◆石橋・石灯籠に面影


 「御茶屋跡」。竹田市久住町の市久住支所の敷地の片隅に、そう刻まれた石碑がひっそりとたたずんでいる。久住は、加藤清正が参勤交代のために設けた宿場の一つ。坂本龍馬と勝海舟も、久住で「細川侯の旅亭」に泊まったとの記述が「海舟日記」に残る。


 現在の久住の街並みには、往時をしのばせる面影は一見、残っていない。だが、県道30号の田町川にかかる田町橋の下を見ると、古い石橋が顔をのぞかせた。コンクリートで補強されているが、多くの旅人たちが渡った街道の石橋だったのだ。


 近くにある「久住酒蔵物語 竹田櫻」は、昭和初期から清酒「竹田櫻」を造っていた小早川酒造の醸造所跡。酒造りの工程を学べる資料館や、酒蔵を改装したレストランになっており、旅の途中に一息入れるのにちょうどよい。


 少し足を延ばすと、豊の国名水15選に選ばれている老野湧水がある。妙見神社の下からわき出る「霊水」とされ、神社の隣が水くみ場として整備されている。水は冷たく、口に含むと甘い感じがした。シルバーウイーク中には、県外から水くみに来る観光客もいた。


 久住の宿場跡から熊本方面へ街道を進むと、白丹の町に出る。集落の外れには、海舟がその高い建設技術に驚いたという神馬の石橋や、一里山の石灯籠(とう・ろう)が残っている。街道には1里ごとに目印が置かれており、この灯籠は熊本から18里の目印だ。


 白丹温泉「ふれあいの湯」につかる。のどかな山村の集落にある素朴な温泉施設。旅の疲れをいやすのに、うってつけだ。(野崎健太)


=終わり


 ◆仕掛け楽しく:竹田市長の首藤勝次さん(55) 
 肥後(豊後)街道というと、殿様の通った参勤交代路のイメージがあるが、それだけだとワクワクしない。そこで、龍馬や海舟が通った「幕末維新の道」として売り出そうと、商工会の青年部に呼びかけている。国づくりの志を抱いて、若者たちがこの道を通ったことに思いをはせるような仕掛けをつくっていきたい。まずは、久住に龍馬や海舟の肖像をデザインした「幕末維新の道」の看板を立て、観光客の反応を見てみたい。熊本市や長崎市など、街道沿いの自治体にも提携を呼びかけたい。








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 ちょっと更新が滞ってしまいました。その分記事を貯め込んでしまったので、大変です(^^ゞ。

北海道
箱館奉行所来館者 年間19万6000人を予測…市教委生涯学習部
 函館市教委生涯学習部は、来年7月29日のオープンを予定している箱館奉行所(五稜郭町44)の来館者見込みをまとめた。平年ベースでは五稜郭タワー搭乗者の4分の1程度、年間19万6000人の来館を予測。オープン1年目の2010年度は話題性から1・25倍に設定し、8月からの8カ月間で14万7000人(年間換算で24万5000人)を見込んでいる。

 開館効果は3年間続き、2年目は21万7000人、3年目が20万8000人で、4年目以降は19万6000人を見込んでいる。

 第3回定例市議会に奉行所の設置条例案を提出。他都市の同様の施設を参考に、入館料は大人500円、学生・児童・生徒は250円とした。入館料収入は、初年度が8カ月で5600万円、2年目8200万円、3年目7900万円、4年目以降は7400万円とした。

 公の施設を民間に管理代行させる指定管理者制度を導入し、予算案は5年間で上限が2億9700万円、1年間で6000万円弱となる。入館料収入は市の歳入となり、見込みでは入館料収入で管理委託料を賄える。設置条例の可決後、指定管理者の公募、選定作業に入る。

 社会教育施設として市が特別史跡五稜郭跡の整備の一環で建設。基本設計、実施設計を経て06年度に着工し、11年度までの5カ年計画で建設している。建設費用のおおむね7割が交付税措置される合併特例債を活用。特例債が適用される実施設計と建設工事分の事業費は約18億2800万円で、借金の償還額は年間約1億円だが、実質的な負担は約3000万円で済むという。


先人の思い胸に決意新た…遺愛学院135周年記念式典
 学校法人遺愛学院(野田義成理事長)創基135周年記念式典が26日、函館市杉並町の同学院内の遺愛アリーナで行われた。来賓と全校生徒ら計約900人が地域に根差して女子教育を進めた先人の功績をたたえるとともに、今後の発展に向けて決意を新たにした。

 式典で野田理事長は「学院の歴史は国の激動の歩みと重なる。『信仰・犠牲・奉仕』の遺愛の三大精神は卒業生や在学生1人ひとりの心に受け継がれており、今後も有意な人材の育成に努めたい」と式辞を述べ、福島基輝学校長が感謝の辞を語った。西尾正範函館市長らの祝辞に続き、生徒代表の高校3年生浜津薫さん(17)が「遺愛生はハリス夫妻やキャロライン夫人の遺志と同窓生の深い思いを次世代に受け継がねばならない。優しく明るい校風で学べてうれしい」と喜びの言葉を語った。

 この後、記念コンサートとして生徒によるハンドベルや吹奏楽曲の演奏、卒業生によるソプラノ独唱が繰り広げられ、参加者は節目を祝った。

 同学院は1874(明治7)年、米メソジスト教会の宣教師として夫と来函したM・C・ハリス夫人が「日々学校」(デイスクール)を開設したのがきっかけ。キャロライン・ライト婦人らの献金で1882年、元町に校舎を建築。現在まで一貫してキリスト教主義の女子教育を実践している。


函館メサイア、150年前の静養の音楽響く
 函館メサイア教育コンサート実行委員会主催の開港150周年記念演奏会「函館メサイア2009」が22日、市芸術ホール(五稜郭町)で開かれた。幕末に日本に来たペリーの黒船艦隊が箱館などで響かせたユニークな西洋音楽を、合唱と器楽アンサンブルなどで演奏。来場者約300人は、薫り高い西洋音楽を満喫した。

 節目を機に、いち早く西洋音楽が入ってきた函館、道南を盛上げようと企画。同実行委音楽監督の声楽家、徳永ふさ子さんが指揮を、函館メサイア合唱団・管弦楽団などが演奏した。

 「黒船がもたらした音楽」との第一部では、1854年、箱館に停泊中の黒船でにぎやかに奏でられたという「艦内厨房生活」「お嬢さん結婚しませんか」などを再現。オルガニストの石崎理さんによるナレーションとスライドで、楽曲の背景なども分かりやすく伝えた。

 第二部はバッハの「ロ短調ミサ曲」から「キリエ」「グロリア」を披露。合唱団と管弦楽団の約60人が壮麗で厳かなこの大曲を厚みのあるハーモニーで響かせ、会場から惜しみない拍手が送られた。 

 ……ひょっとして見出しの「静養の音楽」って「西洋の音楽」の変換ミス?

150周年記念ミサ 聖堂に讃美歌…カトリック元町教会
 函館が開港した1859(安政6)年に宣教が始まった函館カトリック元町教会(ジェル・ロー神父)は21日、函館市元町の同教会で創立150周年記念ミサを行った。同教会や市内のカトリック教会などの信者、国内外からの神父ら約400人が参列。響きの良い聖堂で賛美歌を歌いながら、厳粛な祈りをささげた。

 パリ外国宣教会のメルメ・カション神父が同教会の歴史の第一歩をしるし、これまでに28人の主任司祭の下、5000人以上の受洗者と聖職者が召命されてきた。記念ミサは共同ミサとして執り行われ、札幌教区長のペトロ地主敏夫司教が司式を務めた。

 パリ外国宣教会管区長のオリビエ・シェガレ神父ら17人の司祭団が歌に合わせ聖堂に入った。荘厳な雰囲気の中、救世主の預言「イザヤの預言」などが朗読されたり、賛美歌とオルガンの音色が溶け込んだ神秘的なハーモニーが会場を包み込んでいた。地主司教が「今後も函館市民のために開かれた教会として発展していければ」と述べたほか、聖体拝領では祭壇などに広がった司祭団が信者らにパンとワインを手渡した。

 ミサ終了後は関係者による祝賀会を五島軒本店(末広町)で開き、教会の節目を祝い、さらなる発展を誓った。


黒船伝来の旋律復活 函館でメサイアコンサート 「音楽が外交手段」解説も
 幕末のペリー艦隊来航時に日本に伝えられた音楽を紹介する演奏会が22日、函館市芸術ホールで開かれた。近代西洋音楽の先駆けのまち・函館。黒船がもたらしたメロディーが1世紀半の時を超えて広がった。(志村治)

 「函館メサイア2009~『黒船のもたらした音楽』と道南の力を結集!『ロ短調ミサ曲』」。函館開港150周年に合わせ、函館メサイア教育コンサート実行委が主催した。

 ペリー一行が1853年に久里浜(横須賀市)で米大統領の親書を日本側に手渡した時に軍楽隊が演奏した「ヘイル・コロンビア」、ペリーが親書を渡した後の帰艦時に鼓笛隊が演奏した「ヤンキー・ドゥードゥル」(アルプス一万尺)、54年に函館停泊中の艦船に招いた松前藩士に披露された歌の数々などを金管五重奏や合唱で紹介した。

 また、曲の合間には、ペリー来航時の様子を描いた絵などをステージ上のスクリーンに映し出し、ペリー艦隊にとって音楽が外交手段の一つだったことを解説した。


黒船のメロディー メサイアコンサートで復活 函館
幕末のペリー艦隊来航時に日本に伝えられた音楽を紹介する演奏会が22日、函館市芸術ホールで開かれた。近代西洋音楽の先駆けのまち・函館。黒船がもたらしたメロディーが1世紀半の時を超えて広がった。

 「函館メサイア2009~『黒船のもたらした音楽』と道南の力を結集!『ロ短調ミサ曲』」。函館開港150周年に合わせ、函館メサイア教育コンサート実行委が主催した。

 ペリー一行が1853年に久里浜(横須賀市)で米大統領の親書を日本側に手渡した時に軍楽隊が演奏した「ヘイル・コロンビア」、ペリーが親書を渡した後の帰艦時に鼓笛隊が演奏した「ヤンキー・ドゥードゥル」(アルプス一万尺)、54年に函館停泊中の艦船に招いた松前藩士に披露された歌の数々などを金管五重奏や合唱で紹介した。

 また、曲の合間には、ペリー来航時の様子を描いた絵などをステージ上のスクリーンに映し出し、ペリー艦隊にとって音楽が外交手段の一つだったことを解説した。(志村治)


宮城
歴史資料:遠藤家末裔から戦国・近代まで 寄託を受け調査、整理--白石 /宮城
◇数千点寄託を受け--白石市博物館建設準備室
 白石市在住の仙台藩重臣・遠藤家の末裔(まつえい)から、戦国時代から近代までの貴重な歴史資料数千点が市に寄託されたことを受け、市教育委員会博物館建設準備室は21、22の両日、NPO法人「宮城歴史資料保全ネットワーク」などの協力を得て資料保全の調査、整理を実施した。

 これまでの調査で戦国時代の書状など約45点を確認。調査指導に当たっている同ネットワーク代表の平川新・東北大学院教授は「仙台藩・伊達家と今川、徳川、北条家などとの外交関係を知る上で、全国的にも注目される資料の可能性が高い」と注目している。

 今回の歴史資料は遠藤家から、「歴史的、学問的な評価がどうなのか正確に調べてほしい」と寄託された。資料は、遠藤家で長年にわたり長持や茶箱に大切に保管されていた物と、親類関係にある中島家の資料。

 調査・整理は博物館建設準備室と同ネットワーク、白石古文書の会など約70人が参加。長持、茶箱から一点一点資料を取り出し、写真を撮影した。今後は、資料を解読して目録を作成する。戦国時代の資料を最優先的に調査するが、本格調査は来年度から取り掛かり、終了には2~3年かかる見通し。

 今回の調査では、戦国時代の書状約45点のほか、遠藤家系図、押印、朱印状、地図などの資料を確認した。

 遠藤家は仙台藩の重臣。藩の奉行職を代々務め、栗原郡川口(現在の栗原市、旧一迫町)に約1万3000石を拝領。祖は伊達政宗の父輝宗の重臣である遠藤基信(1532~1585年)。

 「片倉代々記」によると、基信は片倉小十郎景綱を「後来国家の大器たるべしと称賛」。伊達家に景綱を推挙した。遠藤家は幕末維新期に藩の奉行として活躍した。奥羽越列藩同盟崩壊後の戦後処理には遠藤文七郎充信(さねのぶ)、明治期には日本画家の遠藤速雄らがいる家系。

 一方、中島家は仙台藩重臣。天文年間(1532~1555年)、稙宗のころから伊達家に仕え、伊具郡金山(現在の丸森町金山)に2000石を拝領、多くの奉行職を輩出した。

 同市では06年、「貴重な文化遺産を後世に」と市民有志による博物館建設の要望書提出を受け、博物館建設準備室を設置。基金制度を設けるなど建設準備を進めている。【豊田英夫】

 「遠藤文七郎充信(さねのぶ)」って、土方歳三を「升屑の小人、論じるに足らず」と評した、あの人ですよね(汗)……遠藤家が白石にゆかりのある人物と知り、母方の祖母が白石出身で土方ファンの自分は複雑な気分です(^^ゞ。

北方武家屋敷遺跡:眼鏡、陶磁器などが出土 あす現地説明会--仙台 /宮城
 仙台市内の地下鉄東西線工事に伴う仙台城跡の北方武家屋敷遺跡発掘調査で、仙台市教育委員会は24日、東北大川内北キャンパス(青葉区)の調査区域から幕末から明治時代初期とみられる眼鏡1点や陶磁器など数百点が出土したと発表した。調査区域は明治時代に軍に接収され、戦後は米軍駐屯地となった場所で、市教委文化財課は「江戸時代の地形が軍隊により大きく作りかえられていたことが分かった」としている。

 調査は今年4月から行われており、調査面積は約2000平方メートル。明治時代に軍によって築かれた石垣を取り払い、当時盛られた土を取り除くことで武家屋敷跡につながる緩やかながけなど江戸時代の地形が現れた。

 今回の調査区域からは建物跡を示す遺構は見つからず、文化財課は屋敷内の空き地だったとみている。「支柱式天狗(てんぐ)眼鏡」や、瀬戸美濃焼や相馬焼などの陶磁器の多くはがけの傾斜面から出土した。

 北方武家屋敷は仙台城下でも城に最も近い屋敷地で、安政年間(1854~1860)に家老職に当たる奉行を務めた人物が屋敷を構えるなど、仙台藩の上級家臣の屋敷地だったという。

 現地説明会は26日午前10時から。【高橋宗男】


4百年前の古文書、伊達家の外交物語る
 伊達政宗の父輝宗の「片腕」とも言われた遠藤基信を祖とする仙台藩の重臣・遠藤家に伝わる古文書が白石市に寄託され22日、公開された。戦国時代に伊達家の外交を担っていた基信あてに、東北地方の戦国武将、芦名盛興(もり・おき)をはじめ最上家の外交担当や、東海地方の今川家ゆかりの人物が書いた多くの「外交文書」があり、平川新(あらた)・東北大教授は「戦国時代の外交関係が具体的に分かる資料。まとまって出てくるのは珍しく非常に貴重だ」と話している。(石井力)


 市教委によると、基信は片倉小十郎景綱を見いだし、「政宗の教育係に」と輝宗に推薦、片倉家の栄達のきっかけを作った人物だ。江戸時代、遠藤家は現在の栗原市一迫地区に1300石を拝領し、藩の奉行職を代々務めた。幕末維新期には奥羽越列藩同盟崩壊後の戦後処理に功のあった奉行の允信(さね・のぶ)が出る。


 古文書などは白石市内に住む子孫宅にあったもので、約6千点。このうち、戦国時代の「外交文書」が約45点あり、当時、基信が伊達家の外交を担っていたことが確認できた。芦名盛興からの文書には人質に関する記述があり、戦の後処理に関するものとみられる。他家の外交担当からの文書も多く、他家同士の和解に関するとみられる資料も。「今川周防」という人物からの文書もあり、今川家とのつながりもあったようだ。平川教授は「400年たって、当時の外交文書が情報公開されたようなもの。当時の大名間の関係も具体的に見えてくると思う」という。


 遠藤家の親類にあたる中島家の文書も約300点あり、今回の資料では最も古い1565年に政宗の祖父晴宗から中島家の領地の所有を認めるものもあった。


 資料整理は平川教授が理事長を務めるNPO法人「宮城歴史資料保全ネットワーク」が全面的に協力。この日は資料の写真撮影を中心に行った。今後、目録を作成して解読にあたるが「数年かかる見込み」という。風間康静市長は「歴史ブームの中、こうした資料が出てきたのは何かの縁があるのだろう。しっかり守っていきたい」と話した。


伊達家重臣遠藤基信あて書状発見 戦国時代の貴重資料
 戦国時代の真っただ中に東北の諸大名らが、伊達家の重臣遠藤基信(1532~85年)へあてた書状の数々が宮城県白石市内の民家で見つかった。判明しているだけで50点近くに上る書状の文面には「和平」「人質」「仲介」などといったキーワードが散見され、専門家は当時の外交史に迫る貴重な歴史資料とみている。

 発見されたのは、栗原郡(現栗原市)に約1300石を拝領した遠藤家に伝わる文書。戦国時代から明治時代に至る約6000点を、白石市内に住む子孫が長持ちや茶箱に保管していた。

 特に史料価値が高いと考えられているのが、伊達家の外交を担当していた基信あての書状。差出人には伊達政宗の正室愛姫の父で三春城主の田村清顕をはじめ、岩城家や芦名家、葛西家など奥州のそうそうたる家柄の当主や重臣が並ぶ。今川家や徳川家、北条家などにも及んでいた。

 書状の詳細な解読や分析作業はこれからだが、中には人質を指定するくだりや進物のやりとりを示す内容もある。

 仙台藩の奉行職を代々務めた遠藤家の初代基信は政宗の父輝宗に仕え、片倉小十郎景綱を政宗の守り役に推挙した。幕末には第12代允信が奥羽越列藩同盟崩壊後の戦後処理に当たった。

 白石市教委がNPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク(仙台市)に寄託史料の整理と調査を依頼。21、22の両日にはすべての史料を一枚一枚写真撮影する作業が行われ、地元の研究家も含め延べ約70人が参加した。

 戦国時代の文書がこれだけまとまって見つかるのは全国でも珍しく、NPO理事長の平川新東北大教授は「第一級の外交機密文書が400年の時を経て情報公開されたようなものだ。大名間の力関係が一気に解明される可能性もある」と胸を躍らせる。

 白石市の風間康静市長は「眠っていた史料が、戦国武将ブームのさなかに日の目をみたことに何かの縁を感じる。寄託史料は白石だけでなく、日本の宝だ」と話した。


福島
景勝、菊姫も出陣 勇壮に会津藩公行列
 福島県会津若松市で22日から開かれている会津まつり(同実行委主催)のハイライト、「会津藩公行列」が23日、市中心部で行われた。大勢の見物客が勇壮な時代絵巻に見入っていた。
 行列には、同市とゆかりがあり、交流をしているむつ市や神奈川県横須賀市、三重県桑名市などからも含め市民約500人が参加。歴代の藩主や白虎隊など会津ゆかりの人物に扮(ふん)し、4時間余りかけて約7キロを練り歩いた。
 小雨が降る中、若松城(鶴ケ城)本丸で出陣式をして気勢を上げた後、会津藩祖保科正之や新選組副長の土方歳三らが「城下」に繰り出した。地元の中学生や高校生が装った白虎隊やなぎなたを携えた娘子(じょうし)隊などには沿道の客から拍手が送られた。
 午後からはNHKの大河ドラマ「天地人」で、一時期会津を治めた上杉景勝、妻菊姫の役を演じている俳優の北村一輝さんと比嘉愛未さんが洋装で特別参加、祭りを盛り上げた。
 まつり最終日の24日は、藩校日新館にちなみ、市内の児童が武者姿で中心部を歩く「童子行列」などが行われる。


「会津戊辰戦争慰霊の集い」開催
 東軍、西軍、官民を問わず会津戊辰戦争で犠牲になったすべての人を弔う「会津戊辰戦争慰霊の集い」は22日、会津若松市の鶴ケ城本丸茶屋脇にある慰霊の碑前で行われた。

 実行委員会の主催。

 真部正美実行委員長が「戊辰戦争から学んだ教訓を生かし、世界の恒久平和実現のために全力を尽くす」と祭文を読み上げた。

 菅家一郎市長が追悼の言葉を述べ、芳賀公平会津弔霊義会理事長があいさつした。


会津まつり開幕、先人しのび提灯行列
 会津の秋を彩る「会津まつり」が22日、会津若松市で開幕した。
 この日は141年前の戊辰戦争で鶴ケ城の明け渡しが行われた歴史的な日。
 先人をしのびながら、子どもたちによる提灯(ちょうちん)行列などが市中心部で繰り広げられた。
 提灯行列には市内の子どもたち約1万人が参加した。
 手に紅白の提灯を持ち、会津陸上競技場から神明通りまでを歩いた。


会津のアマ劇団 「宿敵地」薩摩公演へ 来月鹿児島
 戊辰戦争で戦った会津と薩摩の和解をテーマにした演劇「明治の兄弟―山川家の人々」が10月、福島県会津若松市のアマチュア劇団「ぴーひゃらら」によって鹿児島市で上演されることになった。会津藩士の家に生まれた山川捨松と薩摩藩出身の大山巌との結婚を軸に、西郷隆盛の弟の従道や捨松の兄らとの心の交流を描く。「ぜひ鹿児島で」という劇団側の熱意が通じ、かつての宿敵の地での上演が決まった。

 「明治の兄弟」には会津藩士からそれぞれ東京高等師範学校長や東京帝大総長となった山川浩、健次郎の兄弟や、初の女子留学生として渡米した妹の捨松らが登場する。

 時代は戊辰戦争(1868~69年)から14年後の1883(明治16)年。捨松に、薩摩藩出身の軍人で陸軍大臣などを務めた大山巌との縁談が舞い込む。

 戊辰戦争で薩摩や長州(山口県)から攻められた経緯があるため、兄の浩は当初かたくなに断る。しかし大山のいとこに当たる西郷従道から、西南戦争で兄隆盛と戦った悲しみを聞き「戦争でつらい思いをしたのは自分たちだけではない」と心を開いていく―というストーリーだ。

 福島県教委が2007年に公募した「ふくしまの歴史と文化の再発見 演劇祭」で入選した作品で、県内各地で上演されている。

 劇団関係者は以前から「会津と薩摩がテーマなので、ぜひ鹿児島でも上演したい」と念願。昨年から鹿児島市役所に手紙や演劇の映像を送るなどして熱心に働き掛け、10月13日に鹿児島市中央公民館で上演されることが決まった。

 「ぴーひゃらら」には会津地方の12~62歳の団員約30人が所属する。団長の近藤直宣(なおのり)さん(30)は「つらい思いをした戦いの歴史から、見る人が何かを感じてくれる機会にしたい」と話す。

 今月上旬には会津若松市内で公開リハーサルも行い、劇団員は来月の本番に備える。鹿児島での上演は運搬費などがかさむため、劇団は寄付も募っている。連絡先は事務局の鈴木さん090(7932)2382。


今年のゲスト「上杉公夫妻」
あすの会津まつり

 戊辰戦争で亡くなった先人らを慰霊する「会津まつり」で、23日に行われる呼び物の時代行列のゲストに、俳優の北村一輝さん、比嘉愛未さんの特別出演が決まった。2人は会津も舞台として登場するNHK大河ドラマ「天地人」で、上杉景勝と妻・菊姫を演じていることから白羽の矢が立った。


 2人の登場は午後1時ごろで、会津若松駅前の旧サティ前を出発、神明通りの入り口までを輿に乗って通る。途中2カ所でファンに向けたあいさつも予定されている。




 


茨城
開藩400年・水戸藩の光芒 『二夫にまみえず』は建前? 全国5例目の離縁状の意味
 旧水戸藩士だった岡崎家(東京)で最近見つかった「返り一札」と呼ばれる武士の離縁状受取書が興味深い。

 「嫡女(ちゃくじょ)(長女)の儀、此度(このたび)不縁に付き御離別の趣、承知令(せし)め候」

 原文は文字通り「三くだり半」の短文だが、専修大教授の高木侃(ただし)氏(法制史)の研究によると、こうした武士の離縁状の授受を示す史料は全国で五例目という。

 同藩の重臣、朝比奈弥太郎泰然が天保七(一八三六)年十一月、長女の離婚について承知した旨を、娘の夫だった天野孫七郎にあてた書状で、署名に朝比奈の花押もきちんと据えられている。

 朝比奈弥太郎といえば、城代家老も務めた水戸藩の名門で、幕末期に同藩内の尊王攘夷派「天狗(てんぐ)党」と激しく藩内抗争を演じた一方の主役、「諸生党」の大幹部として知られる。

 一方の天野孫七郎の父、景寿は五百石、小姓頭で、朝比奈家の方が家格が上だった。このため、夫の側からの一方的な離婚だけでなく、協議離婚もしくは妻の側から求めて離婚した可能性も考えられなくはない。また、二人は共に再婚していることから、当時の武家社会で重んじられていた「貞婦は二夫にまみえず」は建前にすぎなかったことをうかがわせる。

 ところで、そもそも武家の間で当時、離縁状を取り交わす慣習はあったのだろうか。

 これまでの通説では、武士の離婚は、藩への届け出だけで、庶民のように離縁状を取り交わす必要はなかったとされてきたが、高木氏は「御三家であった水戸家、しかも家老級の受取書が残っていたということは、藩への正式な届以外に、離縁状の授受が広く行われていたことを示す証左」と注目する。

 江戸時代は武士も庶民も離婚率が高かった。これまでの研究成果には、武士の離婚率が11%、再婚率は59%というデータもある。現代の離婚率約2%と比べても、江戸時代の武士の離婚、再婚率は極めて高い。

 夫の側から離婚を言い渡された武家の妻たちも、持参金を返還され、さっさと再婚していたのである。武家の女性といえば、夫の両親に仕え、財産もなく、虐げられた存在と思われがちだが、こと離婚に関しては現代人が考えるほど、「暗黒社会」ではなかったのかもしれない。

 関心と興味のある方はぜひ、県立歴史館で二十七日まで開催中の史料紹介展「文書にみる近世の女性たち」に展示されている原史料をご覧いただきたい。 (吉原康和)


偉人たちの扁額がズラリ
龍ヶ崎で企画展

 龍ヶ崎市馴馬町の市歴史民俗資料館で企画展「小学校のお宝」が開かれている。10月25日まで。

 企画展は、市内の小学校が所蔵する、室内外に掲げる横長の額「扁額(へんがく)」を中心に計15点を展示。古くは幕末に江戸城無血開城に尽力した幕臣・山岡鉄舟が、1878年に龍崎学校(現・龍ヶ崎小)の校舎新築を記念し、学校名を書いて贈った扁額もあり、同資料館は「当時は著名人の扁額を掲げることで、子どもを集めて就学率を上げる目的もあったのではないか」とする。

 ほかにも北茨城市出身の詩人野口雨情(1882~1945年)が、天に通じる子どもの純真な心を意味して書いた「天通童心」(龍ヶ崎小所蔵)など、本県ゆかりの人物による扁額が展示されており、同資料館は「普段目にする機会の少ない地元の貴重な財産を知ってもらいたい」としている。



栃木
黒羽の偉人 三田地山の生涯講演 栃木
 幕末、明治初期の黒羽の代表的な知識人として知られる三田地山(称平、1812~97)にスポットを当てた文化講演会が27日、栃木県大田原市役所黒羽支所2階の多目的ホールで開かれる。

 黒羽文化協会の主催。中国文学者で三田の研究を続ける黒羽高教諭、大沼美雄さん(51)が「三田地山翁の人と生涯」と題して講演する。

 黒羽藩士の三田は、6代の藩主に仕え、藩学問所(のちの作新館)の学頭などを務めた。黒羽小に残る旧作新館講堂の格天井に書かれた漢詩は三田の指導によるものとされている。

 戊辰戦争では、三田は断固、奥羽越列藩同盟への参加を拒否。その後、黒羽藩は新政府軍に加わり、戊辰戦争の陰の功労者といわれている。また、廃藩まで黒羽藩の領内だった益子で焼き物の指導に当たり「称平徳利」を発案、益子焼のルーツともいわれている。

 講演会は午後2時~3時半。入場無料。問い合わせは文化協会研修部(電)0287・59・0978(丸山)、または(電)0287・54・3214(八木)。


千葉
請西藩主の企画展、木更津市郷土博物館で
 幕末、藩主自らが脱藩して「上総義軍」を名乗り、官軍を相手に転戦、降伏した請西藩の林忠崇(ただ・たか)(1848~1941年)の企画展「書画に見る請西藩主 林忠崇」展が10月18日まで、地元の木更津市郷土博物館金のすずで開かれている(月曜休館)。諸藩がひざを屈する中、最後まで徳川家への忠節を変えずに戦ったのが忠崇。殿様の筆が激動の時代を浮かび上がらせる。(高山修一)


 展示資料は35点。生前の忠崇と交わりのあった人の家族の所蔵品が中心で、これまでも断片的に公開展示されたことはあるが「書画を一堂に集めた企画展は初めてではないか」と稲葉昭智学芸員。


 86歳の折に書いた短冊の「戦場述懐」の「曇りなき心や見せんあすの夜はかは(ば)ねの露に照らす月影」は、忠崇の箱根戦争への決意を表明したものだ。
 林家の大名行列や、請西藩陣屋からの出撃風景、戦に負けて帰農して請西で畑を耕す自分、函館で商人を志す姿などの絵もある。


 林家は徳川家譜代の旗本だったが、11代将軍の家斉に取り立てられて大名になった。忠崇は3代目の藩主。今の木更津市貝渕に陣屋を置き、後に同市真舟に陣屋を移して請西藩となる。


 新政府軍が迫る慶応4(1868)年4月、忠崇は脱藩、藩兵を連れて旧幕軍とともに新政府軍と戦った。後に東北に転戦したが、明治元(1868)年10月に仙台で降伏した。会津藩や長岡藩、東北諸藩のように官軍に抵抗して戦った藩はあるものの、藩主が脱藩までして戦ったのは請西藩だけ。取りつぶされたのも全国で請西藩だけだ。


 親藩、譜代も新政府軍に恭順する中での小藩の決起。どんな判断が忠崇と家来にあったのか。『木更津市史』は「真実を知ることは困難」と書いたあと、「譜代の名誉にかけて徳川家のためと道義貫徹のため最後まで戦った林忠崇らの活躍は(中略)万丈の気を吐くもの」と郷土の武士たちをたたえている。


 明治26(1893)年。林家の家名を継いだおいが男爵になり、忠崇も男爵家の一員としての礼遇を受けるようになった。90歳を超えて長生きし、晩年は「最後の殿様」と言われた。


 稲葉学芸員は「80歳を過ぎてからの書が多い。諸行無常、敗者の開き直りのようなものを感ずる。幕末の歴史や林家について知りたいという来館者の希望が多く、実現した企画展」と話している。


 入館料は一般が200円、高校・大学生は100円、65歳以上と中学生以下は無料。常設展も見られる。問い合わせは同館(0438・23・0011)へ。

 これ、興味あります。東京都でも城南地区在住の者には、木更津って川崎からフェリーで渡った方が近いかな(汗)……車持ってないのですが(爆)。


東京
土方歳三の巨大かぼちゃ出現
 東京都日野市に生家がある元新撰組副長、土方歳三のイラストをあしらった巨大かぼちゃが24日、同市役所1階食堂にお目見えし、市民や職員の目を楽しませている。
 巨大かぼちゃの直径は約70センチ。市内百草の倉沢地区で農業を営む石坂ファームハウス(生産者・石坂一雄さん)で収穫され、石坂さんが無償で提供した。土方のイラストは食堂の女性従業員が描いたという。
 同市では「多摩丘陵の秋の恵みをたくさんの人に実感してほしい」と話している。展示は30日まで。

 ……あのー、それは、土方歳三ではなく、日野市のキャラクター「幕末チャレンジャー選之介」くんです^_^;。

清元、宮薗節など紹介 「江戸音楽~」 来月から3年目
 東京・紀尾井小ホールで、二〇〇七年から年三回、三年がかりで実施している「江戸音楽の巨匠たち~その人生と名曲」公演が、本年度も十月二十九日から開かれる。

 江戸音楽の創始者と創作の背景に迫るシリーズ。これまで義太夫節、一中節、河東節、豊後節、長唄、新内を取り上げたが、本年度は以下の三種が登場する。

 ▽第七回(10月29日)は清元の「初世清元延寿太夫」。美声だった初世は一八一四(文化十一)年に清元節を創立した。時は江戸町人文化の爛熟(らんじゅく)期、また歌舞伎舞踊の全盛期でもあり、はやり歌などを取り入れ、軽妙洒脱(しゃだつ)に市井風俗を描いた名曲が次々と生まれた。

