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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日は暖かい一日でしたが、明日は年末頃の寒さだそうな……着込むことになりそうですね。

北海道
松前城攻防戦を解説 松前公園高台ゾーンガイド倶楽部「幕末・歴史コース」新設
【松前】松前公園高台ゾーンガイド倶楽部(くらぶ)(飯田幸仁会長)が12月、松前城落城の攻防戦を解説する「幕末・歴史コース」を新設する。JRとの提携も検討しており、多くの観光客が訪れる観桜以外の観光資源を掘り起こし、松前の通年観光化を図るのが狙い。
 まず土方軍に応戦した松前城の周辺を歩き、新撰組・永倉新八の住居跡、江戸時代の石垣が約130メートル並ぶ仮称「松前藩政石垣群」、旧波止場などを見て回り、最後は土方軍が陣取った法華寺を案内する。12月~3月は役場前発着で、約2時間のコース。
 10月には、JR北海道札幌支社と函館支社の計4人を試験的に案内。飯田会長は「松前が全く違って見えたという感想をもらいました」と話す。
 新コースの料金は12~3月は客1人につき千円、4~10月は順路を変更し、松前藩屋敷や新桜見本園もコースに加え、1500円で案内する。
 他のコースは、基本的に、ガイド1人(20人まで)につき1500円。3月までは、書家金子鴎亭などの書が刻まれた石碑群「北鴎碑林」を回るコースがある。問い合わせは松前観光協会(電)0139・42・2726へ。(大高由裕)
(注)「金子鴎亭」「北鴎碑林」の「鴎」は、正しくは旧字体です。


宮城
■往時の文化知って
石巻・伊藤さん 自宅敷地に資料館 きょうオープン
先祖が収集 幕末から昭和 絵や書100点/

 幕末から明治、大正、昭和にかけての絵や書など、往時の文化遺産を集めた自宅資料館「楊慮原梅圃(うつぎはらうめばたけ)文庫」が28日、石巻市田道町1丁目にオープンする。イコン(聖教画像)など旧石巻ハリストス正教会に関する資料もある。石巻市図書館の庄司恵一主幹は「地域の文化財として貴重なものが多い。特に教会創建当時の資料は価値があり、市指定文化財になるのではないか」と話している。
 自宅敷地内に資料館を開設するのは、伊藤智子さん(70)。自宅の蔵に眠る先祖が保存していた収集品をきちんとした形で残したいと、貸家(約50平方メートル)を改築し、オープンにこぎつけた。
 展示品は、幕末から明治にかけて活躍した絵師河鍋暁斎(1831~89年)の「七福神酒宴図」「カラス」のほか、漢学者大槻磐渓(1801~79年)の扇面書など約100点。フランク安田の父静娯が詩、書画を学んだ儒者赤松寸雲(1817~80年)の作品もある。
 伊藤さんの曾祖父忠右衛門さんが、北上川河口付近の船着き場で商いをしていたこともあり、当時来石した絵師、書家、儒者らが残していったという。河鍋暁斎から忠右衛門さんに届いたはがきも展示する。
 忠右衛門さんはハリストス正教の信者だった。イコンや聖書など旧石巻ハリストス正教会創建当時の貴重な資料もある。
 このほか、伊藤さんの父義男さんが1934年から45年まで開設した山下保育所の写真や、終業式の模様を伝える河北新報、蓄音機やラジオなど懐かしい昭和に触れることができる資料も展示する。
 伊藤さんは「河口で栄えた当時の石巻の生活などを知る手がかりになる資料もある。気軽に立ち寄って見てほしい」と話している。
 入場無料。開館日は毎週土、日、月曜日の午後1時~4時半。年末年始休館。問い合わせは同文庫(22)2563へ。
【幕末から明治などの貴重な資料が展示されている「楊慮原梅圃文庫」=石巻市田道町1丁目】


東京
幕末のイケメン!“土方歳三ワールド”を巡る週末旅
 来年の大河ドラマ「龍馬伝」の影響もありジワジワと盛り上がる“幕末ブーム”。中でも相変わらず人気なのが、新撰組副長の土方歳三だ。くしくも今年は土方歳三没後140年。2009年の最後に、まるっと“土方ワールド”を楽しめる、東京都日野市の高幡不動周辺スポットを紹介しよう!

■“歳三邸”におじゃま!「土方歳三資料館」(日野市石田)

開館日を限定して土方歳三の生家の一部を開放し、歳三の最後の愛刀、和泉守兼定や豊玉発句集など、遺品や関連商品を80点前後展示。2005年にリニューアルされ、歳三が植えたという矢竹が今も茂っている資料館だ。開館日は、第1・3日曜の12:00~16:00と限られているが、ファンなら要チェックのスポットだ。

■歳三を持ち帰ろう!「新撰組グッズ専門店 池田屋」(日野市高幡)

全国から取り寄せたものやオリジナルを合わせて約130のグッズがあり、新撰組ファンも納得の品ぞろえがうれしい店。「歳三まんじゅう」(10個入り・850円)や、「クリアファイル」(各380円)など、おなじみの品はもちろんのこと、「土方歳三資料館限定キューピー」(500円)や、「歳三ビール」(380円)、「男土方新撰組(清酒)」(1680円)など、変り種グッズもたくさんあるぞ!

■歳三を参拝!「高幡不動尊金剛寺」(日野市高幡)

土方家の菩提寺でもあり、境内には、和装姿では日本一大きいといわれる歳三の銅像や殉節両雄の碑が建てられている。お礼所には、歳三グッズもあり、肖像が描かれた「絵馬」や開運厄除守の「歳三ストラップ」(各500円)なども購入できるのだ。

ほかにも、土方歳三の墓と顕彰碑がある「石田寺」(日野市石田)など、歳三の出身地だけあって高幡不動周辺には、ゆかりの地がいっぱい! 今週末あたり、土方歳三をしのびつつ、幕末のアツい思いを感じてみては? 【詳細は11/17発売号の東京ウォーカーに掲載】

■土方歳三資料館(042-581-1493)
日野市石田2-1-3

■新撰組グッズ専門店 池田屋(042-591-9988)
日野市高幡15-11 2F

■高幡不動尊金剛寺(042-591-0032)
日野市高幡733


愛知
補正に火縄銃購入費盛り込む
 新城市議会12月定例会は3日開会し、総額3億8256万円の2009年度一般会計補正予算案や条例案など計17議案を提出する。補正予算案には、設楽原歴史資料館で賃借展示している火縄銃などの資料の購入費や、新型インフルエンザの予防接種助成金などを盛り込んだ。
 火縄銃関連の購入費は、火縄銃55丁のほか文献や付属品なども含む計107点の購入経費。資料はこれまでも豊川市内の収集家に賃料を支払い同館で展示してきたが、売却したい旨の申し出があったため市が買い取る方針を固め、購入費に計4285万円を計上した。
 一番高価なものは日本に数丁しかないとされる幕末の連発気砲銃で、1丁300万円。市の担当者は「(購入されれば)火縄銃の常設展示では日本一のレベルになる」と話す。
 また子どもの医療費について、通院医療費の支給対象をこれまでの9歳から12歳へと拡充するための条例の一部改正案を提出する。
 このほか、旧作手村で医師など医療従事者の育成を目的に運用され、合併後に貸し付けが中止されていた「作手村医療学生等奨学基金」を廃止し、新たに「新城市地域医療再生基金」を設置するための条例案も提出する。


岡山
「板倉勝静とその時代」展:直筆の書幅や愛用品80点--高梁 /岡山
 「没後120年 老中板倉勝静(かつきよ)とその時代」展が高梁市原田北町の市歴史美術館で開かれている。29日まで。
 板倉勝静(1823~89)は陸奥白河藩主の八男に生まれ、備中松山藩主・板倉勝職(かつつね)の養子になり、山田方谷を重用して藩政改革に成功。老中として江戸幕府中枢にあって、大政奉還、戊辰戦争、明治維新と続く激動の時代を生きた。
 今回は、勝静直筆の書幅や扁額(へんがく)、愛用品などのほか、勝静を2度老中に用いるなど信頼が厚かった14代将軍・家茂から授かった直筆の書状や、蒔絵印籠(まきえいんろう)、幕府の公文書、同藩の「い」の馬印(旗印)の型紙や祭具、父・勝職ゆかりの額など80点を展示している。
 入館料は高校生以上500円、小・中学生250円。問い合わせは同美術館(0866・21・0180)。【山本麻美子】


山口
下関市吟剣詩舞道大会:500人、日ごろの成果披露--あす市民会館 /山口
◇多くの来場を
 下関市吟剣詩舞道大会(市、市教委、市吟剣詩舞道連盟など主催)が29日、竹崎町の市民会館で開かれる。

 第32回市長杯合吟コンクールを兼ね、大会名誉会長に中尾友昭市長、大会顧問に湖舟流吟剣詩舞道江湖会宗家の一木湖舟さん、大会会長に市吟剣詩舞道連盟理事長の中野吼関さんらが名を連ねる。

 6部構成で幼少年から高齢者の約500人が出場。独吟のほか、複数による合吟、連吟、剣詩舞など、日ごろのけいこの成果を披露する。今年は幕末の志士で思想家、吉田松陰没後150年とあって、吟詠や吟舞などでその遺徳をしのぶプログラムを組んだ。一木さんは「各会が結集して吉田先生の精神をたたえ、追慕する構成にしました。多くの皆さんに見て、聞いていただきたい」と話す。

 午前9時半開場、同10時開会。入場無料。【三嶋祐一郎】


大分
“維新の舞台”大分 訪れた志士たち
 2010年のNHK大河ドラマは、坂本竜馬の生涯を描く『龍馬伝』。「あこがれの歴史上の人物」として常に上位にランクされる日本史のヒーロー坂本竜馬をはじめ、勝海舟、西郷隆盛ら幕末の志士たちは、実は大分を訪れていた。

 『海舟日記』によると、勝海舟は1864年(文久4年。途中2月20日から元治元年)2月15日に佐賀関に上陸。鶴崎、野津原、久住で泊まりながら、豊後(肥後)街道を通って長崎に渡ったと記されている。熊本城下に着いた19日に「横井(小楠=熊本藩士で儒学者)先生のもとに竜馬を行かせた」との記述があり、当時海軍塾の筆頭だった坂本竜馬と一緒だったことが分かる。
 復路は同年4月4日に長崎を出立。熊本を経て再び豊後街道を通った。当時の記録が大分市佐賀関の徳応寺に残っている。第10世住職の東光龍潭著『日本人物誌』(同寺所蔵)は、勝が蒸気船長崎丸で到着したことを絵入りで紹介。4月10日に勝とともに宿泊した人物として「坂本龍馬」の名を書きとどめている。
 後に竜馬が作った新国家政策案「船中八策」の元となる横井の教えや生涯の師である勝との道中の談議…竜馬の思想は豊後街道で深められていった―。

 勝一行の長崎行きは、米英蘭仏4国による下関攻撃の調停が目的だったがかなわず、4国連合艦隊は同年8月5―7日に下関を砲撃した。このとき佐賀関沖を艦隊が通過していくさまも『日本人物誌』に詳しい。
 艦隊は姫島沖に停泊。姫島で調停に奔走したのが英国留学から帰国したばかりの伊藤博文と井上馨だった。英国領事館の外交官だったアーネスト・サトウは著書『外交官の見た明治維新』の中で「二人の日本の友人伊藤と井上を上陸させた(中略)住民は非常に親切だった」などと記している。
 当時幕府の軍艦奉行だった勝も調停のため、8月14日に姫島を訪れたが、時すでに遅かった。

 西郷隆盛も大分に来ている。竜馬ら大分入りの翌65年のこと。薩長連合をはかる中岡慎太郎は、桂小五郎と竜馬に会うよう西郷を説得。ともに鹿児島で乗船し、海路で下関に向かった。中岡の日記『海西雑記』に「(元治二年閏五月)十八日 豊後佐賀関泊(中略)大島屋に宿す」とある。また『維新土佐勤王史』によると、西郷はここ佐賀関で予定を“ドタキャン”し、大阪に向かったという。
 約150年前、大分もまた維新ドラマの重要な舞台となっていた―。


長崎
長身だった龍馬、等身大タペストリー完成
 長崎県大村市の印刷会社「つじ印刷」が、幕末の志士、坂本龍馬を等身大で印刷したタペストリーを制作し、26日、長崎市に寄贈した。
 27日から、同市の亀山社中記念館に展示される。
 タペストリーは、高知県立坂本龍馬記念館所蔵の写真を印刷したもので、幅約1メートル、高さ約2メートル。身長が1メートル72とされる龍馬の姿が忠実に再現されている。
 この日、辻義宣社長(55)らが市役所を訪れ、田上富久市長に手渡した。「記念撮影でストロボを使っても、反射しない手法で仕上げた」と辻社長。田上市長は「亀山社中記念館を訪れる観光客にも喜んでもらえるだろう」などと礼を述べた。
(2009年11月27日17時29分 読売新聞)



ブックレビュー
【著者は語る】作家・加来耕三氏 『坂本龍馬事典〈虚構と真実〉』
■小説イメージ覆す「孤高の人物」
作家・加来耕三氏
 幕末動乱の時代を、颯爽(さっそう)と駆け抜けた坂本龍馬を、筆者は誰からも真に理解されることなく、生涯を孤独に徹しながら、それでいて最期の瞬間まで己を信じて行動した、稀有(けう)な孤高の人物だと定義してきた。
 このようなことをいうと、奇異に感じられる方がいるかもしれない。
 小説に登場する龍馬は、土佐人独特の明るさ、楽天性をもった人物である。何事にも前向き、積極的だ。伝えられるエピソードの多くも、およそ、暗さや陰湿さとは無縁のもの。幅広い人脈も、龍馬の好感度を示している、と喧伝(けんでん)されてきた。
 一介の土佐藩脱藩の郷士から、幕府きっての開明派、勝海舟(1823~99年)の門人となり、やがて亀山社中、ついで土佐海援隊を率いて、貿易と倒幕運動に活躍。薩長連合(同盟とも)の実現に奔走し、その締結にも立ち会っている。その果たした役柄は、時勢の中でも図抜(ずぬ)けていたといってよい。
 だが、その劇的な期間があまりに短かったため、「坂本龍馬」の研究は質量ともに少許(しょうきょ)で、その演じた役割の特殊性から史料も乏しく、西郷隆盛や海舟ほどには研究されてこなかった。
 だからであろう、わずかばかりの挿話がくり返し語られ、ひと度、ベストセラーの小説が登場すると、それに追従する数多の“龍馬もの”が氾濫(はんらん)。ステレオタイプの龍馬像が、昭和40年代には確立されてしまった。
 それはあたかも、史実の「宮本武蔵」が文豪・吉川英治の作品とイコールであるかのような印象を日本人の多くに与えたのに酷似している。
 文学の世界はそれでよい。しかし、今日なお、歴史の世界では28歳までの龍馬の足取りは、依然、霧中でしかない。
 本書は、可能なかぎり、史実に基づいた龍馬を検証した。
 おそらく、多くの驚きと、納得が得られるに違いない。(東京堂出版/2520円)
                   ◇

【プロフィル】加来耕三
 かく・こうぞう 1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒。同大学文学部研究員を経て、現在は歴史家・作家として、独自の史観に基づく著作活動をおこなっている。主な著書に『諸葛孔明は二人いた 隠されていた三国志の真実』(講談社+α新書)、『評伝 江川太郎左衛門』(時事通信社)、『勝海舟と坂本龍馬』(出版芸術社)など。



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 どこに置いたかわからなくなっていたメガネが見つかり、気持ちも晴れ、視界もすっきりです……どんどん軽量化していましたので、前のメガネをかけると頭が重かったもので(苦笑)、その点でもすっきりです。

北海道
ロケ撮影:「坂の上の雲」、豊富で エキストラで200人参加 /北海道
◇司馬遼太郎の小説が原作
 29日から放送されるNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」の北海道ロケが宗谷管内豊富町で行われている。
 司馬遼太郎の小説が原作。明治維新後から日清・日露戦争時代にかけて、日本海海戦で活躍した連合艦隊参謀、秋山真之と俳人の正岡子規らの青春群像を描く。各回90分ごとの全13話を11年まで3部に分けて放送する。撮影は07年11月に始まり、現在第2部から第3部を撮影中。
 豊富町のロケは16日~12月8日で、サロベツ原野が舞台。日露戦争中の1905(明治38)年、「黒溝台の戦い」で、俳優の阿部寛さんが演じる秋山好古率いる旅団がロシア軍の奇襲を受け苦戦するシーンなどの撮影が行われている。
 撮影現場は銀世界だが、昨年のモンゴルのロケで氷点下15度のブリザードを経験した阿部さんは「北海道に来れば、雪はあるだろうと思っていた。雪原のシーンが撮れ、雰囲気の良い映像になっていると思う」と余裕の表情だった。
 撮影には地元の豊富や稚内などから約200人がエキストラとして参加している。厳寒のロケ地での撮影とあって、地元農協や商工会の婦人部も炊き出しのボランティアを行っている。【金子栄次】


山形
新庄の「篤姫」一冊に
∞薩摩から嫁いだ貢姫 研究家・高橋さん描く

「郷土に誇り持って」
 新庄市の郷土史研究家、高橋雄一さん(76)が、幕末の新庄藩を描いた歴史読本「桃令院貢姫(とう・れい・いん・こう・ひめ)と幕末の新庄藩」=写真=を出版した。「若者が、郷土の歴史ロマンを感じて、自分たちの街に誇りを持てるよう、お役に立てればうれしい」と話している。
 新庄藩の研究をしている高橋さんは、昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」の人気に触発され、「新庄にも篤姫に似た境遇の姫がいたことを知ってほしい」と幕末の動乱期に薩摩藩の姫から新庄藩10代藩主戸沢正令(まさ・よし)に嫁いだ貢姫の波乱の生涯について筆を執った。
 朝日新聞新庄販売所(ASA新庄)が月2回発行するミニコミ紙「新庄朝日」に、「篤姫と貢姫」と題して掲載したところ、読者の反響が大きく、「前後編のつもりだったが、1年間の長期連載になってしまった」という。
 貢姫にまつわる話のほか、勤王の志士や新撰組(しん・せん・ぐみ)が登場して風雲急を告げる文久3(1863)年、御所警護の役で新庄藩士300人が京に上った話にも触れている。そのことについて、戊辰戦史に1行も記述がないことを高橋さんは残念がる。「歴史にIF(もしも)はないが、薩長の志士らと交流していれば……とつい思ってしまう」
 本職はお菓子屋さん。「新庄の菓匠たかはし」代表として、「あじさい煎餅(せん・べい)」など全国菓子博覧会入賞の常連で、業界では知られた人物。約40年前に編集に携わった小学校のPTA新聞の文部大臣賞受賞に気をよくして以来、郷土誌の編集委員としても活躍している。
 郷土史や文化などについて何冊もの著作を出しているが、すべて自費出版。「菓子屋が本でもうけたら、何言われるか分からない」と笑う。
 「桃令院貢姫と幕末の新庄藩」はA5判44ページ。希望者はASA新庄(0233・23・1950)か、菓匠たかはし(0233・22・4080)へ。

 キーワード★桃令院貢姫 薩摩藩主島津重豪(しげひで)の11女。14歳で新庄藩10代藩主戸沢正令(まさよし)の正室に。篤姫の大伯母にあたる。正令との間に3男2女をもうけるが、正令は31歳で病没(貢姫25歳)、桃令院を名乗る。戊辰戦争で新庄藩は、周囲の幕府軍の攻撃で落城。11代藩主の長男の正実とともに、同じ官軍の秋田佐竹藩に落ち延びる。明治24(1891)年、74歳で死去。


福島
サムライが甲冑姿で観光案内/鶴ケ城
 会津若松市は県の緊急雇用創出基金を活用し鶴ケ城で「サムライ」を雇う。
 甲冑(かっちゅう)姿で観光案内し城の魅力アップを狙う。
 3日開会の12月定例議会に費用192万円の予算案を提出する。
 「鶴ケ城サムライ演出事業」と名付け、来年1〜3月の3カ月間、3人を雇用する。
 サムライは常時2人体制とし、観光案内のほか記念撮影に応じるなど観光客に歴史的な雰囲気を体感してもらう。
 入場者数が落ち込む冬場の誘客につなげる。
 また、天守閣の赤瓦へのふき替え、外壁の塗り替えのための観光施設事業特別会計補正予算案も提出する。
 今年度の費用1億9956万円を計上。
 平成22年度にかけての継続事業で、23年3月までには幕末時の赤瓦が再現される。
 工事により天守閣が作業用足場などで覆われ、見えなくなる時期も出る。


河野広中の遺品を孫が三春町に寄贈
 自由民権運動の先駆者河野広中(磐州)の孫河野広明さん(88)=千葉県松戸市=は25日までに、広中が受けた勲1等旭日大綬章や旧三春藩の藩士だった河野家に代々伝わる名刀など遺品155件約330点を三春町に寄贈した。
 広明さんは「子どもがいないために今後歴史的に重要な品々が分散してしまうことが懸念される。
 すべてを古里三春町に寄贈し有効に活用してほしい」と、妻高子さん(85)と相談して申し出た。
 寄贈品は町自由民権記念館に収蔵される。
 すでに広明さんは約200点の書物や文書、遺髪、戊辰(ぼしん)戦争時に着ていた陣羽織などを町に寄贈している。
 町は広中をはじめ多くの運動家を輩出し、町内には広中を顕彰する銅像や自由民権記念碑が建立されている。
 記念館には元郡山女子大短期大学部教授で自由民権運動研究家の故高橋哲夫氏が収集した貴重な資料も展示されている。



栃木
県内戊辰戦争の攻防本に 宇都宮の阿部さん自費出版
【宇都宮】上戸祭町の会社顧問阿部俊夫さん(67)はこのほど、県内の戊辰戦争史跡をまとめた「維新黎明 慶応四年」を自費出版した。丹念に史跡をたどって写真を撮影し、紹介文と地図を加えた労作。阿部さんは「風化しつつある歴史を伝えたい」と話している。
 慶応4(1868)年3月の梁田(足利)の戦いから同年8月の旧幕府・会津藩軍の横川(日光)撤退まで、約半年間続いた本県での戦い、特に今市周辺での攻防に焦点を当てた。約半年間の出来事を濃密に掘り下げ、既存の書籍には掲載されていない内容も盛り込んだ。
 クマを警戒しながら旧道を探して単独で山中に分け入ったり、当時の話を伝え聞く人を捜し歩いたりと、情報を足で集めた。戦死者の墓の場所の説明では、寺院名だけでなく墓地のどこに墓が配置されているかまで自作の地図で示した。「史跡巡りのガイドブック的な使い方もできると思う」と話す。
 旧今市市出身の阿部さん。3年ほど前に戊辰戦争の本を読んだのをきっかけに「郷里での出来事をもっと知りたい」と思い立ち、調査にのめり込んでいった。個人的なファイルとして記録していたが、その出来栄えを見た知人から出版を勧められたという。
 阿部さんは「本にまとめたことで、新しい情報も寄せられるようになった。これからも調査を続けたい」と話している。本はA4判334ページ。市販はしていないが、問い合わせは阿部さんの電子メールmeribel@amber.plala.or.jpへ。

 これ、読みたいなぁ……。

茨城
水戸開藩400年記念イベントにひこにゃん登場-桜田門外の変の因縁越える /茨城
 水戸藩開藩400年を祝うイベントが11月24日まで水戸市内各所で行われ、メーン会場に彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」が登場。歴史の因縁を乗り越えたゆるキャラの登場に多くの市民が声援を送った。(水戸経済新聞)
 ひこにゃんは彦根の名産品を抽選で来場者にプレゼント。握手したりカメラに収まるなど愛嬌(あいきょう)を振りまいた。全国的な知名度を誇るキャラクターとあって若い女性や家族連れなどからプレゼンを受ける場面もあり、訪れた市民のハートをつかんでいた。
 幕末期に水戸藩は大老井伊直弼の「安政の大獄」を受け、それに対する大老暗殺の「桜田門外の変」が起きるなど彦根藩とは因縁の間柄。過去のわだかまりを捨てるために1968(昭和43)年に両市は親善都市関係を結んでいる。
 今回は水戸徳川家、彦根井伊家や水戸家の分家である高松松平家の子孫も一堂に会しシンポジウムや幕末関係者の墓参、物産展などを開催。加藤浩一水戸市長は「来年は桜田門外の変150年。井伊大老のお墓参りに行きたい」と話した。



東京
ソメイヨシノ観光大使:豊島区観光協会が募集 /東京
 豊島区観光協会は、桜の代表種「ソメイヨシノ」の発祥の地である同区をPRしようと、観光大使を募集している。
 江戸時代、同区駒込染井地域には植木屋が多く、菊やツツジなど四季折々の花を楽しめる名勝地として知られていた。ソメイヨシノは、幕末から明治初期にかけて「染井」の植木屋が全国に広めたことからその名がついたと言われる。昨年から「ソメイヨシノのイメージにふさわしい観光大使」を選出し、区内外でさまざまなPR活動を繰り広げている。
 今回は、来年2月末から2年間の「2代目観光大使」を募集。資格は(1)豊島区に在住・在学・在勤している(またはしていた)人(2)2年間の任期中、留学予定などのない人。締め切りは30日必着。問い合わせは、コンテスト事務局(03・3981・5849)へ。【田村彰子】


【10年前のきょう】日本最古のモールス電信機、145年ぶりに実験成功
□1999・11・26=1面

 郵政省郵政研究所(当時)によって機能修復が行われた日本最古のモールス電信機が25日、東京・大手町の逓信総合博物館で、嘉永7(1854)年以来145年ぶりになる通信実験に成功した。この電信機は「エンボッシング・モールス電信機」と呼ばれるもので、幕末にペリー提督から徳川幕府に献上され、横浜で、アメリカ人技術者の手により通信実験に成功していた。


神奈川
帆船日本丸が「アンベンディング・セイル」-帆の取り外し作業
 日本メモリアルパーク内の「帆船日本丸」(横浜市西区みなとみらい2、TEL 045-221-0280)で11月28日と29日、帆(セイル)の取り外し作業をおこなう「アンベンディング・セイル」が開催される。
 アンベンディング・セイルは船舶としての資格を維持する船体整備を行う為の準備作業で、畳1,245枚分に相当する29枚すべての帆をマスト、帆桁(ヤード)から取り外す。
 当日は、最も高いところで海上から約40メートルあるヤードにボランティアスタッフが登り、手作業で帆を取り外す。作業は11時~16時頃(悪天候の場合は12月5日、6日に順延)。アンベンディング・セイル実施の2日間、帆船日本丸は臨時休館。


