新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
静岡
反射炉パンオブジェも 伊豆の国「パン祖のパン祭」
福島
「五代さま」に会える! "朝ドラ"効果、桑折の特別展が人気
新潟
河井継之助の志 ここにあり長岡 記念館が来館者10万人達成
佐賀
武雄歴史物語 佐賀の騒乱昭和10年に武器弾薬発見
コラム
「あさが来た」五代友厚死す! ドラマで描かれたのとは違う女性関係、福沢諭吉との因縁
時は幕末。鎖国中の日本人に愛されたスイス人時計師の数奇な運命
反射炉パンオブジェも 伊豆の国「パン祖のパン祭」
世界遺産の韮山反射炉築造に尽力した韮山代官江川太郎左衛門が日本で初めてパンを製造したことにちなんだイベント「第10回パン祖のパン祭」(伊豆の国市観光協会、同実行委員会主催)が16日、同市の韮山時代劇場で始まった。17日まで。
静岡県内外の有名店が会場にブースを並べ、多彩なパンを販売した。ステージでは、子供たちによるパン食いゲーム、生地のばしコンテストなど、パンを使ったさまざまな企画を開催した。
恒例の田方農業高による巨大パンオブジェの今年の題材は韮山反射炉。食品科学科3年生3人が中心となり、約1カ月かけて高さ約2・3メートル、幅約4メートルの反射炉を製作し、ステージに展示した。
「全国高校生パンコンテスト」の実技審査では、書類審査を通過した生徒20人が「カリフォルニア・レーズン」「地産地消」「手仕込み」の3部門で腕前を競った。
福島
「五代さま」に会える! "朝ドラ"効果、桑折の特別展が人気
本県出身の俳優ディーン・フジオカさんが演じていた、NHK連続テレビ小説「あさが来た」の登場人物、五代友厚(大阪商工会議所初代会頭)が22日の放送で最期を迎えた。五代が産出量を国内一にした半田銀山がある桑折町では「五代さま」を紹介する特別展が開かれており、ドラマ人気に合わせ来場者が増えている。
五代は、江戸時代に佐渡金山、生野銀山と共に「日本3大鉱山」と称され幕末に閉山した半田銀山を、欧米式の技術を導入し復活させた。同町の旧伊達郡役所(町文化記念館)で開かれている町主催の特別展「半田銀山と五代友厚の足跡」では、五代の半生を記したパネルや銀山ゆかりの品が展示されている。
町は今月5日の開幕に合わせパンフレットを100部用意。しかし初日で半分がなくなったため、町役場のカラーコピー機で300部増刷した。「予想を上回る反響だった」と担当者。来場者のペースは衰えず、町はさらに印刷会社に3000部を依頼した。特別展開始から1週間の来場者数は319人で、前年同期と比べ同館の利用者は約10倍になった。
福島市の主婦薮内寿美子さん(66)は「毎朝起きるのが楽しみ」というほどの「朝ドラ」ファン。五代の死に「残念。もう少し長く見たかった」と肩を落とすが「特別展を見れば五代が女性、男性を問わず心を引きつけた理由が分かる。全国のファンが足を運び、福島の魅力発信につながってほしい」と話した。同展は5月8日まで。
新潟
河井継之助の志 ここにあり長岡 記念館が来館者10万人達成
長岡市長町1の市立「河井継之助記念館」が18日、来館者10万人を達成した。2006年12月の開館から10年目での到達。関係者は「継之助には時代を見通す先見性や改革の実行力など学ぶべき点が多い。業績と人間性を今後も伝えていきたい」と張り切っている。
継之助の終焉の地・福島県只見町には古くから記念館があったが、当の長岡には長年、こうした施設はなかった。戊辰戦争で長岡が焦土となり、市民の間で継之助の評価が割れていたことなどが背景にあった。
だが、地方が生き残るために経済の自立を図り、民主主義思想を持っていた継之助の業績をきちんと伝えるべきだとの声が地元でも高まり、市が継之助の屋敷跡の住宅を改修し記念館を整備した。全国にファンが多く、観光資源となることも開館を後押しした。