 「吉原雀」を浄瑠璃・清元延寿太夫、三味線・栄三ら。ほかに「柏の若葉」「保名」。

 ▽第八回(11月16日)は宮薗節の「宮薗鸞鳳軒」。十八世紀前半、初世宮古路薗八が京都で語り出したものを、弟子の二世薗八(宮薗鸞鳳軒)が大成したので、宮薗節と呼ばれるようになった。作詞作曲に長じた鸞鳳軒だったが、劇場出演の記録はないという。

 「鳥辺山」を浄瑠璃・宮薗千碌、三味線・千佳寿弥らで、立方に花柳基・小三郎。ほかに「山崎」。

 ▽第九回(1月22日)は長唄の「三世杵屋正次郎」。三世は幕末から明治にかけて活躍した大名人で数多く作曲。特に芝居の下座音楽に名旋律を生み出し、いまなお演奏家たちの聴かせ所などで活用されている。

 「正次郎連獅子」を唄・稀音家義丸、三味線・助三朗ら。ほかに「元禄風花見踊」。囃子(はやし)・堅田喜三久社中。

 各午後六時半開演、竹内道敬氏らの対談付き。4千5百円。三公演セット券1万1千円。追加で来年度も三回を予定している。(電)03・3237・0061。 

  (田中冴子)


シルバーウイークは終わったけど…10月イベント先取り情報
(中略)
【山口県イベント】

 山口県では25日(9~15時)に「長州・大江戸スタンプラリー」を開催する。雨天決行。東京・日本橋にある山口県のアンテナショップ、おいでませ山口館に集合して、吉田松陰の活動拠点だった日比谷公園、練兵館跡の靖国神社、赤穂浪士ゆかりの泉岳寺など5カ所から3カ所以上を経由して、世田谷区内にある松陰神社にゴールするもので、参加者には抽選で宿泊券付きの東京-山口 往復ペア航空券や特産品が当たる。

 参加無料、交通費・食事代は自己負担。当日、松陰神社周辺では「世田谷幕末維新祭り」を開催している。申し込みはHPで検索「おいでませ山口館」から。


ふるさとナビ:耳より情報 /東京
<地域交流のページ>

 ◇東北・B級グルメを売り込む団体を設立
 東北地方でB級ご当地グルメに取り組む10団体が「東北Le’s(れっ)飯(ぱん)同盟」を設立した。東北の食を全国に売り込み、B級グルメが人気を競う「B-1グランプリ」で東北勢初の優勝を目指す。

 参加したのは「愛Bリーグ(B級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会)」の北海道・東北支部に加盟する4県の団体。設立した団体の名称は、幕末に北海道や東北の藩が組んで新政府軍に挑んだ「奥羽越列藩同盟」にならった。

 同盟事務局を務める「八戸せんべい汁研究所」の木村聡事務局長は「何とか東北勢でグランプリを取りたいと結集した。連携して活動し、各地のブランド化を進めて地域を元気にしていきたい」と話している。
(以下略)


写真展「近代皇族の記憶展 写真が語る山階宮家三代の暮らし」を開催 ─―学習院大学
 学習院大学では、同大学史料館で調査研究を進めてきた旧山階宮家史料を展示、明治から昭和初期にかけての宮家の暮らしの記録を紹介する。



 山階宮家は、幕末、伏見宮家の王子晃(あきら)親王により創設された宮家で、二代菊麿(きくまろ)王、三代武彦(たけひこ)王で終焉を迎えるが、この三代の人々は、皆、進取の気鋭に富み、なかでも菊麿王とその王子、王女たちは、当時はまだ普及していなかった「写真」を趣味としていた。これらの人々が自ら撮影した写真は、山階宮家の日々の暮らしを記録に残す大切な手段でもあった。武彦王と弟の芳麿王が学生生活をおくった学習院でのようすも写真に収められている。

 このたび学習院大学史料館は、京都勧修寺および財団法人山階鳥類研究所から寄託された上記写真を含む旧山階宮家史料を下記のとおり展示し、現代のわれわれにとっても興味深い当時の皇族の社会や日常をご覧いただくこととした。

◆「近代皇族の記憶展 写真が語る山階宮家三代の暮らし」   (入場無料)
  ・開催日時 平成21年10月1日(木)~11月30日(月)(※下記閉室日をのぞく)
       ・平日 12:00~17:00
       ・土曜日10:00~12:00
       ・10月12日(月・祝)、10月24日(土)10:00~17:00
       ※閉室日 ・日曜日、上記以外の祝日
            ・大学休講日(10/16、17、30、31、11/2)
  ・場所   学習院大学(目白キャンパス)北2号館1階 史料館展示室

 なお、10月17日~11月30日、関連展示を地下鉄副都心線雑司が谷駅に隣接した雑司ケ谷アートギャラリーで開催する。(協力 財団法人としま未来財団)
(以下略)


結成15周年記念し靖国神社で奉納演奏 全日本津軽三味線友の会
 毎年秋に弘前市で開かれている全日本津軽三味線友の会の「活き活きライフ 40歳以上津軽三味線全国大会」が、同会結成15周年を記念して10月に靖国神社(東京都)の能楽堂で開かれる。大会後に文化講演会を開く大條和雄会長(81)は「明治維新後に現在の日本がある。津軽三味線はそれと同時に発展してきた日本の伝統・民俗音楽。大会と文化講演会を通じて、奏者や三味線に関心のある人たちにそのことを理解してもらいたい」と意気込んでいる。
 同大会は1999年に始まった。40歳以上を対象とするのは「津軽三味線はすっかり若い人の音楽になってしまった。全国大会で優勝するのは20代の人ばかり。40、50代や定年後に三味線を始めた人の発表の場がなかった」ことから。以来2度の休止はあったが、毎年弘前市で開かれてきた。
 同会は95年に結成されてから今年7月に15周年を迎えた。これを記念し、同じく今年140年という節目を迎えた靖国神社へ奉納演奏できないか大條会長が打診。その結果、神社側から快諾を得て大会は同神社の創立140年を記念した行事の一環として10月18日に能楽堂で開催される運びとなった。また、大條会長の文化講演会も同日、大会後に境内にある靖国会館で開かれる。
 大條会長は「戊辰戦争が終わった1869年(明治2年)に靖国神社ができた。そのあたりから(津軽三味線奏者の始祖)仁太坊が門付けで歩いている」とし、「津軽三味線は日本の近代国家とともに産声を上げた音楽と言える」と話す。
 大会では「英霊に日本の歌を聴いてもらいたい」と、「荒城の月」「故郷」などを大條会長ら会員5人が奉納演奏する。「靖国神社で津軽三味線を演奏することは意義のあることで、慰霊になると思う」と大條会長は目を輝かせた。



神奈川
馬屋曲輪で発掘現場見学会開催へ/小田原城
 小田原市教育委員会は26日、小田原城の馬屋(うまや)曲輪(くるわ)で発掘現場見学会を開催する。二重櫓(やぐら)の北側の石段は松の根を除去したことで、その全体像が初めて明らかになった。関東大震災による崩落も確認されたという。参加費は無料。

 馬屋曲輪は馬出(うまだし)門に続くL字形の広場で、面積は約7千平方メートル。元禄時代まで馬を留め置く馬屋や待合所の大腰掛があった。2階建ての二重櫓は1643(寛永20)年に建設され、幕末まで現存していたという。

 二重櫓の櫓台の発掘調査は8月27日に始まった。北側の石段に入り込んでいた松の根を伐採したことで全体像が判明。6段が現存しており、安山岩を使用していた。城郭の石段としては古い要素を持つという。西側の石段は14段が認められ、このうち12段がほぼ完全に残されていた。

 櫓台の石垣は「小田原城の石垣としては唯一、江戸時代の姿をとどめている」と市教委。「北側と西側の石段、石垣も関東大震災による一部崩落が確認されたが、予想以上に良好に残されている」と説明している。

 市教委は本年度、国指定史跡「小田原城跡馬屋曲輪」の修景整備に着手した。10年度までに馬屋曲輪全体を修復する方針。

 見学会は26日午後1時半から同2時半まで。見学希望者は馬出門前に集合する。小雨決行。問い合わせは、市教委文化財課電話0465(33)1717。


オランダ人男性が幕末の事件の情報収集に奔走/横浜
 幕末動乱のさなか、開港間もない横浜で起きたオランダ人船長殺害事件。はるか異国の地で2人が命を落とした史実を知る人は少ない。事件の存在を一人でも多くの人に伝えたい―。150年の節目となる来年に向け、オランダ人男性が横浜を訪れ情報収集に奔走している。

 男性はミッシェル・ネリスさん(48)。オランダで会計監査の仕事をしている。日本との歴史に関心を持ち、2001年以降、長崎の出島などを度々訪ねている。今年の初め、オランダで一冊の本と出合う。そこには横浜の居留地で1860年に起きた船長2人殺害事件の記述が「たった一行だけ載っていた」。

 事件はオランダでもあまり知られていないという。興味を抱いたミッシェルさんは「横浜に行けば、何か情報が集められるかもしれない」と今春来日。しかし、横浜外国人墓地に2人が埋葬されていること以外、本町通りを歩いても事件を伝えるものは見つけられなかったという。

 いったん帰国後、当時のオランダ総領事が本国にあてた手紙を公文書館で見つけた。仕事の傍ら、殺害されたオランダ人船長の子孫探しにも力を注ぐ。「おじいさん、ひいおじいさんに遠い日本の地で何が起きたのか。そしてお墓はどこにあるのかを教えてあげたい」

 今年3回目となる横浜滞在は27日まで。「どうして事件は起きたのか」の疑問が氷解するまで、活動を続けるつもりだ。幕末の小さな史実に光を当てる意義をミッシェルさんはこう考えている。「人間は過去を知り、そこから学ぶことで、未来に向けた新たな行動を取ることができます」

 情報の窓口は、ギャラリーあいお☆らいと電話045(633)3475。


長野
井上井月の映画制作へ 上伊那ゆかりの俳人、顕彰会企画
 伊那市などの俳句愛好家や研究者でつくる「井上井月顕彰会」(約200人)は今冬から、上伊那ゆかりの俳人井上井月(1822~87年)を描いた映画「ほかいびと~伊那の井月~」を制作する。井月を通じて上伊那地方に住む人や風俗を描く映画といい、同会は「地域に対する関心、愛着をはぐくむ作品にしたい」としている。


 同市美篶出身の映像作家北村皆雄さん(66)=東京=が監督。現在、週に1回ほど伊那を訪れ、同市山寺の「やきもち踊り」や南箕輪村の「盆正月」など上伊那地方の古くからの祭りや伝統行事、稲刈りの風景などを試し撮りしているという。北村さんは「近代化の流れでモノ中心の世の中になった。映画では人と人のつながりを描き、モノ中心とは違った生き方を問うてみたい」と意気込んでいる。


 同会によると「ほかいびと」は、その日の食を求め歩く人を表す。映画は井月の句や日記を基に幕末~明治時代の上伊那の四季を再現し、井月の生き方を描く。制作費は約3900万円を予定。22日に市内で開いた総会で、2011年夏の完成を目指すことなどを確認した。今後、会の中に映画製作実行委員会を設け、制作費の募金活動をし、市町村にも協力を働き掛けていくという。


 同会は昨年3月、市内で井月を研究するグループが連携して発足。井月を広く知ってもらおうと長野市で展覧会を開いたり、全集を復刊したりしてきた。同会会長で同市美篶出身の堀内功さん(89)=東京=は「井月を通じて昔からの風習を知り、後世に残していきたい」と話している。


静岡
【見にいく!】イギリスの作家にも影響を与えた吉田松陰 静岡
■下田開国博物館の企画展「海が育てた高い志-吉田松陰没後150年企画展-」

 吉田松陰といえば、幕末の志士の一人として、また数多くの志士を育てた師として歴史に名を残している。「思いついたらすぐ行動するので準備不足のこともありますけどね。そこが魅力でもありますが」と笑いながら話すのは博物館参与の尾形征己さん。

 だが、あふれる学識と人間性に影響を受けたのは日本人だけではなかった。「宝島」や「ジキルとハイド」を著したイギリスの作家、R・L・スティーブンスンは松陰に深く影響を受け、国外で初めて彼の伝記を書いた一人だ。展示では、スティーブンスンの研究家、よしだみのり氏の最新の研究を基に松陰に影響を受けた人々も紹介する。

 若きスティーブンスンは作家になりたいという夢を持っていた。だが、建築技師の一族に生まれ、反対されるのは目に見えていた。それで深く悩んだという。そのとき日本から松陰の弟子がやってきて、松陰の生き方を聞いたことが彼に決心させたという。

 スティーブンスンは作家になるため筆を執る。そうして書いた小説や童話は、詩人の金子みすゞや文豪、夏目漱石に影響を与えた。尾形さんは「こういう思いがけない奇縁が面白いところ」と話す。

 日本人、吉田松陰の生涯がイギリスの青年に勇気を与え、その青年の書いた小説や童話が世界中の子供たちに夢を与えている。

                   ◇

 静岡県下田市四丁目8の13、下田開国博物館2号館1階特別展示室。12月20日まで。入館料は大人1000円、子供500円。午前8時半~午後5時半まで。年中無休。【問】(電)0558・23・2500。







 シルバーウィーク中盤になりました。明日は多摩方面に行ってこようかな。

栃木
与一伝承館で特別企画展 栃木・大田原
与一伝承館で特別企画展 栃木・大田原
 戦国時代に現栃木県大田原市域の領主として台頭し、江戸時代には大田原藩の大名だった大田原氏にスポットを当てた特別企画展「大田原氏と大田原藩」が19日、大田原市の那須与一伝承館で始まった。
 会場には大田原氏の礎を築いた資清(すけきよ)とその一族の画像や大田原城の屋敷図、甲冑、女乗物(駕籠)など約50点が展示され、その歴史や地域とのかかわりなどを紹介している。
 大田原氏は、那須家に仕えた豪族衆「那須七党(七騎ともいう)」に数えられた。戦国時代には領主として資清が大田原城を築城。関ヶ原の戦い後は大名(1万1400石)となり、1度の国替えもなく明治維新を迎えた。
 同伝承館の学芸員による展示解説が20日と10月11日に行われるほか、10月18日には記念講演会も予定されている。
 同展は10月25日まで。問い合わせは同伝承館(電)0287・20・0220。



千葉
ちばローカル線の旅(2) 流山線 オーソドックスさが魅力
 流山線の全線を乗り通した。全線といっても松戸市北部の馬橋駅と流山市の流山駅を結ぶ五・七キロ、わずか十分ほどの乗車時間だ。
(中略)
◆沿線の見どころ 
 【一茶双樹記念館】平和台駅から徒歩で十分弱。みりん醸造業を営む秋元三左衛門(俳号・双樹)が小林一茶と交流があったことを記念する流山市の施設で、一茶や双樹の資料を展示したり、季節に合わせた催しを開いている。
 記念館によると、幕末ごろの下総地方の商家建築である秋元本家や茶室の一茶庵(あん)、庭などを再現。建物のうち双樹亭は一八五七年ごろに建てられた秋元家の書院を解体復元した数寄屋風造り。
 観覧料は一般百円、小中学生五十円。問い合わせは管理事務所=(電)04(7150)5750=へ。


神奈川
箱根の景勝地写真集めた特別展/箱根郷土資料館
箱根の景勝地写真集めた特別展/箱根郷土資料館
 明治時代から箱根観光の土産物として人気を集めた風景写真から箱根の変遷をたどる特別展「箱根彩景―古写真に見る近代箱根のあけぼの」が、箱根町立郷土資料館(同町湯本)で開かれている。10月上旬まで。
 箱根の景勝地が被写体となったのは、幕末に来日した外国人写真家が、横浜を中心とした観光地を写真に収めて土産にしたことに始まる。この土産は「横浜写真」や「横浜絵葉書」と呼ばれ、精巧な手彩色が施されて人気を呼んだ。
 これらの風景写真約100枚が並ぶ同展は、「街道の面影」「温泉場の近代化」「交通機関の発達」の3章に分け、明治から現在に至る箱根の風景の移り変わりを紹介している。江戸時代に小田原宿から三島宿までを結ぶ東海道の要所として発展した箱根が、交通網などの発達で温泉場として趣を変えていった歴史が詳しく分かる。
 午前9時~午後4時半。高校生以上200円。問い合わせは、同資料館電話0460(85)7601。


長野
蚕都・上田の「お宝」発見を 10月からシンポや催し
 市民有志でつくる「蚕都(さんと)上田プロジェクト」(代表・三田育雄長野大教授)は、10月4日と11月22日に上田地域の蚕業の歴史を振り返り、地域づくりにどう活用していくか考えるシンポジウムを開く。10、11月には週1回程度、蚕種や養蚕、製糸業に関連した建物などを巡るツアーも計画。一連のイベントを「蚕都上田お宝発見」と名付け、蚕業にかかわる「お宝」の魅力を再発見し、活用方法を探る機会にする。
 上田地域は幕末から昭和初期にかけて蚕業で栄え、鉄道が開業し、蚕糸金融として第十九国立銀行(現八十二銀行)が設立されたほか、現在まで地域経済の柱となっている製造業の礎も築かれた。2回のシンポジウムでは、こうした歴史を踏まえ、当時建設された繭倉や洋館などの建物、伝統の上田紬(つむぎ)の活用法などを議論する。
 「蚕都上田展・巡回ツアー」はバスで、蚕種製造の技法書などを収蔵している藤本蚕業歴史館、かつて製糸業で約2千人が働いていた笠原工業、企画展「蚕都上田と横浜開港」を開く市立博物館、市立丸子郷土博物館を回る。参加費は大人100円、小学生以下50円。ほかに小学生向けの「キッズプログラム」も実施する。
 並行して市民や観光客が訪れやすいように「蚕都上田マップ」を来年3月までに作る。桑畑の跡や蚕室造りの家屋など、マップに載せる建物などを小中学生などから寄せてもらう予定。
 同プロジェクトは長野大教授や、市内の歴史研究家、会社経営者らが、蚕都の歴史をまちづくりに生かそうと昨年7月発足した。問い合わせは事務局(電話0268・38・7771)へ。

石川
七尾旧家で手紙確認 北國新聞創刊者・赤羽萬次郎
 20日に111回目の命日を迎える北國新聞創刊者の赤羽萬次郎(1861~1898)が、創刊翌年の1894(明治27)年、能登を代表する旧家・室木家(七尾市中島町外)に宛(あ)てた書簡が19日までに、七尾市内で確認された。専門家は北國新聞揺籃期の萬次郎の活動を物語る史料として注目し、「新たなスタートに当たり、名望家との紐帯(ちゅうたい)を強め地歩を固めようとしたのだろう」と分析している。
 手紙は室木家当主弥八郎に宛て「前途有望な子息(長男茂太郎を指す)を亡くされた悲しみをお察しいたします。お悔やみ申し上げます」と書き送っている。1月18日の日付が入っており、茂太郎の没年から、94年に書かれたものと分かった。
 萬次郎は1888(明治21)年、立憲改進党系の「北陸新報」主筆として金沢に招かれた。93年6月、自由党系への身売りに反発し、主筆の座を辞して社を去り、同年8月5日に「北國新聞」を創刊している。
 藩政末期から大地主として栄えた室木家は、明治維新後も能登を代表する名家として大きな影響力を持っていた。七尾市史編さん室の和田学学芸員によると、同家文書の中には明治の元勲、大隈重信からの書簡もあり、同家と大隈が中心となって結成した立憲改進党との結び付きを示しているという。
 七尾市史編さん委員を務める本康宏史・石川県歴史博物館学芸課長は「萬次郎が創刊直後に、まず地方の名望家と密な関係を築いておこうとした気配りがうかがえる」と話している。



島根
松江誕生物語 : (36)幕末史を飾った八雲丸(上)
時代先取りした新鋭艦


 薩摩や佐賀、長州など蒸気艦を所有していた藩がわずかだった1862(文久2)年、松江藩は国内で珍しい最新鋭の蒸気機関を備えた軍艦2隻を購入した。「第一八雲丸」(英国製鉄船、ゲセール)と「第二八雲丸」(米国製木造船、タウタイ)。とりわけ鉄船の第一八雲丸は、当時の新鋭艦。時代を先取りした松江藩の軍艦は、幕末史に残る将軍・徳川家茂の上洛や、長州戦争で幕府の兵士を大阪から広島に輸送するなどの歴史の舞台に登場したが、主役の陰に隠れて航跡を知る人は少ない。今回から3回、幕末から明治維新に活動した八雲丸を紹介する。

     ※ ※ ※

 1800年代、日本はロシアやイギリスなど開国を求める外国船の脅威にさらされ、1853年、米国、ペリーの黒船が来航。各藩はこぞって軍備増強にはしり、外国から大型艦船の購入などを画策した。

 中でも、第一八雲丸が、新鋭艦としての性能を広く証明した史実が、1863年の供奉艦競争だった。

 公武合体で、将軍・徳川家茂と皇女・和宮の結婚が実現し家茂の海路上洛が決まると、各藩の艦船は幕府により供奉艦にかり出された。品川を出航した供奉艦の艦隊は家茂の要望に応え遠州沖でスピードレースを実施。参加艦船10隻中、第一八雲丸は薩摩藩の蒸気艦セーラ号を破り1位の座を占めた。

 日本の軍艦に詳しい呉市海事歴史科学館大和ミュージアム(広島県呉市)の戸高一成館長は、「第壱八雲丸」の詳細な図面の写しを前に、甲板中央の「テレガラーク」と記された小さな円盤を「これはテレグラフ。機関室に指示を送る装備で、帆船にはない。幕末の艦船でこれほど詳しく各部の名称が書かれたものは珍しい」と解説する。写しは島根県立図書館が収蔵。スコロフ(スクリュー)、コンパスなど初めて聞いたと思われる装備品の名称がカタカナで書き込まれた貴重な資料だ。

 もう1点、第一八雲丸の姿を知ることができる資料に戦前、撮影された絵の複写写真がある。松江藩の海軍史に詳しい鈴木■(キヘンに僕)実さん(鳥取市湖山町北4丁目)が所蔵。絵の印鑑から、戦前まで海軍が保管していたことが確認できるという。

    ※ ※ ※

 松江藩には長い海岸線と幕府からの預かり領だった隠岐の島があり、海運、海防が重要課題だったが、わずか18万6千石の小藩が新鋭艦を購入したのは洋学、西洋軍学を積極的に取り入れた最後の藩主・松平定安の英断だった。鈴木さんは「定安の強い意志と先見性がうかがえる」と読み解く。

(写真・文 本社報道部 伊藤英俊)

 この企画に関するご意見をお寄せください。郵送の場合は〒690-8668、松江市殿町383、山陰中央新報社報道部「開府400年記念・松江誕生物語」係。
 メールアドレスsyashin@sanin-chuo.co.jp


島根県立図書館所蔵の「第壱八雲丸」の図面の写しから、装備や性能について解説する大和ミュージアムの戸高一成館長=呉市、大和ミュージアム
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第一八雲丸の絵の複写写真。現在、絵の所在は不明。いつ誰が描いたのかも、分かっていないものの、大和ミュージアムの戸高一成館長は「絵にある印鑑などから貴重な資料」という=鈴木■(キヘンに僕)実氏提供


福岡
江戸時代の庶民の風刺を描く 創作舞踊22日上演 八女市
 八女市の国指定重要無形民俗文化財「八女福島の燈籠(とうろう)人形」(21-23日)にちなんだ創作舞踊「八女のちょぼくれ」が22日午後7時半から、同市西宮野町の明永寺で上演される。
 江戸時代末期、久留米藩から倹約令が出され、燈籠人形が禁止された際に民衆がその恨みを歌いはやした、という内容の古文書を基に、郷土史を研究する同市の杉山洋さん(84)が作詞した。
 楽しみ奪った大倹約令/消えた燈籠の明かりとしゃぎり/忘れまいぞえ恨みとカラクリ/チャッポンカラクリドーレドレ
 ちょぼくれは、江戸時代に流行した俗謡。木魚をたたきながら幕政批判などが歌われたとされ、杉山さんは「幕末期に町衆が『世の中が変わる』と予感し、反体制のエネルギーを歌に託したのでは」と語る。
 公演では同市の八女学院高の生徒たちが歌い、地元産の和ろうそくに照らされた舞台で山口市在住の日本舞踊家、花柳寿寛さんが踊りを披露する。入場料3千円。定員100人。市横町町家交流館=0943(23)4311。


大分
幕末・維新の道(1)佐賀関
◆通った港町名所に
 大政奉還の3年前に当たる1864年2月のある日。幕末の混乱を駆け抜けた2人が、蒸気船から佐賀関(大分市)に降り立った。坂本龍馬を連れた幕臣・勝海舟。現在は関アジ、関サバで知られる港町を一望できる丘に建つ徳応寺に、宿泊した記録が今も残る。
 2人が乗ってきた蒸気船のスケッチ、「長崎丸 乗組 七十人余」「軍艦御奉行 勝麟太郎様」、一行の名簿には「坂本龍馬」の名前……。
 東光爾英(ちか・ひで)住職(54)が、第10世住職・龍潭(りゅう・たん)の残した「日本人物誌」を開いてくれた。爾英住職によると、龍潭は仏教学者としても知られ、各地の文化人と交流。人物誌には、肥後藩などの諸大名の宿泊記録のほか、佐賀関沖を通過した外国船の絵も彩色をほどこして描かれている。
 「坂本龍馬」の記載について、爾英住職は「龍馬は偽名を使っていたので、(龍潭は)勝海舟から名前を聞いて書いたのでしょう」。当時、佐賀関でどんな会話が交わされたのか――。師弟は一夜明け、参勤交代路である豊後街道の始点・鶴崎へと急ぐ。
 今、上陸地に残るこの「記録」を生かす取り組みが、地元で広がろうとしている。佐賀関観光ボランティアガイド協会は「龍馬や海舟がこの地に寄ったことは、地元の誇りになる」とし、観光ルート「龍馬が通った道」をつくるという。
    ◇
 秋の行楽シーズンが到来した。鶴崎から野津原、今市、久住へと向かう街道を秋風とともに巡った。(奥正光)
 佐賀関観光ボランティアガイド協会長の越美智子さん(64)
 佐賀関は関アジ、関サバのほかにも、半島の先端には関崎海星館があり、観光客にも人気スポット。そこから見る海は絶景です。近くの海岸「黒ケ浜」も黒い石が美しい。協会では「関あじ関さば通り」、「幸」の字がつく地名などをつないだ「四つ葉のクローバー 幸せめぐり」など11の観光コースを用意しています。ガイドの申し込みは、さがのせきまちづくり協議会(097・575・2000)へ。

豊後街道

 肥後藩主の参勤交代路。加藤清正が江戸時代に整備したとされる。熊本城下から、瀬戸内海への玄関口だった鶴崎(大分市)まで全行程は120キロ超。豊後国内にあった肥後藩の飛び地領を通った。大分側では肥後街道とも呼ばれる。


幕末・維新の道(2)鶴崎
◆宿泊跡ひっそり

 上陸地の佐賀関から西へ約20キロ。国道197号を進み、工場群を横目に大野川を渡ると、鶴崎(大分市)に入る。坂本龍馬を連れた勝海舟は、豊後街道に入るこの宿場で1泊した。当時の面影はどこに。車がひっきりなしに通る国道から、南に入ると同市立鶴崎小学校がある。児童たちの歓声が響くこの一帯に、藩主の宿泊所「御茶屋」があったという。今は碑が、同小の敷地内にひっそりと立つ。

 大御代は
 ゆたかなりけり旅枕
 一夜の夢を千代の鶴さき

 参勤交代でにぎわった鶴崎を詠んだ歌が、海舟の日記にある。幕末の動乱の中でたどり着いた九州。そこで、どんな夢を抱けたのか。
 新たな時代の夜明けまでもうすぐだった。2人が街道を急ぎながら、何を考えていたのだろうか。そこにも思いを巡らし、地元の郷土史家らが「勝海舟・坂本龍馬の銅像と歌碑を建てる会」を結成した。佐賀関の徳応寺に残る記録も調べ、銅像と歌碑の建立を目指す。
 時は幕末。すでに海外事情を知る立場にあった海舟が、龍馬に世界の情勢を伝えながら、新時代を切り開くきっかけになった旅だったのではないか。そんな思いも膨らみ、建てる会は募金集めに奔走。2人の志を追っている。
 御茶屋跡から、すぐ近くにある加藤清正建立の法心寺、劔八幡宮を巡る。木々を揺らす秋風の音しか聞こえない静寂が訪れ、同八幡宮に飾られた肥後藩船の絵馬を見ると、肥後藩領だった往時がよみがえりそうだ。余韻に浸った後、近くの日本茶専門店に立ち寄り、のどを潤した。
 勝海舟・坂本龍馬の銅像と歌碑を建てる会実行委員長の北川徹明さん(75)
 今は北側に工場が林立してますが、鶴崎はかつて参勤交代で瀬戸内海へと向かうための重要な港町でした。肥後藩の飛び地領で、人材の交流も盛ん。JR鶴崎駅から歩いて10~15分の御茶屋跡の周辺には、加藤清正建立の寺のほか、幕末の儒学者・毛利空桑の記念館もあります。次男が営む北川園(日本茶専門店)で一休みできますよ。
(奥正光)


佐賀
CATV受賞番組で道徳授業 武雄・御船が丘小
 武雄市の御船が丘小で同市のケーブルワン制作の番組「葉隠墓苑─先人たちに想いを馳せて─」を活用した道徳授業があった。児童は140年前の戊辰戦争で、武雄の兵士が秋田を救うために出兵した史実を学び、郷土の歴史に理解を深めた。
 同番組は「第35回日本ケーブルテレビ大賞番組コンクール」で奨励賞を受賞、郷土学習に役立ててもらおうとケーブルワンが番組のDVDを市内小中学校に寄贈した。同校では全校一斉の道徳授業参観に合わせ、郷土に対する愛情や先人を敬う心を学ぼうと、6年生の授業で番組を教材として生かした。
 16日の授業では、秋田を救うために出兵した武雄の兵士と、今も兵士を慰霊する秋田の人たちの思いなどについて考えた。児童からは「当時の人たちを誇りに思います」「ふるさとを大切にしたい」などと感想があがった。


長崎
【動画】長崎居留地まつり開幕 イベント多彩にきょうまで
【動画】長崎居留地まつり開幕 イベント多彩にきょうまで
 幕末、長崎にやって来た外国商人らの洋館などを生かしたイベント「長崎居留地まつり」が20日、長崎市の東山手、南山手、大浦一帯で始まり、親子連れや観光客でにぎわった。21日まで。歴史や景観を生かした町づくりなどを目的に市や住民らでつくる実行委が主催。14回目。
 松が枝町の四海樓前広場で、オープニングイベントがあり、近くの市立梅香崎中吹奏楽部(三崎亜佳梨部長、36人)が映画音楽などを披露。アンコールも含めて5曲演奏し、大きな拍手が送られた。市内のフラダンスサークル「プア・マカレア」(草野輝子代表)も登場。華やかな衣装を着た十数人の女性たちが優しい調べに乗って踊り、見物客を魅了した。
 ほかにも居留地スケッチ大会やウオークラリー、国づくりシンポジウムなど多彩な催しがあった。
 21日の主なイベントは▽居留地大バザール(午前10時、大浦居留地商店街)▽オランダ坂かけあがり大会(受け付け午前8時半、大浦天主堂前オランダ坂)▽居留地チェス大会(午前10時半、東山手地区町並み保存センター)▽居留地音楽祭(午前10時、旧香港上海銀行長崎支店記念館)-など。


大浦天主堂で児童合唱
居留地まつり

 幕末から明治時代にかけて、外国人が多く住んだ長崎市東山手、南山手、大浦地区一帯で20日、「長崎居留地まつり」が始まった。21日まで。
 この日、大浦天主堂では、地元の大浦小の児童でつくる「居留地キッズコーラス」のメンバー計55人が「アベマリア」など8曲を合唱。荘厳な雰囲気の天主堂に元気な歌声を響かせ、多くの観光客らを魅了した。


「居留地まつり」開幕 坂かけあがり大会 市民バンド演奏も イベント多彩に 長崎市
 幕末から明治にかけて外国人居留地があった長崎市の大浦地区で20日、「2009長崎居留地まつり」が開幕した。21日まで洋館群や孔子廟(びょう)などで多彩なイベントが繰り広げられる。
 同地区には外国人商人らが滞在した洋館が多く残り異国情緒が街の魅力となっている。南山手町の大浦天主堂では地元の小学生らで作る「居留地キッズコーラス」が合唱を披露。グラバー園では市民バンドが演奏するなどまつりを盛り上げた。明治デザインのドレスに身を包んだ愛媛県の歯科衛生士赤瀬彩さん(21)は「まるで別の国に来たみたい。街並みの美しさが自分をも美しくしてくれるようです」と話した。
 21日は「オランダ坂かけあがり大会」(大浦天主堂前)や、「居留地赤ちゃんはいはいレースIN孔子廟」などがある。