富士登山古道を「復刻」
 藤沢市亀井野4丁目の編集者、畠堀操八さん(66)が自分の足で復活させた富士登山道「村山古道」の全経路を記した地図を出版した。03年から2年がかりで踏破した道は、平安時代に修験者らが開いたとされる。人が歩くことで維持される部分があり、「みんなが歩いてくれれば」と期待する。
(山本真男)
 畠堀さんによると、村山古道は富士市・田子の浦の海岸から富士宮市・村山地区を経て、富士山の新六合で一般の登山道と合流し、山頂に至る50キロほどの道のり。歩いて登ると2泊3日かかる。
 一般的な行程だと、初日は田子の浦から標高500メートルほどの村山まで。舗装された道だが、10時間以上かかる。
 2日目は村山から標高2500メートルほどの新六合まで。スギやヒノキの人工林、多様な樹木が生い茂る国有林の間を登る道は雨が降れば水路のようになり、風が吹けば木が倒れてふさがってしまう。登山支援の施設がなく、早朝に出て日暮れに着くかどうか。
 3日目に登頂して可能な場所から車で下山するのがお勧めだという。
 村山から新六合までの道筋には明治維新以降の社会の移り変わりも見てとれる。山岳信仰と密教が融合した山岳修験の僧たちは、村山にある富士山興法寺大日堂から仏像やお堂など様々な仏教施設を沿道に作っていった。
 ところが、維新の際の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で仏教施設は破壊されてしまう。畠堀さんは地元の古老らの協力も得て、施設の跡や打ち割られたままの石像などを探し出している。
 森では高度成長期を中心にして盛んに伐採が行われたらしい。一方で、幹回りが3メートルを超すブナ、カツラ、サクラ、モミ、カラマツなどの巨木が残っている。「中に空洞ができた古木で伐(き)っても値がつかないので放置されたのでは」と畠堀さんはいう。
 縦108センチ、横38センチの地図は国土地理院の2万5千分の1の電子地図8枚をパソコンで張り合わせ、赤線で村山古道を記した。名所や目印などカラー写真50枚もはめ込んだ。間違えやすそうな場所には拡大図をつけ、ホテルや宗教施設、博物館、キャンプ場などの連絡先もつけた。
 3年前には古道復活の軌跡をまとめた「富士山村山古道を歩く」を出版した畠堀さんは今も年に5、6回、ガイドや「パトロール」のため村山古道を歩く。地図は地元の小中学生にプレゼントした。「最近は総合学習の時間で歩いてくれます」と笑った。
 税込みで千円。申し込みは〒252・0813 藤沢市亀井野4の12の44、NPO法人「シニア大樂(だいがく)」・山樂(さんがく)カレッジ(FAX0466・83・1373)へ。


横須賀芸術劇場で「ミュージカルオペラ・龍馬」-歌・ダンス・よさこいが融合 /神奈川
 横須賀芸術劇場(横須賀市本町3)で12月1日、幕末の風雲児・坂本龍馬の生涯を描いた「ミュージカルオペラ・龍馬」が上演される。主催は同実行委員会。10月下旬より高知・東京・横浜で順次上演され、横須賀が最終公演。(横須賀経済新聞)
脚本=ジェームス三木さん、演出=江守徹さん、音楽=小六禮次郎さん、総合プロデューサー=岡本光正さん。キャストは「龍馬」にバリトン歌手・平良交一さん、「勝海舟」に野口五郎さん、「龍馬の妻・おりょう」に元宝塚・森奈みはるさん、「中岡慎太郎」に野村将希さんのほか総勢40人が出演。
 1853(嘉永6)年、浦賀沖に現れたペリー提督率いる米海軍艦隊。「黒船来襲」に騒ぐ武士集団が「攘夷(じょうい)」を叫ぶ。数年後、龍馬は勝海舟との運命的な出会いにより、自らの進むべき道を見つける。幕末動乱の時代を33歳の若さで駆け抜けた龍馬の生涯。歌と踊りと「よさこい」のリズムの中でドラマが展開する。
 岡本プロデューサーは「オペラとミュージカルとダンスとよさこいの融合という、無謀な挑戦」を試みたという。主役にオペラ歌手を起用し、ミュージカル界のトップスターとスガ・ジャズダンス・スタジオのコラボレーションによる舞台は華やかでエネルギッシュなもの。ダンサーたちは舞台から客席へ降りて、「よさいこ」「ええじゃないか」などを踊り回り、観客と舞台とが一体となる。
 同実行委員会は「世界中が元気をなくしているいま、私たち日本人を元気にしてくれる龍馬の物語と引き継いだ夢は世界の人々にも感動を与え、元気づける」とし、「世界公演も視野に入れている」という。
 開演時間は18時~。チケット料金はSS席=12,000円、S席=10,000円、A席=5,000円。問い合わせは「龍馬」東京オフィス(TEL 03-5284-8440)まで。



滋賀
彦根市に金亀会館寄付 講演、学習の場に活用へ
 彦根藩校の現存する唯一の建物で彦根市指定文化財の同市中央町、金亀会館(宗教法人・本願寺金亀会館所有)が市に寄付された。
 金亀会館は1799(寛政11)年に藩校「稽古館」として開講し、のちに「弘道館」に改称した藩校の講堂に当たる建物。木造瓦ぶきの平屋で約260平方メートル。大正期に書院が増築された以外はほとんど手を加えておらず、傷みが激しく、市は2013年度までに保存修理を行い、講演会や学習会の場として活用する方針。
 藩校では儒学や国学に加え、洋学を取り入れるなどして藩士教育が行われ、幕末の大老・井伊直弼も15歳のころから学んだ。教授陣には儒学者の龍草蘆(たつそうろう)、直弼の開国論に影響を与えた中川禄郎や直弼の腹心で国学者の長野義言がいた。
 (伊藤弘喜)


彦根藩校「弘道館」講堂、寄付
西本願寺系寺院から市に

 滋賀県の彦根藩の旧藩校「弘道(こうどう)館」で唯一現存する建物が、所有する西本願寺系の寺院から彦根市にこのほど寄付された。幕末の大老で13代藩主の井伊直弼(なおすけ)も学んだ市指定文化財。市は保存修理の後で「現代の藩校」として再生し、市民向けの講演会や学習会などで活用するとしている。

 ■「教育施設で再利用へ」

 寄付されたのは「金亀(こんき)会館」(彦根市中央町)で、1794(寛政6)年に設立された藩校の旧講堂。幕末には直弼が15歳ごろから通い、後に腹心になる国学者の長野義言(よしとき)や、直弼の開国論に影響を与えた学者の中川禄郎らに教えを受けた。
 建物は、国学や洋学の講義を行った本堂のほか、書院や物置など延べ床面積約290平方メートル。市が11月初旬に建物を引き取り、今後、歴史まちづくり法の認定計画プランに基づいて国から補助金を得ながら、2011年度から3年間で保存修理を進める方針。
 これまでの所有者は西本願寺の直属寺院「本願寺金亀会館」(彦根市中央町)。1871(明治4)年の藩校廃校後、彦根城近くから現在地に移転させて布教に用いてきたが、老朽化で維持管理が困難になったため、市に寄付した。
 藩校は明治維新後に大阪府知事や沖縄県令を歴任した西村捨蔵(すてぞう)、明治の三筆とされる日下部鳴鶴(めいかく)らを輩出している。市は「かつての藩校の歴史を紹介するとともに、地域の教育施設として再利用したい」としている。


和歌山
徳川御三家附家老サミット:新宮市が参加 5市で応援協定を締結 /和歌山
◇大規模災害時に食料、車両を提供
 新宮市は、全国の5市で構成する「徳川御三家附家老(つけがろう)サミット」に参加、大規模災害時の相互応援協定を結んだ。
 サミットは、茨城県高萩市が提唱し、今月7日に同市で初開催された。新宮、田辺、愛知県犬山、岐阜県海津の各市を加えた5市が参加。「附家老の歴史を顕彰し誇りと郷土愛をはぐくむ」などとするサミット宣言を採択し、相互応援協定を締結した。応援の内容は、食料や飲料水などの提供、救助活動に必要な車両の提供など。
 附家老は徳川家康が幕藩体制を強化するため、御三家(尾張、紀州、水戸)の中枢に、側近5人を据えた。これが附家老5家(新宮藩・水野家など)と呼ばれ、明治維新を経て現在の新宮市や高萩市につながる。【神門稔】


兵庫
山田風太郎直筆原稿、新たに3編/但馬
 「忍法帖シリーズ」で知られる旧関宮村(現養父市)出身の作家、山田風太郎(1922~2001)の直筆原稿3編が見つかった。今年10月にも2編が確認されており、相次ぐ発見に地元の関係者は沸いている。
 3編は「人間臨終図巻」(400字詰め原稿用紙180枚)、「笊(ざる)ノ目万兵衛門外へ」(同78枚)、「拝啓奈良本先生」(同7枚)。いずれも東京の自宅の物置から遺族が見つけ、養父市関宮の山田風太郎記念館に寄贈した。
 「人間――」は、歴史上の人物900人の死に様を描いたノンフィクションで、10月にも170枚が見つかっていた。「笊ノ目――」は幕末の坂下門外の変でかつての主君だった老中を暗殺する同心を描いた短編時代小説。72年に月刊誌「問題小説」に掲載された際の全編が残っていた。
 「拝啓――」は、風太郎の旧制豊岡中学時代の恩師で歴史学者の奈良本辰也との思い出をつづった未発表の随想。不良学生だった風太郎の文章を激賞し、励ましてくれた奈良本先生と過ごした1年間を手紙形式で回想している。
 29日まで、同記念館で開かれている特別企画展で展示されている。28日午後1時半からは近くの関宮公民館で推理作家の有栖川有栖氏の記念講演会もある。問い合わせは同記念館(079・663・5522)へ。


山口
「タウン情報Yamaguchi」10年の歴史に幕
 県内全域を対象とした初めての情報誌「月刊タウン情報Yamaguchi」が、25日に発売された12月号を最後に10年にわたる歴史に幕を閉じる。
 発行するザメディアジョン(広島市)によると、同誌は1999年11月、「山口をもっと知りたい、楽しみたい、元気にしたい」をテーマに創刊。県内の観光やグルメ、ショッピングなどの情報を盛り込み、約4万3000部を発行している。部数の減少はないが、不況の影響を受け、広告収入が減ったのが休刊の一因という。
 最終号(通巻120号)は、鍋料理やクリスマスイベントなどの情報のほか、幕末の史跡を巡る「幕末ドライブ」などの過去の特集や企画を通して10年間を振り返っている。
 同社は「新しい媒体などで、今後も山口に良質な情報を発信したい」としている。


奇兵隊の元調練場 祀られる同志391柱
 1864年(元治元年)8月、英仏米蘭4か国連合艦隊17隻が下関を砲撃。雷が一度に百個も落ちたほどのすさまじさだったという。長州藩は多くの犠牲者を出した。
 源平の戦いでも知られる壇ノ浦あたりは激戦地だったが、現在、気持ちいい公園だ。青空と海、周囲の緑が美しい。敷地には長州砲のレプリカが。多くの船が行き交う関門海峡は、思った以上に対岸の九州が近く、潮の流れがとても速い。激動の幕末、この景色を毎日眺めた長州人の中に「自分も何かせねば」という思いが、むくむくとわいてきたのか。
 脱藩の罪で高杉家の座敷牢(ろう)にいた晋作は、藩の要請で家老の養子「宍戸刑部(ぎょうぶ)」を名乗り、連合軍との講和交渉にあたった。300万ドルもの賠償金要求に対して、晋作は、「攘夷(じょうい)は朝廷の意思、責任は幕府にある」とガツンと言ってのけ、支払いを拒否。あまりの迫力に連合軍側から一目置かれたという。
 桜山神社には、奇兵隊が戦死した同志の神霊を祀(まつ)った招魂場がある。ここは隊の元調練場で、招魂場となって後、桜を植えて桜山と呼ばれるようになった。祀られているのは391柱。中央が吉田松陰、両側が高杉晋作と久坂玄瑞。武士も庶民も柱はみな同じ大きさだ。20代の若者が多いことに、時代の激しさを実感した。(ペリー荻野 コラムニスト)



熊本
「横井小楠の平和思想知って」 米大統領あてに冊子 熊本市の徳永さん 首席領事に20冊寄贈
 肥後藩出身の儒学者、横井小楠(1809-69)の思想をオバマ米大統領に知ってもらおうと、熊本市良町の小楠研究家、徳永洋さん(59)が復刻した日英2カ国語の冊子を、在福岡米国領事館のマルゴ・キャリントン首席領事に寄贈した。
 徳永さんは今年、幕末に世界平和を唱えた小楠の思想を紹介するため、県教委が1949年に日本語、英語版で発行した冊子「横井小楠先生を偲(しの)びて」を1冊にまとめて復刻。大統領が今年4月にチェコのプラハで「核兵器廃絶演説」を行ったことから、「核のない世界実現に向けた取り組みの参考にしてほしい」と寄贈を決めた。
 首席領事との面会は県の山本隆生教育長らの仲介で19日、福岡市の同領事館で実現。くまもと横井小楠塾塾長の高宗昭敏・東海大名誉教授とともに、オバマ大統領あての冊子20冊を手渡した。首席領事は「努力します」と答え、日本国内の大使館や領事館でも活用する考えを示したという。
 徳永さんは「世界平和や、国民の利益になる政治の実現を訴えた小楠の思想は、現代でも通用する普遍的なもの。150年前に大統領と同じ思いを抱いていた日本人がいたことを知ってほしい」と話している。


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(38)東大教授・山内昌之 山川健次郎
■白虎隊総長の嘆き

 民主党政権の選んだ仕分け人が各省庁予算の無駄を舌鋒(ぜっぽう)鋭くチェックする風景は、大方の国民の喝采(かっさい)を博している。
 しかし、迫力満点の蓮舫参院議員らがスーパーコンピューター予算について、「なぜ、世界一を目指すのか」「世界で2番目ではダメなのか」とやったのには仰天した。聡明(そうめい)な蓮舫氏のことだから、わざと人びとの耳目をひきつけるべく、あえて非常識な問いを発したのかもしれない。
 彼女らの問いは、日本が国として一流である必要はなく、わざわざ苦労せずとも二流であれば、まずまずよいというのに等しい。
 日本に限らず、科学の発展は国や国民を豊かにしたいという学者の夢や抱負から始まった。その結果、地球上に科学が広がっていったのだ。のんきに待ち構えていれば、どこかの国の誰かが最先端技術を親切に教えてくれるという奇特な世界ではない。今でも自助努力をしない国が取り残されるのは自然の成り行きなのである。

◆仇敵同士が補完しあう

 東京帝国大学で26歳の若さで日本人最初の物理学教授になった山川健次郎は、15歳で白虎隊に入った武士(年少で除隊)であり、政治家として国家のために働く理想をもっていた。
 しかし、戊辰戦争でも最悪の“朝敵”と目された会津藩士には政界や官界で成功する道は狭かった。そこで健次郎は、北海道開拓使の黒田清隆に見込まれてアメリカに留学したのだった。薩摩の黒田が会津の若者を引き立てたあたり、仇敵(きゅうてき)同士が互いに長所や才能を補完しあう世界史でも珍しい美点が明治新政府にあったことは率直に認めるべきだろう。
 滞米中の健次郎ら日本の若者は両刀を書物に換えて猛勉強に励み、素行の良さも絶賛された。アメリカ人篤志家がわざわざ援助を申し出た条件は、帰国後に国家のために尽くすというただ一事である。幕末明治の先人たちは総じて国のために尽くすという意識も強く、健次郎も大学や学術が国家のためにあると考えていた。

◆自ら辞職し円満処理

 しかし、これは偏狭なナショナリズムというより「武士のリベラリズム」ともいうべき廉潔さに由来していた。実際、明治36(1903)年の七博士事件で東大の戸水寛人(とみず・ひろんど)教授が休職を命じられたとき、学問の国家性を強調する文部大臣と大学の自治を掲げた教授たちとの間を調停した態度は毅然(きぜん)としていた。健次郎は自ら辞職して問題の円満処理を心がけたからである。
 健次郎は、学問の府への公権力の干渉を排除する信念の人であり、学問の自主性や大学の自治を守る立場の学者の間でも人望の篤(あつ)い人であった。ちなみに七博士は、桂太郎内閣の軟弱をそしり、対露即時開戦を唱え、戸水は満州の占領とバイカル湖以東の露領割譲を強く求めたのである。

◆万事にリアリズム

 健次郎は、日露戦争が起きると、東大総長でありながら陸軍の一兵卒に志願し人事担当者を困惑させたように、個人としては熱烈な愛国者であったが、それで公の判断が依怙(えこ)になることはなかった。古武士が合理主義を尊ぶ物理学者になった感もある健次郎は、物理学者として万事にリアリズムの心を失わず、七博士のように非常識な「対外硬」にはくみしなかったのだろう。
 これは、妹の山川捨松(すてまつ)(大山巌元帥夫人)と違って、彼がキリスト教を受け入れなかった懐疑的立場にもつながるものだ。
 さて蓮舫氏の発想は、中国経済に日本が抜かれても当然という鳩山首相の発言にも通底するのではないか。国家意識が希薄というよりも国家観念の欠如を訝(いぶか)しがられる宰相というのも、世界史上で珍しい。
 健次郎のように戊辰戦争で辛酸を嘗(な)めながら新国家建設に学業面で尽くした先人たちが2人の軽すぎる発言を聞けば、はらはらと落涙して世の移ろいを嘆くに違いない。事によれば激怒して面罵(めんば)さえ辞さないかもしれない。(やまうち まさゆき)
                   ◇
【プロフィル】山川健次郎

 やまかわ・けんじろう 安政元(1854)年、会津若松生まれ。戊辰戦争で白虎隊に加わるが、年少だったため除隊させられる。東京に出て苦学し、明治4年に北海道開拓使から選ばれ渡米、エール大で物理学を学ぶ。帰国後、東京開成学校(東大の前身)教授補をへて東京帝大教授。日本初の理学博士となる。34年に東大総長となり、教育行政に尽力するが、日露戦争の講和政策批判騒動をめぐって辞任。九州帝大総長をへて大正2年に東大総長に復帰。一時、京都帝大総長も兼任。のちに貴族院議員、枢密顧問官も務めた。昭和6(1931)年、78歳で死去。

 毎週楽しみに読んでいる連載コラム。立見鑑三郎につづいて山川健次郎が紹介されるとは嬉しいです。

エンターテインメント
歴女必携?戦国/幕末系の楽曲をハウスアレンジ
 歴女のみなさま、ご機嫌麗しゅうございますでしょうか。まさに貴方のために作られたCDの登場です。その名もずばり、『ANIME HOUSE PROJECT~戦国・幕末MIX~』。戦国・幕末系の楽曲をハウスアレンジしたアルバムなのでございます。
 要は、今話題というべき戦国/幕末に関連したアニメ/ゲーム/ドラマの楽曲をピックアップ、今最も新鮮なハウスミュージックにアレンジしたコンピ作品だ。戦国/幕末関連作品といえば、TVアニメ「戦国BASARA」、TVアニメ「銀魂」、大河ドラマ「天地人」などのテーマ曲。ハウスミュージックにアレンジとはいいつつも、楽曲制作には太鼓や尺八、三味線といった日本古来の楽器を積極的に起用、現代音楽と戦国/幕末感を融合させるべく、個性的な仕上がりとなったようだ。
 制作陣にはトーキョー・クラブシーンをバックボーンに持ち、特定のメンバーを持たない有機的なアート&サウンドプロデュースユニットNORISHIROCKS等を迎え制作された。またジャケットデザインには、携帯電話きせかえサイト「戦国×幕末恋絵巻」で人気ナンバー1のアサヒ氏を起用、美麗な戦国武将が目を引く作品となっている。

ANIME HOUSE PROJECT~戦国・幕末MIX~
オムニバス
『ANIME HOUSE PROJECT~戦国・幕末MIX~』
2009年11月25日発売
ATCD-26001 ¥1,680(税込)
1.JAP/Alice,D-Newt
※TVアニメ「戦国BASARA」OPテーマ
2.ウォーアイニー/NORISHIROCKS
※TVアニメ「銀魂」EDテーマ
3.1/3の純情な感情/Alice
※TVアニメ「るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-」EDテーマ
4.修羅/NORISHIROCKS
※TVアニメ「銀魂」EDテーマ
5.甲賀忍法帖/NORISHIROCKS
※TVアニメ「バジリスク~甲賀忍法帖~」OPテーマ
6.HEART OF SWORD ~夜明け前~/Alice
※TVアニメ「るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-」EDテーマ
7.DIVE into YOURSELF/Alice
※PS2ゲーム「戦国BASARA2」OPテーマ
8.天地人~オープニングテーマ/NORISHIROCKS
※大河ドラマ「天地人」OPテーマ

 「戦国/幕末系」って音楽ジャンルがあるんですか(苦笑)。個別には好きな曲が入っているんだけどなぁ……『銀魂』のED『修羅』とか。





 天気が下り坂になる前に、4キロほどのサイクリングをしてきました……といっても、ママチャリでちんたら移動しただけですが。
 地元の主婦に大人気のスーパーオオゼキで、駐車場警備のおじさんに自転車のタイヤに空気を入れてもらっただけでなく、タイヤの空気を入れるところに欠けていたゴム部品を手作りでつけてもらいました……感謝!

北海道
アイヌ文化の粋230点 京都で企画展、伝統舞踊も披露
 アイヌ民族の文化を紹介する関西では初の大がかりな企画展「アイヌの美-カムイと創造する世界」が23日から、京都市中京区の京都文化博物館で始まった。初日は同館で「アイヌ文化フェスティバル」も開かれ、道内の団体が伝統の踊りなどを披露した。
 この企画展は先に函館と帯広でも開催。道外では唯一の巡回開催で、ロシアの2カ所の博物館と美術館が所蔵する工芸品など約230点を展示している。
 独特の文様が美しい樹皮の衣服や木彫りを施した刀、装飾品などは20世紀初頭に、ロシア人がサハリン(樺太)と日高管内平取町で収集した品。幕末の函館で活躍した絵師平沢屏山(びょうざん)がアイヌ民族の人たちを描いた珍しい絵画12点も公開され、北海道の歴史の一端を来場者に伝えている。
 展示は来年1月11日まで(月曜休館)。



秋田
神社境内でナギイカダが狂い咲き にかほ市
 にかほ市象潟町の古四王(こしおう)神社の境内で、ナギイカダが春に続いて花を咲かせている。ナギイカダは葉のような形をした枝に花を付けることから、ハナイカダとともに「葉に咲く花」で知られる観賞用植物。直径3ミリ程度の小さな花の狂い咲きが、住民らを驚かせている。
 ナギイカダはユリ科の常緑植物で、丈は30〜40センチほど。通常は3〜4月に緑色の花を咲かせ、9〜10月に赤い実を付ける。近所の住民が狂い咲きを見つけたのは今月上旬。境内を囲う垣根の中で、一部の「葉」の上にかれんに咲き誇っている。
 原産地は地中海沿岸地域で、日本には幕末から明治初期にかけて渡来したとされる。象潟地域では同神社のほか、蚶満寺など寺社仏閣を中心に植えられている。
 植物に詳しい元象潟町郷土資料館長の横山正義さん(71)=同市象潟町=は、「ナギイカダは北前船による物流で象潟に運ばれてきたのではないか。葉に花を付けたような容姿が珍重されたほか、緑色を年中保つことが縁起の良さと結び付けられ、神仏を信仰する人たちに好まれたのかもしれない」と話している。



岩手
千葉周作の子孫来市
「古里」に初めて集う
生家の村上氏と宗家の小西氏も

 陸前高田市気仙町が生誕の地とされる幕末の剣豪・千葉周作を顕彰する今年の少年剣道錬成大会に合わせ、横浜市在住の子孫が二十二日に同市を訪れ、生家とされる村上家の親類をはじめ、創始した北辰一刀流宗家と談笑した。周作をめぐる関係者が〝古里〟で顔をそろえたのは今回が初めて。
「これを機に周作の絆をさらに深めていきたい」と、剣豪としての祖先の姿に思いをはせた。
 周作から数えて五代目に当たる子孫は、横浜市で鉄工所を営む熊木慶忠さん(73)。妻の歌子さん(70)とともに初めて同市を訪れた。
 以前から周作の子孫であることは知っていたものの、剣道とは縁の遠い生活を送ってきた。ところが、周作の弟にあたる定吉に師事した坂本龍馬の本を読み、北辰一刀流の道場・玄武館が都内にあることを知った。
 このため、三カ月ほど前に同館へ足を運び、館長で北辰一刀流宗家六世の小西真円一之(こにし・しんえんかずゆき)さん(46)をはじめ、周作が生まれたとされる村上家の子孫で同館の名誉顧問を務める村上清さん(50)=希望王国いわて文化大使、陸前高田ふるさと大使=と知り合った。
 その上で、周作の古里で毎年剣道の錬成大会が行われていることを聞かされ、今大会の開催に合わせて同市を訪問。気仙町にある「生誕の地」の石碑などを見て歩いた。
 夕方には高田町にある村上さんの父親・俊一さん(78)宅で親類や関係者ら約二十人が集まって懇親会が開かれ、中里長門市長や戸羽太副市長もかけつけた。
 席上、玄武館の新しい看板に使用する材料を寄贈した矢作町の村上製材所(村上富夫さん経営)に小西館長から感謝状が贈られた。
この看板は横二㍍、縦四十五㌢、厚さ五㌢の「神代ケヤキ」と呼ばれる貴重な材。今後、何十年と同館で技術をみがく剣士たちを見守っていく。
 周作を縁に新たな交流が生まれた熊木さんは「私の伯父がこの陸前高田市を訪れたことがあることは知っているが、私ももっと早く来てみたかった。東京生まれで東京育ちの私にとって、これまでは古里というものがなかったが、これで私にも古里ができました」と目頭を熱くしていた。
 清さんは「初めて周作を中心とする関係者が集うことができたことは大変うれしい。錬成大会は今年で十八回目を迎えたが、これを機会に二十回記念大会では少年剣道の世界大会を開くことなども検討し、陸前高田市を広くPRしていきたい」と語り、宗家の小西館長は「きょう(二十二日)は私の誕生日。千葉(周作)先生の導きによって関係者が集まることになったのでは
ないか」と話していた。
 懇親会では、先月末に大船渡市でもロケが行われた来年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』が話題となった。というのも、主演の人気ミュージシャン・福山雅治さんら出演者に対し、小西館長はじめ師範が北辰一刀流の本格指導を行っているもので、ドラマでは小西館長も出演することになっているという。


神奈川
大・開港展:閉幕 3万5千人が至宝堪能 横浜
 横浜美術館(横浜市西区)で、横浜開港150周年と開館20周年を記念して開かれていた「大・開港展-徳川将軍家と幕末明治の美術」(毎日新聞社、財団法人徳川記念財団など主催)が23日、閉幕した。約2カ月の会期中に約3万5000人が入場、幕末-明治のびょうぶ絵や工芸品など約230点の至宝を堪能した。
 最終日に来場した同市港北区の会社員、菊地雅幸さん(40)は「美術品を実際に見ることで、歴史のつながりを感じることができた。面白かった」と満足そうに話した。