館内には、故司馬遼太郎さんの小説「峠」の自筆原稿や、継之助の旅日記「塵壺(ちりつぼ)」などが並ぶ。初心者にも分かりやすい図や絵のほか「熱心なファンにも飽きさせないように文字の解説パネルもなるべく多く展示している」(稲川明雄館長)のが特徴だ。毎年おおむね1万人以上が来館し、市外県外からの来館者が約半数を占め、リピーターも多いという。
10万人目となったのは長岡市曲新町の主婦鈴木絵理さん(29)と長男の悠仁君(1)。森民夫市長から記念品が贈られた。1年ほど前に群馬県から夫の転勤で引っ越してきた絵理さんは「長岡に来るまで継之助のことは全然知らなかったが、子どもの絵本で最近初めて読んだ。今後多くを学んでいきたい」と笑顔で語った。
記念館では今後、展示内容の継続的な更新や、記念館友の会(下田邦夫会長)と連携したイベント開催などを通じてファンをさらに増やし、将来の来館20万人、30万人を目指す考えだ。
佐賀
武雄歴史物語 佐賀の騒乱昭和10年に武器弾薬発見
昭和10年、旧武雄鍋島家邸(現在の市文化会館)の庭から18門の大砲、200挺近い銃に加えて多くの弾薬が、偶然に見つかりました。そのうち現在も残っているのは青銅製の大砲3門だけですが、アームストロング砲やスペンサー銃なども含まれていたとされます。
これらの武器がなぜ埋められていたのかは不明ですが、佐賀の乱が関係しているのではないかと推測されます。
明治6年の政変で参議を辞した江藤新平や、同5年に下野していた島義勇は、明治政府の方針に対し不満を高める佐賀士族の鎮静のために、同7年1月、相次いで佐賀へ向かいました。それぞれを首領とする征韓党、憂国党も組織され、結局は、いわゆる佐賀の乱の勃発を招きます。
武雄最後の領主であった鍋島茂昌は島義勇の従兄弟にあたることもあって、憂国党設立当初から元帥(げんすい)として参画することを懇請されていました。武雄は、当時最新式の武器を多く所有していたこと、戊辰戦争でその武器を用いた実戦を経験した多くの兵士がいたことも、理由の一つと考えられます。
しかしながら茂昌自身は最後まで、士族の動きには同調しませんでした。それでも、士族軍からの強硬な要請で60余人の武雄士族・卒族が一時的に彼らの陣に加わったことから騒乱終結後、明治政府の審問をうけることになります。
その中で、明治政府に届け出ていなかった武器の存在を知られないよう土中に埋めたものが、昭和10年に掘り出されたのではないかと考えられるのです。
武雄市図書館・歴史資料館では、佐賀士族の乱における武雄の動きを追った「佐賀の乱と武雄」を2月13日から3月13日まで開催します。(武雄市図書館・歴史資料館 一ノ瀬明子)
コラム
「あさが来た」五代友厚死す! ドラマで描かれたのとは違う女性関係、福沢諭吉との因縁
実業家で大阪商法会議所の会頭の五代友厚氏が1885年9月25日、東京・築地の自邸で死去したことが、NHKの連続テレビ小説「あさが来た」の本日放送分(第95話)でわかった。51歳(満49歳)。死因は糖尿病と見られる。前月より眼病とあわせて療養を続けていた。葬儀は大蔵大臣・松方正義伯の発意により大阪にて執り行われる予定。
亡くなった五代友厚氏(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)。記事中言及した福沢諭吉は、じつは五代より1歳上とほぼ同世代だった。ちなみにドラマの福沢役の武田鉄矢と五代役のディーン・フジオカの年齢差は31歳
五代氏は1836年薩摩生まれ。明治維新後、官界に入ったが、やがて実業界に転じ、大阪を拠点に当地の産業の近代化に貢献した。この間、大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪堂島米紹介所、商業講習所を設立、大阪財界にあって指導的立場を担った。だが一方で、政府高官との癒着も取り沙汰され、1881年には開拓使官有物払下げ事件の中心人物として激しい非難を受けたことは記憶に新しい。
「あさが来た」の劇中ではヒロインで大阪の両替商・加野屋の白岡あさ氏にひそかに思いを寄せながら、しだいにあさの夫・新次郎氏ぐるみで心を通い合わせる仲となっていった。五代氏亡きあとの白岡夫妻、大阪財界の動向が注目される。