【動画】長崎居留地まつり開幕 初日はフラダンスや吹奏楽など
 幕末、長崎にやって来た外国商人らの洋館などを生かしたイベント「長崎居留地まつり」が20日、長崎市の東山手、南山手、大浦一帯で始まり、親子連れや観光客でにぎわった。21日まで。歴史や景観を生かした町づくりなどを目的に市や住民らでつくる実行委が主催。14回目。
 松が枝町の四海樓前広場で、オープニングイベントがあり、近くの市立梅香崎中吹奏楽部(三崎亜佳梨部長、36人)が映画音楽などを披露。アンコールも含めて5曲演奏し、大きな拍手が送られた。市内のフラダンスサークル「プア・マカレア」(草野輝子代表)も登場。華やかな衣装を着た十数人の女性たちが優しい調べに乗って踊り、見物客を魅了した。
 ほかにも居留地スケッチ大会やウオークラリー、国づくりシンポジウムなど多彩な催しがあった。
 21日の主なイベントは▽居留地大バザール(午前10時、大浦居留地商店街)▽オランダ坂かけあがり大会(受け付け午前8時半、大浦天主堂前オランダ坂)▽居留地チェス大会(午前10時半、東山手地区町並み保存センター)▽居留地音楽祭(午前10時、旧香港上海銀行長崎支店記念館)―など。


龍馬に会いたい:/11 龍馬橋 /長崎
龍馬に会いたい:/11 龍馬橋 /長崎
◇勤皇志士ら渡り、神社へ
 長崎市伊良林の丘の上。坂本龍馬が創設した「亀山社中」跡は長い石段を登ってようやくたどり着く。そこに先月、往時の間取りを復元した記念館がオープン。来年放送の「龍馬伝」への期待と相まって、辺りは一躍人気スポットになった。
 余波は、歩いて1~2分の若宮稲荷神社にも届く。神社は直立した青竹の上でキツネに扮(ふん)した若者たちが芸を演じる「竹ン芸」で知られるが、ファンのお目当てはもちろん龍馬。神社は幕末、勤皇の志士たちがあこがれた武将・楠木正成の守護神を祭り、龍馬もたびたび参詣したとされる。ここに隠れた“龍馬スポット”がある。
 境内に入る手前、名もない小さな石橋がある。ほんの6、7歩で渡れてしまうのだが、欄干に刻まれた文字は「元治二年」。龍馬が長崎を初めて訪れた元治元年(1864年)の翌年だ。
 幕末に詳しい市シーボルト記念館の織田毅さん(47)は「参詣した龍馬が渡った可能性は高い。龍馬の時代の数少ない物品の一つ」。地元住民は「龍馬橋」と呼んでいる。【阿部義正】


シルバーウイーク始まる にぎわう県内行楽地
 秋の大型連休「シルバーウイーク」が始まった19日、県内の行楽地は天候に恵まれ、市民や観光客らでにぎわった。
 長崎市内では、街歩き観光「長崎さるく幕末編」のコースの一つ、「龍馬が見上げた長崎の空」に、県内外から参加。ボランティアガイドの説明を受け、風頭公園内の坂本龍馬像や亀山社中記念館などのコースを約2時間かけて歩いた。
 同記念館では、参加者が展示品に見入ったり、龍馬がもたれ掛かったとされる柱の前で記念撮影。埼玉県草加市から観光で来た刃金真里子さん(57)は、歌手の福山雅治さんのファン。今回見聞を広めたことで「大河ドラマを身近に感じることができると思う」と話した。長崎国際観光コンベンション協会によると、19日は同コースを通常の1日1回から4回に増やして多数の予約者に対応した。
 また長崎市では、「長崎さるく幕末編」の特別企画として、日蘭通商400年を記念した「日本オランダ年記念さるく」もあり、駐大阪・神戸オランダ総領事や市民ら約60人が参加。日蘭貿易の拠点となった出島などを歩いた。20日は平戸市の平戸文化センターで演奏会と「平戸からはじまる日蘭通商と蘭学(らんがく)」と題したトークイベントがある。

 ◇  ◇  ◇

 佐世保市内の観光施設も大勢の観光客らでにぎわった。
 ハウステンボス(HTB)は「敬老の日」にちなんだ入場無料などのサービスや、「マイケル・ジャクソン追悼企画」を展開。ジャクソンさんゆかりのアミューズメント施設「クリスタルドリーム」やステージで繰り広げられるダンスパフォーマンスを家族連れらが楽しんだ。
 西海パールシーリゾートでは「九十九島」にちなみ毎年9月19日に開いている「九十九島の日感謝祭」に大勢の市民らが来場。同市出身の男女デュオ「Sandy Trip」などのライブを満喫。夜は「九十九島の日」制定10周年を祝う919発の花火が夜空を彩った。同感謝祭は20日まで。
 また九十九島水族館「海きらら」が募集していた3頭のイルカの命名式もあり、ハンドウイルカは「ニーハ」と「ナミ」、ハナゴンドウは「リリー」と決まった。(佐世保)


グラバー:居留地の歴史後世に 来日150年、功績しのぶ /長崎
グラバー:居留地の歴史後世に 来日150年、功績しのぶ /長崎
 明治維新に貢献した英国人政商トーマス・グラバー(1838~1911年)の顕彰式が19日、長崎市南山手町のグラバー園であった。グラバーは150年前の1859(安政6)年のこの日、長崎に渡航。参列した旧外国人居留地の住民らが功績をしのんだ。
 グラバーの胸像に関係者が献花したあと、椎木恭二副市長が市長代読で「機関車の導入や造船術の基礎を築き上げるなどグラバーは多大な業績を残した。先達をたたえるとともに旧居留地の歴史的遺産を広く紹介したい」とあいさつ。地元住民らでつくる「居留地男声合唱団」や、グラバーの出身地スコットランドにちなんだバグパイプの演奏があった。
 7~8月にグラバーが育ったアバディーン市に留学した長崎大4年、松本旭さん(22)が撮影した写真展示もあり、松本さんは「古い街並みを大切にし、石造りの建物がきらきらと光る美しい街でした」と話していた。【錦織祐一】


熊本
榎木孝明さんら三角西港でロケ
 明治維新から西南戦争にかけて活躍した薩摩藩士の桐野利秋(中村半次郎)を描く映画「半次郎」の撮影が19日、宇城市の三角西港であり、大型連休で居合わせた観光客らが興味深そうに見つめた。
 映画は俳優の榎木孝明さんが企画、主演。EXILEのAKIRAさんや白石美帆さんらが出演し、小説の影響で「人斬(き)り半次郎」のイメージが定着する半次郎の実像に迫る。17日に鹿児島県でクランクイン。19日は約30人のエキストラも参加し、三角西港の19世紀に建てられた問屋を使って撮影した。県内では10月6日まで、熊本市の旧細川形部邸や美里町の二股橋などでも撮影が続く。
 榎木さんは「建物の外観も立派で、使わせてもらって良かった。地域の協力を受けながら、『人斬り』のイメージとは違う実際の半次郎の姿を描きたい」と意気込む。





 地域ニュース以外をこちらにまとめました。

コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(28)東大教授・山内昌之 白石正一郎
■パトロンへの忘恩

 ◆起業成功者の助言や援助

 経団連のリーダーなど財界主流と民主党とのパイプは、これまで細かった。加えて、温室効果ガスの25%削減を目指す鳩山由紀夫代表に対する産業界の違和感はますます強まりそうだ。財界主流の冷淡な態度とは裏腹に、政権交代の必要性を強調しながら、2003年ごろから民主党を支援してきた異色の経営者もいる。
 京セラ創業者の稲盛和夫氏である。氏によれば政権交代とは、しがらみや慣習にとらわれず、国民のもつ主権を正しく行使する良い政権を選択する行為だという。若手を中心に溌溂(はつらつ)としていても、ともすればまとまりのなかった民主党にとって、起業や経営に成功を収めた産業人の助言や援助は、どれほどありがたいことだったろうか。
 総選挙後、すぐ鳩山由紀夫氏や小沢一郎氏が稲盛氏を訪れて礼を尽くした点を見ても、稲盛氏は民主党の指導者たちに相当の感化力をもっているようだ。
 変革の若い担い手が時代を変える情熱にあふれていても、商売人の取引や購買への独特な感覚を欠くと、新たな空気をつかみそこなうものだ。この点で幕末薩長の志士たちも、赤間関(現・下関)の廻船(かいせん)問屋を営む白石正一郎の物心両面の援助がなければ、目まぐるしく変転する幕末の荒波を乗り切れなかったかもしれない。
 正一郎は、現代でいえば海陸運送を営みながら、薩摩藩など西国諸藩の用達もつとめ、1862(文久2)年の島津久光の上洛を支えた。また、中山忠光が天誅(てんちゅう)組の挙に敗れて下関に来るや、これを保護することもためらわなかった。吉田松陰門下の久坂玄瑞や入江九一らとも身分を越えた交遊を深め、馬関海峡での攘夷(じょうい)戦争にも参加しただけでない。高杉晋作のつくった奇兵隊にも入隊し、家産を傾けるほど私財をおしげもなく投じた。
◆来訪志士は400人

 幕末に正一郎の庇護(ひご)を受けた志士らは、長州人だけでなく、真木和泉や平野国臣(くにおみ)、西郷隆盛や坂本龍馬、それに七卿落ちの公卿(くぎょう)らなど枚挙にいとまない。その邸宅を来訪した志士は、400人にも及んだという。
 しかし、奇兵隊の会計方を務めた正一郎は、志士らの野放図な金銭感覚や活動への莫大(ばくだい)な出費に苦しみ、明治維新を待たずに商売の資金繰りも苦しくなった。もちろん商人の正一郎は、ソロバン勘定抜きの大義や理想だけで高杉らを助けたわけではないだろう。
 雄大な商いの企図は、長州本藩やその御用商人の横やりで邪魔されたらしい。正一郎は支藩の御用をつとめてはいても、本藩に有力な引きをもたなかったからだ。高杉などがパトロンの苦境を少しは助けても良さそうに思えるが、彼らが口添えした形跡は見当たらない。このあたりが理解に苦しむところだ。
 これは幕末の長州藩士の個性とも化した酷薄な一面に思えて仕方がない。危篤の命を大手術で助けてくれた所郁太郎(ところいくたろう)に生涯会いもしなかった井上馨、恩師・吉田松陰の遺書『留魂録(りゅうこんろく)』を流刑地から持ち帰った徳義の士に身の振り方も尋ねなかった野村靖の振る舞いにはあきれてしまう。

◆先人の教え忘れずに

 維新後、正一郎は商売をたたんで神社の宮司となったが、西郷が「温和かつ清廉、実直な人物」と賛嘆した人物を訪れる長州出身の要人がいたとはあまり聞かない。革命のパトロンに、あまりの仕打ちではないか。正一郎は沈黙を守ったまま死んだ。
 政治変革は冷徹な論理で動くものだ。それでも、一片の人情や侠気(きょうき)がないと、人びとはリーダーについていかない。恩人に現世の利益で酬(むく)いよ、といった功利の弁を述べているのではない。現代日本のような成熟した市民社会では、なおのこと成功におごらず、人びとを心服させる包容力も必要になると言いたいのだ。
 民主党には308議席を獲得した大勝利におごらず、その成長を最初から支え、見守った現代の白石正一郎たちを忘れることだけはしてほしくない。(やまうち まさゆき)
                   ◇

【プロフィル】白石正一郎
 しらいし・しょういちろう 文化9(1812)年生まれ。幕末の商人。長門(山口県)下関で廻船問屋「小倉屋」を営む。儒学、国学をたしなみ、交易を通じて平野国臣、高杉晋作ら尊攘志士らと親交を温める。文久3(1863)年、白石邸で奇兵隊が結成されると、弟の廉作(れんさく)とともに入隊。以後、私財をなげうって長州藩尊攘運動を支援した。国学の素養も深く、歌集を残した。明治13(1880)年、69歳で死去。


楽しむナビ:世代を超え「墓マイラー」が増えています。
◆世代を超え「墓マイラー」が増えています。

◇「本人」前にする醍醐味
◇たたずまいに生き方、死生観反映/関連本、写真集…出版相次ぐ
 歴史上の人物や著名人の墓を訪ね歩く「墓マイラー」。歴史好きの女子「レキジョ(歴女)」やウオーキングのブームにも後押しされ、関連本や写真集、DVDなどの刊行が相次いでいる。

●マナー守って
 9月初旬、東京都港区の「青山霊園」を訪ねた。1874年に初の国営墓地として開園(現在は都営)し、後藤新平や乃木希典、吉田茂ら数多くの著名人が眠る。案内してくれたのは「一度は訪ねてみたい 有名人のお墓~東京・神奈川編~」(明治書院)の著者、酒井茂之さん(62)。「あくまでも慰霊の場所で、静かに故人をしのぶのがマナー。カラスが食べ散らかす供え物は避け、花や線香程度で」とアドバイスを受けた。
 霊園は一般公開されており、まず入り口の管理事務所へ。著名人58人の墓を記したガイドマップが無料でもらえる。マップの「墓所番号」を頼りに墓を探すが、園内は簡単な標識しかなく、初心者にはかなり難しい。
 作家の志賀直哉は、墓所番号「第2号1種イ11側2番」。墓は見つかったが、「遺骨は80年に盗難が判明し今も見つかっていない」(酒井さん)という。近くには歌人の斎藤茂吉と維新の志士、大久保利通の墓があった。簡素な茂吉の墓と対照的に、利通は戒名などを刻む「竿石(さおいし)」部分だけで5メートルはあろうかという巨大な墓。暗殺された時に乗っていた馬車の馬の墓もあった。
 酒井さんは「政治家や実業家、軍人は大きく立派な墓が多いが、文学者や芸術家は、そそとしたたたずまいの物が多い。生前の生き方や死生観を反映しています」と話す。
 忠犬ハチ公の飼い主、上野英三郎・東京帝大(現東大)教授の墓もあった。隣にハチ公の碑が建ち、ハリウッド映画「HACHI」が公開中のためか、真新しい花束がいくつも供えられていた。
 約1時間の墓巡りで、歴史上の人物が身近になった気がした。緑深い園内を散策し、先人の声なき声に耳を傾けるだけでも心が落ち着く。

●語り合えるように
 「墓マイラーの名づけ親」を自任するのが文芸研究家、カジポン・マルコ・残月さん(41)だ。大学2回生の時、ロシア・サンクトペテルブルクに文豪ドストエフスキーの墓を訪問。「挫折や困難のたびに彼の作品に救われた」といい、墓前に立つと「土の下にドストエフスキーがいる」と強烈な感動がこみ上げ、「スパシーバ!(ありがとう)」と心の底から言えたという。
 「こうなったら、シェークスピアや夏目漱石先生にもお礼を言わなくては」と、これまで51カ国、1252人の墓地を訪れ、自身のサイトで紹介。米国では夢中で墓を探すうち閉門されて閉じ込められ、黒澤明が眠る寺では簡単に入れず、住職の前で全作品名を暗唱し、思いを伝えた。
 「墓石とはいえ、本人を前にできる醍醐味(だいごみ)は何ものにも代え難い。できれば墓前で30分は語り合えるよう、作品を読んだり見たりして行くのが望ましい」と話す。【清水優子】

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■主な著名人の墓所(東京都内)

◇雑司ケ谷霊園(豊島区)
 泉鏡花、小泉八雲、サトウハチロー、ジョン万次郎、竹久夢二、永井荷風、夏目漱石

◇慈眼寺(同)
 芥川龍之介、司馬江漢、谷崎潤一郎

◇染井霊園(同)
 岡倉天心、高村光太郎・智恵子、二葉亭四迷

◇谷中霊園(台東区)
 長谷川一夫、横山大観

◇禅林寺(三鷹市)
 太宰治、森鴎外

◇多磨霊園(府中市)
 江戸川乱歩、大岡昇平、岡本太郎、菊池寛、岸田劉生、新渡戸稲造、向田邦子、与謝野晶子・鉄幹

 そうそう、私も連休中に多摩の石田寺に行って、多摩の土方さんに大願成就お礼をしてこなければ(苦笑)。

『西郷南洲遺訓』――西郷隆盛によるリーダーシップ41カ条とは
 西郷隆盛がリーダーシップと国家運営について語り残したのが『西郷南洲遺訓』である。41カ条あるといっても、20ページほどの小編であってすぐに読める。現代訳もインターネット上に落ちているが、経営者などリーダーを目指すならば、ぜひ原文を読んでおきたい。

●西郷隆盛が考えたリーダー像とは

 自分のエゴを捨て去ることを西郷はリーダーに求めた。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也」。この西郷による名言は、遺訓第三十カ条からの抜粋である。働きぶり、生活ぶりが市民から見て気の毒に見えるほどであるべき、と語る。本を読むにしてもその精神の体験が必要であり、知識だけでなく真心がなければ世の中をスピーディに動かせないという。

 国家運営では、必要最低限の施策をとるべきと考えた。財政が苦しいから安易に税金を上げれば、役人と国民は敵対し国は分裂する。税金はできるかぎり安くおさえ、歳出は収入の範囲内に留める。未来への教育、現在を守る軍備と農業に関する政策を最優先すべきとした。

●現代の西郷はどこにいるか

 政府にせよ国にせよ、西郷が描いたリーダー像・国家像とはかけ離れつつあるように見える。明治維新時に西郷隆盛は40歳だったから、30代にして幕末を駆け抜けた。次世代を見据える現代の西郷は、今の20代から30代にいるかもしれない。


文化芸能
<歌舞伎>原案・染五郎、演出・幸四郎で『京乱噂鉤爪』 新作へ熱い情熱注ぐ
 江戸川乱歩の「人間豹(ひょう)」を原作とした新作歌舞伎が好評を博したことから、その続編「京乱噂(きょうをみだすうわさの)鉤爪(かぎづめ)」が来月四日から、東京・国立大劇場で始まる。主演の松本幸四郎、市川染五郎父子らが新作歌舞伎への熱い思いを語った。 (藤英樹)

 今回は乱歩の原作はなく、原案を染五郎が担当、演出は前回に続き幸四郎(九代琴松)。染五郎の人間豹(殺人鬼)が、京を舞台に幸四郎の明智小五郎に追い詰められついに最期を迎えるのが見どころだ。新たに、天下転覆を狙う陰陽師(中村梅玉)も絡む。 
 「最初は乱歩作品が歌舞伎になるとは思わなかった」と言う幸四郎。ところが「いざやってみると、乱歩作品の持つシュール(レアリスム=非日常性)と悪(ピカレスク)が実はすごく歌舞伎的で、面白い結果が出た」と、昨年十一月に同劇場で上演された第一作「江戸(えどの)宵闇妖(やみあやしの)鉤爪(かぎづめ)」の成功に満足そう。
 同劇場によると、ふだん歌舞伎を見ないような若い観客が公演後半になるにつれ増えたという。すぐに続編の話が浮上。最初に「乱歩作品を歌舞伎にしてみたい」と言い出した染五郎が原案にとりかかった。「舞台の合間に近くの喫茶店でパソコンを開いて原案を練った」と染五郎。前作で大谷竹次郎賞奨励賞を受賞した岩豪友樹子が脚本にまとめた。
 幸四郎は「新作歌舞伎というと昔から評価が低いが、実は歌舞伎にとってとても大事なもの」と強調する。「新作を生み出し、演じるのは至難の業。続編となれば奇跡に近い。でも取り組むことは歌舞伎俳優に大きな力を与えてくれる。私たちのそういう情熱を評価していただきたい」
 梅玉は「前作の評判を聞いて、ぜひ参加したいと思っていた」と言う。演じる陰陽師は人間豹を操る悪の権化ともいえる存在。「乱歩作品らしく怪しい雰囲気を出し、思い切り憎たらしく演じたい」と意気込む。
 幸四郎、染五郎父子が舞台でがっぷり四つで対決する展開も楽しみだ。幸四郎は「ありがたい半面、俳優として(染五郎は)脅威。老骨にむち打って負けないように頑張らないと」と笑わせる。
 一方、染五郎は「自分が考えたものが形になり、同時に思ってもみなかった方向にいく面白さを知った」と新作に味をしめた様子。「乱歩は今回で最後だが、ほかにも文学作品で新作歌舞伎にできそうなものがあると思う。ああいう歌舞伎、こういう歌舞伎があっていい」とさまざまな可能性を思案する。
 幸四郎は「乱歩歌舞伎の舞台の幕末と、現代は乱世という点で似ていると思う。だから現代への問題提起も含んでいる」と語る。そしてこうも力説した。「歌舞伎は伝統芸能であると同時に演劇。私たちの父や祖父たちが心理描写やリアリズムをつけ加えて歌舞伎を演劇として面白くしてきた。私たちもそういう努力を引き継がなければいけない。演劇としての歌舞伎をより発展させていきたい。新作歌舞伎をやる意義はそこにあるんです」
 十月二十七日まで。1万2千~千5百円。(電)0570・07・9900。


龍馬伝:子役の龍臣くん「天地人」の与六・清史郎くんと史上初の子役バトンタッチ
龍馬伝:子役の龍臣くん「天地人」与六の清史郎くんと史上初の子役バトンタッチ
 現在放送中のNHK大河ドラマ「天地人」で直江兼続の幼少時代・樋口与六を演じた加藤清史郎くん(8)と、10年の大河ドラマ「龍馬伝」で坂本龍馬の幼少時代を演じる濱田龍臣くん(9)が17日、東京都渋谷区の同局で、史上初となる「子役バトンタッチ式」を行った。
 清史郎くんから龍臣くんへ「天地人」の終盤の舞台である山形県米沢市の特産の洋なしとぶどうが贈られ、龍臣くんから清史郎くんへは「龍馬伝」の舞台、高知県のイメージキャラクター「くろしおくん」のマスコットとメロンが贈られた。清史郎くんが、龍臣くんに「僕より頭が良さそう」と話し、「役になって一生懸命できるといい。がんばってください」とアドバイスすると、龍臣くんは「加藤くんの期待に応えて頑張りたい」と答えた。
 「龍馬伝」は、幕末に活動した坂本龍馬の33年の生涯を、三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎の視点から描いたドラマ。1日からスタジオ撮影が始まり、主演の福山雅治さんは10月上旬から撮影を開始する。放送は10年1月3日から。龍臣くんは初回の中盤まで出演する予定。
 「天地人」は、戦国大名・上杉景勝の参謀で、豊臣秀吉からも一目置かれた知将、直江兼続の一生を描き、20日の放送で関ケ原の戦いを迎える。清史郎くんは与六を演じて“天才子役”として人気者になり、6月に回想シーンで再登場。さらに27日~11月8日に直江家の長男・竹松として3度目の登場を果たす。この日はそのクランクアップだった。【服部美央】


舘ひろし参戦!豪華キャスト「坂の上の雲」
 俳優、本木雅弘(43)主演のNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(11月29日スタート、後8・0)の撮影が15日、石川・加賀市で行われ、本木演じる海軍軍人、秋山真之の上司で日露戦争の参謀長、島村速雄役に決定した俳優、舘ひろし(59)がお披露目された。本木や東郷平八郎役の渡哲也(67)とともに凛々しい軍服姿でキメた舘は「海軍の軍服を着るのは念願だった」と喜んだ。
 日露戦争の海戦で大勝利を収めた戦艦「三笠」のオープンセットを背に、“イケメン軍服トリオ”が威厳のある男っぷりを魅せつけた。
 威風堂々とひげを蓄えた軍服姿の3人は、まさに日露戦争を勝利に導いた英雄そのものだった。
 渡は「似合ってますでしょうか?」と渋い笑みで報道陣に照れ笑い。舘も「切符の検札に来た駅長みたいでしょ」とおどけたが、少年のように頬を上気させた。
 日露戦争勝利の立役者であり、主人公、真之を穏やかに諫める兄貴的存在である参謀長の島村を演じる舘は、「島村は僕の中でヒーローだったので、やりたかった役なんです」と無邪気な笑顔。少年時代から海軍の書物を読み漁り、「坂の上の雲」への出演を自ら志願しただけに、俳優生活33年にして初めて袖を通した海軍軍服に「いつか着たい、と思っていたので念願がかなってうれしい」と大感激した。
 「坂の上の雲」は明治維新から日露戦争にかけて、激動の時代を生きた人々を描く青春群像劇で、3年にわたり3部構成で放送される話題作。
 この日は第2部のクライマックスとなる日露戦争開戦シーンを撮影。石川・加賀市の観光施設「日本元気劇場」の目玉として建設された高さ50メートル、長さ80メートルにおよぶ実寸大の戦艦「三笠」内で、渡演じる連合艦隊司令長官、東郷平八郎が駆逐艦隊に出動指令を出す“歴史的場面”に挑んだ。
 東郷役の渡の指揮のもと、参謀に徹する舘と本木の息もピッタリ。石原プロモーションの社長である渡は公私ともに“部下”となった舘に「やりやすいですね。いつもの関係のままなんで」といたずらな笑み。会見でオープンセットの「三笠」を専門家顔負けの知識でPRする本木に対しても「よく勉強されていますね。さすが本木さんは(出演映画が)米アカデミー賞を獲ったと納得します」と賛辞を送った。
 本木は「お二人は男としての威圧感があるけど、すごく根っこがあたたかい。撮影中、渡さんの衣装をさりげなく直す舘さんには夫婦のような気遣いを感じました」と渡・舘コンビのあ、うんの呼吸を絶賛。舘は「変なとこ見てるな」と照れていた。



ビジネス
出版総崩れの中で独り勝ちの角川、文庫で圧倒的な利益を稼ぐ(1)
 京都・池田屋に斬り込んだ二番組長、永倉新八は新撰組幹部唯一の生き残りだ。今年5月、永倉が語り残した『新撰組顛末記』が新人物文庫として出版された。発売からわずか4カ月で、すでに6刷を数え、ベストセラーとなっている。
 新人物文庫を展開する新人物往来社は、2月に角川グループホールディングス(以下、角川)の傘下に入った。現在同社が角川の孫会社であることを知る読者は、まずいない。
(中略)
 冒頭の新撰組・永倉新八は幕末、明治、大正を生き抜き、享年77歳。出版激動の時代を勝ち残るため、変化に素早く対応できる“永倉型”編集者を1人でも多く育て上げ、グループ力の源泉とする取り組みが、勝者・角川ではすでに始まっている。

 新人物往来社の本はずいぶん持ってますが、今年2月に角川グループの傘下に入ったとは知りませんでした。
 手に入りにくくなっていた新人物往来社の単行本が文庫化されるのはいいことだと思います……再版されたり文庫化されたりすると、稀少本の古本相場が下がるということはあります(汗)が、古本を売って儲けようという気持ちはありませんし。
 新八っつぁんの『顛末記』、売れているんですね。この記事が新八っつぁんで始まり新八っつぁんで締めているのは上手いなと思います。

エンターテインメント
D-BOYS舞台「鴉~KARASU~10」 漫画化
 若手俳優集団「D-BOYS」による舞台シリーズ第3弾「D-BOYS STAGE vol.3『鴉~KARASU~10』が、漫画雑誌「ヤングガンガン」(月2回発行、スクウェア・エニックス)で漫画化され、18日発売の第19号から新連載としてスタートする。
 シリーズ初の時代劇となる同舞台は、メンバー18人を9人ずつの2組に分け、同じ演目を4月と10月に上演する初のダブルキャスト方式を導入。物語は「カラス組」と呼ばれた仙台藩の奇襲部隊「衝撃隊」が主人公で、明治維新の波が押し寄せる中、古里を守るために戦い続けた若者たちの愛と友情を史実に基づいて書き下ろした青春群像劇だ。
 今回、漫画化されるのは、10月公演に出演する9人の“サムライ”たち。衝撃隊のリーダー的存在・細谷十太夫直英役に挑む遠藤雄弥(22)をはじめ、ムードメーカー・寅吉役の荒木宏文(26)、孤独なきこり・竜役の瀬戸康史(21)、敵対する長州藩士・大嶽修造役の中川真吾(26)らがモデルとなっている。
 同誌で連載中の「新選組刃義抄 アサギ」に構成協力した町田一八さんの原作をもとに、「第12回スクウェア・エニックスマンガ大賞」の大賞を受賞した新鋭の柳ゆき助さんが作画。キャラクターデザインは、人気漫画「エア・ギア」などで知られる漫画家の大暮維人(おおぐれ・いと)さんが手掛けた。
 メンバーを代表して遠藤は「自分たちが作り上げる作品が漫画化されるなんて、本当に夢のようなお話で、自分を含めD-BOYSみんながとてもうれしがっています。漫画の『鴉』に負けないよう、舞台も最高の作品にしたいと思います。なので漫画も最高の作品になったらなと期待で胸がいっぱいです。『鴉』に関係するカンパニーみんなで作品を大いに盛り上げていきたい」とコメントしている。
 舞台は、10月20-25日、東京・青山劇場で全10公演。大阪公演は10月30日と11月1日、シアターBRAVA!で。

 今日ちょうどコンビニで『ヤングガンガン』を見かけ、パラ読みしてました(^^ゞ。細谷十太夫直英がかっこいいなぁ。
 鴉組フィーチャーの作品なんてそうそうないので、コミックス化したら購入する予定です。


IT
話題の“幕末”を携帯で!幕末ポータルサイト『幕末のすべて』が携帯キャリア公式サイトとしてスタート!
ユーエム・サクシード株式会社(本社:東京都渋谷区、代表取締役:坂本 昇治)が企画・制作した、“幕末”のポータルサイト、『幕末のすべて』が、i-mode、EZweb、Yahoo!ケータイ公式サイトとしてスタート致しました。

『幕末のすべて』は、2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」や、テレビ・マンガ・小説でおなじみの“幕末”を題材とした歴史ポータルサイトです。
コンテンツの提供、監修については、株式会社学習研究社(本社:東京都品川区、代表取締役社長:遠藤 洋一郎)、歴史群像編集部の全面的な協力を得て、携帯サイトとしては他に類を見ない、圧倒的な情報量(文章、画像他)を実現致しました。

充実のコラム・事典など、コアなファンも満足するコンテンツはもちろん、幕末志士待受や幕末クイズなど、昨今の“幕末”ブームで興味をもった“幕末初心者”でも十分に楽しめるコンテンツを多数用意しています。
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 生活環境が大きく変わった第1週を終え、無事にシルバーウィーク突入です。今日は、針灸の施療を受けたり、ジムでゲルマバス・サーキットトレーニング・バランスボールと、癒し&リフレッシュ三昧でした。

北海道
創立150周年の歴史一冊に…函館カトリック元町教会 5年かけ「記念誌」完成
 今年、創立150周年を迎えた函館カトリック元町教会(元町15、ジェル・ロー神父)はこのほど、記念誌「栄光百五十年」を発行した。信者5人による記念誌編集委員会が約5年の歳月をかけて完成させた。同委員は「歴代の神父、信者たちが貴重な資料を残してくれたおかげ。この一冊から教会がさらに発展することを願う」と完成を喜んでいる。
 同教会は函館が開港した1859(安政6)年11月、パリ外国宣教教会のメルメ・カション神父が称名寺(旧函館弥生小校舎付近)境内の建物の提供を受け、小聖堂としてたのが始まり。現在、元町にあるゴシック式、鉄筋コンクリートの建物は1921(大正10)年の大火に見舞われた後、23(同12)年に補強修理し建てられた。
 節目を迎え、記念式典委員会などが立ち上がり、記念誌編集は2004年12月から始まった。長い歴史を象徴する重厚な表紙には、同教会信者から公募したタイトルが書かれている。「神に栄光」から付けられたという。始めに150周年記念慶祝歌を紹介。函館山のふもとにある荘厳な聖堂で響く祈りの声が150年続くことを感じさせている。
 内容はおおよそ5つに区分され、歴代司祭の紹介から聖堂内外の抄録、1946年から発行されている教会広報誌「鐘声」からみる教会の軌跡、46年に当時のフィリップ・グロード神父が創設した劇団活動や思い出話で振り返る教会の諸相、そして思い出の写真集と年表と続く。ほかの教会の100年記念誌などを参考にし、函館市史編さんにも尽力した故久保田恭平さんが残した大量の資料のほか、100を超える文書、書籍を参考にした。編集委員は「命がけで作って仕上げた感動はあるが、教会はさらに発展するので、これで良かったという締めくくりの言葉は使いたくない」と話す。
 A4判、203ページ。500部作成し、信者やカトリックの学校など関係者に配布。市立函館博物館、函館市中央図書館に寄贈を予定している。同教会では21日午前11から記念ミサ、午後1時から30分間、マリア会館の展示見学を行う。