香川
障害者の願いおしゃれに
 障害があってもおしゃれを楽しんでほしい。そんな思いを込めたファッションショーが23日、香川県高松市林町のサンメッセ香川で開かれた。
 福祉施設などで調髪のボランティアをしている県内の美容師らが、県内初の試みとして企画。高齢者も加わって16~70歳の36人が、幕末の志士のような姿やウエディングドレスなど希望の衣装でステージに登場、スポットライトを浴びて華麗に歩いた。
 発案したのは高松市内で美容院を経営する松谷志津加さん(35)。「おしゃれは生きる喜び」との信条から約10年前、県内の老人ホームなどで「訪問美容」を始めた。4年前に初めて足を運んだ障害者施設で、リハビリに取り組む若者の表情が曇っているように感じ、「髪形だけでなく、ファッションも楽しんでもらえれば、明るくなってくれるのでは」とショーを思い立ったという。
 美容師仲間らに呼びかけ続け、今年7月にようやく7人で実行委員会を設立。チラシを手に施設を回って趣旨を説明、モデルを募った。「自分の気持ちを自由に表現してほしい」と衣装や髪形は参加者の希望をかなえることに。精神障害のある男性(28)は「坂本龍馬のように強くなりたい」とはおりはかま姿を、知的障害を持つ女性(33)は「両親を喜ばせたい」とウエディングドレスを選んだ。
 この日は20人の美容師が駆けつけ、髪のセットからメーク、着付けを担当。照明が落とされた舞台は、振り袖やパーティー用ドレス姿の参加者が登場すると光と音楽に包まれ、タキシード姿の男性が純白のドレスを着た“新婦”をエスコートするなど、結婚式さながらの演出もあった。
 自転車競技の練習中、事故で障害が残った男性(26)は「引きこもりがちだったが、そんな生活を断ち切ることができた。もっとおしゃれの仕方を知りたい」と話す。タキシードを着た男性(21)は「トップバッターだったのでドキドキした。格好いい姿を母親に見てもらえ、うれしかった」と笑顔で舞台袖に戻った。
 松谷さんは「表情を見ているとすごく楽しんでくれているのがわかる。これからも勇気を持って、積極的に外へと飛び出してほしい」とエールを送る。



高知
龍馬の刀?脱藩赦免書の写し、記念館に寄託…高知
親友の子孫宅に伝来、近く展示へ

 「嘉永元年」「阪本直方」などの文字が読み取れる刀 幕末の志士、坂本龍馬(1835~67)が使っていたとされる刀と、その脱藩を土佐藩がゆるした際の赦免申渡書の写しが見つかり、県立坂本龍馬記念館(高知市浦戸)に寄託された。当時の名匠が鍛え、龍馬が腰に帯びた可能性が高い刀と、龍馬赦免の史実を裏付ける資料で、同記念館では「偉人のロマンをしのばせるに十分な魅力ある品」としている。
 いずれも龍馬の親しい友人だった甲藤(かっとう)馬太郎(1838~1900)の子孫に伝わる品。刀は刀鍛冶(かじ)・左行秀(さのゆきひで)(1813~87)の業物で、刃渡り2尺6寸9分(約80センチ)。柄(つか)に納まる部分には龍馬の兄・権平が、嘉永元年(1848年)に造らせた、と銘が刻まれている。
 異説はあるが、馬太郎の甲冑と龍馬の刀を交換したとの言い伝えがあることから、龍馬自身が持っていた可能性が高いという。三浦夏樹・主任学芸員は「龍馬が13歳の年に、当代一とも呼ばれた刀匠が鍛えた品。龍馬が欲しがっても不思議はない。一時は、腰に帯びて町を歩いていたのでは」と思いめぐらせる。
 坂本龍馬の脱藩を、3日間の謹慎で赦免することが記された赦免申渡書の写し(縦16・5センチ、横38センチ)(高知市浦戸の県立坂本龍馬記念館で) 赦免書は、1862年3月の龍馬の脱藩が、勝海舟と山内容堂との会談でゆるされることになり、63年2月25日付けで出された。原本は現存しないが、文面は今に伝えられている。
 今回、確認されたのはその写しとみられ、縦16・5センチ、横38センチ。文中の6か所に、7文字も書き損じを直した場所があることから、三浦学芸員は「京都にいた甲藤家の人物か、龍馬と甲藤家双方に親しい人物が、甲藤家に知らせるために書いたのでは」と分析する。
 甲藤家の子孫にあたる高知市内の男性(66)は「家で眠らせておくよりも、何かに役立てて頂ければと思い、預けることにした」と話している。
 書状は開催中の企画展「風になった龍馬」で近く展示し、刀も来年1月12日から始まる「龍馬のルーツ」展で公開される。
(2009年11月24日 読売新聞)

 可能性が高いということで、これはなかなかのニュースですね。

稚児行列 華やかに
 四万十市中村本町1丁目の一條神社の大祭が23日始まった。室町時代に戦禍を逃れて都からきた一条氏の遺徳をしのび、幕末から続くとされ、「いちじょこさん」と呼ばれて親しまれる県内三大祭りの一つで、中心市街地は大勢が出てにぎわった。24日まで。
 この日は、中世の女官の衣装をまとった母親ら20人と約50人の稚児が祇園神社(同市中村大橋通1丁目)を出発し、境内まで約500メートルを歩き、沿道の市民らから大きな拍手が送られた。神楽殿では幡多神楽が奉納され、参拝客らでごったがえした。
 天神橋アーケード西詰め付近では第5回一條大祭大衆芸能大会が開かれ、土佐中村一條太鼓の演奏や手品、ちんどんなどで大祭を盛り上げた。24日は第36回一條大祭歌謡フェスティバルなどがある。


福岡
かやぶき屋根 張り替え体験 平尾山荘
 幕末の志士、高杉晋作も滞在したといわれる福岡市中央区平尾5丁目の市指定史跡「平尾山荘」で23日、市民も参加して草庵のかやぶき屋根の張り替え作業があった。
 平尾山荘は、明治維新の志士を支えた女性歌人、野村望東尼(もとに)の住まいで、幕府に追われた高杉らをここでかくまったことで知られる。草庵は1955年ごろに再建されたもので、カヤの張り替えは12年ぶり。一般公開を中断して、14日から実施されている。今回、文化財保護への関心を高めてもらおうと、初めて市民の参加を募った。
 この日は親子連れら約150人が参加。カヤを屋根に縛り付けた後、専門の道具でたたいて形を整えるなどした。建築関係の会社に勤める近くの寺岡良子さん(30)は「かやぶきに触れる機会は少ないので、いい経験でした」と話した。
 張り替えは年末ごろに終わり、床下なども補修した後、来年3月に一般公開が再開される。






 引越しに伴う片づけ作業、9割近く終わりました……幕末関係の書棚にゆとりを持たせるべく一部の本を別の書棚に移したのに、それでもスペースがないのはなぜでしょう(汗)。

北海道
「五稜星の夢」準備始まる
 国の特別史跡・五稜郭跡で22日、星形の掘を約1800個の電球で装飾する「五稜星(ほし)の夢」の電球設置作業が始まった。実行委員会会員など約30人とボランティア約80人が参加。冬の函館を彩る作業にいそしんだ。
 全体作業は午前10時から開始した。周囲1.8キロの内堀に沿って杭を土のうで固定。電気ケーブルを引っ掛け、電球を取り付けていった。会員とボランティアは、前日の雪でぬかるむ足元に注意を払いながら、1つずつ丁寧に作業を進めていた。
 札幌市から観光で訪れていた幼稚園教諭の秋谷礼香さん(23)と会社員の濱田里香さん(23)は「ライトアップされるのは知らなかった。とてもきれいだと思うのでぜひ見てみたかった」と話した。
 25日に電球の点灯試験を行い、28日から来年の2月28日まで毎晩午後5時―10時まで点灯する。点灯初日の28日午後5時には趣向を凝らした花火が打ち上げられる。実行委に500円を募金すると、五稜郭タワーから無料で星形に光る五稜郭を見ることができる。問い合わせは実行委員会事務局 ℡0138-53-65110。


岩手
少年剣士、心技ぶつけ 陸前高田で錬成大会
「剣豪千葉周作」顕彰少年剣道錬成大会は22日、陸前高田市気仙町の県立高田松原野外活動センターで開かれた。幕末の剣豪千葉周作(1794~1855年)生誕の地とされる同市で、約160人の小学生剣士が東北・関東一の座を競った。
 陸前高田剣道会の村上慧馬(けいま)主将が「剣道精神に基づき、最後まで元気よく悔いのないよう勝負する」と選手宣誓。10都県の24チームがリーグ戦に続いてトーナメント戦で争った。
 結果は東松舘道場(東京都)が4連覇。角間川道場(秋田県)が準優勝した。3位は群馬県武道館剣道教室(群馬県)と富岡町少年剣道団(福島県)だった。
 大会は周作の業績を後世に伝え、少年少女の健全育成に役立てようと始まり、18回目。
 主催する「剣豪千葉周作」顕彰推進委員会の吉田正耕会長は「周作は剣術、学問ともに優れ、人をいたわる心の持ち主。その心に少しでも触れてほしい」と話している。



東京
維新魂も“萌える”!あの“戦国メイドカフェ”が幕末に変身
 戦国時代をモチーフにしたコスプレで人気の戦国メイドカフェ「もののぷ」(東京都・秋葉原)が、なんと幕末時代へタイムスリップ! 新撰組の隊士や桂小五郎など、メイドさんたちが“幕末コスプレ”に身を包むイベントが、11/30(月)までの期間限定で開催されているのだ。
 通常は、戦国時代をイメージした店内も、この期間は「誠」の新撰組隊旗がたなびく幕末時代一色に。「前田あずさ」や「直江いちこ」といった“戦国苗字”を持つメイドさんたちも、期間限定で「沖田あずさ」や「原田いちこ」と苗字を変更し、衣装も新撰組特有のダンダラ模様入りの羽織と袴で出迎えてくれるのだ。
 「本当は原田(左之助)とかが好きなんですけど、なぜか流れで沖田になっちゃいました(笑)」と、笑顔で話すのは「沖田あずさ」ちゃん。凛々しい目元と黒髪が、なんとも“沖田っぽい”超キュートなメイドさんだ。ほかにも、「武田すん」ちゃんや、「藤堂なつめ」ちゃんなど、愛らしい“新撰組隊士”はいっぱい。
 ちなみに、アニメ「るろうに剣心」より「雪代かぐや」ちゃんなど、女性モノのメイドさんなどもいるので、要チェックを!
 「来年の大河ドラマの影響もあり、今回のイベントを開催しました」とは、「もののぷ」の店舗開発を行うディレクターの千葉さん。「今回の“幕末イベント”は、あくまで期間限定モノで通常化はないですが、今後もこのようなイベントはどんどん企画していくつもりです」とのこと。
 「坂本竜馬の海援隊丼」(1200円)や、「局長 近どて勇」(800円)など、このイベント限定のメニューも豊富な、「幕末カフェ」は、11/30(月)まで開催中。おいしい料理を食べながら、キュートな“幕末の志士”たちと盛り上がってみては? 【東京ウォーカー】

戦国メイドカフェ「もののぷ」
住所 東京都千代田区外神田4-6-2 いすゞビル5階
電話 03-5296-9199(12:00~21:00)
営業時間 12:00~22:00
HP http://mononopu.com/

 「局長近どて勇」って何でしょう……気になります。

京都
アイヌの生活たどる資料
京都文博で企画展

 世界無形文化遺産登録を記念する「アイヌの美」展と「受け継いでいく祇園祭」展(京都新聞社など主催)が23日から、京都市中京区の京都文化博物館で始まる。
 「アイヌの美」展は、ロシア民族学博物館所蔵品など計227点を紹介。1912年から13年にかけ収集されたコレクションで、イラクサの糸で織られた晴れ着や、日本には現存しない病気治癒を祈願した帽子や帯など、貴重な資料で民族の生活を網らする。幕末の絵師平沢屏山がアイヌの狩猟や祭祀などを描いた絵12点(オムスク造形美術館蔵)も初公開される。
 「受け継いでいく祇園祭」展は、江戸前期の祇園祭礼図屏風(びょうぶ)や、放下鉾懸装品、大船鉾の宵山飾り再現展示など82点で、祭りの歴史と現在を一望する。
 22日には「アイヌの美」展の開会式が行われ、美しい紋様に彩られた展示品を招待客が熱心に見入った。23日午後1時からは同館別館で「アイヌ文化フェスティバル」があり、世界無形文化遺産に登録されたアイヌ古式舞踊が披露される。
 いずれも1月11日まで。23日を除く月曜と24日、12月28日~1月4日休館。有料。


兵庫
山田風太郎の直筆原稿発見 人間臨終図巻など4編
 養父市出身の作家山田風太郎さん(1922~2001年)の直筆原稿4編がこのほど東京で見つかり、同市関宮の山田風太郎記念館に寄贈された。風太郎さんは約300編を超える作品を残したが、現存する直筆原稿は少ない。寄贈された原稿には未発表とみられるものもあり、同記念館は「研究者でも見る機会が少ない貴重な資料」と評価している。
 見つかったのは、歴史上の人物の死にざまをテーマにした伝記「人間臨終図巻」の一部約200枚▽明治期の日刊紙「万朝報」を舞台に起こる騒動を描いた短編「明治バベルの塔」の全原稿107枚▽幕末の下級役人の悲哀を描いた短編「笊ノ目万兵衛門外へ」の全75枚。いずれも代表作や傑作としてファンの間で知られる。
 ほかに、旧制豊岡中時代に教えを受けた歴史学者奈良本辰也氏との思い出を手紙形式でつづった、「拝啓奈良本先生」と題した未発表とみられる原稿もあった。
 東京都多摩市の風太郎さんの自宅倉庫で、先月から今月にかけて妻の啓子さんが発見し、記念館へ寄贈した。
 研究者の歌人有本倶子さん(65)=養父市中瀬=によると、風太郎さんは出版社などから返却された原稿をすべてたき火にくべて燃やしていたという。創作ノートや資料を所蔵する同記念館でも直筆原稿はこれまで7編しかなかった。
 直筆原稿はほとんど加筆や修正がないのが特徴で、有本さんは「構想ノートをしっかりつくるなどして、頭の中で原稿を書き上げていたのだろう」と分析する。
 原稿の一部は記念館で開催中の企画展「風太郎作品と但馬」(29日まで)で展示されている。山田風太郎記念館TEL079・663・5522
(原田大介)

 
文化芸能
放送人:来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の脚本家・福田靖さん
◇「月9」真っ青の恋も
 ヒーローの描き方には定評がある。その名手がヒーロー中のヒーローに取り組む。坂本龍馬といえば司馬遼太郎の「竜馬がゆく」。ファンなら必ず目を通す名著のイメージが浸透している。だが今回の龍馬はひと味違う。「子供のころから“あの坂本龍馬”だったはずはない。ごく普通の青年が脱藩し、幕末の動乱に飛び込んでいく過程を描きたい」

 恋多き男だった側面も、掘り下げている。妻お龍、幼なじみの加尾、千葉定吉の娘佐那、長崎の芸妓・お元。4人の女性とのからみは「月9(フジテレビの月曜夜9時の連ドラ)も真っ青のラブストーリーにするつもり」という。

 主役のイメージは、決定前から福山雅治だった。所属事務所関係者に打診をしたのも自身。「出演交渉をしたのは後にも先にもこれ一回だけ。後に福山さんが伝説のスターになったとき、一番に挙げられる作品にしたい」【岩崎信道】

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 ■人物略歴

 劇団主宰を経て、脚本家に転身し「BLACK OUT」(テレビ朝日、95年10月~96年3月)でデビュー。「HERO」(フジ)「ガリレオ」(同)「CHANGE」(同)など作品多数。山口県出身。47歳。




 今日は寒かったですね。明日は少し緩むようですが……日々、布団の厚さ調整が難しいです。

東京
幕末外交の舞台・東禅寺など史跡に答申
 文化審議会(西原鈴子会長)は20日、日本滞在記「大君の都」を著した初代英国公使、ラザフォード・オールコック(1809~97年)が英国公使館として使用した東禅寺(東京都港区)など11件を史跡に、末浄水場園地(金沢市)など2件を名勝に、志布志のカワゴケソウ科植物生育地(鹿児島県志布志市)を天然記念物に指定、昭和の作庭家・重森三玲(みれい)(1896~1975年)が手がけた高野山にある光臺(こうだい)院庭園(和歌山県高野町)など6件を登録記念物(名勝地関係)に登録するよう文部科学相に答申した。
 東禅寺は1610年創建で、1859年から65年6月まで英国公使館として使用された。2度にわたって、尊王攘夷(じょうい)派による襲撃を受け、幕末の外交・政治史の舞台となった。
 このほかの答申は次の通り。
 【史跡】奥州街道(岩手県一戸町、岩手町)、大鳥井山遺跡(秋田県横手市)、泉官衙(かんが)遺跡(福島県南相馬市)、荒船・東谷風穴蚕種貯蔵所跡(群馬県下仁田町、中之条町)、辰巳用水(金沢市)、東海道宇津ノ谷峠越(静岡県静岡市、藤枝市)、田熊石畑遺跡(福岡県宗像市)、姉川城跡(佐賀県神埼市)、長者屋敷官衙遺跡(大分県中津市)、伊礼原(いれいばる)遺跡(沖縄県北谷町)
 【名勝】琴ノ浦温山荘庭園(和歌山県海南市)
 【登録記念物】西禅院庭園(和歌山県高野町)、正智(しょうち)院庭園(同)、本覚院庭園(同)、桜池(ようち)院庭園(同)、旧武雄邑主(ゆうしゅ)鍋島氏別邸庭園(御船山楽園)(佐賀県武雄市)


福井
紙芝居の枠は城の門
平野さん制作 復元「舎人門」モデル

 福井市内で歴史案内などに取り組むボランティア団体「とねりの会」代表の平野和夫さん(60)が、幕末まで福井城郭にあったとされる「舎人(とねり)門」をモデルにした紙芝居の枠を作った。今月から、福井大の学生らが福井の歴史を伝える紙芝居の上演で利用しており、平野さんは「子どもたちが歴史に興味を持つきっかけになれば」と話している。(酒本友紀子)
 舎人門は、福井市宝永で市立郷土歴史博物館を建設する際に礎石が出土したことから、江戸時代の城下絵図などを基に2004年に復元。木造瓦ぶきの高麗門形式で、同博物館で展示されている。
 5年前から同会に参加している平野さんは、子どもたちが楽しみながら地元の歴史を知ることができるようにと昨春、紙芝居の枠の制作に着手。発泡スチロールを素材に、復元された際の図面を見ながらやすりなどで丹念に削って1年半がかりで完成させた。
 高さ約75センチ、幅約175センチ、奥行き約50センチで、実物の約9分の1の大きさ。瓦の枚数まで正確に再現されているほど精巧な出来栄えで、簡単に修理できるように分解も可能という。
 今月14日には同博物館で、福井大の学生らが、福井藩の刀工・康継を描いた自作の紙芝居を披露。21日にも上演会が行われる。平野さんは「福井の歴史を身近に感じてもらえるよう活用してもらえたら」と話している。
(2009年11月21日 読売新聞)


山口
松陰の生涯 創作音楽劇
 今年、没後150年にあたる幕末の思想家吉田松陰(1830~59年)の生涯を描いた創作ミュージカル「SHOWIN~若き志士たち」(中国新聞防長本社など後援)の公演が21日から、萩市江向の市民館で始まる。来年2月まで、山口市や東京の全3会場で上演する。
 山口県内で公募した有志約60人が出演。松陰の生い立ち、松下村塾や獄中で若者に書道や俳句などを指導する姿などをダンスや歌、芝居で表現する。
 山口市でダンススタジオを主宰するREI・KO(本名・山内令子)さんが脚本、演出、振り付けを担当。萩市の史都を愛する会の松田輝夫会長が監修した。
 前売りは3会場同じで一般2千円、高校生以下千円。当日は各500円高。萩市文化・生涯学習課=電話0838(25)3590。
 公演会場と日時は次の通り。
 萩市民館=21日午後6時半、22日午後2時▽山口市民会館=12月23日午後2時▽世田谷区民会館=来年2月11日午後6時


櫟木流砲術展:幕末の銃器、迫力十分 逸品ずらり--下関・忌宮神社 /山口
 長府毛利藩鉄砲隊、櫟木(いちき)流砲術にまつわる貴重な資料を集めた「古文書から再現された櫟木流砲術」展が、下関市長府宮の内町の忌宮神社宝物館で開かれている。
 同鉄砲隊は激動の幕末(1860年代)、最新鋭の銃器を手に、幕府と長州藩の間で起きた四境戦争(長州征伐)や戊辰(ぼしん)戦争などで活躍。櫟木家に伝わる古文書(住吉神社蔵)を基に、同砲術保存会(大浜博之会長)が収集した「抱え大筒」など約10点が並ぶ。
 中でも、「火矢筒」(長さ約1メートル、重さ約32キロ)は鉄製の羽根が付いた火矢(直径50ミリ、長さ670ミリ)を飛ばす大筒。飛距離は約100メートルといい、「現代の(大型の弾丸を撃ち込む)グレネードランチャーの原型みたいなもの。当時の兵器としては画期的」と大浜会長。
 他に藩の危機を脱するため結成された「長府藩青年藩士盟約連判状」(長府図書館蔵)なども。大学生以上500円で、30日まで。


佐賀
神埼の姉川城跡、国史跡に クリーク生かし防御
 文化審議会(西原鈴子会長)は20日、神埼市神埼町にある中世後期の城館跡「姉川城跡」など11件を史跡に新規指定するよう川端達夫文部科学相に答申した。姉川城跡は城の外郭を川とクリークで区画し、内部にもクリークを巡らせた形態の珍しさが貴重な遺跡と評価された。
 佐賀県関係ではこのほか、国史跡・勝尾城筑紫氏遺跡(鳥栖市)の指定域拡大と、旧武雄領主鍋島氏別邸庭園(御船山楽園、武雄市)を登録記念物にすることも求めた。近く答申通り告示される予定で、県内の国史跡は23(うち特別史跡3)、登録記念物は初登録となる。
 姉川城は1360年ごろ、菊池氏が築城。後に菊池氏支族の姉川氏の居城となった。戦国時代には龍造寺氏に服属し、秀吉の九州制圧(1587年)後、廃城となった。
 指定されたのは東西最長600メートル、南北最長800メートルの24・3ヘクタール。現在は水田地帯になっている。城域の内外を川とクリークで区画。城内にもクリークで多くの島をつくり、連携させて戦いに備えている。この地域独特の城郭の姿をよく残している。
 主郭とされ「館(たち)」という地名を残す島には舟入場や土塁跡がみられ、建物や橋、井戸などの遺構や土器が見つかった。また、遺構や出土品の時代からは領主の館が徐々に拡大して城へと成長する様子がうかがわれ、後の佐賀城にもつながる低平地の近世城郭の成立を知る上でも極めて貴重とされた。
 1988年には圃場整備地区になったが、旧神埼町教委が史跡の重要性から地区除外し、国史跡化を目指して発掘調査。01年には県史跡に指定された。市教委は年明け以降、国史跡指定を記念した講演会を開く方針。
 姉川城跡以外の国史跡への答申は、江戸と東北を結んだ「奥州街道おうしゅうかいどう」(岩手)や、幕末に最初の英国公使館が置かれた「東禅寺とうぜんじ」(東京)など。史跡は1661件、名勝357件、天然記念物980件、登録記念物は52件となる。

【写真】国史跡に指定するよう答申された「姉川城跡」の航空写真。城内には縦横クリークが走る(神埼市教委提供)






 昨日引っ越しまして、まだ段ボール山積みです^_^;。

北海道
オホーツクの神威岬、名勝に アイヌ文化由来「ピリカノカ」
 文化審議会(西原鈴子会長)は20日、7月に名勝指定されたアイヌ文化由来の景勝地の総称「ピリカノカ」に、宗谷管内枝幸町と浜頓別町との町境にある神威岬(カムイエトゥ)を追加するよう川端達夫文部科学相に答申した。本年度中に正式決定する見通し。
 ピリカノカはアイヌ語で「美しい・形」を意味し、7月に名寄市の九度山(クトゥンヌプリ)と石狩市の黄金山(ピンネタイオルシペ)が指定された。
 3カ所目となる両町の神威岬は「神の岬・突端」を意味する神聖な場所。幕末の探検家、松浦武四郎の「西蝦夷(えぞ)日誌」に同行したアイヌ民族が神威岬で神事を行ったと記されている。山から海にかけて急激に落ち込む地形が特徴だ。


岩手
「奥州街道」国史跡に 一戸・岩手町
 文化審議会(西原鈴子会長)は20日、江戸末期の街道と一里塚が現存する「奥州街道」(一戸町・岩手町、7区間、延長8・86キロ)を国史跡に新規指定するよう川端達夫文部科学相に答申した。江戸時代に整備された五街道の一つ、奥州街道で道路そのものが史跡指定されるのは初めて。4カ所の一里塚とともに良好に保存され、近世の交通事情を知る上で高い価値を持つと評価された。
 県内ではほかに、国史跡、柳之御所・平泉遺跡群(平泉町、奥州市)に接待館(せったいだて)遺跡(奥州市、3万9545平方メートル)を加えるなど追加指定4件を答申した。
 奥州街道は、江戸から陸奥外ケ浜(むつそとがはま)(青森県外ケ浜町)を結ぶ街道。盛岡以北は幕末以降に整備され、蝦夷(えぞ)地の調査や防備のために北に向かう役人の往来などの記録が残っている。



宮城
特別展:仙台の職人たち紹介 「箪笥」づくり披露--歴史民俗資料館 /宮城
◇現代に息づく「技」
 仙台市制120周年と市歴史民俗資料館(同市宮城野区)の開館30周年を記念した特別展「せんだい職人づくし」が21日、同館で始まった。衣食住に関係した職人や、建設、伝統工芸の職人たちに焦点をあて、道具や工程、製品、技術を紹介している。同館の佐藤雅也学芸室長は「城下町・仙台は歴史的に職人文化に彩られてきた。その技が今も多くの職人に息づいていることを知ってもらいたい」と話している。【高橋宗男、鈴木一也】
 常設展示されてきた約100点に加え、特別展では約430点を新たに展示。幕末の職人分布図や、足軽など下級武士が支えた仙台筆や硯(すずり)、松川達磨(だるま)や仙台釣竿(つりざお)など伝統工芸品の歴史も紹介し、ちょうちんに使われた和紙の工程や和菓子の製造工程なども写真などで説明する。
 現代に息づく「技」を再確認してもらおうと、職人の実演を見学できるテーマ展示も設けた。第1弾は幕末から作り続けられてきた「仙台箪笥(たんす)」で、21日は金具職人の八重樫栄吉さん(73)が、箪笥の装飾や取っ手に使う金具の製作を披露した。
 八重樫さんが使用するのは「たがね」と呼ばれる鋼の工具。形や太さが微妙に異なる約130種類のたがねを使い分け、銅板に唐獅子の模様を彫り、裏側からたたいて立体感を出す。この道53年の八重樫さんは「たがねもすべて手作り。これをうまく作れるかが、作品の出来を左右する」と話した。八重樫さんは22日も午前10時から午後4時まで実演を行う。
 箪笥作りの実演は28日(指物職人、午後1時半~午後3時半)と29日(塗り職人、同)にも行われる。
 テーマ展示は第2弾「鍛冶(かじ)職人と道具」(来年1月9~31日)、第3弾「職人の道具展」(2月6~28日)、第4弾「受け継がれる匠(たくみ)の技」(3月6日~4月11日)と続く。いずれも実演コーナーを設ける予定。
 また、3月26日から3日間、「せんだい職人技サミット」を開催し、張子細工や金工、伝統工芸などの職人延べ20人が「技」を紹介する。
 入館料は一般・大学生200円、高校生150円、小中学生100円。問い合わせは同館(022・295・3956)。