……と、「あさが来た」の物語と史実を組み合わせて新聞の訃報記事風にまとめてみた。だが、ドラマと史実とではもちろん違うところもある。そこでこの機会に、ドラマでは描かれなかった五代友厚像にちょっと迫ってみたい。ただし、今回のドラマで五代ファンになったという方には、ひょっとするとイメージを壊すような記述もあるかもしれない。その点、あらじめお断りしておく。
五代の妻と子供たち
「あさが来た」の五代は、あさ以外の女性には関心がなさそうで、独身者のように描かれていた。しかし現実の五代には妻も子もいたし、また明治時代の政治家・財界人の例外に漏れず、彼もまた妻以外の女性と多々関係している。
五代は生涯に、生後すぐ死んだ子も含めて10人の子供を儲けている。最初の子供(女子)は、幕末の薩摩藩士時代の赴任先・長崎で知り合った女性とのあいだに生まれた。ただしこの子は五代家の籍には入っていない。
のち明治初めに菅野豊子(外交官・森山茂の実妹とも養妹ともいわれる)という女性と結婚したが、彼女とのあいだに子供はできなかった。戸籍上の三人の娘も、べつの女性が生んだのを引き取った子たちだ。経済史学者・宮本又次の『五代友厚伝』(有斐閣)によれば、五代はそうとうな遊び人であったらしく、官界から離れたのも派手な遊蕩が一因だったともいわれている。…
結婚したときにもべつの女性とつきあっており、長女と次女はその女性とのあいだに生まれた。長女誕生のときにはさすがに正妻・豊子と五代の関係は険悪になったらしいが、それでも次女入籍のときには悶着はなかったというから、豊子はかなり人間のできた女性だったのだろう。事実、五代の秘書的な役割も果たし、また教養を身につけるべく、師について絵や文学を学んでいたという。
五代が家の外で儲けた男子はすべて、認知はしても籍には入れず庶子となった。一方で彼は、かつての恩人の甥・九里龍作に学費を出すなど援助を惜しまなかった。龍作は五代の没後、五代家へ養子に入り、五代の長女・武子と結婚する。1886年には東大工学部教授の職を辞して大阪に転居、養父の興した鉱山業を引き継いだ。
こうして女性関係を見るかぎり、ドラマと現実の五代像はずいぶんかけ離れている。たぶん、朝ドラでとりあげるにはあまりに生々しいし、物語で扱うには煩雑になるとの理由から、劇中では一切描かれなかったのだろう。ただ、せめて五代の妻は登場させ、たとえばあさのライバル的存在として描く手もあったような気もしないではない。
福沢諭吉は五代の宿敵だった!?
「あさが来た」では慶應義塾創立者の福沢諭吉が、あさに影響を与えるとともに、五代もまた福沢の教え子たちを商業講習所設置のため相談役に迎えるなど、その関係が強調されていた。しかし調べてみると、現実の五代と福沢は微妙な関係にあった。というのも、ドラマでも描かれた開拓使官有物払下げ事件(1881年)で、福沢は五代を批判する立場をとったからだ。
この事件は、北海道開発のため置いた開拓使を民間に払下げようと、開拓使長官・黒田清隆が閣議に求め、明治天皇の裁可を得たことに端を発する。その払下げ先となったのが五代の設立した関西貿易社だった。1869年の開設から10年間に約1400万円もの国費を注ぎこんだ開拓使がわずか38万余円、それも無利息・30か年賦という破格の条件で、黒田と同じ薩摩出身の五代の会社に払下げられる……このことは機密情報であったにもかかわらず、自由民権運動系の新聞にすっぱ抜かれて大騒動となる。
このとき批判の急先鋒となった福沢と政府にあって手を組んだのが大隈重信だった。福沢と大隈はともに国会の早期開設を求める自由民権論者として意気投合した。もっとも、大隈とのつきあいはじつは五代のほうが長い。互いに幕末の志士だった時代からの仲であり、財政・経済策でも思想面でも通じ合うところが多かった。…
政府に入った大隈は大久保利通とともに殖産興業政策を推進し、それを五代は財界から支援し続ける。そんな両者がこの事件で対立し、たもとを分かったのは運命の皮肉であった。