青森
旧斗南藩士・廣澤安任の本出版
 日本初の近代洋式牧場の開設や青森県の誕生に深くかかわった旧斗南藩士・廣澤安任(1830~91)の足跡をたどった本を、安任の縁戚にあたる八戸市の会社役員廣澤安正さん(59)が出版した。
 廣澤安任は戊辰戦争で敗れた会津藩が上北、下北、三戸郡などに移住して興した斗南藩の代表的人物。1871(明治4)年の廃藩置県 によりできた弘前、黒石、斗南、七戸、八戸などの各県を合併して「青森県」を誕生させるために尽力した。また、現在の三沢市谷地頭に日本初の洋式牧場を開設したことでも知られる。
 著者の廣澤さんは安任の兄の末裔(まつえい)。三八斗南会津会会長、斗南藩研究会会長、八戸ニュータウンまちづくり協議会会長などを務めている。
 「会津・斗南人の精神に活(い)きる 活人剱 活人農」と題した本は6部構成。安任 の波乱に満ちた人生、当時の時代背景、大久保利通をはじめ安任とかかわった人々のことなどについて、「斗南藩士の末裔」を自負する廣澤さんが思いを込めて執筆した。
 廣澤さんは「教科書などの歴史認識は東京中心だが、斗南人から見た歴史をまとめてみたかった。幕末や明治維新の歴史について、県南地方で調べている人が少ないので、この本を世に問いたい」と、反響を期待している。
 本書は八戸市の伊吉書院刊。1890円。


山形
兄弟都市縁に来鶴 鹿児島「同学舎」 富塚市長も歓迎、旬味わう
 鹿児島県から東京に進学した男子大学生のための寮「鹿児島奨学会同学舎」(東京都日野市)の寮生たちが17日から19日までの日程で、庄内地方を訪問、兄弟都市の鶴岡市を中心に庄内の文化や歴史に触れた。
 同学舎は、元薩摩藩主の島津忠義公などによって設立された「島津奨学金」を母体にした財団法人・島津奨学資金が1904(明治37)年に東京・本郷台町の下宿屋を買い取り、鹿児島出身者の学生の宿舎としたのが始まり。その後、06年に本郷追分町へ、80(昭和55)年に現在の日野市へ移転した。現在は東大や一橋大、早稲田大などに通う男子学生27人が在籍している。
 同学舎では毎年、舎生の見聞を広めるために海外や国内での研修旅行を実施。今年は兄弟都市の盟約締結40周年を迎えた鶴岡市をはじめとする庄内地方を訪れることになった。
 一行は17日午後に庄内入り。18日は鶴岡市立加茂水族館と致道博物館を見学した。昼食は、鶴岡市の招待で同市馬場町の和食レストラン「百けん濠(ぼり)花てまり」へ。富塚陽一市長が「明治維新以降、鹿児島と鶴岡は縁が深まり、1969年に晴れて兄弟都市となった。庄内を存分に楽しんでもらいたい」と歓迎の言葉。いも煮汁や庄内浜産の鮮魚の刺し身などを味わった。
 一行の団長を務める現王園浩士さん(21)=東大農学部3年=は「庄内の町並みは、どこか鹿児島を思い出すような落ち着いた雰囲気。食べ物はどれもおいしく、誰もが親切。これを機に東京の山形県人学生寮との交流を始めたい」と話していた。


鶴岡で西郷隆盛の足跡学ぶ 鹿児島出身・東京の大学生ら
 鶴岡市の兄弟都市・鹿児島市出身者などが入る東京の男子大学生寮「鹿児島奨学会同学舎」の舎生ら20人が18日、鶴岡を訪れた。致道博物館や松ケ岡開墾場などをめぐり、戊辰(ぼしん)戦争後、西郷隆盛(南洲)との「徳の交わり」から始まった両地域のつながりや、庄内に深く根付く西郷の足跡を学んだ。

 同学舎は、旧薩摩藩主・島津忠義公らが設立した財団法人・鹿児島奨学会が運営する学生寮で、100年以上の歴史を誇る。東大、一橋大、早大、慶大などの学生27人が舎生として在籍。見聞を広めることを目的に、国内旅行や古典芸能鑑賞など独自の研修事業を行っている。

 今回、戊辰戦争で官軍に抵抗した庄内藩に対し、西郷が寛大な措置をとったことが縁で始まった鶴岡と鹿児島の地域交流。兄弟都市盟約40周年の節目を迎え、研修旅行の一環として初めて庄内の地を研修先として選んだ。

 この日、致道博物館を訪れた一行を旧庄内藩18代当主の酒井忠久同館長が案内役を務めた。酒井館長は、庄内藩の歴史や西郷に関する所蔵資料などを紹介しながら、薩摩に多くの影響を受けた庄内の姿を丁寧に説明した。

 研修旅行の幹事を務める東京大3年の現王園(げんおうぞの)浩士さん(21)=鹿児島市出身=は「初めての庄内だが、先人たちのつながりの深さに驚いている」と感想を述べ、同舎寮長で東京外国語大3年の中釜聖史さん(21)=南さつま市出身=は「もっと両地域の歴史を学び、この縁を大切にしていきたい」と話していた。

 一行は、19日、酒田市の南洲神社や南洲会館などを訪れる。


栃木
足利で来月、樺崎寺跡のシンポ 中世史上の意義学ぶ
【足利】「足利学校と足利氏の遺産」の世界遺産登録を目指す市は、来月11、12の両日、市民会館別館でシンポジウム「日本中世史に足利氏が残したもの」を開催する。足利氏の遺産のうち国史跡樺崎寺跡について、発掘調査の成果を踏まえ、さまざまな観点で中世史上の位置付けを学ぶ。浄土庭園の復元など本格的な整備事業に着手する市は、シンポを通し多くの県民に同寺跡への理解を深めてもらいたいとしている。
 樺崎寺は源姓足利氏2代目の足利義兼が1189年に創建したといわれる。足利氏の廟所として浄土庭園や多くの堂塔が整備された。運慶作の大日如来坐像が納められていたことでも有名。明治維新後の神仏分離令で廃寺となったが、2001年に「樺崎寺跡」として国史跡に指定された。
 1日目は、市教委文化課職員が発掘調査の内容を報告した後、中世墓制に詳しい狭川真一元興寺文化財研究所部長が「武門の覇者足利氏の廟所」と題し基調講演する。
 2日目は、日光市・観音寺の千田孝明住職が「足利義兼の事績」、成城大大学院の大沢慶子さんが「足利氏の彫刻」、京都造形芸術大の仲隆裕教授が「足利氏の作庭」、鶴見大の河野真知郎教授が「鎌倉の足利氏」と題してそれぞれ講演。足利氏が中世史に何を残したかをテーマに全員でパネルディスカッションを行う。
 市教委文化課の担当者は「足利氏は鎌倉時代から室町時代にかけて政治、文化をリードしてきた。その先祖の地である足利に中世史に残る多くの遺産があることをもっとクローズアップさせたい」と話している。
 シンポは定員200人。参加は無料だが、事前に申し込みが必要。問い合わせは市教委文化課電話0284・20・2230。


東京
界隈ルポ 麹町(こうじまち)(千代田区)
 江戸時代、武家屋敷の地として栄えた番町麹町周辺。明治維新や関東大震災を経て、戦前まで江戸の屋敷が残っていたというが、戦災で焼け野原に。戦後建てられた邸宅の多くもマンションや商業ビルへと姿を変えた。


神奈川
大・開港展:横浜美術館で開幕
 開港前後の変革期に生まれた美術工芸品を集めた「大・開港展~徳川将軍家と幕末明治の美術」(毎日新聞社など主催)が19日、横浜市西区の横浜美術館で始まった。横浜開港150周年と同美術館開館20周年の記念企画。11月23日まで。
 江戸後期の将軍、大奥ゆかりの調度品、開港期の横浜港を描いた浮世絵や写真など約220点が展示されている。昨年のNHK大河ドラマの主人公、篤姫が輿(こし)入れの際に持参した、桜島を描いた掛け軸もある。
 午前10時の開場一番乗りは、家族3人で訪れた東京都武蔵野市の会社員、奥橋健午さん(43)で「戦国史が好き。貴重なものがあると楽しみにして来た」と笑顔で話した。
 開館は午前10時~午後6時(金曜は午後8時まで、木曜休館)。同館電話045・221・0300。


大・開港展:横浜で開幕 幕末・明治期の美術工芸品集め
大・開港展 横浜で開幕 幕末・明治期の美術工芸品集め
<大・開港展>横浜で開幕 幕末・明治期の美術工芸品集め
 開港前後の変革期に生まれた多様な美術工芸品を集めた「大・開港展~徳川将軍家と幕末明治の美術」(毎日新聞社など主催)が19日、横浜市西区の横浜美術館で始まった。横浜開港150周年と同美術館開館20周年の記念企画。11月23日まで。
 江戸後期の将軍のほか、大奥ゆかりの調度品、開港期の横浜港を描いた浮世絵や写真、明治期の西洋画など約220点が展示されている。昨年のNHK大河ドラマの主人公、篤姫が輿(こし)入れの際に持参し、ドラマにも登場した、桜島を描いた掛け軸もある。
 午前10時の開場一番乗りは、家族3人で訪れた東京都武蔵野市の会社員、奥橋健午さん(43)で「戦国史が好き。タイトルに引かれ、貴重なものがあると楽しみにして来た」と笑顔で話した。
 開館は午前10時~午後6時(金曜は午後8時まで、木曜休館)。同館電話045・221・0300。


大・開港展:きょう開幕--横浜
 幕末・開港から明治に至る政変下で生まれた多様な美術工芸品を集めた「大・開港展~徳川将軍家と幕末明治の美術」(毎日新聞社など主催)の開会式が18日、横浜市西区の横浜美術館で開かれ、徳川恒孝・徳川記念財団理事長らがテープカットした。19日に開幕する。横浜開港150周年と同美術館開館20周年の記念企画。逢坂恵理子館長が「将軍家の至宝、さまざまな美術工芸品を堪能していただきたい」とあいさつした。
 11月23日まで、午前10時~午後6時(木曜休館。金曜は午後8時まで)。入館料は▽一般1000円▽大学・高校生700円▽中学生400円▽小学生以下、障害者手帳保持者と介護者は無料(土曜のみ高校生以下も無料)。問い合わせは同美術館(電話045・221・0300)へ。


大・開港展:横浜美術館で開会式、開幕は19日
<大・開港展>横浜美術館で開会式、開幕は19日
 幕末・開港から明治に至る政変下で生まれた多様な美術工芸品を集めた「大・開港展~徳川将軍家と幕末明治の美術」(毎日新聞社など主催)の開会式が18日、横浜市西区の横浜美術館で開かれ、徳川恒孝・徳川記念財団理事長らがテープカットした。19日に開幕する。
 横浜開港150周年と同美術館開館20周年の記念企画。逢坂恵理子館長が「将軍家の至宝、さまざまな美術工芸品を堪能していただきたい」とあいさつした。
 11月23日まで、午前10時~午後6時(木曜休館。金曜は午後8時まで)。入館料は▽一般1000円▽大学・高校生700円▽中学生400円▽小学生以下、障害者手帳保持者と介護者は無料(土曜のみ高校生以下も無料)。問い合わせは同美術館(電話045・221・0300)へ。


大・開港展 -徳川将軍家と幕末明治の美術-
 横浜開港150周年と開館20周年を記念。江戸から明治へと受け継がれた、芸術と文化の粋を堪能する。今から150年前、修好通商条約によって横浜など5港が開港し、鎖国体制が終幕。時代が江戸から明治へと大きく変貌した。開港にともなう政変の大きなうねりの中で、芸術や文化がどのように変わっていったのか、その流れを明らかにする。
 第1部では徳川将軍家ゆかりの品々を通して幕末の美術の粋を紹介。第2部では開港によって揺れ動く時代の流れをさまざまな史料から読み解く。第3部では明治の開港を経て新しく生み出された美術を紹介。激動の時代の中で、何を受け継ぎ何を生み出していったのか、美術品や史料を通して検証する。


特集:大・開港展-徳川将軍家と幕末明治の美術 あすから横浜美術館
◇激動の時代映す作品数々
 今年は横浜開港150周年。国家体制の大きな変革のうねりは、美術の分野にも影響を及ぼした。開港前後の激動の時代を、多彩な美術品を通して考察する「大・開港展--徳川将軍家と幕末明治の美術」が19日から11月23日まで、横浜美術館で開かれる。幕末の歴代将軍らが大事にしてきた美術品・調度品、明治政府の文化政策のもとで制作された工芸品、絵画など約230件を紹介する。【岸桂子】
 開港150周年と、横浜美術館の開館20周年を記念する本展は3章構成。第1章では、徳川将軍家ゆかりの美術に焦点を当てる。歴代将軍で在位最長を誇った十一代家斉(いえなり)が大事にした繊細な銀細工、大奥に飾られた豪華な屏風(びょうぶ)絵、歴代将軍の肖像画などが並ぶ。
 中でも注目したいのが、薩摩藩御用絵師、柳田龍雪(りゅうせつ)の「薩州桜島真景図」。篤姫(あつひめ)(天璋(てんしょう)院)が十三代将軍家定に嫁ぐ際、養父島津斉彬(なりあきら)が持たせたと伝えられている。鹿児島湾から桜島を望む美しい風景は、故郷を後にした篤姫の心の支えになったことだろう。
 第2章は、開港期の横浜の様子を、史料や絵画で紹介。開港後は外国人宣教師や商人らが行き交い、国際都市へと変ぼうした。にぎわう横浜の港や商館などを描いた「横浜浮世絵」が多数出版されたのはこの時期である。
 3章の核は、横浜ゆかりの作品を中心に、新時代を彩った斬新な絵画や工芸品の数々。陶磁器や漆器などの工芸品は、欧米に対抗できる近代産業のない日本にとって、生糸や茶と並ぶ主要輸出品となった。代表的な作家の一人が、陶芸家の初代宮川香山。京都の生まれだが、維新後、輸出用陶磁器をつくるため横浜で窯を開いた。過剰なほどの装飾性は、万国博覧会でも高く評価された。また、和装の外国人肖像は、土産物として人気を博した。
 近代横浜を代表する経済人、原三渓(さんけい)は、美術のパトロンとしても知られる。原が支援した下村観山、小林古径らの日本画を紹介する。
 そのほか、高橋由一らの油彩画、将軍を退いた後は趣味の世界に没頭した徳川慶喜の絵画・写真なども展示。激動の時代の日本美術を確認できる、またとない機会である。

==============
 《会期》9月19日(土)~11月23日(月・祝)。木曜休館。入館時間は午前10時~午後5時半(金曜は午後7時半まで)。
 《会場》横浜美術館(横浜市西区みなとみらい3の4の1、電話045・221・0300)
 《観覧料》一般1000(900)円、大学・高校生700(600)円、中学生400(300)円。かっこ内は20人以上の団体料金。毎週土曜は高校生以下無料(生徒手帳・学生証を提示)。敬老の日(9月21日)は、65歳以上無料(年齢を証明するものが必要)。開港記念日(11月3日)は、観覧料が20%割引。

主催   横浜美術館、財団法人徳川記念財団、毎日新聞社
特別協賛 財団法人横浜開港150周年協会
後援   横浜市、NHK横浜放送局


静岡
吉田松陰の情熱に触れる 蓮台寺温泉(静岡県)
 1859(安政6)年、今から150年前の10月に安政の大獄で処刑された吉田松陰。時に数えで30歳、今の私と同じ年だ。

 その5年前、海外密航を企てた25歳の松陰は下田に来た。海岸にペリー艦隊を見に行き、他藩の藩士と会い、幕府の役人を訪ねる。意外に大胆だ。「役人もペリーの応接で手いっぱいだったんじゃ」と市史編纂(へんさん)委員の佐々木忠夫さん(73)は笑う。編纂室からは下田湾が一望できる。黒船に向かって必死に小舟をこぐ姿が浮かぶ。さぞ疲れたろう。

 疥癬(かいせん)(皮膚病)を患った松陰は蓮台寺温泉を訪れ、医師・村山行馬郎の家に身を寄せる。密航は大罪だが、村山は隠し通した。「松陰には、正しいと思ったことに周りを巻き込むパワーがあったんでしょうね」と村山邸(現・吉田松陰寓寄処)ガイドの前原輝雄さん(67)。飾られている肖像画は、なで肩でほっそりしている。いかにも「先生」といった風貌(ふうぼう)だが、秘められた情熱の一端に触れた気がした。

 密航は失敗し、松陰らは罪人となる。その後、故郷の萩で謹慎し、「松下村塾」で維新の志士を数多く育てた。

 「短い人生でも、必ずその中に四季がある」。処刑前日に書き上げた遺書「留魂録」で松陰は語る。塾の門人に種子を残したのが彼の秋なら、大望を胸に小さな風呂で疥癬の肌をこすっていたのは夏だろう。村山邸から小道を歩いて数分の蓮台寺荘で、豪華な風呂につかりながら考えた。今、私はどの季節にいるんだろう。

(文・根岸華奈子 撮影・真田弘宣)

    ◇

●蓮台寺温泉 約1300年前に奈良時代の僧侶・行基が発見したと伝わる。湯量が豊富で、下田温泉の旅館・ホテルにも供給されている。石畳の遊歩道「湯の華小路」沿いには源泉がわき出す。無料の足湯もある。天神社には重文の「大日如来坐像」が安置されている。問い合わせは下田市観光協会(0558・22・1531)

●蓮台寺荘 二つの大浴場と三つの貸し切り風呂がある。日帰り入浴は正午~午後7時半、1000円。1泊2食付き1万6000円から。問い合わせは0558・22・3501。

●吉田松陰寓寄処 松陰の入った風呂が今も残る。前原さんらガイドが、松陰の下田での足取りを地図を使って解説してくれる。県指定文化財。100円、小中学生50円。午前9時~午後5時。(水)休み。問い合わせは下田市教委(0558・23・5055)。

●弁天島 米艦に小舟で乗り込む直前、松陰と弟子の金子重輔はこの島のほこらに潜んでいた。今は陸続きで、近くには2人の銅像「踏海(とうかい)の朝」がある。伊豆急下田駅からバスで5分、徒歩なら20分ほど。

    ◇

(2009年9月15日、朝日新聞マリオン欄掲載記事から。商品価格、営業時間など、すべての情報は掲載時点のものです。ご利用の際は改めてご確認ください)


石川
オリジナル劇:加賀藩主の苦悩と葛藤描く 「宵月」19~21日上演--金沢 /石川
オリジナル劇:加賀藩主の苦悩と葛藤描く 「宵月」19~21日上演--金沢 /石川
◇ライブハウスで--脚本は店長、常連客が出演
 激動の幕末を舞台に、加賀藩主の苦悩と葛藤(かっとう)を描いたオリジナル劇「宵月」が19~21日の3日間、金沢市下近江町のライブハウス喫茶「メロメロポッチ」で上演される。脚本は店長の熊野盛夫さん(39)。常連客10人が前田家の人びとを演じる。本番を前に、熱の入った演技で練習に励んでいる。【澤本麻里子】

 03年に始まり、今年で7回目。きっかけは同年、熊野さんが学生らと開催した平和イベントだった。今後の企画を考える話し合いの中で「平和であればこそ自由な表現ができる」と「激団トラベルボンバーズ」を結成。メンバーを替えながら毎年公演を続けている。
 14日夜には、出演者たちは初めて衣装を身に着け、通しげいこに臨んだ。主人公は兼六園の整備に尽力した前田家13代藩主・斉泰(なりやす)。将軍家と天皇家の板ばさみになる外様大名の苦悩や、プライドを持って新しい時代に向き合う姿を生き生きと演じた。
 熊野さんは今回初めて、史実に基づいて脚本を書いた。「莫大(ばくだい)な借金を抱えていたり、江戸から明治に時代が変わったり。当時の状況は政権交代が起きた現代に通じるものがある」と話す。「兼六園に流れる水は当時から今に続いている。私たちも脈々と続く歴史の中で生きていて、何を残していくべきなのか、考えるきっかけになれば」
 19日は午後8時からの1回。20、21の両日は午後2時と午後7時の2回上演。前売りは一般2000円、学生1500円。問い合わせはメロメロポッチ(076・234・5556)。


愛知
26日から特別展「牧野一族」
 豊川市は、桜ヶ丘ミュージアム開館15周年記念特別展で26日から「三河に興りし牧野一族―戦国から幕末への軌跡」を開く。同日午後1時から、牧野一族当主4人も夫人同伴で出席、開会式を行う。会期は、11月8日まで。
 牧野家は、同市牛久保を中心に戦国時代に勢力を誇った土豪。応永年間(1394~1428年)に田内(田口)伝蔵左衛門茂富が、讃岐国から牧野村(牛久保付近)に来て牧野姓を名乗った。
 一族は、牧野城を築き、瀬木城・今橋城(吉田城)、牛久保城を築いて勢力を拡大した。後に徳川家の家臣となった牧野康成は、戦功をあげ、天正18(1590)年、上州大胡2万石の譜代大名になった。
 大胡藩から越後長岡へ移った歴代藩主は「常在戦場」を代表とする三河以来の質実剛健の藩風を受け継いだ。
 牧野一族は、長岡藩救援の「米百俵」の送り主である越後三根山藩、信州小諸藩、常陸笠間藩、丹後田辺藩の大名になった。
 特別展では、戦国動乱期の牧野氏はじめ長岡、三根山、小諸、笠間、田辺の5藩に残る資料など約400点を紹介する。笠間藩牧野家からは、藩校「時習館」の資料も。
 会期中、27日と11月3日に午前と午後の2回ずつ、ワークショップ「甲冑をつくってみよう」がある。10月には、3回の講演会がある。
 講演会は、次の日程。
 「戦国・牧野一族とその時代」(3日午後2時から、小和田哲男静岡大学名誉教授)▽「越後長岡藩・牧野氏の藩政確立と展開―文教政策を中心として」(17日午前10時、土田隆夫長岡日独協会顧問)▽「牧野一族が築いた三河の城」(24日午前10時から、林弘之学芸員)


京都
「京町家はんなりマップ」発行
会員店舗や史跡など紹介

「京町家はんなりマップ」発行 会員店舗や史跡など紹介
 京町家を活用した店舗105店でつくる京町家はんなり会(事務局・京都商工会議所)が、会員店舗を紹介する2010年版の「京町家はんなりマップ」を発行した。
 会員の飲食店や物販店など71店の概要や特徴を写真と地図付きで掲載した。坂本竜馬を特集し、池田屋騒動跡、薩摩藩邸跡など幕末の史跡約30カ所も紹介している。
 A2判で折り畳み式。初版5万部を京商や観光案内所、ホテルで無料配布中。10月10日に始まる「京都知恵と力の博覧会」に協賛して行うスタンプラリーの用紙も添付した。



山口
没後150年 吉田松陰ゆかりの地を訪ねて
 幕末に長州藩萩城下(山口県萩市)で松下村塾を開き、日本をリードする多くの人材を育て、明治維新の精神的支柱とされる吉田松陰(1830-1859年)が安政の大獄で刑死してから今年で150年。出身の山口県は10月25日、松陰が処刑された小伝馬獄跡など都内のゆかりの地を巡る「長州・大江戸スタンプラリー~幕末の青年『吉田松陰』ゆかりの地を訪ねて」を開く。
 松陰は長州藩士の次男に生まれ、山鹿流兵学師範の家柄の吉田家を継ぎ、19歳で藩校「明倫館」の師範に。21歳で肥前平戸(長崎県)などに遊学して以後、東北など各地を歩き、江戸では佐久間象山に洋学を学んだ。
 伊豆下田沖では、米軍艦に乗り込んで密航を企てたが失敗。松陰は萩に連れ戻され投獄、実家に幽閉されるが、研鑽(けんさん)を積み私塾・松下村塾で高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋などの俊才を育てた。
 しかし、幕府批判を強め、老中暗殺を企図したものの失敗。幕命で江戸に送られ、江戸・伝馬町の牢で処刑される。わずか29歳の生涯だった。
 長州・大江戸スタンプラリーは今回で6回目。これまで、幕末に藩命を受けてロンドンに留学し、“長州ファイブ”といわれた井上馨、伊藤博文、井上勝ら5人の長州藩士ゆかりの地を歩くなど、山口県を紹介してきた。今回は没後150年の松陰にスポットを当て、山口県の魅力をアピールすることになった。
 当日は山口県東京観光物産センター「おいでませ山口館」(中央区日本橋)に午前9~11時に集合し、受け付け終了後、順次出発。ラリーポイントの(1)日比谷公園(松陰の江戸での活動拠点で、東北遊歴の出発地=千代田区)(2)靖国神社(友人の剣豪、斉藤弥九郎父子と交流の場となった江戸三大道場の練兵館跡地=千代田区)(3)泉岳寺(わが身を赤穂浪士に重ね、句をよむ=港区)(4)十思公園(処刑された小伝馬獄跡=中央区)(5)小塚原回向院(最初の墓=荒川区)-のうち3カ所以上を巡り、「萩・世田谷幕末維新祭り」が開かれている松陰神社(松陰墓所、世田谷区若林)に午後3時までにゴールする。ポイント地点の一部では、萩市の一坂太郎特別学芸員による解説も行われる。
 山口県東京事務所は「松陰先生の命日は10月27日。ゆかりの地を訪ねて松陰先生をしのび、山口県のことを知るきっかけとしてもらえれば」と話している。
 参加無料。交通費、昼食代は各自負担。先着1500人。申し込みは、はがきに(1)代表者氏名(2)住所(3)電話番号(日中連絡先)(4)同行者氏名-を明記し、〒100-0013千代田区霞が関3の3の1、尚友会館4階、山口県東京事務所 長州・大江戸スタンプラリー係へ。または、「おいでませ山口館」ウエブサイトから。受付は10月14日まで(当日消印有効)。
 参加者には記念品のほか、東京-山口往復ペア航空券などが当たる抽選会もある。問い合わせは山口県東京事務所(電)03・3502・3355。


大江戸スタンプラリー開催=山口県
 山口県は10月25日(日)、東京都内にある同県にゆかりのある場所をめぐる「長州・大江戸スタンプラリー」を開催する。このイベントは、今年で6回目。今回は、幕末思想家・吉田松陰の没後150年にちなみ、おいでませ山口館(県東京観光物産センター:中央区日本橋)をスタートし、松陰に関係する日比谷公園(長州藩邸跡地)、十思公園(最期の地)など5カ所のラリーポイントを回って、世田谷区の松陰神社にゴールする。ラリーポイントのうち4カ所では、学芸員による歴史解説を聞くこともできる。
 参加者にはゴール地点で記念品が渡されるほか、アンケート回答者に宿泊券付き山口往復ペア航空券や県特産品などが当たる抽選会も行う。参加は無料だが、事前申し込みが必要(先着1500人まで)。はがきに代表者の住所・氏名・電話番号・同行者氏名を明記の上、山口県東京事務所(〒100-013 東京都千代田区霞が関3-3-1尚友会館4階)あてに郵送するか、おいでませ山口館Webサイトから登録する。応募締め切りは10月14日で、はがきの場合、当日消印有効。問い合わせは山口県東京事務所(電話03-3502-3355)まで。【もぎたて便】


福岡
キャンペーン:幕末、維新の鹿児島観光PR /福岡
 幕末から明治維新にかけての歴史に興味を持ってもらい、鹿児島観光につなげようと、19~30日、鹿児島市で島津斉彬(なりあきら)生誕200年記念イベントがある。期間中は、JR鹿児島中央駅で記念パネル展がある他、22日は島津家の別邸として知られる仙巌園(せんがんえん)で、民俗芸能や、ピアニスト・山下洋輔さんのコンサートがある。また、23日には夜学塾があり「龍馬の恩返し~龍馬と薩摩」「島津斉彬と世界経済」「島津斉彬と薩摩の技術革新」の三つのテーマで“講義”もある。
 鹿児島市内のホテルでは「斉彬公グルメ」として薩摩料理が堪能できる。詳しくは、観光かごしま大キャンペーン推進協議会(099・286・3006)。HPは(http://www.atsuhime.org/nariakira/)。

 

長崎
長崎居留地まつり:異国情緒漂う街で多彩なイベント--あすから /長崎
長崎居留地まつり:異国情緒漂う街で多彩なイベント--あすから /長崎
 長崎市の東山手、南山手、大浦地区など旧外国人居留地一帯で20、21日に「長崎居留地まつり」が開かれる。今年で14回目。異国情緒豊かな街並みを生かした多彩なイベントが企画されている。
 新イベント「居留地フォトウオークラリー」は、両日午後1~3時開催。参加者は、洋館を写した古写真を手掛かりに、現在の当該地を探して同じアングルから写真撮影するという企画。写真はその場で印刷され、正解者には記念品が贈られる。2日間で先着50人まで。無料。
 また、今年初めて孔子廟(同市大浦町)も会場となり「居留地赤ちゃんはいはいレース」(21日午前11時)を開催する。1歳以下の赤ちゃんが対象で、5メートルのコースをはいはいで競走。「学問の神様」孔子にちなみ、「地域の子供に元気よく育ってほしい」との願いを込める。孔子廟の入館料(一般300円▽高校生200円▽小中学生150円)が必要。
 さらに、大浦小児童有志が大浦天主堂で合唱を披露する「居留地キッズコーラス」(20日午後1時)▽ボウリング発祥の地にちなみ幕末のボウリングを再現する「文久元年のボウリング」(21日)--などもある。問い合わせは実行委(095・829・1314)。【錦織祐一】


江戸の長崎 再発見
《地図重ね復元図出版》

 現在の長崎市の地図に江戸時代の地図を重ねた「長崎惣町復元図」を、長崎市岩見町の自然史研究家、布袋厚さん(50)が出版した。町歩きガイドとしても使える復元図の解説書「復元!江戸時代の長崎」も同時に刊行。布袋さんは「長崎さるくにも役立てば」と話している。

◎自然史研究家・布袋さん
  現在との違い一目で
 復元図は、2500分の1の現在の地図上に、18~19世紀前半の通りや海岸線、町並みが色分けされて描かれている。江戸時代の海岸線や出島、拡張された道路、無くなった町が浮かび上がり、現在との違いが一目でわかる。
 布袋さんが地図の復元を考えついたのは04年に、19世紀初頭に作られた「享和二年肥州長崎図」を眺めている時だった。「現在の道や町と比較できる資料が作れないか」と、翌05年から製作に取りかかった。
 だが、現在と同じ名前の通りでも、道幅が変わったり、戦後に位置が変わったりして正確な位置が特定できず、作業は難航した。
 06年、長崎歴史文化博物館に、18世紀半ばの実測図「長崎惣町絵図」があると知り、研究に通った。絵図には長崎の80町の本通りや横町が正確に描かれている。現在の地図と対応する場所を見つけて、両方を0.1ミリ単位で計測し、合わせていく作業を繰り返した。作図するうちに誤差やひずみが出た時は、現場に足を運び、石垣や階段、堀などから場所を特定した。
 布袋さんは「町中の不自然な曲がり角も、江戸時代の道だったりする。町を歩いて、今の町は江戸時代から続いているのだと感じてほしい」。
 2冊とも長崎文献社(095・823・5247)刊。復元図はA全判、1千円(税別)。解説書はB5判192ページ、2400円(同)。

《龍馬の時代、古写真・建築でたどる》
 坂本龍馬が見た幕末の長崎の街並みを古写真でたどる講演が26日午前10時半から、長崎市興善町の市立図書館である。朝日新聞長崎県内版で「長崎今昔」を連載している姫野順一・長崎大教授が講師を務める。鮫島和夫・長崎総合科学大教授の「幕末期の建築の見どころ」と題した講演もある。
 長崎市出身の福山雅治さんが主役を務める来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送を前に、幕末の長崎を古写真や建築から見ることで、長崎の魅力を再発見しようとのねらい。
 姫野教授は、長崎大の古写真コレクションなど20~30枚をスクリーンに映して紹介し、長崎と龍馬とのかかわり、当時の生活の様子について話す。鮫島教授は、龍馬が中心となって結成した日本初の商社「亀山社中」や当時の洋風住宅について話す。
 参加無料だが、事前の申し込みが必要。長崎国際観光コンベンション協会のホームページ(http://www.saruku.info/)か電話(095・811・0369)で受けつけ、定員200人になり次第、締め切る。


鹿児島
「半次郎」緊張のクランクイン
 幕末の薩摩藩士で西郷隆盛の側近だった桐野利秋(中村半次郎)の生涯を描く映画「半次郎」の撮影が17日、鹿児島市本城町の桐野利秋開墾地跡で始まった。
 開墾地跡は、桐野が1873年に西郷と共に下野して鹿児島に戻り、水田などを開墾した場所。この日は、唐芋を母親とともに収穫する場面などが撮影された。撮影前には動作の確認などが入念に行われ、本番の声がかかると、現場は緊張感に包まれた。
 この日は桐野の子孫である加藤房子さん(77)=東京都=も現場を訪れ、「感無量です」と撮影を見守った。
 主役の半次郎役を演じ、映画を企画した俳優の榎木孝明さんは「ここから撮影がスタートできたのはうれしい」と話した。
 撮影は10月20日ごろまで伊佐市や宮崎県などである。映画の公開は来年9月の予定。