茨城
安政の大獄150年、井伊家当主が水戸墓参
 旧彦根藩主の井伊家18代当主、井伊直岳(なおたけ)さん(40)が21日、幕末の安政の大獄で刑死した水戸藩家老らが眠る水戸市の墓地を訪れた。
 水戸藩開藩400年を迎える12月を前に、滋賀県彦根市と親善都市提携を結ぶ水戸市に井伊家側から申し出があり、当主として初の墓参が実現した。
 水戸藩家老だった安島(あじま)帯刀(たてわき)の墓前で、直岳さんは「(安政の大獄を指揮した)井伊直弼(なおすけ)と水戸藩士らは立場こそ違ったが、国の将来を真剣に考えていた。自分の中で一区切りついたような気がします」と話していた。
(2009年11月21日23時54分 読売新聞)


静岡
テレビドラマ「JIN―仁―」伊豆の国・江川邸で撮影
 国の重要文化財に指定されている伊豆の国市の江川邸で20日夜から21日早朝にかけて、SBSテレビで放送中の日曜劇場「JIN―仁―」の撮影が行われ、出演者やスタッフ、フィルムコミッション伊豆の市民エキストラら140人が参加した。同ドラマを担当する県立韮山高卒のTBSプロデューサー石丸彰彦さん(35)=伊東市出身=も同行し、「ドラマ制作を志す原点になった」(石丸さん)母校のそばで、思い出を振り返りながら撮影を見守った。
 同ドラマは、幕末の江戸へタイムスリップした脳外科医が人々を救っていく物語で、江川邸での撮影は3回目。主演の大沢たかおさんや綾瀬はるかさんら俳優陣とともにFC伊豆の市民エキストラが冷え込みの厳しい中、夜通しで12月6日放送分の場面を収録した。
 石丸さんは韮山高時代、同校出身のフジテレビプロデューサー亀山千広さん(53)の講話を聞いてドラマ制作を志した。今回のロケ地の江川邸は母校のすぐ東側にあり、同校の学祖でもある幕末の韮山代官、江川坦庵の居宅だった。「江戸時代の質感が残る建物は少ない。ロケ地になったのは偶然だが、思い入れのある地」と石丸さん。
 韮山を訪れるのは母校での講演以来5年ぶりで、撮影では市民エキストラとして参加した同級生とも再会した。石丸さんは「高校時代にタイムスリップした感覚になった」と懐かしんだ。

 大河ドラマ『篤姫』でも使われたので江川邸が何らかの形で使われるような予感がしていました。今から楽しみです。

福井
福井主藩邸の変遷紹介 幕末の江戸地図で
 幕末の江戸を描いた地図を通し、福井藩邸の面積の変遷などを知る展示会「福井藩と江戸」が、福井市宝永3丁目の市立郷土歴史博物館で開かれている。30日まで。
 地図は1843年から約10年ごとに書かれた3枚があり、大きさはいずれも縦、横2メートルほど。福井藩主が住んだ上屋敷や別邸の中屋敷、下屋敷が移動したのが分かる。
 福井藩の政治顧問を務めた熊本藩士・横井小楠を紹介するコーナーもあり、松平春嶽が小楠に送った書状などが並ぶ。23日には小楠が富国などを説いた「国是七条」を読む講座が開かれる。
 (川本光憲)


京都
信念貫く若者よ、集え
京大に「武士道サークル」

 日本古来の武士道精神を学ぶ一風変わったサークル「立志会」を、京都大(京都市左京区)の学生二人がこのほど立ち上げた。信念を貫いた幕末の志士らの生き方をたどり、「芯のある若者を少しでも増やせれば」としている。
 京大工学部4年の加藤駿吾さん(22)と肥後英志郎さん(21)。加藤さんは3月に米国に語学留学した際、海外の若者と比べて日本人の留学生が「集団から抜け出せず、度胸がない」姿を見たという。
 「現代の日本人は祖先の価値観を継承できていない」と感じ、帰国後に友人の肥後さんに声をかけて9月にサークルを発足させた。
 二人は武士道精神を厳密にとらえず、「自分の信念を貫き通す」「郷土愛を持つ」などと幅広く定義した。坂本龍馬らの生き方や歴史のほか、寺社仏閣巡りなど伝統文化を学ぶ勉強会を開く。
 また、二人が「武士道精神がある」と感じた人を講師に呼ぶ講演会を、3カ月に1度をめどに開催する。
 23日には、発足記念講演会を京大キャンパスで開催。PHP総合研究所社長の江口克彦氏らを招く。参加費千円。サークルには誰でも入部できる。


奈良
郡山城:遺構確認の三の丸跡 市、駐車場建設着工へ--大和郡山 /奈良
◇「遺物、粉々に…」 考古学協会、調査を要望
 豊臣秀吉の弟秀長が居城とした大和郡山市の郡山城(県史跡)の三の丸に当たる場所で、同市が週明けにも観光バス駐車場の建設工事を始めることが分かった。事前の試掘調査で近世の遺構が見つかったが、市は予算などの都合で全面調査はせず、保全対策を講じて着工する。日本考古学協会(東京都)は「遺構への影響が心配」として発掘調査などを求める要望書を提出する予定で、論議を呼びそうだ。
 郡山城は戦国武将の筒井順慶によって築城。1585年に秀長が入った。工事現場は、家老級の重臣の居住地などとして5分割され、五軒屋敷と呼ばれていた。市が10月から行った試掘では、中世から幕末まで何層にもわたる遺構が見つかったが、面積が全体の8%に過ぎず性格はほとんど分からなかった。
 遺構は地下70センチ以下の層から出たため、市は地下130センチまで掘り返す当初の計画を60センチまでに変更。市都市計画課は「遺構保存に不安はない」と話す。
 しかし、橋口定志・日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会事務局長は「重量のあるバスが繰り返し通ることで土が固まり、圧力で遺物が粉々になる恐れもある」と調査の必要性を指摘している。【花澤茂人】


兵庫
ひと・みせ・こんにちは:きょうの訪問先 /兵庫
◆料理旅館 文一・文市楼=三木市本町3

◇創業140年、秘伝のぽんずしょうゆ
 創業はまだ幕末が色濃く残る明治2(1869)年。140年の歴史を重ねてきた。木造の現旅館も大正8(1919)年に建てられ、間もなく文化財に指定されるという。実はこの老舗旅館には、長い歴史に醸造された秘伝の「熟醸ぽんずしょうゆ」が代々受け継がれてきた。
 4代目の津田賢一郎さん(61)は「みりんに含まれる甘さだけで仕上げた、ぽんずしょうゆは鍋料理を引き立てます」と伝統の味に胸を張る。鍋料理は戦国時代の武将で三木城主、別所長治公の名を冠した寄せ鍋の別所長治鍋(1人前3000円から)をはじめ、国産黒毛和牛のしゃぶしゃぶ鍋(同5000円から)、国産豚しゃぶしゃぶ(同3000円から)、てっちり(同7000円から)などを予約で受け付けている。
 津田さんは「予算に応じて鍋料理を用意させていただきます。ぜひレトロな雰囲気の中で伝統を重ねた味を楽しんでください」と話している。
 年中無休。鍋料理は昼、夜ともできる。(0794・82・3115)



長崎
岩崎弥太郎:「長崎で磨いた国際感覚」 足跡を知る催しに600人 /長崎
 三菱財閥を創業した岩崎弥太郎(1835~85年)が長崎に残した足跡を考える催し「彌太郎と龍馬の長崎」が21日、長崎市内であり、元三菱商事社員で三菱財閥の歴史を研究する成田誠一さん(68)=東京都文京区=の講演などに約600人が耳を傾けた。
 土佐藩の下級武士出身の弥太郎は、商社「開成館長崎出張所」(土佐商会)主任として長崎に2年間滞在。明治維新後、まだキリスト教禁教令が続く中、弟・弥之助を米国のキリスト教系学校に留学させており、成田さんは「弥太郎は長崎で国際感覚を磨き、世界を見据えたビジョンを学んだ」と指摘した。
 坂本龍馬家の子孫、坂本登さん(72)=東京都小平市=らによるシンポジウムもあり、坂本さんは「龍馬と弥太郎は『世界の中の日本』という意識で根底に通じるものがあった」と語った。催しは市のまち歩き観光「長崎さるく幕末編」関連の講演会「楽さるく」の最終回として開かれた。【錦織祐一】
〔長崎版〕


熊本
横井小楠生誕200年記念国際シンポ 
 熊本に生まれた思想家横井小楠の生誕200年を記念し、熊本市でシンポジウムが開かれました。
 横井小楠は、幕末から明治維新にかけて坂本龍馬や勝海舟らに影響を及ぼした思想家です。
きょうの国際シンポジウムは、生誕200年記念行事の1つで、まず、小楠と竜馬のやりとりを朗読劇で演じ、小楠の人となりや平和的に国を豊かにする小楠の思想がわかりやすく紹介されました。
 続いて猪飼隆明・大阪大学名誉教授が、小楠がどのように世界を見たのか、そして、外交や内政の面などいま改めて評価すべき小楠の考えについて講演した他、国是三論をイタリア語で翻訳・出版したパオロ・プッディーヌさんらをパネリストに迎えて討論が行われ、理解を深めました。


コラム
【次代への名言】竜馬がゆく編(8)
■「人間はなんのために生きちょるか知っちょるか? 事をなすためじゃ」(『竜馬がゆく』風雲篇)

 歴史的な人物を描くさい、最も重要な資料は遺稿であろう。坂本竜馬の場合、手紙が約140通、それに手帳類と和歌が少々。幕末を飛翔(ひしょう)した彼の人生を考えると、決して多くない。「これだけで竜馬を書こうとすると中身がスカスカになる恐れがある」と一線の研究者はいう。そこで補足資料の収集と作家としての目が、「竜馬伝」を決めることになる。
 冒頭のことばの出典は「世に生理(しょうり)を得るは事を成すに在り」と記された『英将秘訣(ひけつ)』であろう。この書は「1867年、坂本龍馬作」と後世に伝えられた。しかし、それを全面否定する資料もないかわりに積極的に肯定する資料もない。
 となると、おさめられた90あまりの名言・警句から何を選ぶか-であろう。詳細は割愛するが、司馬遼太郎の取捨選択は「お見事」の一語である。
 「たれかが灯を消さずに点(とも)しつづけてゆく、そういう仕事をするのが、不滅の人間ということになる」。このことばは、『英将秘訣』にもない。しかし、竜馬の一生を考えたとき、そう言ったとして何の不思議もない。やはり竜馬は司馬であり、司馬は竜馬であった。

 =この項おわり(文化部編集委員 関厚夫)


西郷隆盛のバイブル『言志四録』を読む
義のサムライの没後、発見されたもの

 維新革命の原動力となった「西郷隆盛の精神」。支柱の一つに『言志四録』があったことは間違いない。

『言志四録』が座右の書だった

「日本の維新革命は西郷の革命であった」

 「維新の英傑」西郷隆盛の功績を、内村鑑三は著書『代表的日本人』でこう評し、その理由を次のように述べている。《たしかに西郷の同志には、多くの点で西郷にまさる人物がいました。経済改革に関していうと、西郷はおそらく無能であったでしょう。内政については、木戸や大久保のほうが精通しており、革命後の国家の平和的な安定をはかる仕事では、三条や岩倉のほうが有能でした。(略)
 それにもかかわらず、西郷なくして革命が可能であったかとなると疑問であります。必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、「天」の全能の法にもとづき運動の方向を定める精神でありました》
 内村鑑三が指摘する、維新革命の原動力となった「西郷隆盛の精神」。それは簡単に説明できるものではないが、その支柱の一つに『言志四録(げんししろく)』があったことは間違いない。
 今日「人生訓の名著」「指リーダー導者のためのバイブル」と言われる『言志四録』は、江戸時代末期の儒学者、佐藤一斎(さとういっさい)が著した随想録である。42歳で筆を執った『言志録』を皮切りに、『言志後録(こうろく)』『言志晩録(ばんろく)』を著し、最終作となる『言志耋録(てつろく)』を書き上げたのは82歳のときだった。耋録の耋とは字のごとく老いに至るという意味である。後にこの4書を『言志四録』と総称するようになった。内容は学問修養の心得、倫理道徳の規範から、指導者論、そして処世の教訓、身体の養生法まで多岐にわたっている。
 あわせて1133条。西郷はそこから101条を撰び、修養の資(もと)としていた。西郷の死後、叔父宅に保存されていたのを、儒学者だった秋月種樹(たねたつ)が注釈を加えて『南洲手抄(なんしゅうしゅしょう)言志録』として刊行した。これにより、西郷が『言志四録』を座右の戒めとしていたことが、広く知られたのである。
 ちなみに、南洲とは西郷の雅号で、明治に入ってからは、南洲、南洲翁おうなどと呼ばれるようになった。手抄とは手ずから書き抜くことである。『言志四録』の著者佐藤一斎は、昌平坂学問所の儒官、現在でいえば東京大学の総長まで務めた儒学者である。門下には、佐久間象山、横井小楠、山田方谷(ほうこく)らがいて、佐久間象山には勝海舟や吉田松陰が薫陶を受けるなど、一斎の教えに接した幕末動乱の志士は少なくない。
 しかし、西郷はその謦咳に接する機会に恵まれなかった。西郷が『言志四録』を読んだのは、二度目の流罪先、沖永良部島の獄中だった。行李3箱分の書物を読破し、「学者の塩梅(あんばい)にて可笑(おか)し、学問はおかげにて上がる」と年賀状に記しているほどだが、なかでも心動かされた書物が『言志四録』だったのである。
 流罪が解け沖永良部島を脱した西郷は、内村鑑三言うところの「始動させる原動力として」、革命=維新という運動を猛烈な勢いで遂行していった。『言志四録』は、どのようにその精神的支柱になっていたのだろうか。『南洲手抄言志録』を編纂(へんさん)した秋月が、条文との符合を試みるかのように、自らが伝え聞く西郷の言動を注釈として加えている。それを手がかりに、西郷にとっての『言志四録』をみてみよう。

 人生行路のうちには、暗い夜道を行くようなことがあるが、暗夜を心配することなく、ただただ自分の強い意思を頼りにするがよい、という意味である。
 この条文の注釈には、鳥羽伏見の戦いにおいて幕府軍の砲声を聞いて戦況に不安を覚えた岩倉具視に、西郷が「ご心配には及びません、西郷がおりますから」と答えたことが記されている。
 大政奉還によって倒幕が成就したものの、政治的には「暗夜」状態にあり、新政府樹立への強い思いを「一燈」として、西郷が戊辰戦争を突き進んでいった、と読み解けそうだ。
 もう一条触れておこう。
 意味は以下のとおりである。
 心から出てくるつまらない考え、外から入ってくる感情は、志が確立されていないからだ。しっかりと志が立っていさえすれば、邪悪な考えなどはすべて退散してしまうものである。これは清らかな水が涌き出ると、外からの水は混入できなくなるのにたとえられる。

革命の仕上げに西郷が懸けた「命」

 この条文には、明治4(1871)年に廃藩置県を断行するにあたっての、西郷の発言が記されている。南洲曰(いわ)く、「吉之助の一諾(いちだく)、死以(しもっ)て之(これ)を守る」と、他語を交えず。
 吉之助とは西郷の名前である。みなさんの意向は承諾した。廃藩置県の遂行にはわが命を懸ける、と覚悟のほど、つまり「一志」を示したのである。
 当時は、新政府に移行したものの、徳川時代の300諸藩主はそのまま存在していた。旧勢力の権力を奪い取るという、革命の仕上げが廃藩置県であった。しかし、それは構想した木戸と大久保だけではなしえず、西郷という原動力を借りざるをえなかったのだ。
 維新の原動力となった西郷がどれほど『言志四録』を味読し、修養に資していたか。その足跡が窺えるようではないか。


文化芸能
藤田まこと:慢性閉塞性肺疾患で「JIN」降板 「断腸の思い」新門辰五郎役は中村敦夫に
 江戸時代にタイムスリップした医師の姿を描いたドラマ「JIN-仁-」(TBS系)に、新門辰五郎役で出演予定だった俳優の藤田まことさん(76)が、撮影前に受けた定期健康診断で、慢性閉塞(へいそく)性肺疾患を診断され、降板することになった。代役は中村敦夫さん(69)が務める。
 藤田さんは宣伝用のポスターにも登場しているが、降板について「作品の魅力に加え、スタッフ・出演者のみなさまとの出会いを楽しみに撮影の日を心待ちいたしておりましたが、断腸の思いであります。降板により、スタッフ・出演者・関係各位のみなさまに多大なご迷惑をお掛けしましたことを、深くお詫(わ)び申し上げます。しばし治療に専念し、1日も早い復帰に努めてまいる所存でございます」とコメントを寄せている。 
 ドラマは、村上もとかさんが「スーパージャンプ」(集英社)で連載しているマンガが原作で、大学病院の脳外科医だった南方仁(大沢たかおさん)が、幕末の江戸時代にタイムスリップしてしまい、満足な医療器具や薬もない状態で人々の命を救う中、坂本龍馬(内野聖陽さん)や勝海舟(小日向文世さん)ら幕末の英雄と知り合い、歴史の渦の中に巻き込まれていく……という物語。新門辰五郎は江戸時代後期に実在した町火消で、勝海舟とも交流があったといわれる人物。中村さんは「よく知られている歴史上の人物なので、みなさんのイメージに沿えるように演じたいと思います」と意気込みを語った。ドラマは毎週日曜日午後9時放送。【細田尚子】


<歌舞伎>中村富十郎 坪内逍遥の新歌舞伎 72年ぶり『一休禅師』
 東京・国立大劇場で来月3日から始まる公演「心にしみる 珠玉の新歌舞伎」で、明治の文豪・坪内逍遥作の舞踊劇「一休禅師」が72年ぶりに復活する。一休は初役の中村富十郎(人間国宝)。新歌舞伎は、明治になって近代思想を背景として坪内ら歌舞伎界の外の作家によって書かれた作品群で、江戸歌舞伎と区別される。「伝統に裏打ちされた江戸期の作品より、明治以降の作品の方が生き生きと演じられる」と意気込む富十郎に聞いた。 (藤英樹)
 「役をもらうまで作品のことは知らなかった」と言う富十郎。一休について調べ、京都府京田辺市にある一休再興の禅寺「一休寺」(田辺宗一住職)も訪ねた。八十八歳で没した一休の墓に復活成功を祈願した。
 同寺で一休本人の頭髪と鬚(ひげ)を植え付けてあるという等身大の木像と対面した富十郎は「お顔の相を見ていたら感じるものがありました。対面するまでに鬘(かつら)合わせなどは済ませていたが、床山さんに言って変えようと思う」と、自身の中で一休のイメージが変わったことを打ち明けた。
 「一休禅師」は、小説「当世書生気質」やシェークスピア作品の翻訳で知られる坪内が、幕末に初演された富本・清元の舞踊劇「一休地獄噺(はなし)」に想を得て書いた長唄の舞踊劇。一九〇八(明治四十一)年に発表され、二一(大正十)年に明治座で初演された。
 一休が通ったという大坂・堺の遊廓が舞台。酒に酔った一休が地獄太夫(中村魁春)や禿(かむろ)(富十郎の長女で六歳の愛子)と踊り戯れながら禅問答。一休が杖(つえ)で太夫らを打つと、途端に太夫も一休も髑髏(どくろ)に変身し、辺りも枯れ野に変わる。さらに踊り続けるとまた元の姿に戻るという内容。
 禅問答などが一般の観客に理解されにくかったのか、三七(昭和十二)年に市川猿翁が演じて以後、再演されなかった。「型などないし、曲も坪内の時代のものはどう踊ってよいのかわからない感じ。誰も手を付けられなかったんじゃないでしょうか」と富十郎。
 今回の復活のため、曲はすべて新しく作り替えられた。「禅問答も少しあるが、基本は華やかな踊り。僕は足が悪いので踊りやすい指貫(さしぬき)を着けます。地獄太夫の衣装には僕の意見で炎と髑髏、それと一休の言葉を四行ほど入れてもらった。太夫から頼まれて一休が書く○と水の流れも、僕が自分で描きました」
 今年八十歳になった富十郎をこれだけいれこませたのは「新歌舞伎といってももう古典。それでも江戸歌舞伎より、自分の中に染み込んでくるものがある」からだと言う。「一休といえばとんち話が有名ですが、新たな一面をお見せしたい。お客さまに好評なら、今後も演じ続けたい」
 演目はほかに、真山青果作の「頼朝の死」と岡本綺堂作の「修禅寺物語」。いずれも非業の死を遂げた鎌倉幕府二代将軍・源頼家にまつわる話。「頼朝-」では、頼家を中村吉右衛門が二十四年ぶりに勤め、富十郎が凄(すご)みのある母・尼御台所政子を勤める。「修禅寺-」では、夜叉(やしゃ)王に吉右衛門が初役で挑み、何度も勤めてきた富十郎が俳名・天桜の名で監修に当たる。
 二十六日まで。一万二千~千五百円。(電)0570・07・9900。

<新歌舞伎> 明治維新後の文明開化の中で、欧化思想に感化された文化人などが江戸期の歌舞伎を批判、これを受けて生まれた一連の作品のこと。江戸期から活躍していた河竹黙阿弥が引退表明する事態となり、その後、坪内や真山、岡本のほか大正、昭和にかけて谷崎潤一郎、菊池寛、山本有三ら多彩な文学者が筆を執った。


<幕の内外>理想の上司役『実事』 充実した腹芸も見どころ
 「花も実もある」という言い方があります。花は外観の美しさ、実は内容が充実していることを指しています。
 歌舞伎の立役の役柄のひとつ「実事」は、名前の通り「実のある役」。「忠臣蔵」の家老・大星由良之助などが代表的です。
 落ち着いて判断力に富み、人格的にも立派な大人の男性。有能な「理想の上司」タイプです。
 実事につきものなのが「腹芸」。台詞(せりふ)やしぐさに頼らず、心理表現をすることを言います。
 漫画の吹き出しを思い浮かべてみてください。登場人物が心の中で、じっと何かを思ったり考えたりしている時には、点々がつながった形の吹き出しになっています。平たく言うと、腹芸とは、ああいった雰囲気です。
 社会的に大きな責任を背負っている人ほど、何が起ころうとも、めったなことでは、軽々しく外面に出すことはできません。
 由良之助の主君・塩冶(えんや)判官は、高師直(こうのもろのお)に理不尽な因縁をつけられてブチ切れ、斬(き)りつけた罪で切腹となる。四段目では、判官が刀を腹につきたてた瞬間、由良之助が駆け込んで来ます。
 主従が見交わす顔と顔。無念と悲憤の思いが交錯する場面ですが、ここで登場するのが腹芸。いっさいの鳴り物がなく、両者の呼吸だけで成り立つ場です。
 今泉みねという人は回想録「名ごりの夢」で、この場面を幕末の名優が演じた時の感想を「言わなくても言ったようにきこえ、見なくても見たように思える、落とさない涙が落ちているように感ずる、いわば無言の行」と書き記しています。
 実事の最高峰である由良之助は、この腹芸の多い役。文字通り役者の充実ぶりが試されます。 (イラストレーター・辻和子)


世阿弥、高田屋嘉兵衛、ヘボン森繁さんが追った夢 温めていた劇化構想
 二十日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた森繁久弥さんの葬儀・告別式とお別れ会には、その死を惜しむ各界の著名人や多くのファンらが足を運んだ。「国民的俳優」として栄耀(えいよう)栄華を極めたといってもいい森繁さんだが、ついに果たせぬままとなった夢がある。それは、ドラマチックな人生を送った三人の男を自ら演じることだった。
 ある時は劇場の楽屋や自宅、またある時は所有していた外洋クルーザー「めいきっす号」の船上…。生前、森繁さんと身近な空間で会話する機会に、少なからず恵まれた。
 「(坂東)玉三郎さんと『シラノ・ド・ベルジュラック』をやってみたいね。だけど一カ月の舞台はとても務まらない」。十年前、長男・泉さんを五十八歳で亡くした後もこう語り、常に芸への情熱をたぎらせていた森繁さん。そんな生粋の俳優が、果たしておきたい夢としてたびたび口にしていたのが「世阿弥」「高田屋嘉兵衛」「ヘボン」の劇化だった。
 世阿弥は言うまでもなく能楽の大成者だが、晩年は佐渡島に流された。高田屋嘉兵衛は、司馬遼太郎さんの長編小説「菜の花の沖」の主人公である回船問屋。森繁さんは司馬文学の愛読者でもあった。また、ヘボンは幕末に来日した宣教師・医師。ヘボン式ローマ字の創設や明治学院大創立など、明治初期の日本に大きな影響を与えた。
 この三人に共通するのは、その生涯のドラマチックさ。それが森繁さんを強く惹(ひ)きつけ、自らが演じることへの意欲をかきたて続けたのだった。
     ◇
 最後の舞台となった代表作「佐渡島他吉の生涯」(1997年1月、名古屋・御園座)。森繁さんを「おやじ」と慕う北大路欣也が主人公の「ベンゲットの他ぁやん」を演じ、八十三歳の森繁さんが夜の部の終幕だけ登場する変則ダブルキャストだった。その際、森繁さんが「はなばなしき わが最後の舞台か」と色紙に書いたことを知り、楽屋を訪れた。
 「まだやれるんじゃないですか。島田正吾は九十二歳でまだ舞台を続けていますよ」と言うと森繁さんはこう返した。
 「島田さんは偉いね。僕は耳も目もこれだけ不自由になってしまったからとても無理だよ」
 そう言いながら、寂しげな表情を見せていたのが強く印象に残っている。
 二〇〇七年二月にリリースされた朗読DVD「霜夜狸(しもよだぬき)」。その出演者・スタッフ懇親会で森繁さんと久々に会った。肉体的には俳優を続けられない状態だったものの、内に燃えるその役者魂は健在、と強く感じた。
 「世阿弥」「高田屋嘉兵衛」「ヘボン」が生前の願い通りの形で演じられていたとしたら-。今となってはかなうべくもないが、森繁さんが愛唱してやまなかったペルシャ(イラン)の詩人オマル・カイヤームの四行詩(矢野峰人訳)で、この希有(けう)な存在であり続けた俳優を追悼したい。
 「いづ地より、またなにゆえと知らで、この世に生まれきて、荒野を過ぐる風のごと、行方も知らぬ去るわれか」
  (元編集委員・森洋三)




ビジネス
坂本龍馬:検定対策ツアーで“歴ドル”美甘子とツアー 近畿日本ツーリスト
 歴史に詳しいアイドル“歴ドル”の美甘子さん(25)が、坂本龍馬についての知識を認定する「坂本龍馬 幕末歴史検定」(全国龍馬社中主催)の合格対策ツアー「美甘子と行く坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー」(近畿日本ツーリスト)に参加、講義も開く。
 ツアーは、16日から申し込みを受け付けている同検定と連携、龍馬の所持品や文書などを展示する「坂本龍馬記念館」や坂本龍馬の生誕地などを巡る「高知コース」(4万9800円、10年1月23~24日羽田空港発着)、龍馬や亀山社中、海援隊ゆかりの品を展示する「亀山社中記念館」などを巡る「長崎コース」(5万4800円、10年2月13~14日羽田空港発着)と、龍馬が襲撃を受けた「寺田屋」などを同検定の前日に訪れる「京都コース」(2万4800円、10年3月20~21日京都駅集合・検定会場解散)の3コース。各コースに美甘子さんが同行、検定の対策ポイントを講義するほか、全国龍馬社中監修の模擬試験が付く。検定料は含まれない。
 またオプションで美甘子さんがツアー1日目の夜の宴会に参加する「美甘子と宴会!」(5500円)があり、美甘子さんの愛用品が当たる抽選会やツーショット写真撮影会が行われる。美甘子さんは10年に放送されるNHKの大河ドラマ「龍馬伝」に関連した情報をNHK高知支局が発信するキャンペーン「We love 龍馬」のイメージキャラクターを務めている。
 同検定は10年3月21日、東京・京都・長崎・高知で行われ、龍馬に興味を持ち始めた入門レベルの「脱藩」(検定料3240円)、小説・マンガ・映画・ドラマで龍馬を楽しむ「初級」(検定料4300円)、資料や足跡から龍馬を知る「中級」(検定料5600円)がある。申し込みは同検定公式サイトか、12月中旬に書店に設置される郵便払い込み取扱票で10年2月28日まで受け付ける。【服部美央】




エンターテインメント
PSP「風雲新撰組 幕末伝 ポータブル」最新プロモーション映像「動乱篇」公開!
 フロム・ソフトウェアより2009年12月10日に発売予定の、PSP用本格歴史アクション「風雲新撰組 幕末伝 Portable」の、最新プロモーションムービー第2弾「動乱篇」が公開された。
 「風雲 新撰組 -幕末伝- Portable」は、元気株式会社より2005年1月に発売されたPS2用「風雲幕末伝」に新規要素が追加されリニューアルされたタイトル。
16:9画面サイズに対応し、設定資料ギャラリー機能が追加されている。

 土方さんは真ん中ですかね……大たぶさ?