島津斉彬:生誕200年を記念 19日から県観光イベント /鹿児島
◇山下洋輔コンサート、シンポジウムも
 旧薩摩藩主、島津斉彬(1809~58)の誕生日を28日に控え、生誕200年記念のイベントが19日から30日まで開催される。主催する「観光鹿児島大キャンペーン」の事務局の県観光課は「斉彬の魅力や歴史の奥深さで、『ポスト篤姫』として、県観光を盛り上げていきたい」と話している。
 イベントは19日午後6時、鹿児島中央駅前でオープニングコンサートで幕開け。22日午後6時、鹿児島市の仙巌園で、ジャズピアニスト、山下洋輔さんらのコンサートがある。山下さんの先祖は斉彬に仕えた薩摩藩士という縁もあるという。
 メーンイベントは「生誕200年記念シンポジウム」。27日午後1時半、鹿児島市の宝山ホールであり、大河ドラマ「篤姫」で斉彬役を演じた高橋英樹さんがトークショー。「篤姫」の時代考証を担当した鹿児島大の原口泉教授や川勝平太・静岡県知事らがパネル討論する。
 また、県は、斉彬のPRにも力を入れる。製鉄・造船・紡績など幕末の「集成館事業」など業績を紹介するDVDを作成。旬の観光情報や幕末・維新を知る施設案内なども盛り込んだ。旅行会社などに配り、県外の広告用屋外ビジョンなどでの放映も検討している。
 また、「ドラマチック薩摩」と銘打ち、パンフレットも4万部作成。「薩摩切子」や銘菓「かるかん」と斉彬との関係や、坂本龍馬、勝海舟らとの交流などを紹介した。県内外の観光案内所や旅行会社などに配布する。
 問い合わせは県観光課(099・286・3006)。【福岡静哉】


商店街ゆるり散歩 通り会がおもてなし企画/指宿市
 指宿市を訪れる観光客を商店街でもてなそうと、指宿駅前通り会が中心となって「指宿商店街ゆるり散歩」を企画した。観光客にスタンプラリー形式で各店舗を回ってもらい、試食やお土産プレゼントなどのサービスを提供、店主らとのふれあいも楽しんでもらう試み。19日から10月末まで、毎週土曜日に開催する。
 指宿駅前や砂むし温泉砂楽周辺などにある酒屋、菓子店、鮮魚店、かつお節店、さつま揚げ販売店など14店が参加。観光客にはお店紹介入りのマップを見ながらまち歩きしてもらい、店内でマップを提示したり、簡単なクイズに答えると試食できたり、お土産のプレゼントがある。
 ナンコ遊び、畳作りの見学ができるお店もあり、8店以上回った人には、特製の温泉卵ストラップをプレゼントする。幕末の豪商、浜崎太平次の銅像がある太平次公園に立ち寄るオプションコースも準備している。「ゆるり散歩」は土曜日正午~午後6時まで。詳細は「指宿うまいもん」のホームページ=http://www.ibushoku.com/


江戸時代の「お庭焼」を再現 鹿児島市の仙巌園
島津斉彬の生誕200年を記念

 鹿児島市吉野町の仙巌園が、島津斉彬の生誕200年を記念し、江戸時代のお庭焼「金襴手菊籬文水指(きんらんできくまがきもんみずさし)」の再現に取り組んでいる。斉彬の誕生日に当たる28日を前に、絵付け作業が大詰めを迎えている。
 「金襴手-」は金粉をふんだんに使った色鮮やかな茶道具。高さ約15センチの白薩摩の器に、キクやハギの模様が細かく描かれている。
 作者や作製の由来は不明。同園によると、斉彬が藩主を務めていた幕末に作られたとみられる。代表的な薩摩焼として、尚古集成館に所蔵されている。
 再現作業は3月から、同園近くの磯お庭焼窯で始まった。本物そっくりの形に焼き上がった白薩摩に絵付けをするのは、絵師の藤崎隆さん(62)。微妙な色合いを表現するため、何色もの絵の具を混ぜ合わせ、極細の筆で丹念に描き上げる。15日までに4割ほどの絵付けが終了した。
 完成品は28日から同園で、同じく斉彬生誕記念に作られた薩摩切子「創作3色部分被(き)せ大花器」と一緒に公開する予定。


 今週から身辺の環境が変わってバタバタしてます。三日目にしてようやく、ブログに記事をアップする気力体力の余裕ができました(^^ゞ。

岩手
高知の歌人、啄木ファンが募金活動
父、晩年過ごした縁県外初

 盛岡市出身の歌人・石川啄木と、父・一禎(いってい)(1850~1927)の歌が刻まれた碑が、一禎が晩年を過ごした高知市のJR高知駅前に建てられた。啄木と父の歌碑は、盛岡市馬場町の中津川のほとりにもあるが、県外に建てられるのは初めて。
 一禎は、旧渋民村(盛岡市玉山区渋民)にあった宝徳寺の住職を務めていたが、本山に納める宗費を滞納したことを理由に1904年に罷免された。その後、啄木の姉にあたる次女とらの家に身を寄せた。とらの夫は旧国鉄の職員で、25年に高知出張所長に赴任したのに伴い、一禎も高知に移住。現在のJR高知駅近くにあった職員官舎で暮らし、76歳で生涯を閉じた。
 一禎自身も4000首近い歌を詠み、歌稿「みだれ蘆(あし)」を残した。啄木の歌風にも影響を与えたと言われている。
 数年前までは官舎跡地に一禎とのゆかりを記した表示板があったが、それも駅前の再開発に伴って撤去されたままになっていた。
 そこで、高知県内の歌人や啄木ファンらが、「啄木の父 石川一禎終焉(しゅうえん)の地に歌碑を建てる会」を結成し、今年5月から募金活動に乗りだし、300万円近い建立資金を集めた。
 駅南側の市有地に設置された歌碑は、高さ約135センチ、幅185センチで、父子の歌が左右に並ぶように刻まれている。
 右側には、啄木が父を思って詠んだ「よく怒る 人にてありし わが父の 日ごろ怒らず 怒れと思ふ」と刻まれ、左側には一禎の「寒けれと 衣かるへき 方もなし かかり小舟に 旅ねせし夜は」と刻まれている。
 12日に行われた除幕式に出席した石川啄木記念館の山本玲子学芸員は14日、県庁を訪れ、達増知事に除幕式の様子を報告した。山本学芸員は、高知生まれの幕末の志士・坂本龍馬が多くの歌を詠んでいたことを紹介し、啄木と龍馬の歌を合わせて展示する企画展の開催を提案した。達増知事も、来年1月に高知県で開催される「土佐・龍馬であい博」を訪問する予定で、両県の交流は今後さらに活発になりそうだ。


埼玉
着物の魅力 漫画で  愛好者の漫画家が出版
 ふじみ野市大井の漫画家・近藤ようこさん(52)が、着物に関する漫画エッセー「着物いろはがるた」(徳間書店、税込み1260円)を刊行した。着物で歩くことが似合う街としての川越市や、県内の織物文化についても紹介している。
 近藤さんは1986年度、「見晴らしガ丘にて」で第15回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。最近では「私たちの着物術」「うきうきお出かけ着物術」「あしたも着物日和」など着物に関する著書も多数出している。
 今回の作品は、着物を着始めて約20年になるという近藤さんが、「着物は難しくない。楽しいものなので、構えずに着てほしい」との願いを込めて、着物に関する知識や情報を、いろはがるた形式で分かりやすく説明している。作品中で、近藤さんは自らも会員である、着物愛好者たちでつくるNPO法人「川越きもの散歩」の活動を紹介。会員たちが毎月28日に、昔ながらの街並みが残る川越を着物で散策している様子を軽やかなタッチで描いている。
 また江戸から明治にかけて庶民の間で流行した縞(しま)柄の木綿織物「川越唐桟(とうざん)」についても解説。幕末になって川越商人が欧米から細い糸を輸入し、川越周辺の農家に織らせて開発した歴史などを解説。このほか、埼玉県が全国有数の養蚕地であること、秩父地方では県産のブランド繭「いろどり」が生産されていることなど、着物関連の産業が多い現状にも触れている。
 近藤さんは「漫画なので読みやすく仕上がっていると思う。着物に興味を持っている方はもちろん、これから着ようと考えている方にも手にしてほしい」と話している。問い合わせは、徳間書店の販売担当(048・451・5960)へ。





神奈川
かながわ遊ナビ:開国150年記念歌劇、「新聞の父」モデルに--横浜 /神奈川
◇18日から横浜市中区で
 幕末に日本と米国を往復しリンカーン大統領らと会見、「新聞の父」とも言われるジョセフ・ヒコをモデルにした歌劇「揺(たゆ)たう潮(うしお)の咲くらばな」が、18日から横浜市中区山手町の山手ゲーテ座で上演される。元OSK日本歌劇団の那月峻らが出演する。
 神戸市に本拠を構える「歌劇★ビジュー」が、開国150周年記念として横浜で公演する。最前列6000円、他は5000円。22日まで。問い合わせ先は、ネザーランズ・センター(078・222・6888)。


写真発祥の地・横浜で幕末から現代までを見る写真展
 写真発祥の地・横浜の3美術館で今秋、開港150周年を記念して、幕末の開港時から現代までの写真をテーマを持たせて展示する企画展「ヨコハマ・フォト・トライアングル」が開催される。
 横浜美術館(横浜市西区)では、19日から11月23日まで、「近代日本の残像」と題し、幕末明治期の古写真など約60点を展示し、近代化の過程で、写真が果たしてきた役割を振り返る。
 横浜市民ギャラリー(同市中区)では、10月9日から同28日まで、「写真の現在・過去・未来-昭和から今日まで-」展を開催。市民らが撮影した横浜の風景や、昭和期の写真、現代の若手作家の作品などが紹介される。
 横浜市民ギャラリーあざみ野(同市青葉区)は10月23日から、「フォト・コミュニケーション」をテーマに、若手作家の作品と、市所蔵のカメラや写真のコレクションを展示し、写真によって作られた人と社会との新たなかかわり方を探る。11月8日まで。
 問い合わせは各美術館へ。▽横浜美術館(電)045・221・0300▽横浜市民ギャラリー(電)045・224・7920▽横浜市民ギャラリーあざみ野(電)045・910・5656。


山梨
羅漢像図(放光寺)2点が彩り 
県立文学館「一葉と甲州」展に出品 
樋口家の恩人・幕臣が寄進 

 甲州市塩山出身の真下晩菘(ばんすう)が制作に取り組んだ五百羅漢像図と、奈良・法隆寺金堂壁画の日本最古の模写(三幅一対)が、19日から甲府・県立文学館で始まる開館20周年記念企画展「樋口一葉と甲州」で公開される。甲州とのかかわりを焦点にした同企画展の目玉展示となっている。
 真下は農家に生まれながら幕臣の身分を得た人物で、江戸に出てきた一葉の両親を助けたことで知られ、孫の渋谷三郎は一葉の元婚約者だった。幕末、真下は故郷・塩山の放光寺に五百羅漢堂の建設を計画し、画壇の協力を得て羅漢像図を制作。1867年の大政奉還後に中止されたが、すでに完成していた220体分が同寺に寄進された。
 今回は「智眼明尊者」「大忍尊者」(各129・8センチ×56・2センチ)2点を展示する。「大忍尊者」は明治を代表する洋画家高橋由一作と考えられてきたが、署名を詳しく調べたところ、戯作者として人気を博した高畠藍泉作だったことが判明。高畠は「一葉舎」の別号も持ち、「文章を書き、一葉と同じ名を使っていたことに強い縁を感じる」(清雲俊元同寺長老)。
 「智眼明尊者」は高橋の師川上冬崖作とされているが、羅漢像図の多くは調査中。真下と同寺の関係も分かっておらず、今後、当時の画壇をひもとく発見の可能性もある。
 法隆寺金堂西壁阿弥陀三尊像図写(中幅255センチ×140・5センチ、左右幅204センチ×83・5センチ)は、真下の羅漢像制作に感銘した高僧養鸕徹定(うかいてつじょう)が羅漢堂の本尊にと寄進したもので、甲州市指定文化財となっている。
 同展は11月23日まで。


新潟
三条文人の村山半牧展が開催
 三条市出身で江戸時代末期に活躍した画家・村山半牧の作品18点を集めた特別展が、同市歴史民俗産業資料館で開かれている。高さ2メートル以上の超大幅の山水図が展示され、来館者の目を引いている。
 半牧は1828年生まれで、漢詩や日本画をたしなんだ「三条文人」の一人。勤王の志士と交遊し、41歳のときに戊辰戦争で自殺している。
 「(超)大幅山水図」は高さ2メートル6センチ、幅1メートル23センチで、普通の床の間では飾れないほどの大きさだ。色の入った山水図だが、田んぼが描かれており、川の流れも日本の渓谷のようで、写実的要素を取り入れている。
 小品では、「着色小品山水図(於柏崎)」が面白い。こちらは完全に日本の風景に見える。背後に山がうっすらと描かれており、米山をイメージしたのではないかと思われる。
 漢詩入りの作品が多く、「天下乱如麻」「外冦侵辺奈不休」など、緊迫した幕末の雰囲気が感じられる。「三国志」の戦場「赤壁」を描いた「淡彩赤壁図」もある。
 特別展は、6月末から1カ月間開いた「決定版村山半牧展」の第2弾前期展で、27日まで開催。10月3日からは作品を入れ替え、後期展として25日まで開く。入場無料。月曜休館。


富山
大名家秘蔵の名刀展:武将の姿思い浮かべて 日本刀の名品48本--富山 /富山
大名家秘蔵の名刀展:武将の姿思い浮かべて 日本刀の名品48本--富山 /富山
◇平安末期の太刀も
 天皇家や徳川家などが所蔵した日本刀の名品を集めた「大名家秘蔵の名刀展-源平の武将から維新の志士たちまでの愛刀」が富山市五福の県水墨美術館で開かれている。23日まで。

 日本刀は戦場などで武器として用いられただけでなく、近世大名が身分や家格を示す品として最も大切にしてきた美術工芸品でもある。現代でも貴重な歴史遺産として愛好者も多い。

 同展では、国宝や重要文化財を含む48本を展示。中には、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元から取り上げ、その後豊臣秀頼、徳川家康と時々の権力者の手に渡った刀(重文)もある。展示品の中で最古のものは、平安末期、源義経と戦った平教経が所用した太刀。またNHK大河ドラマの主人公、直江兼続や上杉景勝ら戦国武将が愛蔵したものも展示している。

 そのほか、さややつばが美しいものもあり、日本刀に興味がなくても楽しめる。同館は「日本にしかない美術工芸品。刀紋などを見る正統的な鑑賞とともに、大名や武将の姿を思い浮かべながら、日本の歴史の中での位置づけなども理解してもらえれば」とPRしている。

 入場料は一般500円、大学生400円。関連して日本美術刀剣保存協会県支部による特別講座「名刀の魅力を探る」が20日午後2時から、手入れの実演も21、22、23日午前11時と午後2時からある。詳細は同美術館(076・431・3719)。【青山郁子】



京都
【京のいろ】「角屋」 揚屋 もてなしの優美な空間
 新撰組の隊士が足しげく通い、勤王の志士、西郷隆盛は軍用資金調達のため豪商を招き、しばしば供宴を催した。それが京の花街(かがい)・島原の揚屋(あげや)「角屋(すみや)」だ。揚屋は今でいうなら料亭。江戸時代初期の揚屋建築を今に伝える国内唯一の遺構として、1952(昭和27)年、国の重要文化財に指定された。しつらいの異なる華麗な座敷、庭園には茶室…。もてなしの優美な空間は春と秋、公開される。

 ■「粋やなぁ」思わずため息

 角屋は、一度訪ねてみたかった。「古都の遊郭って、どうなってるんだろう」

 南北に長い建物の表側は、全面に二重格子入り。等間隔で並ぶ様は装飾としても美しい。迎えてくださった財団法人角屋保存会の中川清生(きよお)理事長(61)は「遊郭ではなく、揚屋ですよ」とおっしゃる。15代目の当主だ。

 「うちは料理屋です。置屋から太夫や芸妓(げいぎ)を呼び、客をもてなす。時に和歌や俳句を楽しむ。そんな文芸サロンでもありました」。歓楽街にあったため、いまなお遊郭と誤解している人が少なくないという。

 揚屋とは。大座敷があり、多くの客を迎えるための大きな台所。そして広い庭に茶室。そんなぜいたくな空間だ。大座敷の一つ「扇の間」へ案内された。広さ21畳。名の通り天井に欄間、襖(ふすま)の絵も引き手まですべて扇づくし。天井の扇面は鶴や松竹梅…と、めでたいモチーフが並ぶ。

 中川さんはこう説明した。「天井の扇面は58枚。襖の絵は源氏物語風でしょう。だから釘隠も源氏香(げんじこう)の図柄。そして壁は浅葱(あさぎ)色の(京都の)九条土」。正面の襖が開かれると浄瑠璃を語る高座に早変わり。

 「粋やなぁ」とため息が出る。

 「青貝の間」も見事だ。壁や建具のすべてに青貝がちりばめられ、余白とのバランスがよく、品がある。壁や天井が黒っぽいのは、ろうそくの煤(すす)のせいだ。床柱には新撰組の刀痕(かたなきず)が残されていた。(文:早瀬廣美/撮影:加藤孝規(たかのり)/SANKEI EXPRESS)



 ■角屋 建物は1641(寛永18)年、六条三筋町(現在地よりやや北)から移築し、幕末まで増築を重ね、今の姿に。木造2階建て。延べ床面積約540坪。1998(平成10)年から「角屋もてなしの文化美術館」として公開。今秋は9月15日から12月15日まで(月曜休館、祝日の場合は開館し、翌日休館)。京都市下京区西新屋敷揚屋町32((電)075・351・0024)。


藤家紋鮮やか 磁器片出土
整った排水設備も

◇摂家・一条家跡
 京都御所(上京区)の西側近くに位置する摂家(せっけ)・一条家の跡地から排水設備の整った江戸初期~幕末期の遺構や、藤の家紋入りの磁器片などが見つかった。調査した京都市埋蔵文化財研究所によると、幕末の礎石には長さ50センチ以上のものもあり、建物の規模も大きかったようだ。
 摂家とは摂政、関白に任ぜられる家で、一条家は近衛家や九条家などと並ぶ五摂家の一つ。今回、同研究所は宮内庁京都事務所の増築工事に伴い、7月まで発掘調査をしていた。
 跡地からは幕末と江戸前期、江戸初期の三つの時期の遺構が見つかった。幕末の遺構からは建物礎石や穴の内部に石を詰めた排水設備、家紋入りの磁器片や人名などを記した墨書土器が出土。江戸初期の遺構からは石を詰め込んだ溝などが出土した。排水に気を配り、快適な住環境を目指したことがうかがえる。
 現在の京都御所は1854年の大火で焼失して翌年に再建されたものだが、同研究所の丸川義広・統括主任は「一条家の跡地からは、大火の跡とみられる焼土面も見つかった」と話している。


敷石美しく、地中に排水…雅な軒下
公家の一条家邸跡、見つかる

 京都市上京区の京都御苑内の発掘調査で、摂政・関白を輩出した五摂家の一つ、一条家とみられる江戸初期(17世紀中ごろ)の邸跡が15日までに見つかった。軒下に美しく小石を敷き詰めたり、排水の工夫をするなど丁寧な造りで、江戸初期のトップレベルの公家の暮らしぶりをうかがわせる。

 ■京都御苑内で発掘調査、江戸初期の代表的公家

 御苑内の西北部分にある宮内庁京都事務所の改築に伴い昨年11月下旬から今年7月下旬まで、京都市埋蔵文化財研究所が約520平方メートルを調査した。

 建物跡は東西約20メートルあり、縁側を支えたとみられる礎石が1メートル間隔で並んで良好に残っていたほか、靴脱ぎ場とみられる南北80センチ、東西4メートルの土壇があり、下地に瓦が並べられていた。

 建物の東と南には石を敷き詰めた雨落ち溝が巡り、水はけの悪いところは、深さ1メートルほどの穴を掘って石を詰め、水が地中の砂れき層に染み込みやすいように工夫していた。

 建物跡の下には、種類の異なる土を層状に突き固める古代の「版築(はんちく)工法」に似た造成工事が施され、その下から17世紀初めの建物跡も見つかった。

 ■収入乏しくても、丁寧な仕事

 現在の京都御所は16世紀末から17世紀初めに豊臣秀吉や徳川家康によって整備され、周辺には公家町が形成された。江戸時代の一条邸の平面図によると、多くの建物が渡り廊下で複雑に連結された構造で、見つかった建物は中心部分に近い建物の一つとみられる。

 市埋文研は「当時の公家は政治権力もなく収入も乏しかったが、丁寧な仕事がなされており、公家ならではの雅(みやび)な生活を保っていた様子がうかがえる」と話している。

 ◆一条家 藤原道長・頼通の子孫で、鎌倉時代以降摂政・関白を出した五摂家(ほかに近衛家、鷹司家、九条家、二条家)の一つ。一条兼良(1402-81)ら当代随一の学者を輩出し、伝統的公家文化の発展に指導的役割を果たした。


兵庫
参宮道中記:豊岡のご隠居、京へ 豪商の旅日記、HPで紹介--市教委 /兵庫
◇手形、関所、茶屋…幕末の風俗を解説
 幕末、「水戸黄門」のようにお供を引き連れて旅した豊岡のご隠居の日記が豊岡市のホームページで紹介されている。京都まで歩いて6日間の道のりの中で、当時の庶民の風俗や現在も残る地名が登場し、興味深い。【皆木成実】
 「鍋屋」の屋号で豊岡城下で酒造業を営んでいた由利茂時の「参宮道中記」。旅先の京都で30両もの買い物をしていることから、かなりの豪商だったらしい。旅日記は160ページもある大作で、子孫が約20年前に同市教育委員会に寄贈した。
 弘化5(1848)年4月、数え年71歳の茂時は同20歳の次男・敬助と友人の商人・宮津屋善九郎と3人で旅立つ。かご人足2人も雇ったぜいたくな旅で、伊勢参りする敬助に途中まで同行するためと、娘の嫁入り道具を京都で買うのが目的だった。
 日記の紹介文「ご隠居、京へ往(い)く」は、豊岡から京街道を上り、出石や福知山を経由して京都まで歩く一行の道程を追いながら、道中手形や関所越え、街道の茶屋といった時代劇で知られる当時の風俗などを解説している。
 同市のホームページ(http://www.city.toyooka.lg.jp)の教育委員会のコーナーに掲載している。
〔但馬版〕


山口
龍馬が心許した下関 紹介/古城春樹さん
 幕末の志士、坂本龍馬が愛用した湯飲みと茶わん、親交のあった長府藩士にあてた遺言状……。ゆかりの品々が下関に数多く残っている。新婚生活を過ごした逸話をまとめた「龍馬とお龍(りょう)の下関―海峡に遺(のこ)した夢のあと」(定価900円)を8月に出版した。
 妻のお龍を伴って1867年2月に下関の豪商宅に移り住んだ。夫婦で歌会に顔を出し、巌流島で花火遊びも楽しんだ。酒好きで花街の稲荷町にも出入りし、藩士や豪商とも杯を交わした。
 「命を狙われていた龍馬が家庭人の姿を見せるほど心を許した地。下関の人々も一風変わったよそ者を受け入れる度量があった。埋もれたままにしておいてはいけない歴史の一コマです」
 下関市立長府博物館の学芸員で激動の幕末史が得意分野だ。市内で生まれ育った長州人だが、祖父が鹿児島から移り住んできた薩摩人。01年に初めて企画展を担当。テーマは対立していた薩長を仲立ちした龍馬に関連するものだ。
 大学では法学を学び、市職員となった後に通信教育で学芸員の資格を取った変わり種。「ふるさとの歩みをかみ砕いて、PRするのが役割。研究だけではだめ」と話す。来年1月から放映されるNHK大河ドラマ「龍馬伝」を念頭に置き、2カ月で書き上げた。
 龍馬亡き後、お龍の生活費を長府藩主が支給するなどみんなで面倒をみようとした。「利害を超えた温かい結びつきを、先人は教えてくれます」


維新の足跡を巡ろう 萩
 「吉田松陰や高杉晋作たち維新の志士が駆け抜けた歴史の道を歩こう」と、萩往還ワンデーウオークが10月17日、萩市である。今年の松陰没後150年を記念したイベントの一つ。市、市観光協会、山口県ウオーキング協会などでつくる実行委が主催する。
 19・3キロを踏破する「往還コース」と9・8キロを歩く「松陰コース」の2コース。往還コースは午前9時に佐々並公民館をスタートし、国指定史跡の落合の石橋や萩往還交流施設「乳母の茶屋」などを経て中央公園までを歩く。
 松陰コースは午前10時に明木小を出発。乳母の茶屋と涙松跡の史跡を巡り、中央公園を目指す。
 小学生以上が対象で、参加費は一般千円。市役所などに置いてある専用の振込用紙で申し込む。高校生以下と75歳以上は無料。いずれも事前に参加申し込みが必要。雨天決行で、10月1日に締め切る。市スポーツ振興課=電話0838(25)7311。


藩士の旧宅でコーヒーを/茶屋「祥」
 春は桜、夏は蛍が舞う下関市の城下町、長府の壇具川。これからの季節は、城下町のもみじが人々の目を楽しませてくれる。
 壇具川にかかる小さな橋を渡り、少し石段を登ったところに、長府藩士、桂弥一(やいち)の旧宅を活用した茶屋「祥(しょう)」が軒を構える。
 玄関の引き戸を開けると、正面の壁に掲げられた「馬」と「鹿」の頭が目に飛び込んでくる。「弥一は、自分をへりくだって『馬鹿者』と言う意味でかけたのでしょうか」。茶屋のオーナー波田久代さん(64)はほほえむ。
 弥一は1849(嘉永2)年、長府藩士の家に生まれ、明治維新の頃、小倉の戦闘などで活躍。維新の志士をたたえる長門尊攘(そんじょう)堂(現・長府博物館)の建設に尽力し、1939年に息を引き取った。
 「祥」は弥一が1890(明治23)年に建てた自宅を、波田さんの義父が買い取って住居として使っていた。
 近くには、国宝の功山寺など名所旧跡があり、多くの観光客が波田さんの自宅を見学させてほしいと、声をかけてきた。
 「せっかくなら、お茶でも飲んで快くみてほしい」と、94年に茶屋「祥」を開業した。
 玄関を入ると、天井の高さが3メートルはある開放感のある応接間が来訪者を迎える。使い込まれたテーブルや柱時計が往時をしのばせる。波田さんのもう一つの本業、和裁の作品も展示・販売。不要になった着物などを洋服に仕立てる波田さんの作品にはファンが多く、北陸や関西の百貨店で販売されることもあるという。
 応接間や和室では、着付けやパッチワーク教室も月に数回開かれ、地域の人たちの交流の場になっている。「若い人たちにも、着物や古い家屋の持つ温かみを実感してほしい」と言う。
(島津洋一郎)


◇◆茶屋「祥」◆◇
  午前9時から午後5時。月曜定休日。コーヒーなどの飲み物のほか、10月6日からは湯豆腐と茶わん蒸しのランチが始まる(要予約)。問い合わせは083・245・0080。


伊藤博文展:近代国家築いた軌跡検証 萩博物館で始まる /山口
 初代内閣総理大臣、伊藤博文の没後100年を記念した特別展「伊藤博文とその時代」が12日から、萩市堀内の萩博物館で始まった。幕末から明治に生きた伊藤が近代国家建設の中で果たした役割を検証するもので、11月18日まで。
 現在の光市で生まれた伊藤は、少年のころに萩に移り住み、吉田松陰主宰の松下村塾で学び、23歳の時に4人の長州藩士とともに英国に密航留学。明治維新後に総理大臣になり、憲法の制定や国会開設に尽力した。1909(明治42)年10月26日、ハルビンでピストルで撃たれ死亡した。
 会場には、暗殺された時に着用していたシャツ▽暗殺6日前に日露戦争の戦跡を訪ね、旅順港で書いた最後の漢詩の書▽岩倉使節団として12カ国を訪れた時の大礼服▽大日本憲法義解や書簡--など約80点が展示。11日のオープンセレモニーでは、野村興児市長が「功績、業績の評価をしていく展覧会」とあいさつした。
 入館料は大人500円▽高大生300円▽小中生100円。
   ◇  ◇
 13日午後1時半から、萩市民館で「没後100年記念シンポジウム」が開かれる。基調講演は「伊藤博文と明治天皇-日本のかたちを作る」と題し、伊藤之雄(ゆきお)・京都大学教授が話す。入場無料。【川上敏文】


愛媛
ミュージカルオペラ「龍馬」 入場券好評発売中
 四国が誇る幕末の英雄・坂本龍馬を題材とした、豪華キャスト、スタッフによるミュージカルオペラの愛媛公演です。地元高知を皮切りに四国各県、さらに東京でも巡回開催します。
 【とき・ところ】11月6日(金)午後6時開演(30分前開場)。西条市総合文化会館
 【キャスト】平良交一(龍馬・バリトン歌手)、野口五郎(勝海舟)、野村将希(中岡慎太郎)、二宮さよ子(お登勢)、黒田アーサー(後藤象二郎)ほか
 【スタッフ】脚本=ジェームス三木、演出=江守徹、音楽=小六禮次郎ほか
 【入場料】SS席1万円、S席8千円、A席5千円(全席指定)。アクリートくらぶ割引対象
 【入場券発売所】愛媛新聞社事業部(支社・エリアサービスは取り寄せ)、西条市総合文化会館ほか
 【問い合わせ】龍馬高知オフィス=電話088(833)0301▽愛媛新聞社事業部=089(935)2355
 主催 ミュージカルオペラ龍馬実行委員会
 共催 愛媛新聞社、テレビ愛媛


長崎
本格焼酎「長崎の志士」発売 「龍馬伝」にちなみ大島醸造
 長崎大島醸造(西海市大島町、山下英一社長)は今月から、来年放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなんだ芋と麦の2銘柄の本格焼酎「長崎の志士」を発売した。
 両銘柄ともラベルに、高知県立坂本龍馬記念館から提供を受けた、懐手にブーツ姿の坂本龍馬の肖像写真をあしらい、龍馬ゆかりの日本初の商社といわれる亀山社中(長崎市)の写真をパッケージに使った。
 パッケージと瓶のカラーは芋焼酎が赤、麦焼酎は青が基調。両銘柄とも仕込んで3年以上を経過した古酒を同社独自の調整でブレンドし、すっきりと飲みやすく仕上がったという。いずれもアルコール度数25度、750ミリリットル。税込み価格で芋が1300円、麦が1200円。
 同社は「龍馬が生きた激動の時代は現在にも重なる。幕末の志士の夢や、今後の日本の将来に思いをはせながら、杯を傾けてもらえたら」と話している。
 問い合わせは同社(フリーダイヤル0120・015679)。


鹿児島
映画「半次郎」 榎木さんら成功祈願/鹿児島市・南洲神社
 映画「半次郎」の撮影開始を17日に控えた主演の俳優榎木孝明さん(53)=伊佐市出身=らが15日、鹿児島市上竜尾町の南洲神社で成功を祈願した。
 音楽を担当する吉俣良さんや、西郷隆盛役オーディションで合格したばかりの指宿市出身の田中正次さんらも参列。榎木さんは「故郷で映画を作れることはとても光栄なこと。すてきな映画を作り、桐野の思いを世界に発信していきたい」と述べた。
 映画は幕末維新期に活躍、西南戦争(1877年)で散った薩摩藩出身の桐野利秋(中村半次郎)を描く。榎木さんらは祈願の後、間近にある西郷や桐野の墓を参拝した。


西郷隆盛辞世の漢詩?「故山に骨埋めよう」医師の日記に
 西南戦争で敗れた西郷隆盛の辞世の可能性がある漢詩が見つかった。鹿児島市立西郷南洲顕彰館が11日発表した。28文字の漢詩で、西南戦争で政府軍の医師だった山崎泰輔(1840~98)の日記にあった。西郷の辞世は残っておらず、専門家は本物なら貴重だと指摘する。

 同館によると、1877年9月24日の記述にこうある。

 《肥水豊山路已窮 墓田帰去覇図空 半生功罪両般跡 地底何顔対照公 西郷隆盛》

 意味は「肥後や豊後への道は窮まった。故山に帰り骨を埋めよう。維新完遂のため覇を唱えたが、今となってはむなしい。半生を振り返ると功罪両様の跡が残った。死後にどんな顔をして、照国(島津斉彬)公にお会いすることだろうか」というらしい。