黒乃奈々絵「PEACE MAKER 鐵」ケータイで連載再開
 長らく休載となっていた、黒乃奈々絵「PEACE MAKER 鐵」が、携帯サイト「コミックi」および「コミックシーモア」にて連載を再開することが決まった。
 「PEACE MAKER 鐵」は、月刊コミックブレイド(マッグガーデン)にて連載されていた、幕末を舞台にした時代劇。単行本5巻まで発売されており、5巻収録の「油小路編」の続きが配信される模様だ。
 現在サイトでは「油小路編」のプロローグを無料公開中。アクセス方法や利用方法はマッグガーデンに公式サイトにて確認を。

 油小路編、続きが見られるんですか……ただ、ケータイの画面から見るのは辛いなぁ。コミックスが出るなら欲しいです。







 本文500ページを超える大作。タイトルは『剣客斎藤弥九郎伝』となっているけど、剣の達人としての斎藤弥九郎に関する記述は、少ない。

 むしろ、坦庵先生こと第36代江川太郎左衛門英龍の片腕としての斎藤弥九郎、水戸藩や長州藩に対してコンサルティングを行っていた斎藤弥九郎の軌跡を中心に追っている。



 あとがきで「この稿は、最初江川英龍のことを書くつもりであった」とあるぐらいだから、江川英龍・江川家のことにもかなり触れている。『江川坦庵全集』もかなり参照しているようだ。

 残念なのは、鳥羽伏見の戦いの後、新政府側に恭順を申し入れた江川家の動向についてページが割かれていないことだなぁ……それが読みたかったのに(苦笑)。この本では、柏木総蔵が江川英武に同行して桑名の東海道先鋒総督の橋本実梁《さねやな》
謁して恭順の意を表したとあるのみで、斎藤弥九郎の関与はないような表現。

 水戸や長州とのつながりが強く、明治新政府にも出仕している斎藤が幕府についてどう考えていたかを具体的に示す資料は提示されていないが、その心境について筆者は以下のように書いている。
 弥九郎が説いた尊王攘夷は、敬幕を前提とするものであって、決して倒幕を意味するものではない。それが、主立った門人達は、尊皇攘夷から倒幕の道を奔り、多くの者がそれに殉じたのである。
 時代は数年の間に激動し、すでにそれに取り残されようとしている、ひとりの老剣客の姿を見出すのである。


 そして、ちょっといい話。長男次男と共に箱館で戦死した中島三郎助は幼い息子をひとり浦賀に遺していたのだが、明治政府の元勲となった元弟子の木戸孝允(桂小五郎)は遺児の後見をしたのだとか。

 後で参考にしようと思って付箋を貼ったら50枚以上になってしまった(汗)。

 また改めて読み返そう……。







 昨日は晴天でしたが、今日は冷たい雨が降ってます。

岩手
高野長英夢物語大賞:奥州市が創設 作品募集 夢や希望、全国に発信へ /岩手
 奥州市水沢区出身で幕末の蘭学者、高野長英(1804~50年)の没後160年を来年に控え、市は「高野長英夢物語大賞」を創設し、夢をテーマにした作品を募集している。日本の夜明けを著書「夢物語」に託した高野に学び、未来の夢や希望を全国に発信することが狙い。
 高野は17歳の時に江戸に出た後、長崎の鳴滝塾でシーボルトから蘭学と西洋医学を学んだ。夢の中での話に仮託して開国を説いた「夢物語」が幕府を批判したとして罪に問われ、弾圧を受けた。
 同大賞は、一般、高校生、中学生、小学生の4部門で募集。400字詰め原稿用紙に、一般・高校生は8枚以内、中学生は5枚以内、小学生は2枚以内にまとめる。直木賞作家の高橋克彦さんを審査委員長に、各部門の大賞と佳作7編を選ぶ。相原正明市長は「回を重ねるごとに成長させていきたい」と話す。
 応募は郵送かメールで。10年2月22日必着。問い合わせは市歴史遺産課(電話0197・35・2111)。【湯浅聖一】


神奈川
ペリー艦隊が贈った西洋皿、横浜開港資料館に
 幕末に黒船で来航したペリー艦隊が浦賀奉行所の役人に贈った西洋皿1枚が、横浜市中区の横浜開港資料館に寄贈された。
 同館は「ペリーとの交流を今に伝える貴重な史料」としており、来年にも一般公開したい考えだ。
 ペリー艦隊の皿を寄贈したのは、川崎市高津区の会社員合原義人さん(26)で、ペリー艦隊の交渉役を務めた浦賀奉行所の与力、合原猪三郎の子孫にあたる。
 猪三郎が1853年(嘉永6年)か翌年の54年にペリー艦隊から受け取った皿を、合原家が約155年間保管していた。義人さんは開港150周年を記念して、今年9月に皿を同資料館に寄贈した。
 皿の大きさは直径約23センチ、厚さ2センチの円形。白色だが、皿の周囲は黄色でふちどられている。
 合原家では昭和時代初期、ペリー艦隊から贈られた皿3枚の存在を確認しており、そのうちの1枚を1928年(昭和3年)に市に寄付していた。しかし、市庁舎が空襲で焼けた後、皿の所在がわからなくなっており、約80年ぶりに再び別の1枚を寄贈したという。
 同館主任調査研究員の西川武臣さんは「ペリー艦隊は将軍や老中に贈り物をしていたが、今回の皿は地方奉行所の一般的な役人が受け取っており、ペリー艦隊の幅広い交流を知ることができて興味深い」と話している。

(2009年11月19日02時26分 読売新聞)


滋賀
水戸藩士墓参で、和解行脚完結
彦根・井伊家当主ら21日に

 幕末の「安政の大獄」を主導した大老井伊直弼(なおすけ)ゆかりの滋賀県彦根市の井伊家当主や市長が21日、刑死した水戸藩士4人の墓参を水戸市で行う。同様の墓参は長州藩の吉田松陰、福井藩の橋本左内に続く第3弾。直弼が旧水戸藩士らに暗殺された「桜田門外の変」から来年で150年になるのを前に、関係者は「志士の墓参は今回が最後で、因縁にけじめをつけて交流を深める機会にしたい」と話す。

 ■桜田門外の変、来年で150年

 刑死した水戸藩士は、藩主・徳川斉昭側近だった家老の安島帯刀(あじまたてわき)や右筆役の茅根伊予之介(ちのねいよのすけ)、京都で朝廷工作をした鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)、幸吉父子の4人。直弼が日米修好通商条約や将軍跡継ぎ問題で斉昭と対立し、大獄の刑死者(8人)では水戸藩が最多だった。
 墓参するのは井伊家18代当主の井伊直岳彦根城博物館長、獅山向洋彦根市長ら7人。水戸藩開藩400年記念シンポジウムに参加した後、墓前に参列。水戸市の加藤浩一市長らも同席するなか、哀悼の意を捧げる。
 両市は明治維新から100年後の1968年に「親善都市」となり和解した。今回、彦根市側が「井伊直弼と開国150年祭」開催に合わせ「歴史的わだかまりを完全になくすけじめにしたい」と水戸市側に申し入れた。
 井伊館長(40)は「立場は違えど直弼も志士も国のことを考えて生きたと思う。先人をしのび、交流につなげたい」と話している。



舟橋聖一青年文学賞:最優秀賞 さいたまの冨士野さんに
 滋賀県彦根市は19日、第21回舟橋聖一顕彰青年文学賞の最優秀賞(賞金50万円)にさいたま市、日大芸術学部文芸学科助手、冨士野督子(まさこ)さん(27)の小説「虹待ち」を選んだと発表した。佳作(同10万円)は鳥取市の農業、漆原正雄さん(24)の小説「棚子」。
 また、昨年8月から1年間に出版された単行本の小説が対象の第3回舟橋聖一文学賞(同50万円)には作家・詩人のねじめ正一さん(61)=東京都杉並区=の「商人(あきんど)」(集英社)を選んだ。
 青年文学賞は、幕末の大老で旧彦根藩十三代藩主・井伊直弼を描いた小説「花の生涯」の作者で彦根市名誉市民の故舟橋聖一氏の業績をたたえて制定。18~30歳が対象で24都府県から96点の応募があった。


特別企画展:井伊直弼と幕末の人物史料 29日まで、彦根城博物館 /滋賀
 幕末の大老・井伊直弼と、同時代に生きた政治的人物の作品や史料を集めた特別企画展「政治の時代-井伊直弼と幕末の群像」が、彦根市の彦根城博物館で開かれている。29日まで、無休。【松井圀夫】

 ◇孝明天皇勅諚、日本初の洋式砲など--貴重な146点
 ▽藩主井伊直弼の政治▽溜詰大名(将軍のそばに仕える譜代大名)井伊直弼と幕府政治▽大老井伊直弼の政治▽直弼以後--の四つのテーマで146点を展示している。
 中には、幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したことに怒った孝明天皇が、直弼らの説得でわだかまりが氷解したことをしたためた「孝明天皇勅諚」も。同館は「内容は知られているが、(個人蔵のため)文書が公開されるのは珍しい」としている。
 また、直弼が大老に就任した直後に幕府に出した「大老就任誓詞」の控えや、直弼とは深い信頼関係があった第十四代将軍・徳川家茂の画像なども展示している。ほかに、薩摩藩主・島津斉彬所用の木製地球儀や、江戸時代後期の砲術家・高島秋帆(しゅうはん)が作った日本初の洋式砲「モルチール砲」などもあり、どれも貴重なものという。
 観覧料は▽一般500円▽小・中学生250円。問い合わせは同館(0749・22・6100)。


兵庫
山田風太郎:円熟期の作品、直筆原稿見つかる /兵庫
◇「笊ノ目万兵衛門外へ」など
 養父市出身の作家、山田風太郎(1922~01)の「笊(ざる)ノ目万兵衛門外へ」など直筆原稿数点が東京の自宅で見つかり、同市の山田風太郎記念館に贈られた。いずれも風太郎の円熟期の作品で貴重なものという。
 笊ノ目万兵衛は幕末の下級役人である町奉行所同心。上司に尽くしたが母や妻子を死なせ、最後は上司に敵対する悲劇を原稿用紙78枚に書いた。歴史に埋もれた人物を虚実交えて描いた時代小説で、1972年に雑誌に発表された。
 「拝啓奈良本先生」も同じころの原稿。旧制豊岡中で教えを受けた奈良本辰也先生の思い出をつづった回想文。「『歴史の答案は山田のように書くものだ』とホメて下さいました」などと記し、母を亡くし、荒れていた風太郎の数少ない理解者だった先生を懐かしんでいる。
 ほかに著名人の亡くなる直前の言葉や様子をまとめた「人間臨終図巻」は新たに正岡子規など約300人分が見つかった。養父市の風太郎研究家、有本倶子さん(65)は「風太郎の優しいまなざしが感じられ、興味深い」と話している。【吉川昭夫】

〔但馬版〕


山口
ミュージカル:松陰の生涯描く 21・22日に萩、来月23日は山口 /山口
◇キャストとスタッフ、県内から参加
 幕末の志士・吉田松陰の生涯を描いた創作ミュージカル「SHOWIN 若き志士たち」の公演が21、22日、萩市の萩市民館で開かれる。吉田松陰没後150年記念事業の一環。12月23日に山口市、来年2月11日は東京でも公演する。
 ミュージカルは、山口市宮野のスタジオ・レイ主宰、山内令子さんの脚本・演出。キャスト約60人、スタッフ約30人は県内各地から公募で参加しており、「県民手作り」の作品だ。
 松陰は、伊豆下田沖のペリーの船に国禁を破って乗り込もうとするが失敗。その後、松下村塾を主宰し、久坂玄瑞や高杉晋作ら若き志士たちを育てるが、安政の大獄で志半ばにして処刑される。「学び」と「実践」の大切さという、松陰が発したメッセージを現代の観客に伝える内容となっている。
 公演は、21日午後6時半、22日午後2時=萩市民館▽12月23日午後2時=山口市民会館▽来年2月11日午後6時=東京・世田谷区民会館。萩と山口の両公演は、前売り一般2000円▽高校生1000円。当日は500円増。問い合わせは、萩市文化・生涯学習課(0838・25・3590)。【川上敏文】


下関歴史伝承講座:晋作の足跡追う--22日 /山口
 下関市の旧跡を訪ねる下関歴史伝承講座が22日、同市新地町の周辺である。下関観光コンベンション協会の観光ガイド、平松資朗さんの解説を聞きながら維新の志士、高杉晋作が最晩年を過ごした一角を歩く。
 市民グループの下関歴史研究所が主催。第15回講座は現地散策「ぶらり新地界隈(かいわい)」。晋作が維新目前の27歳で病死した上新地町の「終焉(しゅうえん)の地」や厳島神社、愛人のおうのと隠れ住んだ家の跡など、晋作の足跡を追う。
 集合は午前10時、同市竹崎町のJR下関駅改札口前。約1時間半かけて3~4キロを歩く。参加費用500円。雨天決行。問い合わせは研究所(090・1334・5617)。【取違剛】
〔下関版〕



長崎
ボトルに龍馬の肖像デザイン、果実酒発売へ
 農産物販売などを行う佐世保市の「堀内商事」(山下功三社長)は21日、幕末の志士、坂本龍馬にちなんだブルーベリー酒「あいあいの雫」を発売する。龍馬の肖像をデザインしたボトルが特徴で、21~23日には長崎市伊良林2の亀山社中資料展示場で披露する。
 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の放映に合わせ、龍馬が長崎・出島で赤い色の洋酒を飲んだというエピソードにちなんで企画。昨年11月、佐世保市の造り酒屋「梅ヶ枝酒造」(長野哲也社長)と共同開発したブルーベリー酒を使い、ボトルのデザインは神奈川県鎌倉市在住の勝海舟の子孫の芸術家に依頼した。龍馬の肖像などをあしらったもので、研磨剤を吹き付ける「サンドブラスト」という手法で絵柄を描いた。
 ブルーベリーは、グループ会社の総合建設「堀内組」の資材置き場や休耕田で栽培したもので、約3~4か月間麦焼酎に漬け込んだ。アルコール25度。果実酒特有の甘さを抑え、甘いのが苦手な男性でも楽しめるという。堀内商事外商部の石松昭洋さん(64)は「幕末に世直しに奔走した龍馬に思いをはせながら、味わってほしい」と話している。
 亀山社中資料展示場では、約500本を限定販売する予定。720ミリ・リットル入りで、2830円(税込み)。問い合わせは、堀内商事(0956・48・6185)へ。

(2009年11月19日 読売新聞)


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(37)東大教授・山内昌之 立見尚文
■不敗の将軍

 日本史上、負けたことのない将軍がいたのをご存じであろうか。桑名藩出身の立見尚文その人である。立見鑑三郎こと尚文ほどの軍人は滅多に出るものではない。彼は、幕末から明治にかけて現れた最高の指揮官と謳う(うた)われている。

 ≪仏教官から近代軍事学≫
 日露戦争で第4軍司令官だった野津道貫(みちつら)は薩摩の出身だったにもかかわらず、藩閥外の立見を「東洋一の用兵家」と高く評価した。幕末に江戸でフランス人教官から近代軍事学を修めた立見は、「ナポレオン時代のフランスに生まれていたなら、30歳になる前に将軍になっただろう」とも称賛されたほどだった。
 立見については、歴史家も本格的な評伝をものしていない。最近、ある雑誌で日本最強の指揮官を選ぶアンケートに答えたことがある。私はためらわずに立見の名を挙げた。旧知の直木賞作家、中村彰彦氏に、「誰を選んだのか」と尋ねると、氏も立見を挙げたので大笑いしたものだ。立見のキャリアは、戊辰戦争から西南戦争を経て、日清日露の戦役にも及んでいる。立見の桑名藩は、鳥羽・伏見の戦いで旧幕軍の主力として戦いながら、敗北した。
 そこで主戦派は、飛び地のあった越後(新潟県)の柏崎に移って抵抗を続けた。この時、24歳の立見が率いた75人の雷神隊など350ほどの桑名勢は、朝日山に迫った1000人の新政府軍を散々に打ち破った。奇兵隊の時山直八(なおはち)が戦死したのはこの時である。
 参謀だった山県有朋が時山の死から受けたショックは大きく、立見の昇進を何かと邪魔した山県の生涯にわたるこだわりは朝日山の敗戦から始まったといってよい。
 山県が朝日山を詠みこんだ和歌は、立見の颯爽(さっそう)としたシルエットを逆に浮かび上がらせる結果にもなっている。
 『あだまもる 砦(とりで)のかがり影ふけて 夏も身にしむ越(こし)の山風』

 ≪西南戦争でも際立つ≫

 降伏後、立見はやがて司法省に出仕、下級判事などを務めたが、各地で士族の反乱が相次ぐと、請われて明治の陸軍に入った。なにしろ、高級軍人の出身地薩摩が反乱を起こしたので、“朝敵”とか“賊軍”といったレッテル貼(は)りにこだわっていられなかったのだ。
 西南戦争では陸軍少佐として新撰旅団一個大隊を指揮、日清戦争では陸軍少将で歩兵第10旅団長を経験したが、いずれも際立った統率力を発揮した。

 ≪世界戦史にもない夜襲≫
 彼の名を不朽にしたのは、黒溝台(こっこうだい)の戦線左翼で壊滅の危機に瀕(ひん)した秋山好古(よしふる)の騎兵部隊を支援した戦であろう。第8師団(弘前)を率いた立見は、師団の総力を挙げて夜襲する世界戦史にもない作戦をとった。当時では2万人の夜襲とは破格のものである。
 この時、命令受領者を集めて訓示した立見は興奮も極まって、演説台の代わりにした箪笥(たんす)を思わず足で踏み破った。立見は多くの犠牲者を出しながら、臨時立見軍を編制し、ロシア軍を分断して後退させたのだった。
 零下40度の厳寒で高齢の将軍が戦地に立つのもつらいのに、先頭で指揮を取り続けた粘り強さには驚くほかない。ロシア軍の冬季攻勢を退けたのは、東北の兵の勇敢さに加えて、「立見がいたからだ」というのが東北の農村で語り継がれた逸話であった。
 義経記や太平記のような戦記物がもはやない時代に、賊軍出身ながら大将にまでなった立見の武勇を知らしめるのは、作家の仕事になっている。中村彰彦氏の『闘将伝 小説立見鑑三郎』(角川文庫)や柘植(つげ)久慶氏の『常勝将軍 立見尚文』(PHP研究所)は、この知られざる名将の事績をとりあげた作品として興味深い。(やまうち まさゆき)
                  ◇

【プロフィル】立見尚文

 たつみ・なおふみ 幕末の伊勢(三重県)桑名藩士、明治の陸軍軍人。弘化2(1845)年、江戸の藩邸に生まれる。戊辰戦争では雷神隊を組織して新政府軍と戦うが、敗れて桑名に幽閉された。のち陸軍に入り、西南戦争、日清戦争に出征。日露戦争では第8師団長を務め、黒溝台の会戦で活躍する。明治39年、陸軍大将。明治40(1907)年、63歳で死去。

 「立見鑑三郎キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!」です(戊辰戦争の活躍ぶり以降はこの記事で勉強中^_^;)。
 「参謀だった山県有朋が時山の死から受けたショックは大きく、立見の昇進を何かと邪魔した山県の生涯にわたるこだわりは朝日山の敗戦から始まったといってよい」というくだりに「やっぱり」という言葉が出てしまうのは、何か予見が入っているかしら^_^;。

文化芸能
好調の「JIN―仁―」映画化決定? 「ドラマ引き継ぐ」と女性誌が報道。
 11月8日に放送された第5話で視聴率が20.3%(ビデオリサーチ調べ)の大台を突破した連続ドラマ「JIN―仁―」(TBS系)。15日放送の第6話も20.2%を記録、平均視聴率は「秋ドラマ」トップの18.0%と快進撃を続けているが、この「JIN―仁―」の映画化の情報を、現在発売中の女性週刊誌「女性自身」が伝えている。
 「女性自身」に掲載されたのは「大沢たかお 絶好調の現場を支える内野聖陽との『バカボン父』同盟!」との記事。その内容は撮影現場の楽しい雰囲気や、盛り上がりを伝えるものだが、最後に今後の展開について触れ、「実は映画化が決定したんです。来年3月から撮影開始です。最終回以降のストーリーを映画が引き継ぐ形になると思います」と、テレビ局関係者の話を伝えている。
 連続ドラマの映画化は近年のトレンド。2010年正月&春には上野樹里主演の「のだめカンタービレ THE MOVE I&II」、同年秋には岡田准一主演の「SP」が公開されるほか、「秋ドラマ」の作品でも、「ライアーゲーム」(フジテレビ系)の映画版「ライアーゲームザ・ファイナルステージ」(2010年2月公開)、米倉涼子主演ドラマ「交渉人~THENEGOTIATOR~」(テレビ朝日系)の映画版「交渉人 the movie」(2010年2月公開)の製作がすでに発表済みだ。
 視聴率が低迷するTBSにとって、「JIN―仁―」のヒットは明るい話題。高視聴率に加え、その内容についてもかなり評判が良いだけに、映画化の続報に期待したいところだ。


☆「JIN―仁―」とは
 江戸時代にタイムスリップした脳外科医の南方仁(大沢たかお)が、病気で苦しむ人々を助け、幕末の志士たちと交流していくというストーリー。大沢たかおのほかに中谷美紀、綾瀬はるか、小出恵介、桐谷健太、田口浩正、戸田菜穂、高岡早紀、六平直政、麻生祐未、小日向文世、内野聖陽、武田鉄矢(特別出演)らが出演している。

 女性週刊誌『女性自身』がソースでは、まだ信じる気にはなれませんが……『スーパージャンプ』誌上で発表されたら、喜びたいと思います(笑)。






 雨がよく降りますねぇ……冷えてきます。龍馬の誕生日・命日があったせいか、龍馬関係のニュースが多いです。

北海道
函館に龍馬記念館
 幕末の志士・坂本龍馬の資料を集めた「北海道坂本龍馬記念館」が、市民有志らによって、龍馬の誕生日で命日でもある15日、函館市に開館した。関係者は「歴史のまち函館の新たな観光資源にしたい」と意気込んでいる。
 龍馬は生前、脱藩浪士らを集め、北海道開拓と防備に充てる計画を立てていたことで知られる。明治時代に龍馬のおいの直寛が高知県で移民団を結成し、北海道に移住。一族から画家・坂本直行(故人)を輩出するなど、子孫が北海道で活躍している。
 記念館には、龍馬と一族の足跡を紹介するパネルのほか、坂本家ゆかりの資料など100点余りを展示。龍馬直筆の手紙2通もある。運営するNPO法人「北海道坂本龍馬記念館実行委員会」の三輪貞治理事長(46)は、「龍馬と北海道とのつながりを知ってもらえれば」と語る。
 開館式典には、坂本家9代目当主の登さん(72)も参加。「坂本の人間として無類の喜び」と話していた。
(2009年11月16日 読売新聞)


龍馬の精神、函館に 記念館がオープン
【函館】幕末の志士、坂本龍馬の足跡を伝える北海道坂本龍馬記念館が15日、函館市末広町8に開館した。
 NPO法人北海道坂本龍馬記念館実行委員会(三輪貞治理事長)が、龍馬が本道開拓の夢を持っていたことや、親族が函館に住んでいた縁から、道内外から集めた寄付などで開設した。龍馬が薩長同盟成立の直前に親族あてに書いたとされる直筆の手紙や、勝海舟や西郷隆盛の書など約100点を展示している。龍馬の記念館は高知市に次ぎ2館目。
 11月15日は龍馬の誕生日と命日。坂本家9代目当主の坂本登さん(72)=東京都=は「若者に龍馬の精神を伝える場になってほしい」と話していた。
 入場料は一般300円、高校・大学生200円、小中生100円。月曜休館。問い合わせは同館(電)0138・24・1115へ。


龍馬記念館、函館に開館
式典や演武披露も
 北海道開拓を夢見た幕末の志士・坂本龍馬や北海道に渡った坂本家の子孫たちの志や業績を伝えようと道内のNPO法人が計画した「北海道坂本龍馬記念館」(三輪貞治館長)が15日、函館市末広町に開館し、多数の見学者でにぎわった。
 午前10時から記念セレモニーが行われた。西尾正範・函館市長は「記念館は龍馬を慕う人たちが思いを込めてつくった。龍馬の志を函館から発信できるきっかけになるかなと大いに期待している」とあいさつした。
 記念館名誉顧問で、坂本家9代目の坂本登さん(72)=東京在住=は龍馬の甥(おい)で北海道に渡った自由民権運動家、坂本直寛のひ孫。登さんは「資料の展示だけでなく、記念館を大きな出会いの場にして欲しい」と述べた。
 記念行事として近くの五島軒本店で龍馬が学んだ北辰一刀流の演武が披露され、龍馬に詳しい京都国立博物館考古室長の宮川禎一さんが講演を行った。宮川さんは北辰一刀流の千葉定吉道場の千葉重太郎について言及。「重太郎は明治5年から開拓使に出仕した。記録から函館に来たのは間違いない」と龍馬の友と函館の因縁について説明した。
 登さんの父で、六花亭の包装紙のデザインでも知られる画家の故坂本直行さんのコーナーも設けられた。近所に住む公務員の及川雅子さん(49)は「六花亭の包装紙の画家が龍馬とゆかりがあると知らなかった」と驚いていた。