 筆跡は山崎だが、日記の日付は鹿児島市城山で西郷が49歳で死去した日と同じ。漢詩の直前には、西郷らの戦死の知らせを受けたという記述もある。

 日記は札幌市在住の山崎の遺族が保管。解読を依頼された古文書研究家から同館に1月に問い合わせがあったという。同館が調べたところ、韻など漢詩作法の平仄(ひょうそく)が西郷が残したものと似ているという。西郷と山崎の接点は不明だが、西郷の息子などを通じて政府軍側にも伝わった可能性がある、と同館の高柳毅館長は話す。

     ◇

 原口泉・鹿児島大教授(日本史学)の話 西郷隆盛は歴史の節目節目で自分の思いを漢詩で残してきた。戦況がせっぱつまっている時期に詠んだものなら誰かが書き留めたはず。それが、軍医として学識のある山崎の目にとまり、山崎が日記に記したものとも考えられる。西郷研究に大事な発見になるだろう。



コラム
【歴史の交差点】東京大学教授・山内昌之 日本の「せんたく」の前に
 日本の「せんたく」(洗濯)をすると語ったのは、幕末の坂本龍馬である。龍馬は文久3(1863)年6月、姉にあてた手紙で「姦吏(かんり)を一事に軍(いくさ)いたし、打殺し、日本を今一度せんたくいたし申候事(もうしそうろうこと)にいたすべく」と述べていた。
 外圧など政治懸案を解決するすべをもたない幕府の腐敗官僚を相手に戦い、彼らを一掃して日本をもう一度、汚れを洗ってきれいにしたいというのだ。
 この龍馬の言を聞いて、民主党の鳩山由紀夫代表や岡田克也幹事長らは、自分たちの抱負につながると思うにちがいない。確かに、8月総選挙における民主党の圧勝は、あまりにもよどみの深い自民党の既得権益と官僚の特権構造への国民の怒りが爆発した結果には違いない。さながら民主党には、21世紀日本の進路を阻害するよどみの「せんたく」を期待したともいえよう。
(以下略)


【次代への名言】9月14日・岩倉具視
「成敗は天なり、死生は命なり、失敗して死すとも豈(あに)後世に恥じんや」
 (岩倉具視(ともみ))

 「終日一間に籠居(ろうきょ)、(中略)うつうつとして心神穏やかならず、只々(ただただ)無念の次第遣(や)る方なし」。幕末もその終幕に入りつつあった1862年のきょう(旧暦)、岩倉具視は日記にそうつづった。
 政治の檜(ひのき)舞台にたったのは32歳と遅かったが、それから異才を発揮する。前半生の絶頂期は皇女、和宮の降嫁(14代将軍、徳川家茂との結婚)。それゆえ親幕・開国派の「姦物(かんぶつ)」とみなされた。京は狂ったような尊皇攘夷派に牛耳られつつあった。身を隠さねば、命はなかった。
 13日の夕方、僧体で自宅を忍び出た。そして「今度の事件、実に夢とも現(うつつ)とも、毛頭合点参らず」と思い惑いながら翌々日、落髪する。それからまる4年半にわたって隠れ家を転々とし、世間から忘れられ、厄介者扱いもされた。しかし、このとき、屈辱に耐えて生きながらえたことが明治の元勲・岩倉を生む。
 冒頭は67年末のクーデター「王政復古の大号令」で薄氷を渡っていたころのことば。次は維新後すぐの建言だが、後世がなお、取り組むべき課題でもある。
 「臣子の分として之を言うに憚(はばか)ると雖(いえど)も、明天子賢相(けんしょう)の出づるを待たずとも自ら国家を保持するに足るの制度を確立するに非ざれば不可なり」





 今日は晴れて気温が上がりました。暑さが身体にこたえます(苦笑)。

静岡
西郷隆盛の辞世の漢詩? 掛川出身・官軍医の日記に
 1877年の西南戦争について官軍(政府軍)の医師が書き残した日記に、西郷隆盛の辞世の漢詩を思わせる七言絶句が記されていたことが分かった。鹿児島市の西郷南洲顕彰館は「西郷が心境を述べた詩に間違いない」(高柳毅館長)と太鼓判を押すが、「官軍医の自作ではないか」とみる研究者もおり、論議を呼びそうだ。

 日記は西南戦争の際、宮崎県延岡市にいた掛川市出身の官軍医・山崎泰輔の「西遊日記」で、札幌市に住む孫が保存していた。西郷が鹿児島市で自決した77年9月24日の項に、官軍が「大進撃」し西郷らの遺体を確認したとの電信を受け取ったという記述に続いて「肥水豊山路已窮 墓田帰去覇図空 半生功罪両般跡 地底何顔対照公 西郷隆盛」と書かれていた。

 高柳館長による解釈では「肥後や豊後への道はすでに窮まった。故郷に帰り骨をうずめよう。維新完遂のため覇を唱えたが、今となってはむなしい。わが半生を振り返ってみると、功罪両様の跡が残ってしまった。あの世で一体どんな顔をして、照国(=島津斉彬)公にお会いすることだろうか」との意味。

 高柳館長は「斉彬を師と仰いだ西郷ならではの表現が見られる。負傷兵として延岡に残った息子の菊次郎に託し、官軍医が書き写したのではないか」と推測。「自決直前にいた鹿児島で辞世を残さなかったことが謎とされていた」と話す。

 ただ、「西遊日記」を調べている札幌市の古文書研究者鬼柳規子さんは「末尾に『西郷隆盛』とあるのは詩の題名で、官軍医が書いた」とし、解釈は分かれる。仮に西郷作としても、なぜ官軍医が「西郷の詩」を知ったのかを示す記述が日記にはなく、さらなる研究が待たれる状況だ。

 西遊日記 掛川生まれの医師山崎泰輔(1840~98年)が、77年から94年まで17年間にわたり記した日記7巻の最初の2巻。西南戦争時に官軍の医師として赴任した鹿児島や延岡の様子、西郷軍の動静などを記録した貴重な資料とされる。問題の漢詩には推敲(すいこう)の跡が残り、推敲前は「路已窮」が「計百非」(はかりごともすべて失敗に終わった)、「覇図空」が「断塵羈」(ここで戦いをやめよう)などとなっていた。

 鹿児島発のニュースでは西郷作というニュアンスがつよかったのですが、異論もあることが添えられていますね。

兵庫
「新聞の父」を描いた舞台上演神戸の劇団「歌劇★ビジュー」
 幕末に活躍した通訳、貿易商で「新聞の父」と言われたジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵の数奇な生涯を描いた舞台「揺(たゆ)たう潮の咲くらばな」が9月18日から22日まで、岩崎博物館の山手ゲーテ座(横浜市中区)で上演される。
 神戸市を中心に活動する劇団「歌劇★ビジュー」によるオリジナル作品公演で、出演は元OSK日本歌劇団のトップスターだった那月(なつき)峻さん、美森(みもり)あいかさんら。
 那月さんは「船が難破したことでアメリカで成長し、そして故郷日本に戻ってきたジョセフ。遭難しても命が助かったというラッキーな人生だが、アメリカで育った日本人としてアイデンティティーについて苦しむ。そんな心の葛藤(かっとう)を描いています」と見どころを話す。
 美森さんは「レビューのような華やかな歌、踊りもあり、シリアスな芝居もあり、どんな人にも楽しんでもらえる舞台になっています」とPRした。
 料金は6000円と5000円。18日は午後6時半開演。
 21日午前11時からの公演に産経新聞読者5組10人を抽選で招待。希望者はネザーランズセンター(電)078・222・6888へ「産経新聞のホームページを見た」と言って応募を。


山口
【探訪】維新の舞台で光の競演 山口県萩市
 夕日が水平線に吸い込まれていく。空だけがあかね色に染まり海や町は一気に暗くなる。入れ替わるように日本海沖にはイカ釣りのいさり火が無数にともった。町明かりも歩調をあわせるかのように輝きはじめる。さまざまな光の競演が幻想的な風景を刻々と変えていった。

 国内有数の城下町、維新の町として知られる山口県萩市。幕末から明治維新の激動期には吉田松陰や、その門下生の志士たちを輩出した。碁盤の目のようにまっすぐな道には、同市堀内地区だけで約450もの石垣や土塀が総延長約3・5キロに及ぶといわれる。

 この町並みは「重要伝統的建造物群保存地区」に全国で最初に選定された。城下町の風情が色濃く残り、江戸時代の地図が今でも通用するというから驚く。白壁が続く細い道を歩いてみると、まるで時代劇のセットの中にいるような錯覚を覚える。

 こんな江戸情緒あふれる城下町観光は有名だが、萩の町から日本海を望む景色は意外と知られていない。萩市商工観光部観光課の中村和也さん(33)は「城下町として、また明治維新の舞台として一帯は歴史のインパクトが強い観光地だが、実は夕景の絶景スポットがいたるところにあり感動する人が多い」と話す。

 吉田松陰は今年の秋で没後150年たつが、萩の人たちは今でも尊敬を込めて「松陰先生」と呼ぶ。松陰が講義をした松下村塾からほど近い、標高373メートルの田床山へ登ると萩の中心地を一望できる。松陰をはじめ伊藤博文や高杉晋作、木戸孝允ら明治維新の歴史を刻んだ多くの門下生も、日本海を見渡す絶景を見てこの国の将来を熱く語っていたのかもしれない。(写真報道局・矢島康弘)


伊藤博文展:近代国家築いた軌跡検証 萩博物館で始まる /山口
 初代内閣総理大臣、伊藤博文の没後100年を記念した特別展「伊藤博文とその時代」が12日から、萩市堀内の萩博物館で始まった。幕末から明治に生きた伊藤が近代国家建設の中で果たした役割を検証するもので、11月18日まで。

 現在の光市で生まれた伊藤は、少年のころに萩に移り住み、吉田松陰主宰の松下村塾で学び、23歳の時に4人の長州藩士とともに英国に密航留学。明治維新後に総理大臣になり、憲法の制定や国会開設に尽力した。1909(明治42)年10月26日、ハルビンでピストルで撃たれ死亡した。

 会場には、暗殺された時に着用していたシャツ▽暗殺6日前に日露戦争の戦跡を訪ね、旅順港で書いた最後の漢詩の書▽岩倉使節団として12カ国を訪れた時の大礼服▽大日本憲法義解や書簡--など約80点が展示。11日のオープンセレモニーでは、野村興児市長が「功績、業績の評価をしていく展覧会」とあいさつした。

 入館料は大人500円▽高大生300円▽小中生100円。

   ◇  ◇

 13日午後1時半から、萩市民館で「没後100年記念シンポジウム」が開かれる。基調講演は「伊藤博文と明治天皇-日本のかたちを作る」と題し、伊藤之雄(ゆきお)・京都大学教授が話す。入場無料。【川上敏文】



熊本
熊本市の研究家・徳永さん 横井小楠 生誕200年を記念 60年ぶり県教委冊子復刻
 肥後藩出身の儒学者、横井小楠(1809-69)の思想を国内外に紹介するため、県教委が1949年に発行した冊子を、小楠研究家の徳永洋さん(58)=熊本市良町=が、今年の生誕200年を記念して復刻した。復刻版は日本語版、英訳版の2冊を1冊にまとめた。徳永さんは「幕末の動乱期に、日本が率先して世界平和に貢献するべきだと唱えた思想家がいたことを、多くの県民に知ってほしい」と話している。

■日英両国語版を統合 平和思想を紹介

 冊子は、熊本医科大(現熊本大医学部)の学長で、小楠研究の第一人者だった故山崎正薫(まさただ)が49年に行った講演「横井小楠先生を偲(しの)びて」の要旨をまとめた。日本語版の序文では小楠を「絶対平和主義者」と紹介し、「全世界に小楠先生を紹介せんとし、目下英訳中である」と記している。英訳版のタイトルは「日本一の世界平和主義者」。
 本文では、肥後藩の藩校で塾長を務めた後、幕府の政治総裁職だった福井藩主の指南役として勝海舟などに影響を与え、明治維新を「縁の下の力持ち」として支えた生涯を記述。「正義人道」に基づく世界平和を唱えたことや、英国から独立を勝ち取った米国のワシントン初代大統領を称賛した言動なども詳しく紹介している。
 県教委発行の冊子は日本語版、英訳版とも数が少なく、古書店でセットでそろえると1万数千円かかるという。特に貴重な英訳版を探していた徳永さんが今年7月、熊本市内の古書店で発見。より多くの人に読んでもらおうと、復刻版の出版を決めた。
 徳永さんは「冊子を読めば、小楠のすごさが分かる。外国人にも読んでほしい」と期待している。500部を発行。熊本市の主要書店で近く発売予定。税別800円。


西郷隆盛の辞世の漢詩? 官軍医の日記に
 1877年の西南戦争について官軍(政府軍)の医師が書き残した日記に、西郷隆盛の辞世の漢詩ともみられる七言絶句が記されていたことが、12日までに分かった。調査した鹿児島市の西郷南洲顕彰館は「西郷が心境を述べた詩に間違いない」(高柳毅館長)と太鼓判を押すが、「官軍医の自作ではないか」とみる研究者もおり、真偽をめぐり論議を呼びそうだ。

 日記は西南戦争の際、宮崎県延岡市にいた官軍医の山崎泰輔の「西遊日記」で、札幌市に住む孫が保存。西郷が鹿児島市で自決した77年9月24日の項に、官軍が「大進撃」し西郷らの遺体を確認したとの電信を受け取ったという記述に続いて「肥水豊山路已窮 墓田帰去覇図空 半生功罪両般跡 地底何顔対照公 西郷隆盛」という七言絶句が書かれていた。〔共同〕(07:00)




ブックレビュー
京都・読書之森:ようわかるぜよ!坂本龍馬 /京都
(木村武仁・著 京都新聞出版センター、1000円)

 著者は霊山歴史館(幕末維新ミュージアム、東山区)学芸員。「龍馬にはなぜか他の志士のような悲壮感が感じられない(略)底抜けの明るさや包み込むような優しさを持っていたからであろう」と「はじめに」で書く。本書も伸び伸びとしたトーンで貫かれた「龍馬入門書」だ。冒頭の章の第1項目から「龍馬誕生に伝説あり!」と「!」マークつき。

 龍馬の人生が暗殺で終わるのは、知られている。しかし、「弱虫龍馬は姉に鍛えられた」や「西郷、桂との会談をすっぽかす」「後藤象二郎と意気投合する」の項目など、龍馬と龍馬を取り巻く人々の記述は明るさがあって、結末に向けて疾走して行く。

 勢いに乗せられて、ページをめくっていくうち、土佐藩の身分制度や安政の大獄で死罪になった人々、幕末の剣術流派と主な剣士など、硬軟取り混ぜてテーマ設定されたコンパクトな図表と出合う。龍馬が生きた時代背景の細かい説明が入っている。

 ユニークなのは「龍馬に会った人物の龍馬評」。徳富蘇峰、蘆花の父、一敬の「ゆったりと物を言う人だった」「色の真っ黒い大男だった」、妻のお龍の「顔にほくろが多い」などを紹介している。

 巻末には誕生の1835(天保6)年から暗殺される67(慶応3)年までの関連年表がついている。明治と改元されるのは68年。【大西康裕】




まとめ記事その2です。

山口
花神 大河ドラマの「原点」/松村邦洋さん
 祖父の影響で、小さな頃からNHKの大河ドラマが大好きな子供でした。山口に住んでいたこともあって、一番印象に残っているのは、幕末の長州の志士たちを描いた「花神」です。
 昭和52年、僕がまだ小学4年生の時の作品で、当時ウルトラマンタロウでおなじみの篠田三郎さん演じる吉田松陰が、言葉も通じないであろうペリーに会いに船をこいでいくシーンは、忘れられません。弟子の金子重之助役は、岩国出身の岡本信人さんでした。その後捕らえられ、金子重之助は身分が低いため、雨の中かごにも乗れず、体調を崩して亡くなるシーンには、子供ながら涙がこみあげてきました。
 大人になってからは、松陰神社にお参りしたり、金子重之助と松陰の銅像を見たり、野山獄跡地を訪ねています。時代を変えた人たちの思いが、今も形になって残っているのは、感慨深いものです。
 中村雅俊さん演ずる高杉晋作はかっこよかった。「われら青春!」でデビューしたばかりで、荒々しく、新鮮でした。将軍家茂に「いよっ征夷大将軍」と叫んで逃げるシーン、神代直人から追われ、秋吉久美子さん演じるおうのさんを連れてあわてて四国へ逃げるシーンなど、人間臭く描かれていました。小倉城を落とし、これからという時に亡くなる高杉の最後、おうのさんの「だんさーん」と叫ぶシーンに涙しました。辞世の句「面白きこともなき世に面白く」を詠んだ後に、吉田へと話した高杉。下関の吉田町なのか、吉田松陰のことなのか、今でも定かではない、というナレーションの言葉を覚えています。
 かつて中国地区を治めていた毛利家が、関ケ原の戦いで西軍につき、防長2州に追いやられ、260年のうっぷんを一気に吐き出したのが倒幕のエネルギーだったのではと思います。260年寝かせたワインのように感じられます。
 松陰が処刑された小塚原に、桂・伊藤が自分の服を脱いで着させるシーン。その日、同じく小塚原で人間の解剖の実験をしていた村田蔵六を桂が見て「松陰先生の生まれ変わりだ」と言うシーン。司馬遼太郎さんの作品は、史実とは多少異なっているかもしれませんが、まるで自分が見てきたように描いています。
 ほぼその原作通りに映像化した「花神」。最近は過剰に脚色した大河ドラマが続く中、原点とも言える面白さを持った作品です。

■まつむら・くにひろ■
  お笑いタレント。67年、田布施町生まれ。大学在学中にアルバイトをしていたテレビ局で、片岡鶴太郎氏にものまねを認められ、芸能界入り。歴史が好きで、特に中世から幕末・維新の歴史に興味がある。


吉敷の平 和生さん 服部章蔵の伝記を出版
 「郷土の偉人として、後世まで末永く語り継いでほしい」 吉敷在住の平和生さん(81)が、激動の幕末から明治を駆け抜け、日本のキリスト教(プロテスタント)伝道と女子・幼児教育に寄与してきた吉敷出身の服部章蔵(享年67)の生涯を物語風につづった伝記「郷土の偉人・熱血と祈りの人 服部章蔵」(A5判、356ページ)を自費出版(非売品)。市内の小中学校や地域交流センター、図書館などに寄贈した。
 70歳の時、メニエール病と診断された平さんは、体調を崩したのを機に、今の自分にできることは何かを真剣に考え、本格的に伝記の執筆に取りかかった。3年前には「澤山保羅」の伝記を出版しており、今後は「成瀬仁蔵」の執筆に取りかかかる予定だ。


高知
四国ミュージアム回廊:三十六館目 絵金蔵/1 /四国
三十六館目 絵金蔵/1 /四国
◆絵金蔵(高知県香南市)

 ◇幕末の絵師・金蔵の作品、おどろおどろしい屏風絵の数々--町民有志が管理運営
 その筆先から描かれた独特な世界観は、「おどろおどろ」と評された--。幕末の土佐を生きた絵師、金蔵(通称・絵金(えきん)、1812~76)の屏風(びょうぶ)絵を収蔵する「絵金蔵(えきんぐら)」は、近世の町並みを残す高知県香南市赤岡町にひっそりとたたずむ。管理運営は町民有志。「町民の宝物であり、居場所」(蔵長の横田恵さん)となっている蔵の魅力や、それを支える人々の思いなどを4回に分けて紹介する。【千脇康平】

 家屋と家屋のすき間に延びる幅1メートル程度の路地を抜けると、真っ白な壁と木戸のコントラストが映えるかわらぶきの建物が姿を現す。絵金蔵は、1929年建築の朽ち果てた米蔵を改修し、05年2月に開館した。状態がいい材木ははりや棚などに再活用。館内は木の香りに満ちている。

 玄関口は、蔵に関連する資料が並び、コーヒー(200円)やラムネ(150円)などを注文できる「土間ホール」。約20席が用意されている。通りがかりの町民がぶらりと立ち寄り、職員や地域ボランティア「蔵守(くらもり)」と談笑する姿も。

 目玉は「闇と絵金」と名付けられた展示室1。入り口に用意されている「ちょうちん」を手に扉をくぐると、中は闇。ろうそくを模した明かりに照らされ、何枚もの屏風絵が目前に現れる。ちぎれて転がる死体、地面にしたたる血、絵の中の人物が今にも飛び出してきそうな躍動感…。展示品はレプリカだが、恐る恐る顔を近づけると、鮮やかな色遣いや計算し尽くされた構成が見事だ。室内に赤岡海岸の潮騒が流れる仕掛けになっている。

 展示室2は、絵金が赤岡町で生活していたころにアトリエにしていたとされる酒蔵をイメージしている。壁に開けられた「蔵の穴」をのぞくと見えるのは、裏の収蔵庫に納められた屏風絵の貴重な原画。常時2枚が見られ、1カ月ごとに展示品が差し替えられる。

 また、絵金独特のぱっと目を引く強烈な赤、通称「血赤(ちあか)」の詳細な説明や、創作中の絵金を表現した木製のオブジェを用意。絵金という人物にもっと迫りたくなる内容だ。

 2階に上がると、「絵金百話」と題した展示室3。謎に包まれた絵金の生涯を資料や作品とともにひもといていく。ボタンを押すと、隠し落款(一見すると無署名の屏風絵の中に隠された落款)の位置が分かる仕掛けや、手でレバーを回して年譜を読む装置、絵金蔵に収蔵されている全23点の屏風絵を画面で閲覧できるタッチパネル式の検索機など、“体験型ミュージアム”の性格も有している。

 開館から4年半。今年7月には来館者5万人を突破した。町民らが代々受け継いできた貴重な屏風絵を守る蔵は、周囲の町並みに見事に溶け込み、静かに時を刻んでいる。

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 ◇ミュージアムガイド
【住所】高知県香南市赤岡町538

【電話番号】0887・57・7117

【観覧料】大人500円、高校生300円、小・中学生150円

【開館時間】午前9時~午後5時(入館は午後4時半まで)

【休館日】月曜日(祝日の場合は翌火曜日)

【行き方】土佐くろしお鉄道「あかおか駅」から徒歩約10分。高知市のはりまや橋から車で約40分。高知自動車道南国ICから車で約30分。




大分
「日本近代洋画への道」展
日本近代洋画の一大コレクション、「山岡コレクション」を中心に幕末から明治時代にかけて活躍した洋画家の作品を集めた特別展が大分市で開かれています。
「山岡コレクション」はヤンマーディーゼルの創業者、山岡孫吉のコレクションで、日本近代洋画史の宝庫といわれています。
今回の特別展では山岡コレクションの作品を中心に幕末から明治時代にかけて活躍した日本洋画の先駆者たちの作品180点が展示されています。
中でも日本洋画の父といわれる高橋由一をはじめ青木繁や藤島武二など著名な作家の作品は見る人の目を引いていました。
山岡コレクションの展覧会は2001年から全国で巡回されていますが県内で開催されるのは初めてです。
「日本近代洋画への道」展は10月18日まで大分市美術館で開かれています。


佐賀
三重津海軍所跡:ドック跡で「木杭護岸」発見 佐賀市「世界遺産登録に弾み」 /佐賀
 佐賀市が世界遺産リストへの登録を目指している幕末期の三重津海軍所跡(同市川副、諸富町)の発掘調査で、市教委文化振興課は10日、海軍所のドック跡とみられる「木杭護岸」が見つかったと発表した。海軍所の主要施設の一つであるドックの構造を知る手がかりで、同課は「登録に近づく発見」と位置付けている。
 海軍所跡は、国の世界遺産の暫定リストに入った「九州・山口の近代化産業遺産群」への追加登録を目指す遺産の一つ。追加登録に向けた専門家の提言が10月に出るため、市教委が改めて発掘調査を進めている。
 今回見つかった遺構は、修理などの際に船を入れるドックの護岸の一部とみられ、直径約15センチの木杭が一列に並んでいる。そこから突き出た胴木2本は、停泊した船に渡した架け橋の土台だった可能性があるという。
 文化振興課は「近代的な石やれんが組みではなく、在来の技法が使われたことを示しており、ドック構造が具体的に分かる発見」と話している。
 木杭護岸の遺構は崩れる恐れがあるため、一般公開をせず、近く埋め戻すという。【姜弘修】


佐賀藩の三重津海軍所跡、ドックの壁一部を発見
 佐賀市教委は10日、幕末佐賀藩の遺跡「三重津海軍所跡」(佐賀市川副町、諸富町)で、深さ約2メートルの地中から、蒸気船の修理などを行ったとされるドックの壁の一部が見つかったと発表した。木製のくい(長さ約80センチ)約20本が一直線に打ち込まれて壁を形成しており、市教委はドックの存在を裏付ける証拠の一つになるとしている。
 木ぐいが見つかったのは、1920年頃に描かれた絵図でドックなどがあったとされる現在の早津江川河川敷。これまでも周りの土との違いから、ドックがあったと推定されていた。木ぐいが形成する壁の上部から2本の木の柱(直径約20センチ)が突き出しており、ドック内に固定した船に架けた橋の土台部分として使ったとみられるという。
 前田達男・市教委文化振興課文化財係長は「ドックは、後にヨーロッパから伝わる石やレンガを使う方法ではなく、木を使った江戸時代以来の護岸工法で造ったとみている。創意工夫を重ねていた日本の近代化の最初の姿ではないか」と話している。
 市教委は、文化庁が世界遺産の国内候補地リストに入れた「九州・山口の近代化産業遺産群」に三重津海軍所跡を追加登録することを目指している。前田係長は「(追加登録に向け)前進」と評価しているが、佐賀藩が建造したとされる日本初の実用蒸気船「凌風丸」をこの場所で造ったと断定できる形跡は見つかっておらず、調査を続ける。
 前田係長は11日に上京し、「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界遺産登録を目指す推進協議会(6県12市)が遺産についての意見を求めている国内外の専門家委員会のメンバーに、今回の発見を報告する。


ドックの壁一部を発見 産業遺産群追加登録へ前進
 佐賀市教委は10日、幕末佐賀藩の遺跡「三重津海軍所跡」(佐賀市川副町、諸富町)で、深さ約2メートルの地中から、蒸気船の修理などを行ったとされるドックの壁の一部が見つかったと発表した。木製のくい(長さ約80センチ)約20本が一直線に打ち込まれて壁を形成しており、市教委はドックの存在を裏付ける証拠の一つになるとしている。
 木ぐいが見つかったのは、1920年頃に描かれた絵図でドックなどがあったとされる現在の早津江川河川敷。これまでも周りの土との違いから、ドックがあったと推定されていた。木ぐいが形成する壁の上部から2本の木の柱(直径約20センチ)が突き出しており、ドック内に固定した船に架けた橋の土台部分として使ったとみられるという。
 前田達男・市教委文化振興課文化財係長は「ドックは、後にヨーロッパから伝わる石やレンガを使う方法ではなく、木を使った江戸時代以来の護岸工法で造ったとみている。創意工夫を重ねていた日本の近代化の最初の姿ではないか」と話している。
 市教委は、文化庁が世界遺産の国内候補地リストに入れた「九州・山口の近代化産業遺産群」に三重津海軍所跡を追加登録することを目指している。前田係長は「(追加登録に向け)前進」と評価しているが、佐賀藩が建造したとされる日本初の実用蒸気船「凌風丸」をこの場所で造ったと断定できる形跡は見つかっておらず、調査を続ける。
 前田係長は11日に上京し、「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界遺産登録を目指す推進協議会(6県12市)が遺産についての意見を求めている国内外の専門家委員会のメンバーに、今回の発見を報告する。


蒸気船建造の遺構か ドック護岸跡確認/三重津海軍所跡
 幕末佐賀藩の近代化史跡の世界遺産登録を目指し、三重津海軍所跡(佐賀市川副、諸富町)の発掘調査を続ける佐賀市教委は9日、新たにドック跡の遺構とみられる木杭(きぐい)護岸を確認した。ドック跡は国産初の実用蒸気船「凌風丸」を建造した遺構の可能性も高く、確定されれば登録へまた一歩近づく。
 調査場所は早津江川河川敷の一角約400平方メートル。三重津海軍所絵図によると、一帯は船渠(せんきょ=ドック)とされ、奥行き70メートル、幅は最大で50メートルと推定される。
 見つかった護岸跡は、その一部で、地表から約1・6メートル掘り下げた地点で確認。長さ約3メートルの間に、約20本の木杭(長さ約80センチ、直径約15センチ)が直線に並んでいた。護岸とともに、船を固定し作業のため橋をかける胴木2本も見つかった。木杭は横木を渡し縄で固定されていた。
 市教委はさらに約3メートル掘り下げ今後、ドックの床構造を探る。石やれんがなど重量物に耐えられる床が確認されれば、船が建造された証拠となる。周辺では既に金属加工設備の存在が裏付けられており、市文化振興課の前田達男係長は「床が確認されればリスト入りに大きく前進する」と期待する。
 海軍所跡について「九州・山口の近代化産業遺産群登録推進協議会」の専門家委員会は、造船施設などの確定が課題と指摘していた。

【写真】絵図に記された船渠跡に沿って確認された護岸。東西方向に木杭20本が並び、中央部には胴木と見られる木材が交差していた=佐賀市川副町の佐野記念公園(佐賀市教委提供)



鹿児島
西郷、書の師匠は島役人!? 沖永良部島 流罪中に学ぶ 坦晋の書や蔵書 手本か 郷土史家先田さん 日記から考察
 「敬天愛人」の遺訓で知られる西郷隆盛(1827-77)の書の師匠は、西郷が幕末の1年半、島流しされた鹿児島県沖永良部島の薩摩藩島役人坦晋(たんしん)(1800-61)だった‐。地元和泊町国頭の郷土史家、先田光演(みつのぶ)さん(66)が坦晋が残した日記などを解読し明らかにした。
 坦晋の日記は、「渡琉日記」や鹿児島に上った時の「上国日記」など3冊が現存する。先田さんは原文を解読し、5月に「坦晋の日記三部作‐琉球・薩摩を生きた島役人の記録」(A4判、66ページ)としてまとめた。
 坦晋は22歳のころ、鹿児島で医術を修め、唐通事(中国語の通訳)も兼ねた知識人。中国交易船の調査のため琉球に渡っており、当時漢詩と書道の古典といわれた書物を持ち帰っている。
 一方、西郷(島では大島吉之助)は坦晋が没した翌年の1862(文久2)年に沖永良部島へ遠島される。2人は出会ってないが、先田さんは西郷と、坦晋の孫で明治になって島の村長になる操坦勁(みさおたんけい)との関係に注目する。
 西郷は広さ4畳半の牢屋(ろうや)の中で読書に励み、漢詩と書道に打ち込んだとされ、牢の外では坦勁ら島の若者たちが西郷の教えを受けた。有名な「敬天愛人」の言葉は、沖永良部島流罪中に生まれたと伝わる。
 先田さんは「三部作」の中で、西郷が坦勁にあてた漢書の借用書2通を紹介しながら、「西郷が借りたのは、坦晋が琉球で買い求めた漢書の蔵書だった」と記す。
 また、操家に残る坦晋の書についても触れ、「肉太で力強い坦晋の書体は、西郷の書体と似ている。西郷は坦晋の書や蔵書を手本に書を学んだのではないか」と考察している。


維新半ば…斉彬に面目ない 西郷隆盛辞世の漢詩? 医師の日記に記述 内容から「本人作」 
 西郷南洲顕彰館(鹿児島市)は11日、西南戦争で自刃した西郷隆盛が残したと考えられる辞世の漢詩が札幌市内で見つかったと発表した。漢詩は同時期に鹿児島に勤務していた医師の日記の中にあり、西郷の名前が添えられていた。直筆ではないが、内容などから西郷作の可能性が高いという。
 西郷は約200首の漢詩を残しながら辞世は確認されていなかった。同館の高柳毅館長は「西南戦争終盤の西郷の心境が記された貴重な発見」として、直筆の漢詩を探している。
 漢詩があったのは、鹿児島県仮病院副院長を務めていた山崎泰輔医師が記した日記で、西郷が自刃した1877(明治10)年9月24日の記述。維新を完遂できなかったむなしさなどが詠まれ、藩主だった島津斉彬にあの世で合わせる顔がないと締めくくっており、挫折感も表れている。内容から、俵野(宮崎県延岡市)に追い詰められた西郷が同年8月17日夜、包囲網を突破する前に詠んだとみられる。
 札幌市の古文書研究家から1月に同館に問い合わせがあり調査。(1)斉彬を師と仰ぐ西郷ならではの表現がある(2)負傷した西郷の長男菊次郎は県仮病院延岡支病院で手術を受けたため、漢詩が医師に渡った可能性がある‐などから、辞世を見た山崎医師が日記に書き留めたと結論づけた。
 鹿児島大の松尾善弘名誉教授(中国文学)は「漢詩のルールを厳格に守る西郷の漢詩の特徴がみられ、西郷の作と考えられる」と話している。