龍馬の遺志 今に…記念館オープン
 函館市と青森市のツインシティ提携20周年を記念して行われた「赤い糸プロジェクト」のモニュメント除幕式が14日、青函両市で行われた。函館では悪天候のため、モニュメントが設置された緑の島(大町15)の対岸に位置する市青函連絡船記念館摩周丸で行われ、西尾正範市長や、同プロジェクトに携わった市内の高校生、大学生らが両市の末永い交流を願った。
 同プロジェクトは青函圏域の新たな魅力づくりに向け、青森ゆかりの作家、太宰治の作品にヒントを得て実施。今年6月から両市の高校生、大学生21人が小委員会を組織、公立はこだて未来大の鈴木克也教授らをコーディネーターに進めてきた。
 モニュメントは山形在住の彫刻家、峯田義郎さんが制作し、高さ2メートル30センチ、幅90センチの大きさ。太宰の小説「思ひ出」(1933年)の中で、青森港の桟橋で男女を結ぶ赤い糸について弟と話し合うシーンをもとに「ふたり」と名付けられ、2人の人物が両市の絆(きずな)の深さを表現している。函館では緑の島、青森は県観光物産館(アスパム)裏に設置された。
 函館での除幕式では西尾市長が「新幹線が開通すると青函は40分で行き来できる。新しい交通時代を見ながら、さらにつながりを深めたい」とあいさつ。出席者は緑の島でモニュメントの幕が取り払われる様子を摩周丸から眺め、拍手を送った。
 大学生の小委員会メンバーはその後、緑の島に出向いて記念撮影。公立はこだて未来大3年の伝法谷朋弘さん(21)は「青森出身なので、人一倍思いがあった。プロジェクトにかかわれて誇らしく思う」、函館大2年の矢本千晶さん(20)も「少しでも市のために何かできたことがうれしい。青森を身近に感じられるようになった」と話していた。


坂本龍馬記念館:函館に開設 開拓の遺志、一族が継承 /北海道
◇先取の精神と甥らの足跡たどる
 大政奉還後の北海道開拓を提唱したとされる坂本龍馬(1835~67)の記念館が函館市末広町に開設された。龍馬自身は道内に足を踏み入れることはなかったが、遺志を継いだ一族が道内各地に足跡を残しており、戊辰戦争最後の地・函館で「龍馬の志」を伝える場にしたい考えだ。【昆野淳】
 「エゾ(蝦夷)に渡らんとせし頃(ころ)より、新国を開き候ハ積年の思ひ」。龍馬が暗殺される9カ月前に親しい長府(山口)藩士に差し出した手紙。現在も残されている直筆の文面には、北海道開拓を真剣に志した龍馬の思いが熱く語られている。
 龍馬の記念館は高知に県立施設があるが、恵庭市で商店を経営していた三輪さんがこうした話を知り、01年にNPO法人を作って道内での設立に奔走。当初は札幌での設置を検討したが、函館が幕末・維新の歴史の残る歴史的な観光地であり、函館に開設することにした。
 記念館では、龍馬の直筆の2通の手紙や愛用の湯飲み茶わんのほか、一族の生涯を紹介したパネルなど約100点を展示している。月曜日休館。入場料は大人300円、小中学生100円。

11月17日朝刊


山形
活動充実と一層の発展誓い合う 米沢有為会の創立120年記念行事
 置賜地方出身の学生を対象にした寄宿舎運営や育英事業などを続けている米沢有為会(本部・東京)の創立120周年記念行事が15日、東京都内のホテルで開かれた。会員ら約220人が出席し、活動の一層の充実を確認した。
 式典で下條泰生会長(米沢市出身)は「先人の志と会員の支えによって事業は継続してきた。次の130周年に向け継承していこう」とあいさつ。名誉会長で旧米沢藩上杉家17代当主の上杉邦憲さんは「厳しい世の中で、ますます米沢有為会の存在が大事になる。発展を祈念する」と祝賀の言葉を述べ、安部三十郎米沢市長も来賓として出席し、祝辞に立った。
 式典に先立ち、会場では「有為会歴史回顧展」と題し、歴代会長の遺影のほか、幕末から明治、大正、昭和にかけて活躍した先人の伝記図書を展示。上杉さんによる記念講演などが行われた。
 米沢有為会は1889(明治22)年に米沢市出身の建築家、伊東忠太氏ら在京学生が創設。都内と仙台市で寄宿舎「興譲館」を運営し、奨学金事業や産業分野の顕彰も行っている。寄宿舎生は計2000人近くに上り、奨学生は360人を超えている。


茨城
【決断の日本史】(6)1645年・黄門さまの向学心
■明治維新生んだ「水戸学」

 越後のちりめん問屋のご隠居が助さん、格さんを従えて諸国を漫遊し、悪代官の不正をあばき、懲らしめる。日本人ならだれもが知っている水戸黄門の勧善懲悪の物語である。
 黄門さんは水戸徳川家2代藩主、徳川光圀(1628~1700年)であり、「黄門」は官位・権中納言の中国風の呼び名であることも、歴史ファンなら知っている。しかし、黄門さんは諸国漫遊はおろか、江戸や日光、水戸近辺しか見たことがなかったといえば、少々意外にも思うだろう。
 「光圀が名君だったことは事実ですが、漫遊記は明治20年代以降に作り上げられたフィクションなんです」
 3年前、『徳川光圀』(吉川弘文館)で新たな光圀像を描き出した鈴木暎一(えいいち)・茨城大学名誉教授はいう。
 光圀は徳川家康の十一男で初代水戸藩主、頼房の三男として誕生した。子供のころは乱暴者だったが正保2(1645)年、18歳のとき司馬遷の『史記』伯夷(はくい)伝を読んで感動し、学問に開眼した。伯夷伝は伯夷、叔斉(しゅくせい)の兄弟が国王の座を譲り合う話である。
 光圀には6歳上の同母兄がおり、兄を差し置いて水戸藩を継ぐことに複雑な思いがあった。のちにこの兄の子を3代水戸藩主に迎えている。
 光圀の向学心は尋常ではなく、30歳で歴史研究のための史局(のちの彰考館)まで開設した。彰考館には全国に伝わる古い文献史料を集めるための専任スタッフも置かれた。その中心人物だった佐々十竹(じっちく)と安積澹泊(あさか・たんぱく)は京都や奈良などを駆け巡り、彼らが助さん、格さんのモデルとなったのである。
 光圀は収集した史料を分析、考察し、膨大な歴史書『大日本史』の編纂(へんさん)に着手した。朱子学の大義名分論の立場に立った歴史観は「水戸学」として大成され、幕末の尊王思想へとつながり、明治維新と近代国家誕生のバックボーンになった。
 「学問に生きる」という決断が歴史を動かしたのである。(渡部裕明)
 

栃木
埋もれた歴史遺産に光 鬼怒川・川治温泉ブランド戦略委 観光商品化へツアー
【日光】ホテルなどの関係者でつくる鬼怒川・川治温泉ブランド戦略委員会は、地域内の埋もれた歴史、文化遺産ツアーの商品化を目指し、首都圏の住民を対象にした初のモニターツアーを18日に行う。鬼怒川温泉から三依まで会津西街道沿いの史跡など10カ所前後を視察。参加者の意見を参考にし、再来年までには商品化を目指す。関係者は「愛される商品にしたい」と意欲的だ。
 この企画は「歴史遺産創造事業プロジェクト」。JTB協定旅館ホテル連盟鬼怒川・川治地区会が、同連盟本部の基金から支援を受け、昨年から3カ年にわたり行っているものの一環だ。
 戦略委は地元の人にも意外に知られていない史跡などが多いことに着目。本や資料で下調べした上で現地調査やホテル関係者による視察を行うなど、数カ月かけ準備してきた。
 ツアーには東京、神奈川、埼玉の5組、13人が参加。野仏群や道祖神のほか、幕末の漢学者大橋静庵終えんの地を示す大橋静庵墓碑、戊辰戦争時の小原沢古戦場跡なども視察する。
 地産地消を意識し、昼食は新そばや山菜の天ぷらを予定。戦略委は今後も地産地消の研究を重ね、歴史遺産探訪と温泉、食を組み合わせることで商品化を図りたい考えだ。
 同プロジェクトの小野真事務局長は「埋もれたものを再確認しようと始めたら、多くの歴史や文化遺産があると分かった。歴史に興味のある人は多く、ヒット商品に育てたい」と話している。


東京
写真でたどる龍馬の生きた時代 1月にフジフイルムスクエアで
 明治維新の原動力となった坂本龍馬(1835~67)の人生を振り返る写真展「写真で辿(たど)る『坂本龍馬の生きた時代』」が平成22年1月16日から2月25日まで、フジフイルムスクエア(東京都港区赤坂)で開かれる。
 龍馬の写真は6点が現存するとされ、靴をはいて立っている有名な写真など複数枚が展示される予定。さらに、龍馬と同時代に活躍した人物や当時の風俗などの写真、龍馬が生前に残した書簡、所持品などが展示される。
 富士フイルムは「幕末は写真技術が伝来した写真文化の幕開けの時代。一枚一枚に込められた当時の人々の思いを体感してください」としている。
 また、同時にNHK大河ドラマ「龍馬伝」展が開催される。22年1月から放送される福山雅治主演のドラマの撮影風景や小道具などが展示される予定。
 いずれも入場無料。フジフイルムスクエア(電)03・6271・3350。


神奈川
横浜ロイヤルパークホテルが期間限定「徳川遊膳」ランチ
 横浜ランドマークタワー内「横浜ロイヤルパークホテル」68階の日本料理「四季亭」(横浜市西区みなとみらい2)は、期間限定の特別ランチ「徳川遊膳」を提供している。
 同ランチは、現在横浜美術館で開催中の展覧会「大・開港展 徳川将軍家と幕末明治の美術」にちなみ企画されたもので、期間中は徳川将軍家の食にまつわるエピソードや、天璋院篤姫の出身地「薩摩(鹿児島)」の名物、篤姫が好んだと伝えられている料理にアレンジを加えたメニューを用意する。
 内容は、先付け「茶碗蒸し」、お造りは将軍家縁の「鯛、イカ、芽物、山葵」、焼物八寸は篤姫好物、将軍家・故郷薩摩縁の「小串、さつま揚げ、胡瓜と薩摩味噌、白インゲン豆栗含ませ」、煮物替は篤姫好物の「揚げだし豆腐べっ甲あんかけ」、小鉢「菊花、青菜浸し」、篤姫好物の「きがら茶ご飯」をアレンジした季節の味ご飯など。料金は3,465円。
 同ランチを始めて以来、横浜美術館の前後に立ち寄る方が多く好評だという。
 横浜ロイヤルパークホテル・営業企画部広報企画課の釜本晴美さんは「このランチは横浜美術館の企画展と連動している事もあり、ぜひお客様に歴史を知る楽しさを味で感じてもらおうと思い企画いたしました。簡単には資料が見つからず、江戸をテーマにした博物館や、文献を多く所蔵する図書館へ行くなど、時間をかけて調査した内容です。お召し上がりいただく際、ぜひスタッフにお声をお掛けいただき、篤姫や将軍家の食についてのエピソードなども聞きながら味わってみてください」と話す。
 開催時間は11時~14時30分(土曜・日曜・祝日は15時まで)。問い合わせはレストラン予約(TEL 045-221-1155)。11月23日まで。
 「大・開港展 徳川将軍家と幕末明治の美術」は、横浜開港150周年記念 横浜美術館開館20周年記念の企画展。封建体制下における政治・文化の頂点に君臨した徳川将軍家に焦点をあてた幕末の将軍遺愛の品々や大奥を彩った調度品から、開港により揺れ動く時代を表す史料、そして開港を経て新しく生み出された美術までを3部構成で展示する。11月16日からは徳川慶喜の騎馬肖像写真が登場する。会期は11月23日まで。


京都
竜馬ゆかりの4県タッグ 鹿児島県などの大阪事務所 京都市で観光PR
 坂本竜馬ゆかりの鹿児島、長崎、山口、高知の4県の大阪事務所が観光客誘致でスクラムを組み「大龍馬恋」と題したPR展を、竜馬の命日にあたる15日、幕末維新の志士が活躍した京都市で初めて開いた。
 「大龍馬恋」は来年1月に始まるNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなんだ企画。“大”阪事務所が“恋”(連)合するという意味で、等身大の竜馬像も設置された京都駅前のPR会場には各県の観光キャンペーンレディーやキャラクターの着ぐるみも登場し、市民や竜馬ファンらに観光パンフレットなどを配った。
 霧島ふるさと大使の川畑りえ子さんは「鹿児島は、竜馬が日本人で初めて新婚旅行に訪れた場所。癒やしの旅を味わって」とPRしていた。


大阪
龍馬“174歳”高知で祝う ホテルに「龍」点灯
 幕末に活躍した坂本龍馬(1835~67)の誕生日で命日にもあたる15日、龍馬の偉業を顕彰する催しが、高知市内各地で行われた。来年1月からNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送が始まり、県内でも「土佐・龍馬であい博」が開かれるのに合わせ、今年は、観光機運を盛り上げるための新たなイベントも開かれ、県内外から訪れた大勢の龍馬ファンが、薩長同盟の橋渡しや大政奉還に大きな役割を果たした、幕末の英雄の生涯に思いをはせていた。
 龍馬の生誕地にある記念碑(同市上町)前では、174回目の誕生日を祝う「龍馬誕生祭」があり、約100人が参加。龍馬の子孫にあたる神戸市須磨区の土居晴夫さん(86)らが玉串を奉納した後、近くの保育園児が鼓笛隊の演奏を披露し、全国龍馬社中の橋本邦健会長らが講話した。
 講話の中で橋本会長は、今後、オランダや台湾など海外にも龍馬会を作っていく考えを明らかにし「我々も龍馬の行動力、先取性を見習い、少しでも近づけるよう頑張りたい」と語った。
 高知市鴨部の江川澄雄さん(78)は「現代の日本も激動の時代を迎えているが、龍馬のような発想の人はいない」と、〈平成の龍馬〉の出現に期待。神奈川県秦野市の会社員女性(29)は「今の時代に、龍馬が生きていたら、宇宙にいこうとしているのでは」と、思いをはせていた。
 一方、「ホテル日航高知旭ロイヤル」(同市九反田)では、ホテルの壁面に「龍」の一文字を夜空に浮かび上がらせた。隣接する立体駐車場の壁面には、龍馬の立像写真をプロジェクターで浮かび上がらせ、坂本雅彦マネジャーは「長崎に負けず、高知も一緒に盛り上げていきたい」と意気込んでいた。
 また、丸の内緑地公園(同市丸ノ内)では「龍馬よさこい冬の舞」が初めて開かれ、有名チームを含む19チームがよさこい鳴子踊りを乱舞。JR高知駅では、龍馬や岩崎弥太郎のキャラクターや肖像画などを車体に描いた特急「南風」の出発式が開かれた。南風は、JR岡山駅と県とを結び、来年いっぱい運行される。
(2009年11月16日 読売新聞)


岡山
異国人の強さ知る 龍馬テーマの講演会
 開催中の岡山城秋季特別展「江戸時代に学ぶ行財政改革 熊澤蕃山から山田方谷まで」(山陽新聞社など主催)に合わせ15日、岡山市北区柳町の山陽新聞社さん太ホールで、幕末の政治史に詳しい一坂太郎・山口県萩市特別学芸員が講演した。
 演題は「龍馬とその時代 黒船来航」。一坂氏は、嘉永6(1853)年のペリー来航のころ坂本龍馬が江戸・品川付近の警備を担当し、自らの意志で西洋の砲術も学んでいたと指摘。「異国人を討ちたいという思いだけでなく、強さの理由を知らなければならないという深い考えを持っていた」と評価した。
 同十日市西町、会社員諸河博さん(37)は「男らしいイメージがある龍馬の思想が、どんな影響を受けて成り立ったのか実感できた」と話していた。
 坂本龍馬に関する一坂氏の講演は来春も同ホールで開かれる予定。



香川
日向市史談会が小豆島で交流 香川
 小豆島(香川県)と幕末の人物史を共有する宮崎県日向市の歴史研究グループ「日向市史談会」の甲斐誠二会長(72)ら17人が16日、小豆島町福田の雲海寺で、幕末の事件「寺田屋騒動」で殺害された田中河内介(かわちのすけ)・左馬介(さまのすけ)父子を顕彰する「田中河内介顕彰会」(小豆島町)と交流し、非業の死を遂げた志士たちを偲(しの)んだ。
 河内介は但馬・神美村(現在の兵庫県豊岡市)の生まれで、後に明治天皇となる祐宮(さちのみや)の養育係だった勤王の志士。文久2(1862)年4月、倒幕急進派の薩摩藩士や諸国の志士らと集まった京都・伏見の寺田屋で公武合体に動く薩摩藩に首謀者として捕らえられる。
 父子のほか、黒田藩家臣の海賀直求や千葉郁太郎、中村主計の志士は海路で薩摩へ護送され、父子は船中で惨殺されて瀬戸内海に捨てられ、残る3人は現在の日向市細島の海岸で殺害されてともに歴史から抹殺された。
 父子の遺体は、足かせがついたままの姿で小豆島の同寺近くの海岸に漂着。地元では手厚く葬り、現在も慰霊と顕彰が続いている。日向市でも同様に維新の志半ばで消えた3人の志士と歴史を顕彰し続けている。
 日向市史談会の訪問は4回目。15日夕方に3人の位牌(いはい)を携えて来島し、河内介らが中心の物語でTVドラマ化された「天皇の世紀」(大佛次郎原作)のビデオを、顕彰会のメンバーと鑑賞して旧交を温めた。
 この日は同寺で合同の法要と墓参をして、歴史談議に花を咲かせた。甲斐会長は「小豆島の会と交流しながら、顕彰を続けたい」と話していた。


高知
「龍馬型」拳銃 20日から公開
 佐川町甲の町立青山(せいざん)文庫は坂本龍馬が京都・寺田屋事件で使ったとみられる拳銃と同型の拳銃を20日から特別公開する。29日まで。
 この銃はアメリカのスミス&ウエッソン社が幕末から明治初めにかけて製造した回転式6連発の「モデル2アーミー」=写真。2年前に県内の民家で見つかった。民家から提出を受けた高知地検が「歴史的な価値があるのでは」と同文庫に移管した。
 龍馬自身が「6連発の拳銃を使った」と語った1866(慶応2)年の寺田屋事件とは製造時期が重なっている。同文庫名誉館長の松岡司(まもる)さんは「このモデルだった可能性が大きい。初物好きの龍馬は拳銃が好きだったようで、懐に入れた手で拳銃を握っていたという見方もある」と話す。
 拳銃は現在でも使用できるため、一般公開には厳重な管理が必要という。同文庫は来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて常設展示するかどうか検討している。問い合わせは同文庫(0889・22・0348)へ。


焼酎の夜明けぜよ
 来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせ、坂本龍馬が幕末に活躍した高知、長崎、京都の3府県にある酒造メーカー3社が、共同で開発した焼酎「龍馬伝」を発売した。
 長崎県壱岐市の焼酎メーカー「壱岐の華」が「龍馬伝の名称で、瓶やパッケージなどが共通デザインの焼酎を造らないか」と、安芸市本町4丁目の菊水酒造と京都市伏見区の酒蔵「北川本家」に持ちかけた。
 菊水酒造は高知産金時芋を使った芋焼酎、長崎は麦焼酎、京都は米焼酎を造った。それぞれサブタイトルとして「土佐 立志篇」「長崎 希望篇」「京都 風雲篇」と名付けた。ラベルには坂本家の家紋を記し、化粧箱には日本地図や龍馬が残した和歌をあしらった。
 菊水酒造の担当者は「ドラマを見ながらそれぞれの地の焼酎を味わってもらえれば、楽しみが倍増するのでは」と話している。
 価格は1本720ミリリットルで立志篇が1600円、希望篇と風雲篇が各1400円(税抜き)。問い合わせは菊水酒造(0887・35・3501)へ。


高知で坂本龍馬誕生祭 ファンらがしのぶ
 幕末の志士・坂本龍馬の誕生日で、命日でもある15日、高知市上町の生家跡に立つ記念碑前で恒例の「龍馬誕生祭」が開かれ、地元住民や県内外の龍馬ファンらが龍馬をしのんだ。
 地元住民らでつくる同実行委が主催。龍馬の写真が掲げられた記念碑の前で近くの神社の神職が祝詞を読み上げた後、神戸市須磨区に住む龍馬のおいの孫にあたる土居晴夫さん(86)ら出席者が碑の前で手を合わせた。
 土居さんは「10数年前から出席しているが、地元の人たちのおかげで誕生祭が続けられることはありがたい」と話した。
 龍馬に関する講話や地元の市立第四小学校の児童による龍馬にあてた手紙の朗読、上街保育園の園児の鼓笛演奏などが行われた。
 誕生祭に合わせて訪れる全国の龍馬ファンも多く、千葉県市川市の会社員、目黒薫さん(40)は「毎年、龍馬の命日のころにゆかりの地を訪れており、今年は高知に来た。龍馬の奇抜な発想や先を見すえた考えなどにひかれファンになった」と話した。


高知 坂本龍馬の誕生祭
 幕末の志士、坂本龍馬の174回目の誕生日にあたる15日、高知市の龍馬の生家跡で誕生祭が行われました。ことしは全国から100人余りの龍馬ファンが集まり、参加者が記念碑に玉ぐしをささげて龍馬をしのびました。



大分
勝海舟と龍馬足跡たどる
街道ウオークに400人

 大分市は14日、幕末に勝海舟と坂本龍馬が佐賀関から大分を横断したことを記念した「愛媛街道健康ウオーク」を市内で開いた。市民ら約400人が参加、鶴崎公園から国道197号(愛媛街道)沿いのコースを通って佐賀関を目指す20キロのコースと、その半分の10キロのコースに分かれ、途中、別府湾などの景色を堪能しながら半日をかけて歩いた。
 市などによると、2人は1864年、英、仏、米、蘭の四国連合艦隊の下関攻撃を中止させる説得交渉のため長崎に赴いた。その際、佐賀関の徳応寺に宿泊した記録が、当時の住職の手で記されている。
 この日、20キロコースに参加した郷土史家の北川徹明さん(75)は「くたびれたが気持ちよかった。小説などでは海路を使ったと描かれることが多かったが、これを機に史実が広まってくれれば」と話していた。
(2009年11月15日 読売新聞)


長崎
オランダ商館付属の遺構 江戸初期、基礎や石垣の一部確認 綱造り工場関連跡か 平戸・横島
 平戸市教委は16日、同市田平町沖の横島で、江戸時代初期、平戸島にあったオランダ商館(1609-41年)の付属施設とみられる建物の基礎や石垣の一部を確認したと発表した。当時の記録にある帆船用のロープ造り作業所(リンバーン)に関連した施設の可能性が高いという。商館付属施設の遺構が見つかったのは初めてで「商館の活動を裏付ける貴重な発見」(市教委)としている。

 市教委によると、横島は、同市大久保町の国史跡「平戸和蘭(おらんだ)商館跡」から北東に約4キロ。1981年から無人となっている。2007年の踏査で、集落跡を広範囲に囲んだ石塀(南側約100メートル、西側約33メートル、高さ約3メートル)の形状が商館時代のオランダ建築と類似していることが分かった。

 江戸初期の丸瓦も見つかったことから今年10月、発掘調査に着手。その結果、石塀内部の敷地から商館時代の建物の礎石が出土、南側石塀の下からも商館と同じ構造の護岸石垣が見つかった。また、西側石塀の一部が商館時代に築かれたものであることも分かった。石塀は幕末ごろまで改修を重ね、近年まで防風壁として島民が利用していたとみられる。

 オランダ商館の商館長日記や仕訳帳には、川内浦など4カ所に付属施設があったことが記されている。横島は「商館の島」と記述され、ヤギやヒツジの放牧地やリンバーン、墓の存在は知られていたが、それらの遺構は特定されていなかった。

 市教委の赤木寛さん(考古学)は「今回見つかった礎石は、リンバーンで働いた作業員の住居跡と思われる。文献にはリンバーンは長さ120メートル以上あったとされており、今後の調査で場所を特定したい」と話す。

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 ●西欧の思想 色濃く反映

 ▼元佐賀県立名護屋城博物館学芸課長の高瀬哲郎さん(城郭史)の話 横島の石塀の構造を見ると、日本古来の築造技術を用いながらも、垂直に石が積まれている。日本の石垣は斜めに積むのが普通で、形状には西欧の思想が色濃く反映されている。

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 ▼平戸オランダ商館 東インド会社が1609年設立。江戸幕府により長崎出島移転を命じられるまでの33年間、敷地内に住宅や倉庫など十数棟が建てられ、鎖国以前唯一の国際交易拠点として隆盛を極めた。平戸市は2011年秋オープンをめどに、1639年築造の石造倉庫の復元工事を進めている。


オランダ商館でロープ作り 長崎・平戸の無人島で跡地判明
 長崎県平戸市の横島に17世紀前半、平戸オランダ商館が設置した航海用ロープ作りの作業場があったことが発掘調査で判明し、同市教育委員会が16日、現地説明会を行った。
 横島は周囲約4キロの離島で、昭和56年から無人島になっている。市教委は海に面した石垣の内側で、17世紀前半の陶磁器の破片を発見。また石垣は積み直されているが、元島民の証言から以前はオランダ建築の名残をとどめていたことが分かり、文献に記録があるロープ作りの作業場と作業員家屋の跡地と特定した。
 無人島になる前、石垣の内側には3世帯が居住。その1人で、説明会に参加した農業、沢井真実さん(72)は「生まれた時から石垣はあったが、オランダに関係するものとは思ってもみなかった」と話していた。



3体目の龍馬像ぜよ 長崎でお披露目
 幕末の志士、坂本龍馬が活躍した長崎市で、龍馬の3体目となる銅像が丸山公園に建てられた。誕生日で命日でもある15日、除幕式が開かれた。
 地元自治会や観光業界、財界などが企画。来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」ブームも手伝って、13日現在、建立費約700万円を超える約1255万円が寄せられた。
 高さは台座も含めて約2.4メートル。制作した市内の版画家・彫刻家、小崎侃(こざき・かん)さん(67)は「手で触れ、肩を並べて写真を撮ってほしい。愛される龍馬になれば」。


亀山社中幕末祭:龍馬の功績しのぶ /長崎
 坂本龍馬の誕生日であり命日の「11月15日」を前に、長崎市伊良林2の若宮稲荷神社などで14日、亀山社中幕末祭(亀山社中ば活かす会主催)があった。
 神社は「勤皇稲荷大明神」とも呼ばれ、幕末には龍馬をはじめ、多くの志士が参詣したという。境内では生誕祭が執り行われ、会員ら約20人が参加した。
 また、今年8月の神社近くの長崎市亀山社中記念館リニューアルに伴って、社中跡から境内に移設された坂本龍馬像の奉呈式も行われた。
 松尾光弘宮司は「今後は神社の宝として末永く保持していきます」とあいさつ。針屋武士・活かす会会長は「来年はNHK大河ドラマ『龍馬伝』が放映され、ここにも多くの観光客が訪れると思う。その盛り上がりを来年以降にいかにつなぐか考えたい」と語った。
 15日午前10時~午後3時には、神社近くの亀山社中資料展示場で、見学者にお神酒、お茶が振る舞われるサービスもある。【蒲原明佳】


社会 
龍馬・武将…歴史モノ人気
■カレンダー2010

 国内外の来年のカレンダー約2500種類を集めた「丸善カレンダーフェア2010」が、岡山市北区表町1丁目の丸善岡山シンフォニービル店表町ギャラリーで開かれている=写真。来年1月11日まで。
 フェアは同店の恒例行事。「中四国最大級」という品ぞろえで、国内では珍しい輸入品をはじめ、風景、アート、花、動物などの分野別に様々なカレンダーが並ぶ。
 同店によると、近年は不況のために自社のカレンダーを作って配る企業が減ったこともあって、「好みに合った商品を自分で選ぶ人が増えている」という。今年は坂本龍馬、新選組、戦国武将などをテーマにした「歴史モノ」が特に人気という。また、エコに配慮して過剰な冷暖房をしないよう液晶温度計が付いたものや、メタボ対策にも役立つ食事記録の記入に適したものもあり、見るだけでも楽しい。


近畿日本ツーリスト、「美甘子と行く坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー」を発売
坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー 11月16日から発売開始

~歴ドル・美甘子が講師としてツアーに同行~


 近畿日本ツ-リスト株式会社(本社:東京都千代田区、社長:吉川 勝久 以下、KNT)は、日本出版販売株式会社(本社:東京都千代田区、社長:古屋 文明、以下、日販)と協力し、2010年3月21日に全国4都市で同時開催される「第2回 坂本龍馬 幕末歴史検定」(主催:全国龍馬社中 共催:長崎新聞社、企画・運営:日販)の合格対策ツアー「美甘子と行く坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー」を「美甘子と行く坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー」を企画、11月16日から募集を開始します。
 http://biz.knt.co.jp/ryoma/mikako

 テレビドラマ・映画やゲームソフトなどが火付け役となり、歴女(れきじょ:歴史好きな女性)という言葉も流行るほど、現在、幕末や戦国時代が大きなブームとなっています。そんなブームの中、昨年に引き続き来年3月に「第2回 坂本龍馬 幕末歴史検定」が開催されます。当検定のインターネット申し込みが11月16日から先行スタート( http://www.kentei-uketsuke.com/ryoma/ )することに連携し、今回の検定対策ツアーを企画、募集することとなりました。

 ツアーのポイントは、(1)検定対策を3回(高知、長崎、京都)に分けて坂本龍馬ゆかりの地を見学しながら学習する。(2)歴ドル(歴史アイドル)の美甘子が同行、検定対策ポイントを学ぶ。(3)各コースとも検定主催者監修の模擬試験付きとなっており、実力チェックすることができる、などです。

 検定に合格したいと考えている方や、坂本龍馬ファンにとっては、大変魅力的な内容となっております。

 坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアーを実施するのは、旅行会社ではKNTのみとなっています。


 「美甘子と行く坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー」概要

 ■コース数:
   (1)「高知コース」(2)「長崎コース」(3)「京都コース」の3コース

 ■実施日:
   (1)2010年1/23(土)~24(日)1泊2日
   (2)2010年2/13(土)~14(日)1泊2日
   (3)2010年3/20(土)~21(日)1泊2日

 ■発着地 :
   (1)羽田空港発着 (2)羽田空港発着 (3)京都駅集合、現地解散

 ■最少催行人員:各コースとも30名様

 ■ご旅行代金:(1)49,800円 (2)54,800円 (3)24,800円 いずれも、お一人様代金
   ※検定料金(初級4,300円ほか)は含まれていません。

 ■添乗員:全行程同行します。

 ■コース一例
  (1):1日目 羽田発→高知着 龍馬ゆかりの地を美甘子と巡ります (高知泊)
      2日目 検定に関する講義&龍馬ゆかりの地をめぐります 高知発→羽田着


お問い合わせ先
 KNT 虎ノ門公務旅行支店 「美甘子と行く坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー」係
 TEL:03-3502-2921 FAX:03-3502-8588 9:15~18:00(土・日・祝休)


コラム
【次代への名言】竜馬がゆく編(3)
■「世の人はわれを何とも云はばいへ わがなすことはわれのみぞ知る」

 引き続き、坂本竜馬を導く観音(女神)さまの話をつづりたい。
 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』には2人の「乙女」が登場する。きのう紹介したお田鶴さまは架空の女性だったが、乙女はともに、実在する観音さまである。
 「志士は溝壑(こうがく)にあるを忘れず(志士は自分の遺体が道端に捨てられることを覚悟のうえで国を救おうとする)」。幕末志士の生涯を象徴する孟子の格言だ。少年・竜馬は姉の乙女から漢籍の素読をまなんだとき、このことばに「ひどく感銘した」(「立志篇」)という。女丈夫(じょじょうぶ)だった乙女は、竜馬にとって「最初の武術の師」というイメージが強いが、志士の魂もまた、授かったことになる。
 「姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打殺(ぶちころし)、日本(ニッポン)を今一度せんたく(洗濯)いたし申(もうし)候」。こんな個性豊かな名文の数々は、乙女との文通のなかで生まれている。
 また、冒頭の味わい深い歌、さらに≪文開く衣の袖はぬれにけり 海より深き 君が美心(まごころ)≫といった優美な歌は、乙女の手ほどきに由来する。彼女は、竜馬の文才を引き出した観音さまでもあった。
 さて、もう一人の乙女は江戸っ子である。そして竜馬の許婚(いいなずけ)だったという。(文化部編集委員 関厚夫)





 その2です。

青森
斗南藩士・廣澤安任:末えいが足跡、本に 八戸の安正さん、出版 /青森
 青森県の発足に尽力するなど県の成り立ちに大きく貢献した斗南(となみ)藩士、廣澤安任(やすとう)(1830~91)の足跡をたどった本「活人剱(かつじんけん)、活人農」を、安任の末えいにあたる八戸市の会社役員、廣澤安正さん(59)が出版した。
 廣澤安任は会津藩に生まれ、戊申戦争で敗れた会津が、現在の青森県下北、上北、三戸郡付近に斗南藩を興すことを許された際、青森に移住した。
 71年の廃藩置県では、農業基盤の安定した津軽地方と経済力の弱い県南地方の合併を提言し、現在の青森県の誕生に寄与した。また海外の肉食文化を取り入れようと、日本で初の洋式牧場を現在の三沢市に開設した。
 本では、会津藩士として藩主に尽くし、斗南藩に移ってからは青森の発展に力を注いだ安任の苦労や功績が丁寧に書かれている。大久保利通ら新政府とのかかわりについては、家に残っていた資料や安任に関する書籍を読み解き、廣澤さんなりの解釈を記した。
 廣澤さんは「安任は不器用だが、自分がこれと思うことを追求する情熱と信念を持っていた。明治維新のころの日本人には国をどうにかしたいという熱い思いがあった。(安任の生き方には)現代に訴えるものがあると思う」と話している。
 本は税込み1890円で、県内の書店などで販売されている。【喜浦遊】



福島
「オペラ白虎」制作へ 会津若松の市民グループ
 福島県会津若松市の市民グループが中心になって、白虎隊をテーマにした市民参加型の「オペラ白虎」が制作されることが決まった。
 本年度から取り掛かり、2012年度に会津若松市と東京都での公演を計画。白虎隊を通して愛や平和を訴えるとともに、地域観光への貢献も目指している。
 オペラ制作の中心になるのは同市の地域振興芸術委員会(宮沢洋一委員長)。11年度までに完成させるという。
 制作スタッフはいずれもプロで、同市出身の指揮者佐藤正浩氏が芸術監督を務める。作曲家加藤昌則氏と声楽家宮本益光氏が、それぞれ作曲と台本を担当、演出家岩田達宗(たつじ)氏が演出担当になる。オペラに参加する合唱団約80人は市民から公募する。
 佐藤氏は「地域発のオペラは初演だけで終わることが多いが、今回は繰り返し上演できるようにしたい。福島県は合唱が盛ん。オペラが豊かな音楽体験の場になるようにしたい」と話す。
 地域振興芸術委は「観光型地域オペラ」を目指すという。そのためにオペラをハイライトで短く紹介したり、曲をコンサート形式で演奏したりして、上演回数を増やせるよう工夫する。
 地元でIT関連のベンチャー企業を経営している宮沢委員長は「今の時代を反映した新しい作品にして、次世代に引き継ぎたい。会津若松市の活性化にも結び付けたい」と言う。
 オペラ制作までの間、体験型講座やフォーラム、それらの成果を発表する演奏会なども開催する。本年度分の講座は来年1月から4回、小中学生を対象にオペラ「夕鶴」を取り上げる。


白虎隊をテーマに新作オペラを制作へ
 会津若松市出身の世界的な指揮者佐藤正浩さんが芸術監督となり、白虎隊の悲劇をベースに愛や平和などをテーマとしたオペラ「白虎」が制作される。
 平成24年度の初演に向け、地元会津でワークショップなどを催し、舞台への住民参加に結び付ける考えだ。
 幕末の会津の歴史を題材にした日本を代表する歌劇を目指す。


磐城・平城の本丸跡を歩く会/参加者を募集
 磐城平城の歴史を学ぶ体験学習会「本丸跡を歩く・見る・考える」は21日、いわき市平字旧城跡の本丸跡などで開かれる。
 15日まで参加者を募っている。
 市内の有志でつくる磐城平城跡公園の会が、城跡の保存と活用を目指して6月に開いたシンポジウムに続く活動。
 いわき商工会議所の共催。
 城跡は民間の所有地となっているため、普段はなかなか入れない本丸跡などが見学できる。
 当日は午前10時から戊辰戦争後に旧藩主・安藤家が暮らした住宅で座学を行い、磐城平城の概要や歴史などについて理解を深める。
 正午からは昼食を取りながら本丸跡を散策、周辺に伝統のいわき絵のぼりを掲げて雰囲気を盛り上げる。
 午後1時半ごろから再び旧安藤家住宅でまとめの場を設ける。
 定員100人。
 保険代、資料代などを含み参加費1千円。
 昼食、飲み物は各自持参する。
 磐城平城は戊辰戦争で落城、城跡は明治初期に磐前県から民間に払い下げられた。
 問い合わせは商工会議所電話0246(25)9152へ。


郡山(福島) 明朗 開拓者精神 今も
 「今の自分たちがあるのは開拓のおかげ。疎水(水路の新設や通水)で水田が開けたのだから、米作りには思い入れがありますよ」。古川勝幸さん率いる「漢方無農薬研究会」の一員、安田潤一さん(46)が言う。会津藩士だった祖先が400年前にこの地に移り住み、安田さんで17代目という。「戊辰戦争で負けたから、水をもらうにも後回しにされて苦労したようです」と開拓の秘話を語る。
 湖水東注――それがかつての寒村、安積地方の悲願だった。奥羽街道の宿場町だったが降雨量が少なく、たびたび干ばつに見舞われた。日本海に注ぐ広大な猪苗代湖から何とかして水を引きたいと人々は考えた。
 「ちょうど廃藩置県で困窮する侍たちを救う開墾地が必要でした。内務卿だった大久保利通が、この場所に目を付けたんです」と鈴木剛之さん(72)。開拓の拠点で現在は資料館となっている「開成館」で案内ボランティアを務める。
 果たして、奥羽山脈にトンネルを掘り、原野に水を通す大規模な疎水工事が行われることになった。わずか3年で延べ85万人の労力と、今の金額にして400億円相当の工費が投入され、130キロに及ぶ水路が1882年(明治15年)に完成した。人口5000人の村に、近隣の会津や二本松を始め、九州・久留米や四国・土佐など9藩から2000人が入植し、開墾に励んだ。明治政府の大規模開発事業の第1号だった。
 張り子のトラの絵付けをする92歳の現役人形師、橋本ミヨシさん 「フロンティアスピリットっていうのかな、排他的じゃなくて明朗闊達(かったつ)、悪く言えばがさつ。そんな気質が郡山の人にはありますね」。鈴木さんが快活に笑う。
 母なる湖を望もうと、車を走らせた。市の西端にある標高1000メートルの布引(ぬのびき)高原。ダイコン畑に高さ100メートルの風車33基が巨大な羽根を回す。現代の「開拓」の風景がそこにはあった。年間1億2500万キロ・ワット時の電力を作り出す、国内最大級の風力発電所。展望台からは青々と水をたたえた猪苗代湖と磐梯山、那須連山や安達太良山など、360度のパノラマが楽しめる。
 貧しい時代に人々の心を慰めた郷土玩具も忘れてはならない。300年前から作られている高柴地域の張り子人形。大黒様や舞い姿。躍動感あるしぐさや目を細めて笑う表情など、見ているだけで楽しくなる。
 工房集落「デコ屋敷」の一軒、大黒屋には92歳の現役人形師がいる。橋本ミヨシさん。21代目の当主、彰一さん(34)の祖母だ。20歳で嫁いで以来、人形を作り続けている。毎日工房にちんまり座り、観光客と会話を楽しみながら来年の干支(えと)、トラの張り子に注意深く絵筆を走らせる。「そんなにたくさんできないの。年だからね」。完成するトラは1日2、3個。素朴さが人気を集め、来年2月分まで予約でいっぱいだという。
 「伝統って、いつまでも古びないフレッシュなものなんです」。彰一さんの言葉に共感した。

■アクセス
 東北新幹線で東京から郡山まで1時間20分。

■開成山公園

 市中心部にあり、安積開拓への布石となった最初の開墾地。大久保利通やオランダ人技術者ファン・ドールンら開拓の尽力者たちをテーマにした彫刻「開拓者の群像」=写真=が立つ。周辺には開拓ゆかりの開成館や安積歴史博物館もある。

■家庭用漢方農法商品

 古川さんが使っている漢方活性剤や虫よけなどには家庭用シリーズ「Kampo Garden」もある=写真=。1000倍に薄めて使う活性剤(150cc)3200円、プランター栽培用の土(4リットル)1600円など。NPO法人「漢方環境安全対策普及協会」の製造で、発売元はアトリエ・ユキヤナギ((電)03・6325・0545)。
■問い合わせ
 郡山市観光協会((電)024・924・2621)。古川農園((電)024・952・8854)。
(2009年11月4日 読売新聞)


栃木
先祖の恩返しに拝殿幕 那須塩原の渡部さん、那須・高久神社に寄贈
【那須】「先祖を助けてくれた神社に恩返ししたい」と、那須塩原市大黒町の無職渡部健助さん(78)はこのほど、高久甲の高久神社に拝殿幕を寄贈した。新装された幕は縦1・5メートル、横9メートルで、左三つどもえの紋がある。従来の幕は、同神社が合祀により建立された1915(大正4)年から使われており、全体が黒ずみ傷みも激しかった。26日の秋季大祭で披露される。
 渡部さんによると、渡部さんの祖父らは明治時代中期、仕事探しのため福島・会津地方から上京。だが当時、戊辰戦争の影響で会津出身者は「賊軍」扱いされ職に就けなかった。失意の帰郷途中、衣食に困っていたところ、同神社宮司らの温かいもてなしを受けそのまま土着したという。
 また、昨年5月に亡くなった妻の純子さんは同神社宮司家の出身。亡くなる直前に、同神社で桜の花見という思い出づくりもできたという。
 渡部さんは「私たちが幸せに暮らして来られたのは神社や地元の人たちのおかげ。これからも地域の皆さんに神社を守っていただきたい」と述べた。
 同神社宮司の清水寛治さん(59)は「幕は傷みが激しかったが、資金的な事情もあり新装できなかった。氏子の皆さんにも喜んでもらえると思う」と話していた。


神奈川
かながわ遊ナビ:坂本龍馬の活躍描くミュージカルオペラ /神奈川
◇25・26日、横浜・中区 来月1日、横須賀
 幕末に奔走した坂本龍馬の活躍を歌と踊りで描くミュージカルオペラ「龍馬」が11月25、26日に横浜市中区の横浜関内ホールで、12月1日に横須賀市本町3のよこすか芸術劇場で、それぞれ上演される。各回先着30組をペアで招待する。
 龍馬をバリトン歌手の平良交一さん、勝海舟を野口五郎さんが演じるなど豪華で多彩なキャストがそろう。脚本はジェームス三木さん、演出を江守徹さんが手掛けるなどスタッフも充実。振り付けは、龍馬の出身地・高知県の「よさこい鳴子踊り」を現代風にアレンジし全国に広めた國友須賀さんが担当する。
 舞台は幕末の黒船来航で始まる。当時19歳の龍馬が、黒船と大砲のごう音に衝撃を受け、世界に目を向ける勝海舟とのかかわりや大政奉還などに尽力した姿を描く。広報担当者は「幕末の英雄の姿を通して、子供たちに何を残せるのかを伝えたい」と話している。
 いずれも午後6時開演。チケットは全席指定でSS席1万2000円、S席1万円、A席7000円。問い合わせ先は龍馬東京オフィス(03・5284・8440)。【中島和哉】



山形
出版:「なぜ西郷隆盛が祀られたか」 季刊誌「日本主義」で庄内藩特集 /山形
◇精神文化を再考
 季刊誌「日本主義」(東京・白陽社)の庄内藩特集が出版され、庄内地方を中心に話題になっている。
 「庄内藩の秘密 庄内の地になぜ西郷隆盛が祀(まつ)られたか」と題した特集。戊辰戦争で賊軍とされた庄内藩だが、西郷隆盛から極めて寛大な措置を受けた。庄内藩は西郷隆盛を敬慕し全国的に有名な「南洲翁遺訓」を刊行。また76年には酒田に南洲神社が創建された。
 特集はこれら庄内人の精神文化を再考する形で構成。鶴岡市の到道博物館館長で庄内藩主酒井家18代当主の酒井忠久さんらの座談会▽戊辰戦争の実相、酒田・本間家のマンパワー▽鶴岡市出身の作家藤沢周平の文学--など地元の著名人を交え多彩に展開している。
 「日本主義」は日本文化の価値を見直そうと幕末・明治維新にスポットをあて2年前に発刊。長岡藩(新潟)や会津藩(福島)などを扱ってきた。「庄内藩」の今号は酒田の書店や南洲神社、山居倉庫、鶴岡の到道博物館などで扱っている。1050円。【佐藤伸】




茨城
安政の大獄から150年 “因縁の歴史”雪解け加速
 幕末の「安政の大獄」で尊王攘夷(じょうい)派の志士らを弾圧し、水戸浪士らによる「桜田門外の変」で暗殺された江戸幕府大老・井伊直弼の地元、滋賀県彦根市の獅山向洋市長ら一行が二十一日、水戸市を訪れ、大獄で刑死した水戸藩家老の安島帯刀ら三人の墓参りをすることが分かった。水戸市と親善都市を結ぶ彦根市の市長らが水戸藩士の墓参りをするのは初めてという。来年は「桜田門外の変」から百五十年。今回の墓参りを機に、“因縁の歴史”の雪解けがより一層進むものとして期待されている。 (吉原康和)
 安政の大獄は、一八五八(安政五)~五九年、井伊直弼が、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、十三代将軍の後継者に紀州藩主徳川慶福(後の十四代将軍徳川家茂)を決定したことに反発した大名、公家、志士ら百人以上を大量弾圧した事件。五九年、水戸藩の安島帯刀や長州藩士の吉田松陰、福井藩士の橋本左内ら計八人が死罪となり、翌年三月に起きた「桜田門外の変」の一因とされる。
 墓参りに訪れるのは獅山市長のほか、井伊家十八代当主・井伊直岳さんら。二十一日に予定されている水戸藩開藩四百年記念シンポジウムなどに参加後、安島帯刀の墓のある酒門共有墓地、同藩京都留守居役鵜飼吉左衛門ら二人の墓のある常磐共有墓地を訪れる。
 彦根市では、安政の大獄から百五十年に当たる今年八月以降、獅山市長ら一行が、大獄で死罪となった吉田松陰や橋本左内の地元の山口県萩市、福井市などを相次いで訪れ、歴史的な和解を果たした。今回の水戸藩士の墓参りはこれに続く第三弾といえる。
 水戸市と彦根市は、安政の大獄や桜田門外の変以来の歴史的わだかまりを超え、明治維新から百周年に当たる一九六八年、親善都市を締結。以来、さまざまな交流を続けている。
 水戸市の加藤浩一市長は「(大獄や桜田門外の変で殉職した双方の関係者は)立場の違いこそあれ、国を思う気持ちは同じだった。今回の水戸藩士への墓参りは大変ありがたいこと。私自身もしかるべき時期に井伊直弼公のお墓参りなどをしたい」と話している。


古式の火縄銃を披露 土浦
 土浦藩に伝わった関流古式炮(ほう)術(火縄銃)の公開演武が、中央一の土浦城址本丸内で開かれた=写真。市、市観光協会などが主催。昨年は雨で中止になったが、毎年行われ今回が第十五回。

 関流宗家の初代誕生は慶長元(一五九六)年といわれ、土浦藩土屋家の炮術指南として伝授され、幕末まで続いた。撃ち手が一人ずつ、立放ちや片ひざ立ちに構えて火縄銃を次々に発射。それを十一代宗家の関正信さんが解説した。連射による豪快な釣瓶(つるべ)撃ちも披露。大勢の観客の中には外国人グループもいて、伝統の妙技に見入っていた。 (塙幸雄)


千葉
らんどまあく@千葉
富津岬沖の海堡

 「ひどく崩れている。これでは100年後には海に戻ってしまう」。10月下旬、富津岬の先端の東京湾口に浮かぶ第一海堡(かい・ほう)を一緒に海から見た東京湾海堡ファンクラブの小坂一夫会長(62)が顔を曇らせた。海堡南側に、以前にはなかった大きな崩れを見つけたのだ。
 島全体が薄茶色だった。台風の大波が打ち寄せたのだろう。「大南(強い南風)で海堡全体が潮をかぶったに違いない」
 岬の西方、富津市域の東京湾にある二つの島が海堡だ。往来する船に、そこが湾口であることを告げるランドマークだ。
 海堡はもともと、明治国家が首都・東京を防御する砲台を据えるために築いた人工島だ。深い海、潮流も速い。ろくに土木機械もない時代、軍に雇われた富津の漁師や農民が石や土砂を運び、作業に携わった。
 同市千種新田に住む雨笠正昭さん(68)の祖父も現場で働いた一人だ。「おじいさんの首の後ろに大きなコブがあった。モッコを担いで石や土砂を運び、タコになったと言っていた」
 第一海堡の近くまでノリ養殖の網が広がっていた。岬の外湾側は新富津漁協の漁場だ。沖合約3キロ、岬に沿って6キロほどの海に179区画。漁場というより水を張った田んぼのようだ。
 漁場の6地点で、漁協の観測船「拓南」が海水温や透明度などを調べている。平野裕巳船長(62)は「海は毎日、表情が違う。海中も浅瀬ができたりなくなったり日々変わる」と話す。
 海堡から砲弾が発射されることはなかった。「しかし」と安室真弓・同クラブ幹事(76)は強調する。「日露戦争ではロシアのウラジオストク艦隊が房総沖に現れたが、海堡が抑止力になった。海堡がなかったらロシア艦が湾内に入り、東京は艦砲射撃されたに違いない」
 第一海堡は岬と陸続きで自由に遊びに行けた時代もあった。今は海が遮り、財務省も不発弾存在の可能性を理由に立ち入り禁止を続ける。海上保安庁が管理する第二海堡も上陸禁止だ。
 幕末、黒船の砲艦外交から江戸を守った品川沖の台場は国史跡で都立公園になっている。明治期の緊迫した国際情勢と海洋土木技術の高さを象徴する歴史遺産である二つの海堡は、荒れ果てたままだ。(高山修一)



山梨
龍馬の姉・乙女の魅力伝える 15日、剣道大会でひ孫の岡上さん 前向きな生きざまを紹介
 幕末の志士・坂本龍馬の姉・乙女のひ孫にあたる岡上汎告さん(69)=南アルプス市西野=が15日、山梨市民総合体育館で開かれる千葉さな子杯剣道大会(山梨龍馬会、甲斐援隊主催)で曾祖母の乙女を語る。当日は、女性剣士の参加児童らを前に祖母や家族から語り継がれる乙女の人間像や生きざまを紹介。子孫だからこそ知る魅力を披露する。岡上さんは「剣術などにたけた乙女だが、常に前進していく強い精神面を中心に伝えていきたい」と話している。
 岡上さんなどによると、坂本乙女(1832-79年)は剣術や馬術、弓術にたけ、剣術を龍馬に教えたことでも知られる。岡上さんは幼少時代、高知県内に住み、小学1年時の7カ月間は乙女の娘で自身の祖母にあたる菊栄と過ごした。
 「口の人になりな 心の人になりよ」-。菊栄の「口先だけでなく、心豊かな人になりなさい」という意味の言葉が一番印象に残り、「乙女から菊栄、そして子孫へと語り継がれた思い」と説明する。菊栄などから聞いた話で、乙女の人間像が浮かび上がるといい「型破りな女性で、自立心が強く、前向きな人だった」と話す。
 岡上さんが語る剣道大会は今年で5回目を迎え、龍馬のいいなずけとされる女性剣士千葉さな子を偲しのぼうと始まった。大会を含めて乙女を大勢の前で語るのは初めてという。岡上さんは「曾祖母の話から龍馬やさな子への興味を深めてもらうとともに、礼儀や心の大切さを知ってもらいたい」と話している。
 剣道大会は15日午前9時半スタート。岡上さんの話は閉会式内で午後1時ごろの予定。


長野
上田藩主暗殺未遂事件などを紹介 上田で資料展示
 上田市立上田図書館で10日、幕末に起きたとされる上田藩主暗殺未遂事件などを記した「上田縞絲之筋書(じまいとのすじがき)」や関連資料を並べた「貴重資料紹介展 幕末藩主暗殺疑獄」が始まった。
 絲之筋書は、1868(明治元)年に上田藩士が書き残した文書を同市出身の飯島花月が1913(大正2)年に書き写して加筆。上田藩最後の藩主松平忠礼(ただなり)が稲荷山(千曲市)の宿で普段と異なる雰囲気を感じ、食事を取らなかったことや、飯島が稲荷山の老人から、家老の一人が忠礼の弟を藩主にするため、忠礼暗殺を企て食事に毒を盛ったと聞いた話が記されている。
 上田市の主婦らでつくる古文書学習会「山なみ」(宮島かつ子会長、25人)が読み下した粗筋や藩士の経歴などを冊子にまとめ、館内で500円で販売。登場する藩士の屋敷を記した地図や松平氏の系譜なども展示している。
 宮島会長は、絲之筋書について、忠礼暗殺を企てたとのうわさがあった家老と対立した別の家老側の視点で書かれているとし、「史実としてでなく、小説として読んでほしい」と話していた。(提供:信濃毎日新聞)


「和田嶺合戦」の戦死者しのぶ
 下諏訪町の青木悟町長など役場関係者や住民ら約30人は10日、145年前の幕末に同町と長和町境の和田峠で起きた「和田嶺(れい)合戦」で戦死した水戸浪士をまつる浪人塚(下諏訪町樋橋)と松本藩士の墓(同町東町中)を訪ねて冥福を祈った。水戸市からも浪士の子孫をはじめ、浪士をまつった回天神社の役員ら5人が訪れ、交流している地元住民との再会を喜んだ。
 