ブックレビュー
幕末明治 百物語 [編]一柳廣孝、近藤瑞木
■信じるかどうかあなた次第

 現代の怪談話芸のマエストロ(巨匠)である稲川淳二氏なら、こう語りだすだろう。

 「いきつけの本屋で、妙だな~、首筋が冷たいな~、怖いな怖いな~と思って、ふと振り返ると……あったんです……この本が」

 オリジナルの扶桑堂版は1894(明治27)年刊というから2世紀をまたぐ復刊となる本書は古式ゆかしい百物語形式にのっとった怪談集だ。しかも、実話ばかりと銘打った際どさが、たまらない。

 百物語は、100の灯火を点じて一つ語り終えるたびに吹き消し、語り尽くされると暗闇に亡霊が現れるとされる。本書は1893年末に東京・浅草で「やまと新聞」が催した「百物語怪談会」を基に同紙に連載された怪談の競作をまとめたもの。語り手も三遊亭円朝、五世尾上菊五郎ら当代一流の通人をそろえた。

 文明開化の明治時代、幽霊などは、病んだ「神経」の作用による錯覚だと啓蒙(けいもう)する反オカルト思想が広まった。

 その合理主義の是非をめぐる心のゆらぎが、この百物語の端々にも見受けられ、そこがすでに「信じるか、信じないかは、あなた次第」という現代の都市伝説の語り口にも通じている。(保科龍朗)

■もっとはまりたい人へ 書店員のおすすめ

 リブロ池袋本店(マネージャー) 矢部潤子さん

〈1〉真景累ケ淵(かさねがふち) [著]三遊亭円朝

〈2〉円朝芝居噺(ばなし) 夫婦幽霊 [著]辻原登

 青山ブックセンター六本木店(文芸担当) 間室道子さん

〈3〉吹雪の山荘――赤い死の影の下に [著]笠井潔他

〈4〉9の扉 [著]北村薫他

〈5〉魔よけ百科 かたちの謎を解く [著]岡田保造

 近代落語の祖である三遊亭円朝は、幕末から人情噺(ばなし)の自作自演を手がけたが、最初のオリジナル作品が怪談の〈1〉だった。

 浄瑠璃の富本節の女師匠が、親の敵の息子と恋仲になり、悪業のたたりがふりかかる。「後半は因果応報の連鎖。その入り組んだどろどろ加減が怖い」と矢部さんはいう。

 円朝も、幽霊「神経」説は心得ていて、〈1〉の話の枕で「幽霊は神経病とされ、近年、廃れてしまった」と語っている。「真景」は「神経」にかけている。

 芥川賞作家の辻原登の〈2〉は円朝を題材にした手のこんだ知的ミステリー小説。円朝の幻の落語「夫婦幽霊」の口演速記録を辻原自身が発見したという設定で、速記から起こされた形で入れ子になっている落語が通人をうならせる迫真の出来である。

 ミステリーでは、百物語のように複数の作者が書き継ぐリレー小説が見逃せない。

 間室さんによれば「リレー推理小説は先に書く人ほど勝手し放題。最後の作家が犯人やトリックの説明などを一手に引き受けねばならなくなる」という。

 〈3〉はその不平等をなくすために、最初から最後の作家までがそれぞれ、「自分が書いた時点で設定した犯人、動機、トリック」を創作ノートで明かし、読者も巻末で楽しめるようになっている。〈4〉はひとつのストーリーを書き継ぐのではなく、次の作家に新たなお題を投げる形式。不連続な短編集のはずなのに、ミステリー作家特有のサービス精神で奇妙な連続性を帯びている、と間室さんはいう。

 〈5〉はイワシの頭から五芒星(ごぼうせい)まで、悪霊や邪鬼を退散させる魔よけの「かたち」大全。百物語の会の必携品だ。

 怖がりでホラーやスプラッタは駄目ダメな自分(行きつけの針灸の先生によると、自分は霊感体質だそうですが)には、手が出ません……^_^;。

文化芸能
“草食男子”じゃない男の姿を 要潤、増上寺で「燃えよ剣」
 幕末を舞台に新撰組副長の土方歳三の生涯を描いた司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」が朗読活劇になった。13日、東京・芝の増上寺の屋外特設ステージで行われる舞台で語り手を務める俳優、要潤は「土方の35年の生涯を語り継ぐことで、男子たるものの生き方を現代に照らし合わせられるのではないか」と話す。

 舞台に登場するのは、語り手の要とフラメンコギターの沖仁、歌手の高岸弘樹の3人。当日は晴れれば増上寺本殿に沈む夕日や星空を背景に、土方が武州石田村(現東京都日野市)の農村を出て、新撰組副長として最強の集団を作り、北海道・函館で散るまでを、朗読、ギターと歌声、時には殺陣も交えて表現する。

 「7月に京都・壬生寺でも同じスタイルでお寺の本殿前でやりました。新撰組の本場ですし、作ったセットではないですから身の入り方が違いました」と振り返る要は「龍馬がゆく」で司馬作品を初めて知り、次いで「燃えよ剣」を読んだという。「初めて読んだのは20歳のときでしたが、読み返すに従って発見がある。石田にも行って、上演前に報告しました」と土方への思い入れは強い。当日は原文を再構成した台本を使い、要が土方だけでなく近藤勇ら何人もの浪士となる。ナレーションも担う。

 平成13年に仮面ライダーシリーズのヒーロー役でデビューして8年後、今度は幕末のヒーローを演じる。「今風の“草食系男子”じゃない、男の姿勢を見せたい」と要。現存する土方の写真にならい、洋装に長靴姿の硬派な土方が見られそうだ。

 午後6時開演。雨天決行、荒天中止。(電)03・3498・9999。(飯塚友子)

 要潤さんの洋装土方、壬生寺で上演した時の記事で小さく写ってましたが、まさしく「萌え~♪」な、かっこいい土方さんでしたね。

Crossroads:乱歩歌舞伎「人間豹」 続編の「京乱噂鉤爪」来月上演
◇幸四郎と染五郎が主演「面白い部分取り入れて創作」
 松本幸四郎と市川染五郎の主演で昨年11月に東京・国立劇場で上演された「江戸宵闇妖鉤爪(えどのやみあやしのかぎづめ)-明智小五郎と人間豹(ひょう)」は、江戸川乱歩作品の初歌舞伎化として話題を集めた。その続編「京乱噂鉤爪(きょうをみだすうわさのかぎづめ)-人間豹の最期」(岩豪友樹子脚本、九代琴松演出)が10月に同劇場で上演される。【小玉祥子】

 前作では原作の「人間豹」の設定を昭和から江戸に移し、明智小五郎は探偵から町奉行所同心に置き換えられた。人間豹と呼ばれる怪人、恩田乱学(染五郎)が次々と女性を殺害。最後に明智(幸四郎)に追いつめられ、大空へ姿を消す。

 続編はすべて新たに創作。幕末の京に恩田が現れ、明智は探索のため京へ向かう。明智と恩田は再び闘うが、陰に天下の転覆をはかる陰陽師(おんみょうじ)、鏑木幻斉(中村梅玉)の姿が見え隠れする。

 岩豪は「前作をご覧になった方にも初めての方にも面白くなくてはいけない。乱歩のいろいろな作品から題材を取り入れました」と続編ならではの苦労を語る。

 映画には続編やシリーズ物が多いが、歌舞伎ではあまりない。戦前では六代目尾上菊五郎が木下藤吉郎を演じた「太閤記」シリーズ(1940年)など。近くは市川猿之助によるスーパー歌舞伎「新・三国志」3部作(99年から)や幸四郎の「夢の仲蔵」シリーズ(2000年から)が挙げられる。

 ところが、染五郎は現在もシリーズ物に主演している。東京・歌舞伎座の昼の部で上演中の「竜馬がゆく 坂本竜馬最後の一日」(司馬遼太郎作、齋藤雅文脚本・演出、26日まで)だ。07年9月の同劇場の「竜馬がゆく 立志篇(へん)」を皮切りに、08年9月に同劇場で「風雲篇」が上演され、「最後の一日」で3部作が完結する。演じる役はもちろん竜馬。

 「『立志篇』は、まだ何もなしていない竜馬をどう面白く見せるか。『風雲篇』の竜馬は既にいろいろなことをしている。それをどう整理するか。『最後の日』は竜馬の死までをどう見せるか。それぞれに難しさがあります」と話す。

 「人間豹」の歌舞伎化を提案し、今回の原案を考えたのも染五郎だ。「前作で面白かった部分は、今回も取り入れるようにしました。いいものには普遍性がある。それを探し出すのが、連作の難しさかもしれません」

 宙乗りや炎の場面、鏑木の妖術など、視覚的なおもしろさも味わえそうだ。梅玉も「あいつさえいなければと思っていただけるように憎々しく演じたい」と張り切る。

 幸四郎は九代琴松として演出にもあたる。「新作歌舞伎では珍しい第2弾ができた。『仲蔵』からの積み重ねが乱歩歌舞伎に結びついたと思います」。10月4日から27日まで。問い合わせは0570・07・9900へ。【小玉祥子】<月末を除き毎週火曜日に掲載します>



エンターテインメント
歴史×イケメン王子、話題沸騰の幕末活劇『はじめて幕末王子』ここに登場!
ケイブは、2009年9月7日(月)より、来年の「大河」を先取りしたiモード向けアプリゲーム『はじめて幕末王子』のサービスを開始しました。

『はじめて幕末王子』は、同社が発売してきた「はじめてシリーズ」の第三弾で、常識となりつつある歴史の“ちょっと気になる”“知らなきゃヤバい”といった内容を、ゲームで楽しみながら、ついつい誰かに話したくなるような歴史ネタ、会話を盛り込んだ作品です。

本作は、来春放送予定のNHK大河ドラマ『龍馬伝』、過去に放送された『新撰組!』など、露出も多く、小説や漫画など幅広くメディア展開されている幕末時代をピックアップして、女性向けに作成したアドベンチャーゲームです。

1日たったの5分と、電車の中やお昼休み、就寝前などのちょっとした時間に簡単進められて、選りすぐりのイケメン王子達の歴史を垣間見ることができます。

登場するイケメン王子達は、幕末動乱を鮮やかに駆け抜けた幕末の志士たち。『新選組!』で有名な近藤勇、土方歳三、沖田総司、『龍馬伝』にて主役の坂本龍馬たち。彼らの日常の掛け合いにドキドキしたり、真剣な事件にハラハラしたりと、幕末志士たちが最も輝いた時期を華麗に描き出されています。

ゲームを進めて理想のイケメン王子と恋仲になってみたり、颯爽と歴史を一緒に駆け抜けてみたり、それはプレイヤー次第です。さらにゲームを進めると王子たちに関係するアイテムや美麗イラストをゲットすることもできます。

また、物語の進行によっては二つの異なるシナリオを読むこともできます。一つは、歴史に名を残す志士たちの弱い面が垣間見える「夜シナリオ」。もう一つは、謎の「妖刀」を巡る、史実の裏の顔を堪能する「妖シナリオ」です。通常とは違うシナリオで、一味違うキャラクターの魅力を存分に楽しめます。

そのほか、あの西郷隆盛が連れていた犬(名称:ツン)を育成することもできます。愛らしいツンにかまってあげることによって、王子たちの特殊なシナリオを読むことができるようになるので、育成する楽しみもグッと盛り上がります。

『はじめて幕末王子』は、NTTドコモiアプリ対応機種でダウンロードでき、価格は月額315円(税込)です。

 いかにもな受け狙いのタイトルにニヤニヤして読んでいたら、西郷隆盛の愛犬ツンを育てるモードがあるところで爆笑。
 で、画像見たら伊達政宗と武田信玄が闘ってるんですが、どこが幕末なんだろう(笑)……違うゲームの画像ですかね^_^;。

幕末志士と歴史を勉強『はじめて幕末王子』9/7サービス開始
ケイブは2009年9月7日(月)、iモード向けアプリゲーム『はじめて幕末王子』のサービスを開始した。

 本作は、同社がリリースした女性向けアプリ『はじめて戦国王子』『はじめて三国王子』に続く「はじめてシリーズ」の最新作。同シリーズでは、1回のプレイ時間が5分程度で、電車での移動時間や休憩中など、少しの時間でゲームを楽しむことができる。

 『はじめて幕末王子』では、近藤勇や土方歳三、沖田総司といった「新撰組」のほか、坂本龍馬や西郷隆盛など、幕末の乱世を舞台に活躍した志士達との日常を楽しみながら、幕末の歴史を体験することができる。
 また本作では、物語が進行すると、「夜シナリオ」「妖シナリオ」と呼ばれる特殊シナリオを読み進められるようになり、通常シナリオとは異なる志士達の一面を見ることができるようになる。

 さらに『はじめて幕末王子』には、西郷隆盛の愛犬「ツン」を育成できるアプリが用意されており、「ツン」を育てることで、キャラクタ毎に用意された特別シナリオを楽しめるようになる。

 こっちに画像がありました。
 今風のキャラ絵ですね。「ツン」画像、笑った……何ですか、この画風の違いは(爆)。

 他にも。
幕末歴史アドベンチャー「はじめて幕末王子」本日配信!&公式サイトオープン!
来年の「大河」を先取り!今から話題沸騰の「幕末」が舞台!歴史×イケメン王子で楽しむ『はじめて幕末王子』ここに登場!
 こちらのリンク先に飛ぶといきなり音楽が流れますので注意。
 姉妹作品が「三国志王子」と「戦国王子」なのには、また爆笑。ファンが集中しているジャンルをコンプリートしてるんですね。

龍馬イズノットデッド。歴史を変える新・坂本龍馬伝
梅村真也原作による橋本エイジの新連載「天翔の龍馬」が、9月18日発売の週刊コミックバンチ42・43合併号(新潮社)にてスタートする。

幕末の政治家として歴史に名を残し、数々の名エピソードで小説や映画の題材として広く取り上げられる坂本龍馬。「天翔の龍馬」では、近江屋で暗殺されたはずの龍馬が「もしも生きていたら」というパラレルワールドを描く。暗殺が行われた慶応3年11月15日に何が起こったのか。史実にはないまったく新しい龍馬物語が幕を開ける。

9月18日発売の週刊コミックバンチ42・43合併号には、龍馬が実際に書いた政治綱領「新政府綱領八策」が付録される。下関市立長府博物館所蔵のものを実物大で再現した、龍馬ファンにはたまらないお宝だ。

 歴史ifパラレルものは嫌いではないので(いろいろ整理した後の書棚にも、もし開陽丸が沈んでなかったら、で始まる『逆転!維新箱館戦争』広瀬仁が残っています)。



[[ OZmall OZ子のホンネ調査「旅・おでかけのホンネ編」 ]]
「空前の歴史ブーム。“歴旅”に興味ある? 」についてのアンケート調査を実施

69%が“歴史的スポット”に興味アリ!
“興味はあるけれど知識が追いつかない”歴女予備軍が多数!

 女性向けWEBサイト「OZmall」を運営するスターツ出版株式会社(本社:東京都中央区、代表取締役社長:菊地修一)は、OZmall会員(会員数95万人、女性比率85%、平均年齢29.6歳)を対象とした「空前の歴史ブーム。“歴旅”に興味ある? 」についてのアンケート調査を実施しました。東京OLの人気サイト「OZmall」からOLのホンネをお届けします。

★“興味はあるけれど知識が追いつかない”歴女予備軍が多数!

旅行に関する歴史的キーワードとしてダントツ人気だったのが、坂本龍馬と新撰組。やはりなじみが深いからでしょうか? 次いで人気があったのは、その時に放映されている大河ドラマ関連。現在は直江兼続が注目されているようです。ツアーなども企画されるから、行きやすいのもポイントですよね。そして目立ったのが、「興味はあるけれど、どこになにがあるのかよくわからない」という声!「学校のような勉強はイヤだけど、初心者にも分かりやすいガイドや、ツアーがあったら参加したいな」というリクエストも多数。確かに、ちょっと歴史を知っているだけで、旅がぐーんと深いものになりますよね。秋の旅行・おでかけは、みんなが立ち寄った歴史的スポットを参考にしてみては?

 知識の壁を乗り越えてこそ「歴女」ではないかと(苦笑)。
 アンケート詳細はこちら





 ばたばたいろいろ忙しかったのですが、ようやくまとめてお送りできます。
 多いので記事を分けてご紹介します。

青森
東北Let’飯同盟:B級グルメNo.1へ 東北勢10団体が設立 /青森
◇おでん、やきそば、せんべい汁、バラ焼き
 東北地方のB級ご当地グルメを盛り上げようと、B級グルメ10団体が「東北Let’(れっ)飯(ぱん)同盟」を10日、設立した。東北の食を協力して全国に売り込み、B級グルメが人気を競う「B-1グランプリ」で東北勢初の優勝を目指す。
 参加したのは「愛Bリーグ(B級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会)」の北海道・東北支部に加盟する東北4県の10団体。県内の青森生姜味噌(しょうがみそ)おでん(青森市)▽黒石つゆやきそば(黒石市)▽八戸せんべい汁(八戸市)▽十和田バラ焼き(十和田市)--も加わった。名前は、幕末に北海道、東北、北越の藩が手を組んで新政府軍に挑んだ「奥羽越列藩同盟」にならい、「東北以南のB級グルメに力を合わせて立ち向かう」意気込みを表そうと付けた。また、同盟の団結を示す旗も新たに作った。
 19日から秋田県横手市で開かれる「B-1グランプリin横手」では、共通の旗やチラシで同盟の料理を互いにPRする。そのほか、独自のイベントも予定している。
 同盟事務局を務める「八戸せんべい汁研究所」の木村聡事務局長は「何とか東北勢でグランプリを取りたいと結集した。連携して活動し、各地のブランド化を進めて地域を元気にしていきたい」と話している。【喜浦遊】

 B級グルメ好きなんで、ぜひ頑張って欲しいです。上記で食べたことがあるのは、野間みつねさんが頂き物でもらったのをふたりで鍋にして囲んだ「せんべい汁」のみです(苦笑)。

秋田
「グランプリを北国へ」 東北B級グルメ10団体が同盟設立
 B級グルメを一堂に集め、王座を決めるBー1グランプリを主催する愛Bリーグの北海道・東北支部は10日、「東北Let,s飯(れっぱん)同盟」を設立したと発表した。
 19、20の両日、横手市で行われる「Bー1グランプリin横手」に向けて、B級グルメによるまちおこしを目指す東北地区の10団体が集結した。本県からは秋田かやき協議会(秋田市・秋田かやき)、横手やきそば暖簾(のれん)会(横手市・横手やきそば)、神代地域活性化推進協議会(仙北市・あいがけ神代カレー)が所属する。「グランプリを北国へ!」を合言葉に、これまで3回のグランプリでいずれも準優勝だった東北勢による初の優勝を目指す。
 18日のBー1グランプリ前夜祭会場で同盟の旗揚げを宣言する。大会当日は団体の旗印を掲げ、ちらしを配布して所属団体のメニューをPRする。団体名は幕末に北海道や東北、北越の諸藩が加わった「奥羽越列藩同盟」に由来。秋田かやき協議会の竹島知憲会長は「結束することで、東北のB級グルメ盛り上げにつなげていきたい」と話していた。


山形
郷土の先人・先覚199
三井財閥の基礎を固める 三野村利左衛門

 三井財閥の基礎を築いた人。旧庄内藩士・関口正右エ門の孫で、鶴岡の百間堀端(現在の東北公益文科大学大学院付近)が出生地と伝えられている。曾孫の三野村清一郎氏が著した「三野村利左衛門伝」にも、墓誌名「出羽国庄内に出生…」と明記されている。
 伝記によると、7歳のときの文政10(1827))年ごろ、父・松三郎が養子入りした家を事情あって利三衛門を伴って出、浪人生活に入った。遠くは九州まで旅をし、父は宮崎で亡くなった。
 利左衛門(幼名不詳)は14歳のときに志を立てて京都に上り、さらに天保10(1939)年、19歳で江戸に出た。
 江戸は深川の干しいわし問屋丸屋へ住み込みで奉公、実直な働きぶりは人々の目にとまり、そして駿河台ののちの勘定奉行・小栗家に雇われた。ここでも勤務ぶりが注目され、神田・三河町の油・砂糖などを商っている紀ノ国屋・美野川利八に見込まれ、弘化2(1845)年に利八の娘なかの婿養子になった。同時に利八を襲名する。
 紀ノ国屋は商家でも零細で、妻が金平糖を作り、利八が背負い行商して歩く毎日だった。苦労の連続だったが、コツコツとお金を蓄え、それを資金に株を買い、安政2(1855)年に両替商を開業している。
 小さいながらも両替商となった利八は、ある日、出入りしているもとの雇い主である勘定奉行・小栗上野介宅で、天保小判1両を万延小判3両1歩2朱(3倍強)と換価する旨の布令が出ることを耳にして、天保小判の買い占めを図った。
 集めた天保小判を担保にして金を借り、それを資金にまた天保小判を買い集めた。人のつてで三井両替店にも売り込むようになり、こうした機敏な利八の行動は、三井両替店の首席番頭にも認められ、三井家に“紀ノ利” “紀ノ利”と重宝がられた。
 三井家の推移にも山あり谷ありで、幕末は金利の低下と長期不良貸し金の累積などで資金繰りが圧迫されているところへ、幕府から多額の御用金が課された。瀕死の瀬戸際に立たされ、最後の手段は幕府の財政担当責任者・勘定奉行の小栗上野介の力にすがり、御用金の玄学を頼むほかない、と紀ノ国屋利八を見込み、依頼することになった。
 利八は小栗上野介に三井家の窮状を力説。御用金50万両のうち18万両を分納、残額を免除してもらうことに成功した。しかもその後、三井家には幕府から御用金は一切なかったという。
 利八は三井家の破産寸前の危機を救い、絶大な感謝と信頼を一身に集め、慶応2年に48歳で三井家に雇われた。同時に名前も「三野村利左衛門」と改めた。姓は三井の三と、紀ノ国屋の姓である美野川の野、亡父の養家の姓である木村の村をとったものといわれている。
 戊辰戦争が起こり、維新政府に多額の資金を調達し三井家の通商会社、為替会社の総差配司(支配人)となり、第一国立銀行の設立発起人、頭取代行に就任。さらに三井銀行を創設し総長代理、三井物産会社を創立して三井家の“大番頭”として、その本領を発揮した。
 また、明治5年9月12日の新橋・横浜間鉄道開業式では、東京市民を代表して祝辞を述べることになっていた三井八郎右衛門高福が病気になったので、代わって述べている。
(筆者・須藤 良弘 氏/1990年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

三野村 利左衛門 (みのむら・りざえもん)
文政4(1821)年11月鶴岡生まれとなっている。浪人の父と流浪生活し、父の死後、京都に出た後19歳で江戸に出た。住み込み奉公などを経て商家に婿養子入り。利八を襲名して金平糖を行商しながら資金を蓄え、両替商を開いた。三井両替店に出入りして理財の才が高く評価され、三井家300年の歴史の中で最大といわれた危機を見事に乗り切り再建。明治以降の三井財閥の基礎固めに貢献した。ただし、出生地には異説もある。明治10年2月21日、57歳で亡くなった。


宮城
江戸の装身具仲間入り 石巻文化センター
 江戸時代後期に仙台城下で作られたとされる「仙台ガラス」製の女性用装身具などを集めた展示コーナーが、石巻市の石巻文化センターにお目見えした。琥珀(こはく)色や金銀に輝く品々が幕末の女性の気品を映し出し、来場者の目を楽しませている。
 石巻市出身で歴史研究家の故毛利総七郎氏が収集した民俗資料「毛利コレクション」の一部で、センターにあるコレクションの常設スペースに並んだ。新たに加わったのは、かんざしやくし、髪留めなど、女性が使う装身具26点。
 なかでも、江戸後期に富裕層の未婚女性が使ったとされる「びらびらかんざし」は、金や銀がちりばめられ、文化的価値が高い。石巻市教委の新田亜希子学芸員は「装飾性などから、当時の趣向が分かる。女性の生活の様子や息遣いを感じてほしい」と話している。
 毛利コレクションは、幅広い種類の資料を膨大に集めた点が特徴。日用品や絵図、刀剣など、確認されたものだけで10万点以上が現存する。市は石巻文化センターを改修し、2012年にも毛利コレクションの展示収蔵施設を運営する計画。
 観覧料は大人200円、高校生100円、小中学生50円、未就学児無料。月曜定休。連絡先は石巻文化センター0225(94)2811。


福島
炭鉱跡ツアー、軌道に
●産業遺産を観光振興に/大型バスが満席

 幕末から戦前の近代化を支えた産業遺産を、観光振興に生かす動きが広がっている。歴史的価値はあるが注目されてこなかった地域の資産に、新たな光をあてる取り組みだ。「ヘリテージ(遺産)ツーリズム」と銘打って、熱心に取り組む地もある。新たなハコモノ頼みでない、「温故知新」の地域振興策として関心が高まっている。(いわき支局・佐々木和彦、福島総局・中川透)
 炭鉱閉山に迫られ、生き残りをかけて「東北のハワイ」を目指す姿を描いた映画「フラガール」。舞台の福島県いわき市に、当時をしのぶ巨大なコンクリートの建物が残る。旧常磐炭礦の選炭工場跡地だ。近くに二つの坑口や坑内を換気するれんが造りの扇風機上屋もある。
 本州最大だった常磐炭田の中心。最盛期には大小130以上の炭鉱があったが、エネルギーの主役は石炭から石油へ。60年代から閉山が進み、76年にはすべての山が姿を消した。
 貨車への積込場「万石」、貨車用れんがトンネル、橋脚……。多くの遺物が今なお点在する。これを生かし、石炭の歴史を伝えようと、いわき市で進むのが、産業遺産の観光資源化だ。
 市民、炭鉱研究者や観光関係者らが年に「いわきヘリテージツーリズム協議会」を設立。現地観察調査を続け、市内の遺産を確認し、遺産群の地図やガイドブックなどを発行した。
 市内のいわき湯本温泉街も、フラガールに次ぐ新たな観光資源として注目。昨年の観光イベントから選炭工場跡などの遺産巡りツアーを企画し、計5回のツアーは、いずれも大型バス1台が満席になった。「普段目にしないものが見られた」「元炭鉱社員の体験談がよかった」と好評だった。
 JR東日本は、10月からのツアー「旅市」に炭鉱遺産めぐりを採り入れる。協議会メンバーが遺産を案内し、宿泊は地元の温泉。このガイドを務める熊澤幹夫・協議会事務局長(66)は「一般の観光地のようにただ見るだけでなく、地元の歴史、文化も勉強して頂きたい」と話す。
 コースとなる常磐炭田発祥地の「みろく沢炭鉱資料館」には、当時の写真500点、採掘工具など400点が並ぶ。親子二代の炭鉱マン、渡邊為雄館長(83)が養鶏業の傍らで20年かけて収集した。丸太組の坑口を模した入り口から入ると「近代化産業遺産」のプレートがかかる。地表に露出する石炭層、トロッコ、「炭住」と呼ばれた旧炭鉱住宅なども見学できる。 
 渡邊館長は「将来に残さなければと思って集めた資料。石炭で地域が発展した歴史を大事にしなければならない」と、無料で公開し、郷土学習の児童らも受け入れる。
 旧炭鉱のシンボルで、各地にあった円錐形の「ズリ山」は、長い年月を経て草木が生えたり、造成されて宅地になったり。説明がないとわかりにくいため、協議会はガイド養成に力を入れている。元炭鉱マンらを講師に月1回、住民ら約20人が勉強中だ。
 遺産のほとんどは民間所有の構造物。観光での活用が軌道に乗れば、維持、管理をどうするか、予算面も含めて課題になりそうだ。

◎秋田北部も計画
 産業遺産は全国各地に点在し、経済産業省が委員会を設けて認定している。製紙、炭鉱、鉄道、海運など産業近代化のテーマに沿って、07、08年度に1千カ所超の品や施設が選ばれた。東北の各県でも認定が進んでいる。
 かつて国内有数の金属鉱山地帯だった秋田県北部は、鉱山跡を生かした地域振興に取り組む。国指定重要文化財の旧小坂鉱山事務所や、従業員と家族向けの芝居小屋「康楽館」など価値ある建物が残るためだ。
 計画を進める鹿角市、大館市、小坂町の一帯には現在、家電リサイクル工場など環境関連産業の集積も進む。そこで、産業遺産と環境産業を組み合わせた新しい観光モデルをめざすのが、この地域の特徴だ。関連施設への視察受け入れ窓口となる「エコタウンセンター」を4月に設立。体験プログラムを考えたり、案内人役を養成したりと、観光客の定着をねらう。
 岩手県八幡平市では、かつて「雲上の楽園」とにぎわった旧松尾鉱山の跡を、再生する動きが始まった。
 鉱山開発は地域に富をもたらした一方、環境破壊の打撃も与えた。光と影の両面を知ってもらい、環境学習などに役立ててもらう。跡地見学や植樹体験などのプログラムを考え、紹介用DVDも作成。再生に携わるいわてNPOセンターは「廃虚の跡を地域の資産として生かしたい」という。



茨城
女性の髪形 藩主が指定 江戸末期 水戸藩の絵図入り史料発見
 江戸末期、水戸藩が家中のすべての女性の髪形や装飾品(髪飾り)について絵図で指定するなど厳しく規制していたことが、水戸市の茨城県立歴史館の調査で分かった。九代藩主徳川斉昭が天保年間(一八三〇-四四年)に行った藩政改革の一環とみられ、同館の笹目礼子首席研究員は「髪形規制を示す絵図入りの具体的な史料は全国的にも珍しい。斉昭が女性の髪形まで細かな指示を出していたとは驚きだ」と指摘している。 (水戸支局・吉原康和)

 史料は、水戸藩士だった岡崎家に保存されていた「女髪形之仕様図」で、二十七日まで同館で開かれている史料紹介展「文書にみる近世の女性たち」に展示されている。
 髪形の規制は「御簾中(ごれんちゅう)」と呼ばれた藩主夫人をはじめ、奥女中を含めた武家の女性すべてが対象。年齢によって「ちご」(七歳から十三歳)、「つぶわけ」(十三歳から元服まで)、「すべらかし」(元服後から隠居までの藩主夫人らが殿中など公式の場で用いた長い髪形)、「下げ上げ(元服後から隠居までの武家の女性らの日常的な髪形)」、「二つ折」(隠居後の髪形)などの髪形を絵図入りで細かく指定し、「このほかの髪形は用いてはならない」と戒めている。
 髪飾りについても「くしは用いる必要はない。こうがい・かんざしなども一つあれば十分。多く飾るのは、遊里(遊郭)芝居などの風俗で、武士の妻娘にはあってはならない」と諭している。
 この通達が出されたのは天保五(一八三四)年で、斉昭が藩政改革を進めていた時期。斉昭は士風刷新のため、綿服の着用や冠婚葬祭の簡素化、琴・三味線の禁止など質素倹約令を発しているが、これまで女性の髪形について規制する史料は見つかっていない。
 近世の女性の化粧・髪形に詳しいポーラ文化研究所の村田孝子主任研究員は「武家の女性の髪形は身分や年齢などによってもともと一定の基準はあったが、描かれた年代がはっきりしていて、図も正面、側面、背後と詳しくその形を表しているのは初めて見る。幕末の女性の髪形を知る貴重な資料」と話す。
 問い合わせは、同館=電029(225)4425=へ。


水戸市(茨城) 剛毅な中にしゃれっ気
 笹沼清左衛門が売り出した「天狗納豆」。「天狗のように元気になる」が名前の由来だそうだが、「天狗党」にちなんだものでもある。
 過激な尊王攘夷(じょうい)思想を打ち出して、幕末に挙兵した「天狗党」は筑波山から現在の福井県敦賀市まで行軍の末に投降したが、その志に心を動かされた同時代人も多かったとか。二代藩主・徳川光圀の「大日本史」編纂(へんさん)開始を機に、この地では尊皇思想の「水戸学」が発展を見せていた。
 「一本気で気短。よく言えば男っぽいのが水戸っぽの特質」と、水戸市内で「だるま納豆」を製造する高野正巳さんはいう。元プロ野球選手の豊田泰光、大久保博元、といった顔ぶれを見れば一目瞭然(りょうぜん)かもしれない。

 ゆく先は冥土(めいど)の鬼と一と勝負

 これは天狗党の幹部だった山国兵部の辞世の句。剛毅(ごうき)な中にもしゃれっ気がある。「そういう性格は、昔も今も変わってないはず」と高野さん。この人自身、水戸芸術館と共同して、納豆をチョコでくるみ、それをわらづとの中に入れた「チョコ納豆」を開発したりもしている。
 「天狗党の乱」の少し前、独特のカリスマ性を見せていたのが、九代藩主・徳川斉昭だ。昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」では江守徹が演じた。藩校「弘道館」を設立して人材を登用、攘夷を強く主張して、大老・井伊直弼と対立した。激しい気性から「烈公」と呼ばれたこの人物により1842年造られたのが、日本三名園のひとつ「偕楽園」である。
 黒鳥、白鳥がのんびりと暮らす千波湖は、水戸市民の憩いの場 春は梅、秋は萩で有名だが、セミ時雨の晩夏にも、蕭々(しょうしょう)とした味わいがある。「斉昭公は、藩士の休養の場とともに、領民の楽しむ場としたい、と考えていたそうです」と偕楽園公園センター長の横田義彦さん。その烈公と光圀公を祭神とするのが、隣にある常磐神社。烈公が江戸防備に、と75門鋳造し、幕府に献上した大砲のうちひとつが、ここにある。
 偕楽園の中心部、民草のための茶会も開かれたという好文亭の3階に上る。強い日差し。深い緑が目に染みる。梅林のかなたに見えるのは千波湖だ。33ヘクタールもある湖のまわりの遊歩道は、少し日がかげるころになると、家族連れでにぎわっている。
 ここのシンボルは、ともに20羽以上いる白鳥と黒鳥だ。毎日エサをもらって生きているから、本当によく人になれている。よちよち歩きの赤ん坊にさわられても怒らないし、カメラを向けても逃げようとしない。
 地方都市の例に漏れず、中心街はシャッター通りになりつつある。「デパートが撤退し、大型スーパーもなくなった。昔を知るものとしては寂しいかぎり」と高野さん。改革に次ぐ改革で藩政を一新した烈公の志を継ぐ者はいないのだろうか。「偕(とも)に楽しむ」理想の方は、十分生きているのだけれど。
(以下略)



神奈川
錦絵と古写真に見る横浜港風景
 幕末から明治にかけての横浜港の姿を錦絵などで紹介する「錦絵・古写真に見る幕末・明治の横浜港のにぎわい展」が来月3日から、横浜みなと博物館(横浜市西区)で開催されることになった。波止場で貨物の荷降ろしをする明治初期の風景を描いた歌川広重(三代)の「横浜海岸通之図」などの錦絵や、明治中期の古写真「横浜谷戸坂グランドホテル新景」など約60点が展示される。11月29日まで。問い合わせは帆船日本丸記念財団・JTB共同事業体(電)045・221・0280。


特別ランチ「徳川遊膳」 横浜ロイヤルパークホテル
 19日から11月23日まで、68階の日本料理「四季亭」で、特別ランチ「徳川遊膳」(3465円)を販売する。
 近隣施設の横浜美術館(横浜市西区)で開催される企画展「大・開港展-徳川将軍家と幕末明治の美術-」の中で、将軍家や天璋院篤姫ゆかりの品々が展示されることを記念。同展の鑑賞券持参で通常料金から10%割引きになる。
 将軍家縁の食材や、篤姫の好物とされる「白インゲンの甘煮」「きがら茶ご飯」などをアレンジした料理の数々がコースで楽しめる。
 時間は午前11時~午後2時半(土日祝は午後3時)。予約・問い合わせはTEL045・221・1155。


新潟
小千谷で薬味のきいた「へぎそば」を
(中略)
戊辰戦争の歴史が息づく街並

初めてのきんぴら薬味の「へぎそば」に感嘆し、徒歩5、6分先にある小千谷市立図書館をめざしました。図書館3階にわが「あむばるわりあ」、西脇順三郎の記念室と記念画廊があります。途中、由緒ありげな寺の山門に目がとまりました。慈眼寺(じげんじ)でした。戊辰戦争に際して、長岡藩家老の河井継之助と新政府軍の岩村精一郎との会談、いわゆる小千谷談判が行われた名刹です。司馬遼太郎の『峠』を読んで、いつか訪ねたいと長年思ってきたのに、今の今まで気づかなかったのは、毎度のことながらまったく迂闊(うかつ)なことでした。新潟県中越大震災では、会談の間などが甚大な被害を受けましたが、多くの方々からの浄財で見事復元されたそうです。
 慈眼寺からさらに進むと、突き当りに大掛かりな建設現場が見えました。通りすがりに図書館の場所を尋ねた方が、日本最初の公立小学校「小千谷校」が建て替え中だと誇らしげに教えてくれました。1868年、まさに戊辰戦争の始まった年に開校した小学校。その筋向いに、めざす小千谷市立図書館はありました。



静岡
中右コレクション 幕末浮世絵展 大江戸の賑わい
―北斎・広重・国貞・国芳らの世界―

 現在でも私たちを魅了する浮世絵は、17世紀後半頃から風俗画を基盤として誕生し、庶民の娯楽の場であった歌舞伎や遊郭に取材した役者絵・美人画を中心に発展しました。
 とりわけ、化政期以降幕末に入ると、さらに新しいジャンルが次々と生まれ、また数々の多才な浮世絵師達が活躍するようになります。 
 風景画を完成させた北斎と広重、艶のある美人画や生動感ある役者絵で人気をはくした国貞(三代豊国)、躍動的な武者絵や風刺画、戯画に幕末の世相を反映させた国芳、開国によるエキゾチックな雰囲気を描写した貞秀の横浜絵などは、時代の空気とともに、政局への関心、異国への興味など当時の人々の視線や生活をも伝えています。 
 本展覧会では、国際浮世絵学会常任理事・中右瑛(なかうえい)氏のコレクションから、肉筆約20点を含む浮世絵約150点を展示いたします。成熟した町人文化を背景に生まれた幕末浮世絵の世界をぜひお楽しみください。
(以下略・詳細はリンク先参照)


三重
松浦武四郎:幕末の探検家、生家を維持・管理 あす「保存会」発足 /三重
松浦武四郎:幕末の探検家、生家を維持・管理 あす「保存会」発足 /三重
◇地元自治会ら43人参画
 幕末の探検家・松浦武四郎(1818-1888)の生家の維持管理に協力する「松浦武四郎誕生地保存会」が13日、発足する。地元の松阪市小野江北町と小野江南町の両自治会や松浦武四郎記念館友の会員ら計43人が参画。家屋の開け閉めや、草刈りなどを担い、生家など貴重な文化の保存と伝承に尽力する。
 生誕地は同市小野江町の旧伊勢街道沿いにある。1124平方メートルの敷地に木造母屋と同離れ、土蔵2棟、池のある庭(市指定史跡)を備える。
 母屋は1832(天保3)年、武四郎の父、圭介が購入した。武四郎は北海道へ旅立つ時、母屋の仏壇の前で亡き両親に決意を報告したとされる。離れは1867(慶応3)年までには完成していたことが分かっており、武四郎は完成祝いに襖絵(ふすまえ)を交流のあった画家や書家に描いてもらっている。庭にはアイヌ語研究の第一人者の金田一京助博士が植樹した桜の木もある。
 生誕地の今後については、学識経験者ら8人で構成した市教委の整備検討委員会で協議が進められている。「武四郎の生存時の館は保存し、母屋の一部2階部や台所は取り壊す方針」(市文化課)で、将来的には、誰もが気軽に学び語り合える交流の場として活用することも検討されている。
 保存会の結成はこうした将来構想を見据えたもの。13日朝から、松浦武四郎記念館で設立総会を開き、具体的な管理運営方法などを話し合う。【橋本明】


三重
蝦夷大概図:松浦武四郎記念館が入手 25日から公開 /三重
 幕末の探検家・松浦武四郎(1818~1888)が最初に出版した蝦夷(えぞ)地の地図「蝦夷大概図」が札幌市で見つかり、松阪市小野江町の松浦武四郎記念館が入手した。25日から11月23日まで記念館で開かれる「幕末に生きた武四郎」で公開する。
 この地図は木版2色刷で、1850(嘉永3)年に出版された。横38センチ、縦32センチの八折りで、表紙は紺色。札幌市の古書店から記念館に連絡が入り、48万円で購入した。
 記念館の山本命学芸員によると、32歳の武四郎が3度目の蝦夷調査を実施した後、初めて表した地図で、蝦夷地、千島列島、樺太が描かれ、赤の点線で陸路と海路が示されている。ロシアに対する松前藩の防備の問題点に言及した漢文もあり、当時の松前藩士たちに配ることを目的に、100部程度が刷られたとみられる。
 同じ地図は国会図書館と北海道大付属図書館北方資料室が所蔵しているが、いずれも未公開なため、購入の意義は極めて大きいとしている。
 武四郎は28歳から41歳まで、蝦夷地を6回にわたって調査、10点の地図を表している。記念館は、このうち5点を子孫から寄贈されているほか、1点は既に購入済みで、所蔵地図は7点となった。【橋本明】


滋賀
近江商人 藩の財政管理
【野洲・旧商家借用書など5千点分析】
 野洲市の近江商人の旧商家で、江戸後期から明治にかけての大名への借用文書など約5千点の文書が見つかり、分析した東京大文学部と野洲市歴史民俗博物館の研究チームが報告書をまとめた。東大の吉田伸之教授(日本近世史)は「財政難を極めた幕末の小さな藩の社会構造を示す貴重な資料。武士と商人の力関係を知る上でも興味深い」と話している。(安田琢典)

【研究チーム「階級超えコントロール」】
 文書は野洲市大篠原の小澤七兵衛さん(85)方の文庫蔵や倉庫などから見つかった。小澤家は江戸中期から商家として活躍し、1万8千石だった地元の西大路藩(現在の日野、竜王両町と野洲市の一部)で財政を担当する「勝手方」として働いた。
 「御勝手御省略写」では、嘉永6(1853)年に藩主の市橋氏に対し、一族の祭事の倹約を求めたことが記されている。吉田教授は「身分の差があるとはいえ、小澤家はいわば『財務大臣』。士農工商の階級社会の中で身分の低い商人が藩主に脅しにも近い要求をしている。当時の社会を実質的にコントロールしていたのは豪商や豪農だった」と指摘する。
 明治24(1891)年の「規約書」と題する資料では、藩主や士族への借金の総額を、貸し付けて数十年過ぎているにもかかわらず、チェックしていたことがうかがえる。
 小澤さんによると、小澤家は藩に対し、総額で現在の2億数千万円に相当する貸し付けをしていた。「財政が困窮する藩に請われての貸し出し。最終的には相当な金額が踏み倒される格好になったと聞いている」と言う。
 小澤さんは小澤家第16代目の当主。大阪電気通信大(大阪府寝屋川市)の顧問を務める一方で大篠原地区の郷土史編集に携わっている。
 「幼い頃から蔵の中に大量の書物があったことは知っていたが、どういう内容なのかまでは知らなかった」と言う小澤さんが、吉田教授に情報提供して調査が始まった。
 東大は地元の野洲市歴史民俗博物館とともに10年以上かけて資料を分類整理。今後、資料を解読し、当時の近江商人の活動実態などを詳しく調べることにしている。博物館の古川与志継館長も「地元で見つかった貴重な資料を使い、将来的には野洲出身の近江商人を紹介する企画展をやってみたい」と話す。




京都
龍馬をもっと知って、ゆかりの地バスツアー22日スタート…堀川商店街有志
はかま姿で同行案内

 京都市内の坂本龍馬ゆかりの地などを巡るバスツアー「龍馬 京の幕末をゆく」を、堀川商店街(上京区)の商店主や職人らでつくる「匠(たくみ)と商人(あきんど)の会」が企画、22日から毎週2回程度で実施していく。はかま姿の龍馬や妻のお龍らにふんした案内人が同行するスタイルで、〈幕末の京都〉が臨場感たっぷりに再現されるよう工夫が凝らされている。
 来年、NHK大河ドラマで「龍馬伝」が放映されるのにちなみ、地域の活性につながればと企画された。同会代表の山内浩一さん(67)が昨年6月から1年かけ、自転車で市内を回り、地元の人らに伝承などを取材。成果をまとめたガイドブック「龍馬 幕末をゆく」(300円)に基づき、コースを設定した。
 龍馬やお龍らにふんした同会のメンバーらが、知る人ぞ知る豆情報を披露しながら京都御所や新選組の壬生屯所旧跡(八木家)などを巡る。龍馬がお龍に自らの無事を知らせるために「龍」の文字を彫ったと伝わるエノキがあり、縁結びに御利益があると人気の武信稲荷神社(中京区)などもコースに組み込まれている。
 同会ではモニターツアーを行うなどして、歴史ファンにも満足してもらえる旅に、と意気込んでいる。
 山内さんは「事前の調査で龍馬の存在を身近に感じることができた。龍馬やお龍になりきって激動の時代の魅力を伝えたい」と話している。
 参加費7500円(昼食代込み)。参加者にはガイドブックも配布する。問い合わせは同会(075・823・2110)へ。


龍馬とお龍「結婚式場」跡に石碑 
東山 NPO設置し除幕式

 坂本龍馬と妻のお龍(りょう)が「結婚式」を挙げた場所であることを記念した石碑の除幕式がこのほど、京都市東山区三条通白川橋東入ルの東山ユースホステルであった。式には、NPO法人(特定非営利活動法人)「京都龍馬会」のメンバーら約50人が参加し、幕末に思いをはせた。
 石碑は高さ1メートルで、「坂本龍馬 お龍『結婚式場』跡」と刻まれている。龍馬会が、下京区の会社員清水一郎さん(50)の寄付を受けて設置した。龍馬会が建てた石碑は市内で三つ目となった。
 除幕式では、歴史地理史学者の中村武生さん(41)=伏見区=が、この地を「結婚式」の場所とした理由について「お龍本人の回想では、青蓮院塔頭金蔵寺で結婚したとある。本人の証言を疑う理由はなく、金蔵寺跡であるここに石碑を建てるのは妥当」と話した。


奈良
寧楽美術館:竜がクネクネ鬼瓦 依水園の名品展示--開園50年記念し /奈良
 奈良市水門町の日本庭園「依水園(いすいえん)」内にある寧楽(ねいらく)美術館で、同園に伝わる美術品を展示する「依水園の歴史 開園50年を記念して」が開かれている。【花澤茂人】

 依水園は東大寺や興福寺に近接する国の名勝。江戸時代に奈良晒(ざらし)業者の清須美道清(きよすみどうせい)が前園を、明治時代に豪商・関藤次郎が後園を整備した。1939年から貿易商の中村家に受け継がれ、58年から一般公開が始まった。
 今回はふすまや鬼瓦など約40点を展示。園内にある茶室「清秀庵(せいしゅうあん)」の鬼瓦は、07年度にふき替えた際、16世紀から続く京都の焼物師、楽家(らくけ)によって明治時代に作られたものと判明。竜が体をくねらせている姿が珍しいという。
 茶室「三秀亭(さんしゅうてい)」のふすまには、17世紀末に当時の皇族や公家12人が書いたとみられる和歌がある。清須美氏が宮中の最高権力者とも交流があったことがうかがえる。幕末から明治期にかけて活躍した日本画家、森寛斎の描いた「四季花鳥図」のふすまも展示している。
 12月18日まで。午前9時半~午後4時。火曜休館。入館料(依水園入園料含む)は大人650円、中高生400円、小学生250円。問い合わせは同館(0742・25・0781)。


和歌山
江戸末期の東海・南海地震の記録発見
●「生きたる心地なし」

 江戸末期から明治にかけて庶民の生活などをつづった「小梅日記」の筆者、川合小梅(1804~89)が、1854(嘉永7、安政元)年に起きた東海・南海地震による和歌山城下と周辺の被害を書き留めていた。立っていられないほどの大きな揺れ、大砲のような音、何度も繰り返す余震におびえて庭で夜を明かす家族など、当時の様子をうかがい知る貴重な記録となっている。
 この文書は、県立文書館(和歌山市西高松1丁目)の須山高明主幹が、去年12月に小梅の子孫から同館に寄託された雑記などを調べていて偶然、発見した。
 文書には、「嘉永七寅(とら)十一月四日五ツ過(すぎ)(午前8時ごろ)地震大(おおい)ニゆり候ニ付はた(だ)しにて裏へにげ出(いず)。急(きゅうに)西ノ屋根くす(ず)れ瓦落(おち)る(中略)翌五日七ツ過(午後4時ごろ)大地震久しくゆる。庭へはせ出候処(いでそうろうところ)、昨日よりはけ(げ)しく立居(たちい)る事不成(ならず)(中略)大ほうの如(ごと)き音七八声ひびく。何共不分(わからず)。始(はじめ)ハ雷鳴と思ひ(い)、空ハ真暗(まっくろ)ニしてすさまし(じ)く天地之大変ト生(いき)たる心地なし。只(ただ)神仏の御名をとなへおそれいる」と記されてあった。
 また、「(倒壊の恐れのある)自宅に入ることが恐ろしく、庭で家族一緒に一夜を明かすことにした」という内容の記述があった。このほか、聞いた話として「日方・黒江辺(現海南市)に屋根までつかるほどの津波が押し寄せ、家ごと波にのまれた」「大きな石橋は流され、波が引くとタンスの引き出しに魚が入っていたそうだ。雷か地鳴りと思った大きな音は津波だった」などと被害の状況を書いていた。また、「畑は苗床用の土が裂けてはみ出てしまっている」と液状化現象をうかがわせる表現もあった。
 須山主幹は「当時の文献を見ると、11月4日朝は駿河湾沖周辺、翌日午後は四国の南方海域周辺で発生したとあり、和歌山は両方の地震と津波で大きな被害を受けたらしい。いずれにしても、小梅は城下で聞いた話を細かく書き留めており、興味深い内容となっている」としている。
 小梅が東海・南海地震を書き留めていた話は、3回シリーズで催される県立文書館の歴史講座「小梅日記及び雑記にみられる幕末の紀州」の中で、須山主幹が発表する。同講座では、紀州藩の勘定奉行と寺社奉行を兼務していた伊達千広(ちひろ)らが失脚した「嘉永の政変」などに触れた雑記も取りあげられる。
 講座は9月26日、10月3日、同17日といずれも土曜の午後1時半から2時間。無料。往復はがき(9月4日から同22日までの消印有効)で「〒641・0051 和歌山市西高松1丁目7の38、県立文書館 歴史講座係」まで申し込みが必要。先着60人。応募はがきには書式があり、同館(073・436・9540)まで問い合わせを。



大阪
京街道散歩 優谷壽男 63 大阪市都島区
 ぶらりとたこ焼きを買いに出た商店街で、歴史散歩の寄り道をしてしまった。
 場所はJR大阪環状線が国道1号線をまたぐところから北北東に延びている商店街。地元では「京街道」と呼んでいる。大阪城の京橋口と京都とをつなぐ街道の一部である。
 幕末には新撰組の隊士や坂本龍馬も駆け抜けたことだろう。
当時は田や畑に挟まれ、実った稲穂の向こうに、蒲生村や野江村の家木立が、海に浮かぶ島のように見えたことだろう。
 江戸時代の旅する人の姿は、テレビドラマの「水戸黄門」で見る姿か、三度笠をかぶった渡世人の姿がまず目に浮かぶ。
 しかし、暑い日にはどのような姿で歩いていたのだろうか。もろ肌脱ぎの旅人もいたことだろうな。井戸や木陰や休憩小屋もあったのだろうか。(以下略)

 ちなみに、三度笠に縞の合羽という渡世人にお馴染みのあのスタイルは明治以降のものらしいです(みなもと太郎がそう書いてました)。

岡山
箕作阮甫、キャラクター…学力向上シンボル 岡山・津山市教委作成
 岡山県津山市教委は、幕末のペリー来航時に米国書を翻訳するなど、国際的に活躍した津山藩の洋学者で藩医の箕作阮甫(みつくりげんぽ)(1799~1863年)を市内の小中学生の学力向上のシンボルとし、キャラクター「げんぽくん」を作成した。家庭学習の意欲を高めてもらおうと、啓発ビラ「げんぽくんの家庭学習」に生かし、阮甫の誕生日に当たる7日、36の小中学校に配った。
 市教委によると、2008年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)では、家庭でまったく勉強しない小学生の割合が全国平均4・5%に対し、津山市は6・5%。中学生も全国平均7・7%に対して8・3%と高い。同年度の平均点も、同市は小中学生とも全国、県全体の平均点より低かったという。
 市教委は危機感を持ち、郷土の偉人をモデルに「げんぽプロジェクト」を立ち上げ、啓発のほか、来春オープンする箕作阮甫らの業績を顕彰する新洋学資料館の活用などを計画。「げんぽくん」は右手に筆と本、左手にそろばんを持ち、学ぶ意欲にあふれた子どもを表現している。
 配布したビラはA4判。小学生向けには、「げんぽくん」が「宿題は学校で学習した基礎・基本を身につけるために大切な学習」と意義を説明。保護者にも▽毎日、宿題をきちんとしているか▽机上をかたづけているか▽勉強時、家族もテレビを消したり、音を小さくしているか――などの点検項目を示し「宿題をやらないことをしかるより、頑張ったことをほめてあげて下さい!」と呼びかけている。
 阮甫は藩医として江戸で蘭学(らんがく)を学び、翻訳書や著書を刊行。洋学者育成のため幕府が設けた「蕃書調所」の初代教授に任命された。市教委は「偉大な先人を象徴に、確かな学力と豊かな心を持つ子どもたちを育てたい」と話している。


箕作阮甫 キャラクター
 津山市教委は、幕末のペリー来航時に米国書を翻訳するなど、国際的に活躍した津山藩の洋学者で藩医の箕作阮甫(みつくりげんぽ)(1799~1863年)を市内の小中学生の学力向上のシンボルとし、キャラクター「げんぽくん」を作成した。家庭学習の意欲を高めてもらおうと、啓発ビラ「げんぽくんの家庭学習」に生かし、阮甫の誕生日に当たる7日、36の小中学校に配った。
 市教委によると、2008年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)では、家庭でまったく勉強しない小学生の割合が全国平均4・5%に対し、津山市は6・5%。中学生も全国平均7・7%に対して8・3%と高い。同年度の平均点も、同市は小中学生とも全国、県全体の平均点より低かったという。
 市教委は危機感を持ち、郷土の偉人をモデルに「げんぽプロジェクト」を立ち上げ、啓発のほか、来春オープンする箕作阮甫らの業績を顕彰する新洋学資料館の活用などを計画。「げんぽくん」は右手に筆と本、左手にそろばんを持ち、学ぶ意欲にあふれた子どもを表現している。
 配布したビラはA4判。小学生向けには、「げんぽくん」が「宿題は学校で学習した基礎・基本を身につけるために大切な学習」と意義を説明。保護者にも▽毎日、宿題をきちんとしているか▽机上をかたづけているか▽勉強時、家族もテレビを消したり、音を小さくしているか――などの点検項目を示し「宿題をやらないことをしかるより、頑張ったことをほめてあげて下さい!」と呼びかけている。
 阮甫は藩医として江戸で蘭学(らんがく)を学び、翻訳書や著書を刊行。洋学者育成のため幕府が設けた「蕃書調所」の初代教授に任命された。市教委は「偉大な先人を象徴に、確かな学力と豊かな心を持つ子どもたちを育てたい」と話している。





広島
鞆・浄泉寺に「龍馬観音」 いろは丸沈没地点 指さす
住職命名「観光名所に」

 江戸時代の町並みが残る福山市鞆町の浄土宗「浄泉寺」=大仲伸隆住職(60)=に、幕末の志士・坂本龍馬の立像(御影石製、高さ約1メートル)がお目見えした。鞆町は、龍馬ゆかりの地で、同寺にも龍馬が祈願した観音像が大正時代頃まであったと伝えられていることから、大仲住職が、観音像の再建にあわせて建てた。「龍馬観音」と命名し、「鞆の魅力を伝える、新しい観光名所になってくれれば」と期待している。(向井友理)
 市鞆の浦歴史民俗資料館によると、同市鞆町沖では1867年に、龍馬率いる海援隊の「いろは丸」が紀州藩の軍艦と衝突、沈没した「いろは丸事件」が起き、龍馬は紀州藩との賠償金交渉のため同町に滞在した。浄泉寺周辺には、龍馬の宿舎跡や紀州藩との会談にも使われたとされる対潮楼がある。
 龍馬が浄泉寺を訪れ、観音像に交渉の進展を祈願したという話は、記録には残されていないが、寺の檀家の間で語り伝えられてきたという。観音像は大正時代頃まで寺の境内にあったが、当時は寺の近くまで海が迫っており、台風による高波で流されてしまったらしい。
 大仲住職は、呉市の真言宗の寺に生まれ、岡山県笠岡市で学習塾を経営していたが、浄泉寺の先代住職の死去後、知人の檀家総代の紹介で2005年6月に同寺の管理を任された。鞆町で暮らし始めてすぐ、埋め立て・架橋事業を巡って賛成派と反対派が対立する様子に心を痛め、「町を一つにし、盛り上げたい」と考えるようになった。龍馬の夢を見たことをきっかけに、心のよりどころとなる観音像の再建と、龍馬の像のアイデアが結びついたという。
 ただ、当時は真言宗の僧籍しかなく、宗派が異なる寺に観音像を建てることははばかられた。佛教大学(京都市)の通信講座で4年かけて浄土宗の免許を取得し、今春、正式に同寺の住職となり、龍馬観音の製作を業者に発注した。
 8月に完成した龍馬観音は、かつて観音像があったと思われる境内の南東側に設置した。龍馬の像は、いろは丸が沈没した東の沖合を指さしており、像の後ろには対潮楼がそびえている。
 鞆町では、ちょうど、NHK大河ドラマ「龍馬伝」が来年放送されるのを前に、福山市が龍馬を目玉にした観光キャンペーンを展開中。大仲住職は「この時期に龍馬の像を建てたのは全くの偶然。でも、何度も龍馬の夢を見たので、不思議な縁を感じる。龍馬の力を借りて、鞆の魅力を多くの人に広めたい」と話している。


NHK大河ドラマ「龍馬伝」福山ロケ エキストラ募る…広島
 幕末の志士・坂本龍馬の生涯を、福山雅治さんが演じる来年のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」のロケが10月、広島県福山市藤江町のテーマパーク「みろくの里」で行われるのを前に、ふくやまフィルムコミッションは、ボランティアのエキストラを募集している。応募は9月16日まで。
 撮影は10月1日~8日の予定で、小学生からお年寄りまで幅広い年齢層で、数十人を募集。演技経験は必要なく、役によって撮影日や時間が異なり、福山さんと共演出来る可能性もあるという。出演者には記念品が贈られる。
 市観光協会のホームページからダウンロードするか、市役所7階の市観光協会とJR福山駅の福山観光案内所にある専用の応募用紙に必要事項を記入して、郵送か持参で申し込む。
 問い合わせは、同コミッション(084・928・1230)へ。











 陽差しは結構強烈ですが湿度50パーセントを割り、風は結構ヒンヤリしています。室内にいると過ごしやすいです。

宮城
被災の寒湯番所、来月から修復 来年4月公開へ 栗原
 岩手・宮城内陸地震で被災した宮城県栗原市花山の国史跡「仙台藩花山村寒湯(ぬるゆ)番所跡」について、市教委は10月、修復工事に着手する。12月には工事を完了させ、来年4月から一般公開する予定。歴史的価値が高い「地域の宝」の復活を住民たちも心待ちにしている。
 番所跡には、書院造りの座敷を備えた関所守の居宅「役宅」が残る。象徴的な存在は街道をまたぐように立つ表門。間口2.9メートル、奥行き2.6メートルのかやぶき両切り妻造りだ。自然石の上に立てられた6本のケヤキの柱には伊達家の家紋が配されている。
 地震では表門の左右にあった石垣(高さ1.2メートル、長さ約15メートル)がほぼすべて崩れ、柱が礎石から外れた。名跡を記した標柱も倒壊。通行手形や荷物を調べる検断所跡や役宅の周りの石垣も崩れた。役宅は壁に亀裂が入り、ふすまや建具なども破損した。
 修復工事では崩れた石垣を積み直す。役宅の壁は骨組みの竹の損傷具合を調べた上で修理方法を決めるが、竹の交換や壁の塗り直しなどを進める見通し。破損した建具も取り換える。
 市教委は当初、被害が大きいため一部を解体する修復工事も想定。だが昨年9月に文化庁と合同調査した結果、それほどの工事は必要ないと分かった。
 市教委は関連予算として約9600万円を見込む。国から約6700万円の助成を受け、残りを宮城県と市で負担する。
 市教委文化財保護課は「国史跡指定後としては例のない大規模工事になりそうだ。来春の観光シーズンには公開を間に合わせたい」と話している。

[仙台藩花山村寒湯番所跡] 約400年前の慶長年間、秋田藩に通じる「花山越え」の要衝に置かれた仙台藩の関所。藩境の警備、経済統制などのために設けられた。現在の遺跡は幕末期の建築とされる。1963年に国史跡の指定を受けた。


京都
龍馬もっと知って
ゆかりの地バスツアー 生き様紹介本

 京都市内の坂本龍馬ゆかりの地などを巡るバスツアー「龍馬 京の幕末をゆく」を、堀川商店街(上京区)の商店主や職人らでつくる「匠(たくみ)と商人(あきんど)の会」が企画、22日から毎週2回程度で実施していく。はかま姿の龍馬や妻のお龍らにふんした案内人が同行するスタイルで、〈幕末の京都〉が臨場感たっぷりに再現されるよう工夫が凝らされている。
 来年、NHK大河ドラマで「龍馬伝」が放映されるのにちなみ、地域の活性につながればと企画された。同会代表の山内浩一さん(67)が昨年6月から1年かけ、自転車で市内を回り、地元の人らに伝承などを取材。成果をまとめたガイドブック「龍馬 幕末をゆく」(300円)に基づき、コースを設定した。
 龍馬やお龍らにふんした同会のメンバーらが、知る人ぞ知る豆情報を披露しながら京都御所や新選組の壬生屯所旧跡(八木家)などを巡る。龍馬がお龍に自らの無事を知らせるために「龍」の文字を彫ったと伝わるエノキがあり、縁結びに御利益があると人気の武信稲荷神社(中京区)などもコースに組み込まれている。
 同会ではモニターツアーを行うなどして、歴史ファンにも満足してもらえる旅に、と意気込んでいる。
 山内さんは「事前の調査で龍馬の存在を身近に感じることができた。龍馬やお龍になりきって激動の時代の魅力を伝えたい」と話している。
 参加費7500円(昼食代込み)。参加者にはガイドブックも配布する。問い合わせは同会(075・823・2110)へ。
 幕末や明治維新の資料などを展示する霊山歴史館(東山区)の木村武仁学芸員(36)が、坂本龍馬の生き様を紹介する本「ようわかるぜよ!坂本龍馬」(四六判、228ページ)を出版した。
 著書では、江戸に遊学して剣術を極めた青年期から、幕臣・勝海舟と海軍の強化に奔走したことや、薩長同盟の締結、暗殺されるまでの生涯を詳しく紹介。辛くも難を逃れた寺田屋事件の際も最後まで生き残る道を模索した精神力や、海難事故で紀州藩に賠償金を支払わせた交渉力などにも触れた。
 巻頭では、色黒で身長1メートル72と当時は大柄だった龍馬の容姿や、定宿として世話になった寺田屋の女将(おかみ)、登勢の娘による「怖い顔だったが、笑うと愛嬌(あいきょう)があった」などとする人物評を掲載。家族にあてた手紙も掲載し、充実した日々を「すこしエヘン顔をしてひそかにおり申候」などと手紙にユーモアを盛り込んでいたことも取り上げた。木村学芸員は「龍馬は底抜けに明るく、情に厚い性格で、逆境に打ち勝ってきた。ピンチをチャンスに変える精神は、100年に1度の不況と言われる昨今にもヒントになるだろう」と話している。
 京都新聞出版センター発刊、1000円。全国の書店で販売している。


長崎
「くんち資料展」始まる 龍馬ゆかりの重箱など100点
 長崎くんち(10月7~9日)関連のさまざまな資料を展示する恒例の「くんち資料展」が4日、長崎市平野町の市歴史民俗資料館(永松実館長)で始まった。10月18日まで。
 会場には、長崎刺繍(ししゅう)の衣装や現存するくんち資料の中で最も古いとされる太鼓など約100点を展示している。
 目玉の一つ、油屋町傘鉾(かさぼこ)の垂(たれ)は幕末に茶の輸出で財を成し、坂本龍馬と親交があったとされる大浦慶が寄進したと伝えられている。龍馬と後藤象二郎が会談した清風亭のくんち用重箱も展示され、来場者らは興味深そうに見入っている。
 西彼長与町から来た主婦(63)は「歴史的に貴重なものが展示されており、くんちの歴史を感じた」と話した。永松館長は「半分以上が初公開で、見どころはたくさんある」と来場を呼び掛けている。






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