石川
火薬製造の遺構確認 加賀藩の土清水塩硝蔵 辰巳用水引く水路も存在
 加賀藩の黒色火薬製造施設だった土清水(つっちょうず)塩硝蔵(えんしょうぐら)跡(金沢市涌波町)で進められている同市の発掘調査で、火薬の原料を粉末に加工していた「搗蔵(つきぐら)」の遺構が12日までに確認された。同塩硝蔵で製造施設の存在が明らかになるのは初めて。辰巳用水から水を引き込む水路跡も確認され、市は国史跡指定を申請している同用水の文化的価値がさらに高まるとみている。
 市は、幕末から明治初期にかけての土清水塩硝蔵の配置を記した「土清水製薬所絵図」などを参考に発掘調査を行った。広さ約8万平方メートルに及んだとされる塩硝蔵敷地で、搗蔵が存在したとみられる東側の1カ所で東西方向に11メートル、南北方向に2メートル掘削したところ、直径約50センチの円を囲むように石が並べられた遺構が見つかった。
 市はこの円形の集石遺構が搗臼(つきうす)の痕跡とみている。黒色火薬の原料となる塩硝、硫黄、木炭を搗臼の中に入れて粉末にしていた可能性が大きい。
 集石遺構から約2メートル離れた場所には石が2列に並べられていた。幅約1メートルの水路跡で、敷地東側を流れる辰巳用水から水を引き込んでいたとみられる。水流で水車を回し、杵(きね)を上下に動かしていたと想定され、土清水塩硝蔵と同用水との密接なかかわり合いがあらためて浮き彫りとなった。
 塩硝蔵は軍事施設の性格上、史料が極めて少なく、実態は解明されていない点が多い。市は2007年度から発掘調査に乗り出し、これまでに塩硝を保存していたとされる硝石御土蔵(しょうせきおんどぞう)の遺構が見つかっている。
 市は搗蔵の痕跡と内部構造の一部を確認したことで「製造過程に直結する主要施設の構造を理解することが可能となった」(市埋蔵文化財センター)としている。調査では、搗蔵の築造時に旧地形を掘り込んだ上に土を盛り、地盤改良していたことも分かったという。
 市は14日、金沢歴史遺産探訪月間の一環として搗蔵の遺構跡で説明会を実施する。今年度は搗蔵に至る道路の遺構を確認するための発掘調査も実施し、土清水塩硝蔵の全容解明を目指す。
 土清水塩硝蔵 もともと金沢城内に設けられていたが、火事が相次いだため1658(万治元)年に土清水に移転し、1870(明治3)年以降に廃止されたとみられる。加賀藩の塩硝は国産最良品質で生産量も最大とされた。五箇山の山間部で生産、湯涌などを経由する「塩硝の道」を通じて金沢に運び込まれた。



滋賀
井伊家子孫らが初の旧水戸藩士墓参りへ
 幕末の「安政の大獄」で尊王攘夷派の志士らを弾圧し、水戸浪士らによって暗殺された江戸幕府大老・井伊直弼の地元、彦根市の獅山向洋市長らが21日、水戸市を訪れ、大獄で刑死した同藩家老の安島帯刀ら3人の墓参りをする。水戸市と親善都市を結ぶ彦根市の市長らが旧水戸藩士の墓参りをするのは初めて。来年は井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」から150年。今回の墓参りを機に、“因縁の歴史”の雪解けがより一層進むものとして期待されている。
 安政の大獄は、1858(安政5)~59年、井伊直弼が、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、13代将軍の継嗣に紀州藩主徳川慶福(後に14代将軍徳川家茂)に決定したことに反発した大名、公家、志士ら100人以上を大量弾圧した事件。59年、長州藩士の吉田松陰や福井藩士の橋本左内、水戸藩の安島帯刀ら計8人が死罪となり、翌年3月に起きた「桜田門外の変」の一因とされる。
 墓参りをするのは獅山市長をはじめ、井伊家18代当主・井伊直岳さんら。21日に予定されている水戸藩開藩400年記念シンポジウムなどに参列後、安島帯刀の墓のある酒門共有墓地、同藩京都留守居役鵜飼吉左衛門ら2人の墓のある常磐共有墓地を訪れる。
 彦根市では、安政の大獄から150年にあたる今年8月以降、獅山市長ら一行が、大獄で死罪となった吉田松陰や橋本左内の地元の山口県萩市、福井市などを相次いで訪れ、歴史的な和解を果たした。今回の水戸藩士らの墓参りはこれに続く第3弾。
 彦根市と水戸市は、安政の大獄や桜田門外の変以来の歴史的わだかまりを超え、明治維新から100周年にあたる1968年、親善都市を締結。彦根市から白鳥、水戸市から黒鳥が贈られ、さまざまな交流を続けている。
 水戸市の加藤浩一市長は「(大獄や桜田門外の変で殉職した双方の関係者は)立場の違いこそあれ、国を思う気持ちは同じ。今回の水戸藩士の墓参りは大変ありがたいこと。私自身も機会をとらえて、しかるべき時期に井伊直弼公の菩提(ぼだい)寺などにお墓参りをしたい」と話している。
 (水戸支局・吉原康和)


彦根城300分の1模型が一新
 国宝・彦根城を300分の1にした模型が一新され、城内の佐和口多聞櫓(たもんやぐら)で展示されている。幕末の大老・井伊直弼が青年期を過ごした「埋木舎(うもれぎのや)」や家老を務めた木俣家の屋敷など城の内堀と中堀の間の部分が新たに作られた。
 元になった模型は、1971(昭和46)年に故・藤島亥治郎東大名誉教授の監修の下、城中心部に限って作製。今回は絵図など最新の史料を踏まえ、リニューアルした。寸法は縦2・6メートル、横3・4メートル、高さ1・7メートル。さらに模型の周りの床には、同じ縮尺で武家の屋敷を赤色に、町人の屋敷を黄色に色分けした平面図を描き、すべての町名を表記した。
 事業費は約2800万円。歴史まちづくり法に基づき3分の1が国からの補助金の対象となる。
 (伊藤弘喜)


京都
龍馬の酒続々発売 伏見に活気
来年の大河ドラマ当て込み

 京都・伏見の酒造会社が、来年のNHK大河ドラマの主人公、坂本龍馬にちなんだ商品を相次いで発売している。京都市内の百貨店も龍馬フェアを催すなど、消費低迷の中で早々と龍馬人気を当て込んでいる。
 齊藤酒造は11月から、純米吟醸酒「疾風の煌(きらめき)」の先行販売を大丸各店で始めた。切れがある辛口で、幕末の動乱期を駆け抜けた龍馬をイメージした。ドラマ開始の来年1月から本格販売する予定で、「京都を訪れる観光客にも土産として買ってほしい」(営業課)と期待する。
 「京の龍馬」と名付けた純米酒を発売したのは老舗の山本本家。すっきりとした辛口で瓶ラベルに龍馬の写真を使った。黄桜は、生産休止していた純米酒銘柄「竜馬の恋」の販売をこのほど再開。約20年前から販売している吟醸酒「伏見の竜馬」にも180ミリリットル入りを投入した。
 伏見の酒業界は、若者らの日本酒離れと不況で清酒出荷量が前年割れしており、寺田屋事件など伏見に縁が深く、若い世代のファンも多い龍馬人気を起爆剤にと期待を寄せる。焼酎でも北川本家が龍馬ゆかりの高知、長崎両県の酒造会社と共同で「龍馬伝」シリーズを商品化し、龍馬の誕生日と命日の11月15日に発売する。
 販売低迷に悩む百貨店業界でも、大丸京都店(下京区)が龍馬をテーマに食品フェアを開いており、17日まで高知の地酒や長崎県のカステラなどを販売する。「龍馬は性別や年齢を問わず人気が高く、歳末前の商戦を活性化させたい」(広報)。地元商店街も動きだした。京都三条会商店街(中京区)は14日に「龍馬まつり」を初めて開く。近くの武信稲荷神社で仲尾宗泰宮司が龍馬と神社のゆかりを紹介する。


龍馬 恋愛成就 見守るぜよ NHK大河決定後カップル続々 京都・武信稲荷神社
 幕末の志士、坂本龍馬と、妻のお龍(りょう)のロマンス伝説が残る「武信稲荷神社」(京都市中京区)が、来年からNHK大河ドラマで「龍馬伝」が放送されることもあって、「縁結び」の人気スポットとなっている。龍馬の命日とされている15日には、恋愛成就を祈願するカップルでにぎわいそうだ。
 同神社の境内には古くから「縁(えん)の木」として、縁結びに御利益があるといわれている樹齢約800年のご神木・エノキ(高さ約30メートル)がある。江戸時代末期、龍馬とお龍はこのご神木に登り、神社の近くの獄舎に捕らえられていたお龍の父親の様子をうかがったとされる。
 その後、命を狙われるようになった龍馬は音信不通になったが、しばらくしてご神木に「龍」の文字が刻んであったことから、お龍は龍馬が京にいると確信。龍馬の知人宅を訪ね歩き、再会を果たしたという。
 この伝説は、もともと地元住民に語り継がれていたが、「龍馬伝」の放映が決まった昨夏以降、ネットなどで紹介され、同神社ではカップルがご神木に手を合わせる光景が目立つようになったという。
 同神社の仲尾宗泰宮司は「口伝とはいえ、今も2人の人気は根強く、龍馬とお龍にあやかりたいという人たちが訪れています」と話している。


高知
罪状無念…龍馬の盟友、武市瑞山の切腹直前の書状見つかる
 幕末の志士・坂本龍馬の盟友として知られ、土佐勤王党を主宰した武市(たけち)瑞山(半平太、1829~65)が、切腹直前に獄中から仲間に送ったとみられる書状が、高知市の土佐山内家宝物資料館で見つかった。反論の機会すら与えられず、罪状を言い渡されたことに対し「実に(以下3回)絶言語申候(げんごにぜっしもうしそうろう)(言語道断だ)」と、「実に」を4度繰り返しており、同館は「志を遂げられなかった悔しさが生々しく伝わる」としている。13日から同館の特別展で公開される。
 同館が、志士らの書状約20通をまとめた巻物を所蔵資料から見つけた。武市の書状は複数あり、あて先は不明だが、いずれも藩に捕らえられた1863年から切腹までの1年半の間に記されたらしい。
 「実に」と書かれた書状は、1865年の罪状言い渡しの直後のもの。病床から無理やり連れて行かれた取り調べの様子などを筆記。「皆々…所置(切腹)スル事」になるだろうとの覚悟を記して結んでいる。
 明治時代の歴史書「維新土佐勤王史」には同様の内容は記されていたが、書状の所在は不明だった。
 藤田雅子・同館学芸員は「武市の普段の字よりも小さいが、『実に』の字だけは大きく、無念さがわかる」と話している。

(2009年11月13日 読売新聞)


佐賀
朝日新聞財団 鍋島家の人形修復助成
 佐賀市の財団法人「鍋島報效会(ほうこうかい)徴古館」が保存している佐賀藩鍋島家伝来の「ひな人形 左大臣・右大臣」と「葵御紋付御所人形」などの修復事業が、朝日新聞文化財団の「文化財保護に関する助成」(09年、10年度)の対象事業に選ばれた。同財団による助成は今年から始まり、選考の結果、全国の30件に総額約6千万円が助成される。
 今回修復される「左大臣・右大臣」は江戸後期の作。鍋島家の「ひな人形」は、江戸時代は佐賀藩江戸藩邸、明治時代以降は東京の侯爵鍋島家に伝わったが、「左大臣・右大臣」だけは当初から佐賀の地に伝わり、1874(明治7)年の「佐賀の乱」による焼失を唯一免れたものとされる。経年劣化により、絹糸で作られた頭髪が抜け落ちたり、衣装の傷みが激しくなっていたりしているという。
 また、「葵御紋付御所人形」は金糸の葵の御紋をつけており、徳川家ゆかりの品と推測されている。幕末の佐賀10代藩主鍋島直正の妻盛姫か継室筆姫の愛用品と考えられる。江戸時代の末、人形の目にガラスの目が入るようになった早い時期の作。人形の表現の変遷を研究するうえで貴重な資料だが、この人形も傷みが激しく、鼻部分が欠け、髪の毛もほつれている。
 徴古館によると、修復作業は10年1月に開始。文化財としての価値を失わないよう、髪の毛や衣装などがこれ以上劣化しないように現状を維持する方法で修復をするという。徴古館の野口朋子学芸員は「年春の佐賀城下ひなまつりには一般公開出来ると思うので、楽しみにしてほしい」と話している。


福岡
武家屋敷跡からスペンサー銃の弾46発…久留米
 福岡県久留米市は12日、京町の京隈侍屋敷遺跡で江戸時代の武家屋敷や道路の跡、スペンサー銃の弾などが見つかったと発表した。
 市文化財保護課は「武士の居住区の様子と、久留米藩でも当時、最新鋭とされた武器を使っていたことがわかった」としている。
 同藩では、上級武士は久留米城内に屋敷を与えられたが、中級、下級の武士は城周辺の京隈(京町、城南町)や櫛原(櫛原町)に住んでいたとされる。
 今回の発掘調査は、九州新幹線開通に向けたJR久留米駅周辺整備の一環。約2000平方メートルを調べ、武家屋敷数軒と屋敷を区切る道路が見つかった。道路と屋敷の間には側溝跡や漆喰(しっくい)を塗った壁の跡があった。
 藩士の可児(かに)家跡からは、茶わんなどの陶器のほか、子どもたちがままごとに使ったとみられる数センチのかまどや花瓶も出土。貯蔵用の穴倉や、ごみ捨て穴も見つかった。
 同家跡からは、スペンサー銃の未使用弾46発も出土。スペンサー銃は、米国の南北戦争時に使用され、江戸末期に佐賀藩によって輸入されたもので、戊辰(ぼしん)戦争では最新鋭の銃として活躍した。これまで久留米藩での使用を示す文献はなかったが、同藩でも使われていたことがわかったという。
 久留米藩は戊辰戦争で政府軍として東北に追討軍を派兵し、可児家は隊の幹部として参加していた。同課は「後の西南戦争前に政府は武器を回収しているが、使用しなかったものを隠していたのではないか」と推測している。
 同課は15日午前10時から、現地で説明会を開く。(沢井友宏)




長崎
小﨑侃さん制作の龍馬像完成 長崎・丸山公園で15日除幕
 来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」放映を前に、長崎で活躍した幕末の志士坂本龍馬の銅像が長崎市の丸山公園に完成した。15日午前10時から除幕式があり、その雄姿がいよいよ披露される。銅像を制作した長崎市風頭町の版画家、小崎侃さん(67)が龍馬像に込めた思いなどを語った。
 郷土色豊かな版画で知られる小崎さんだが、もともとは彫刻家を目指していた。彫刻は上山公園(諫早市)の野呂文学碑レリーフや肥前夢街道(佐賀県嬉野市)の不動明王像などを手掛けている。だが、武士など時代物の人物像は今回が初めて。「思わぬ依頼で緊張した」という。
 龍馬像といえば、高知市の桂浜や長崎市の風頭公園が有名。全国に10カ所ほどある像を調べ「少しでも違うものを作りたい」と取り組んだ。
 人物像で注目されるのは、やはり顔。現存する龍馬の写真は6種類あるが、「すべて顔が違う」と戸惑った。見比べた結果、長崎の上野撮影局で撮った座像の顔が「一番きりっとしている」と気に入った。「いまの若者の顔も加味した」と「若さ」を意識した。
 イメージしたのは「花街丸山の風を浴び闊歩(かっぽ)する姿」。はかまは「定説」のよれよれではなく、折り目の付いた新品に。髪形は長髪を後ろで束ねたポニーテール。「小崎版龍馬」は、大河ドラマ「龍馬伝」で福山雅治さんが演じるような好男子だ。
 「今回の像は龍馬の等身大で、横に並び記念撮影ができる。現代の若者のような親しみやすさも考えた」
 もちろん、外面の表現だけではない。デッサンを描きながら心の中で龍馬を探求するうちに、わが道を歩み続けた龍馬の強さをひしひしと感じた。像の中には「人間は自立する」という思いが込められている。
 「龍馬像を作りながら、もっと自分に自信を持ってやっていかなければ、と励まされた。龍馬の人生は33年と短かったが、見事に生きて死にきった。僕も、作者が死んでからも生きるものを作らないといけない」
 今なお龍馬の生きざまに影響を受ける人は多い。小崎さんも例外ではなかった。
 【編注】小崎侃さんの崎は、大が立の下の横棒なし


対馬の資料館所蔵の2印章、旧藩主に朝鮮国王発給
 県立対馬歴史民俗資料館(対馬市厳原町、阿比留徳生館長)が所蔵している銅製の印章2個が、朝鮮国王から対馬藩主に発給され、対馬藩と朝鮮国との外交文書などに押された「図書(としょ)」であることが分かった。
 図書は江戸時代、朝鮮国王が、朝鮮との外交や貿易を担っていた対馬藩に出したもの。同藩は朝鮮国との外交文書や渡航証明書に用い、藩主が死亡したら返還し、新しい藩主に発給されるというしきたりだったとされる。
 印面は、2個とも1辺が6・7センチの正方形で、高さは約7・8センチ。取っ手が付いたピラミッド形。13代藩主・宗義章(よしあや)(在位1839~42年)と14代藩主・宗義和(よしより)(同42~62年)の名前が彫られている。
 この印章は、同資料館収蔵庫で保管されていたが、詳しい調査は行われていなかった。県教委が今年度から3年計画で藩政史料「宗家文書」のうち、未整理だった絵図類や器具類を調べており、慶応義塾大の田代和生(かずい)教授(近世日朝交流史)が、図書と認めた。
 同資料館によると、近世の図書は、第15代藩主・宗義達(よしあき)(同62~72年)のものが韓国国立中央博物館(ソウル市)に残っており、今回確認された2個と形や大きさがほぼ同じという。
 同資料館の山口華代学芸員は「なぜ返還されなかったのかなど、今後の研究が待たれるが、幕末混乱期の対馬藩や朝鮮通交の実態を解き明かす鍵になるのでは」と話している。

(2009年11月11日 読売新聞)


IT
ケータイで龍馬を一人前の武士に育てよう! iモード『いつでも手のり龍馬』11月16日配信開始
ビービーエムエフは、iモード向けゲームサイト「iゲーム大好き!」にて、新作アプリ『いつでも手のり龍馬』の配信を11月16日(月)より開始することを発表しました。
本作は、産まれたばかりの「龍馬」のお世話をし、一人前の立派な武士に育てあげるという「幕末育成歴史シミュレーションゲーム」です。
ゲームをスタートさせると、以降の起動の有無に関わらず、龍馬が1日で1歳成長します。お世話の仕方により性格や体型、プレイヤーへの愛情度が変化。毎日コツコツ龍馬のお世話をし、ときには釣りと狩猟が楽しめるミニゲームで汗を流し、ときどき会話や指でつつくなどのコミュニケーションを図りながら、彼の日々を見届けましょう。
なお、しばらくの日数お世話をしないと龍馬はやせ細り、最悪の場合、お世話係を解任されてゲームオーバーになってしまいます。逆に、龍馬の人生を最期まで見届けることができたときには、今までのお世話に対する評価と感謝をつづったメッセージが届くとのこと。「お世話係に任命してよかった!」と龍馬が思えるよう、せっせとお世話してください。
『いつでも手のり龍馬』は2009年11月16日配信開始。プレイには「iゲーム大好き!」への登録が必要で、情報料は月額315円(税込)です。「メニューリスト→ゲーム→ミニゲーム→iゲーム大好き!」の順にアクセスしてください。

 なかなか面白そうですね。土方さん版があったらなぁ……土方さんを「手乗り」で育ててみたいじゃないですか(爆)。

史実も! 恋愛も! 幕末志士たちとの同居生活を楽しめる女性向けゲーム『幕末志士の恋愛事情』iモードにて配信開始
 スタイルウォーカーは、iモード公式サービスとして、女性向け恋愛ゲーム『幕末志士の恋愛事情』の配信を開始したことを発表しました。
 本作は、幕末に活躍した維新志士たちとの、ピュアで熱い恋愛を楽しむことのできる女性向け恋愛ゲームです。2008年10月に配信開始された第一作目『執事たちの恋愛事情』から始まった「恋愛事情シリーズ」の第4弾タイトルとなります。
現代を生きるごく普通の女の子がふとしたきっかけで幕末の京都に迷い込んでしまい、幕末の維新志士たちと出会うところからストーリーは始まります。彼らとの同居生活の中で、「大政奉還」「薩長同盟」「寺田屋事件」などさまざまな歴史的事件を垣間見ながら、維新志士たちとの恋心を深めてゆきます。
 攻略キャラクターには坂本龍馬、高杉晋作、武市半平太をはじめ、岡田以蔵、桂小五郎、中岡慎太郎など多彩な志士が続々登場する予定とのこと。他にも大久保利通や土方歳三、沖田総司などの幕末ならではの豪華で本格的な布陣となっています。
ゲームは、物語を読みながら主人公の行動を選択するだけで、ストーリーや結末が変化していきます。1話10分程度で満足できる内容になっており、電車の中や空いた時間などに簡単にプレイできるとのことです。また、プレイが終了するたびに志士からメールが届いたり、イベント画像のダウンロード、時代を反映したかわいい着物のアバターアイテムなど、本編以外にも楽しめる要素が用意されています。
 『幕末志士の恋愛事情』は2009年11月9日より配信中。情報料は315円からとなっています。「メニューリスト→ゲーム→恋愛ゲーム」の順でアクセスしてください。

 こっちは幕末の志士たちと同居できるんですね……土方さんとは同居できないようですが(笑)、まぁ女性は新選組に入れないですから同居はできませんね^_^;。



文化
寺田屋事件で龍馬が使用?米S&W製回転銃
 幕末の志士・坂本龍馬が、寺田屋事件で難を逃れるため、使用したとされる米国スミス・アンド・ウエッソン(S&W)社製の回転式拳銃と同型の拳銃が高知県内で見つかり、佐川町立青山文庫(同町奥の土居)が11日、公表した。
 史料研究に役立てるため、地検から移管されたもので、20~29日(24日は休館)に一般公開される。松下司・名誉館長(66)は、「同型の拳銃を間近で見られるのは全国でもおそらくここだけ。ぜひ多くの人に町を訪れてほしい」としている。
 見つかったのは、同社が、南北戦争を機に製造した軍用の回転式拳銃「モデル2アーミー」(32口径、6連発、27・8センチ)。一部銀メッキ加工され、全体に唐草模様が施されており、銃身上部に社名が入り、県の管理番号「明治22年 八五七四 高知県」が記載されている。同型の拳銃は、1861年~74年に約7万7000丁製造されたが、製造番号「55280」から後期のものとみられる。
 同館によると、龍馬の遺品として、同社製の別型の拳銃が伝わっているほか、1866年の寺田屋騒動直後に龍馬が書いた書状に「高杉晋作からもらった6連発の拳銃で撃った」との表現があることから、龍馬が同型の拳銃を所持していた可能性が高いという。
 拳銃は2008年9月に県内の民家で発見。所有者が不明のまま地検で保管していたが、今年4月、「押収した古い銃刀類は貴重な史料として残すべき」と、地検に働きかけをしてきた同館に移管された。
 公開時間は、午前9時~午後5時。入館料400円(中学生200円、小学生100円)。問い合わせは同館(0889・22・0348)。
(2009年11月12日15時16分 読売新聞)


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(36)東大教授・山内昌之 児玉源太郎
■政略の総合プロデューサー

 ◆望んで降格受け入れ

 昇進すごろくを生きがいにする政治家や役人にとって、降格や降任などは想像もできない人事であろう。しかし、幕末明治以来の日本政治史で望んで降格人事を受け入れた稀有(けう)の例がある。それも陸軍の歴史の中にあった。

 驚きは、大山巌(いわお)参謀総長を次長として補佐した田村怡与造(いよぞう)が日露戦を控えて急死する突発事件の後に起きた。これが有名な児玉源太郎の降格人事にほかならない。

 内務大臣と台湾総督の職にあり、陸軍大将への昇進を控えた児玉にとって、参謀次長は各省の次官か局長くらいのポストであり、はるかに格下であった。しかし、川上操六(そうろく)や田村といった優秀な作戦家を相次いで亡くした陸軍で対露戦を仕切れるのは児玉以外にいなかった。ここで大臣や総督といった栄職を捨て、国家の危機に当たろう、と自然に決意したのが児玉の偉さなのである。

 誰も児玉に能力がないから降格されたとは思わない。それどころか参謀次長というのは、それほど重要ポストなのかと世人に認識させたのだ。よく地位が人をつくるというが、人が地位をつくり直すということもあるのだ。

 現代の政治家でも官房長官や大臣だった人で副長官や副大臣になった人もいる。民主党新政権で大臣になってもおかしくない人で副大臣や政務官になった人がいるかもしれない。こういう人は、児玉と自分の才を虚心に比べてみることだ。すると、国と国民のために働ける大事さやありがたみが改めて分かってくるだろう。

◆政治のバランス熟知

 児玉は、奉天会戦で日露戦争を終わらせた立役者であるだけでなく、ぎりぎりの決断で戦に踏み切りながら、落としどころのタイミングをわきまえていた政治家である。政治に必要な理想・信念とリアリズムのバランスを彼ほど知っていた明治の軍人政治家もいない。児玉のバランス感覚は長州人といっても支藩の徳山藩の出身であり、軍隊でも乃木希典のように少佐からでなく、藩閥外の武士と同じく下士官から出発する苦労を重ねた点と無縁ではない。軍人の能力は試験の成績でなく、天性の資質に負う点が多い。

 五稜郭戦争でも敵の夜襲などに冷静沈着に対応し、熊本で神風連(しんぷうれん)の乱が起きて、鎮台司令官や参謀長らが殺されても落ち着いて指揮をとっただけでない。西南戦争でも熊本城で参謀副長として、西郷軍の猛攻をしのいだあたりは、後年の日露戦争の満州軍総参謀長の才を彷彿(ほうふつ)させる。

 陸軍大学校の創設と参謀教育にあたったドイツのメッケルも児玉の天才ぶりを評価し、「コダマ将軍がいる限り日露戦争で日本は負けない」と語ったほどだ。

 ◆人情家で友人思い

 合理主義者児玉には、別の側面もある。それは人情家であり、友誼(ゆうぎ)にも篤(あつ)いことであった。旅順攻略に乃木将軍がてこずっているとき、友人の児玉が出かけて指揮権を一時的に委譲させ、二〇三高地を落とした話は、司馬遼太郎著『坂の上の雲』で美しく描かれた。この友情物語の厳密な真偽はおくにしても、児玉は旅順戦での手柄を一言も吹聴せず、すべてを乃木の功績に帰したのは事実である。

児玉が死んだとき、篠つく雨のなか、柩(ひつぎ)に連れ添う乃木の姿が目立ったのは偶然でない。これは、つい100年ほど前の日本にあった光景である。児玉は日露戦争が終わって1年後、わずか55歳の若さで急死した。児玉は50代で国運を賭けた日露戦争の政略と作戦を演出した総合プロデューサーだったのである。

 児玉だけでなく、川上といい田村といい、何という若さで亡くなったのだろう。国が滅ぶかもしれない心労で命を縮めた児玉らは、その年齢を越える現在の指導者の姿をいま見るなら何と言うのだろうか。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】児玉源太郎

 こだま・げんたろう 幕末の武士、明治の陸軍軍人。嘉永5(1852)年、周防(山口県)徳山藩生まれ。17歳で戊辰戦争に参加。維新後兵学寮を卒業し、佐賀の乱、神風連の乱で軍功を認められる。西南戦争では熊本鎮台参謀副長として政府軍の勝利に大きく貢献。明治20年に陸軍大学校の初代校長となり、軍隊の近代化を推進する。陸軍次官、台湾総督、陸相、内相、文相などを歴任し、日露戦争では満州軍総参謀長を務め、卓越した手腕を発揮する。同39(1906)年に参謀総長となるが、ほどなく死去。享年55。

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