結局、開拓使払下げは伊藤博文や岩倉具視らによって中止される。伊藤たちは9年後の1890年に国会を開設することを約束する一方で、大隈を払下げの情報を新聞にリークした張本人と見なし政府から追放した。いわゆる「明治14年の政変」である。
野に下った大隈は、翌82年に東京専門学校、現在の早稲田大学を開いた。それから10余年後、広岡浅子という女性が女子大学校の創立のため奔走するなか、大隈のもとへ相談に赴いている。浅子は「あさが来た」のあさのモデルだ。このころ、大隈もちょうど専門学校を大学へと移行するにあたり募金を行なっており、浅子に「自分は広く大衆に資金を募る。女子大は財界有力者中心に」とアドバイスしたばかりか、自ら女子大学校の創立委員長となるなど協力を惜しまなかった。こうして1901年、日本女子大学校(現・日本女子大学)が開校する。「あさが来た」はまさにその開校式典のシーンから始まった。
もし、あと20年長く生きていたら……
ここまで書いてきたとおり、ドラマと史実とではさまざまな相違がある。しかし五代友厚が私利私欲を抜きに、国や大阪のために尽力したこと自体はドラマで描かれたとおりである。「男児、財産をつくるためにこの世に生を受けたのではない」が彼のモットーだった。実際、その死後には財産どころか、100万円もの借財が残された。
五代が死んだのは日本に本格的な産業革命が到来する直前だった。前出の宮本又郎は、五代がもし20年長く生きていたら、一大財閥を形成していたかもしれないと書いている(前掲、『五代友厚伝』)。
1885年10月2日に大阪・中之島の五代邸で行なわれた葬儀には、じつに一般から4800人もの参列があった。このことからも、地元の人たちの彼に対する敬愛ぶりがうかがえよう。葬儀後、棺は馬車に乗せられ、天王寺埋葬場まで大勢の人に付き従われながら運ばれた。それは盛大な行列となり、先頭が埋葬場に到着したときも、後尾はまだ4キロほど先の長堀橋あたりを歩いていたと伝えられる。
ディーン・フジオカの好演もあって、その死から130年を経てふたたび脚光を浴びた五代友厚。ドラマのなかでも惜しまれながら亡くなった「大阪経済の父」に、ここに謹んで哀悼の意を表したい。
(近藤正高)
時は幕末。鎖国中の日本人に愛されたスイス人時計師の数奇な運命
スイスの高級腕時計ブランド「ジラール・ペルゴ」を日本に広めるため、フランソワ・ペルゴ社が創立されて150年になったことを記念した「フランソワ・ペルゴ展」が去る12月19日〜24日まで横浜の「ヨコハマ創造都市センター」で開催されました。19世紀の貴重な時計などが数多く展示されるということで、興味津々のMAG2NEWSは喜び勇んで横浜まで取材に行ってまいりました。
みなとみらい線「馬車道駅」にほど近い、会場の「ヨコハマ創造都市センター」。1929年竣工の「旧第一銀行横浜支店」を改装した趣あるたたずまいが歴史を感じさせます。
スイス時計を日本へ持ち込んだ男、フランソワ・ペルゴの生涯
日本に初めてスイス時計を正式に輸入したフランソワ・ペルゴは、1834年にスイスで生まれました。実の姉であるマリー・ペルゴは、夫のコンスタン・ジラールと共に、かの有名な高級腕時計ブランド「ジラール・ペルゴ」を創立した女性です。ジラール・ペルゴ社が世界進出する中、フランソワ・ペルゴは1860年から横浜に住まいを構え、アジアでの販路を拡大。日本で初めてスイス製時計の販売を開始しました。1865年にはF.Perregaux & Co.社を設立し、1877年に亡くなるまで、ジラール・ペルゴの正規代理店を務めていたということです。
フランソワ・ペルゴ社が日本に設立されてから150年を記念した今回の展示会では、日本上陸当時を偲ばせる貴重な時計や資料がズラリと展示されました。まずは、その魅力的な時計の数々をゆっくりと見ていきましょう。
世界初とされる極薄サヴォネット懐中時計
左手前に吊されている黄金の時計は1800年頃に作られたサボネット懐中時計です。サヴォネットとはフランス語で「石けん箱」を意味します。この極薄タイプはイエローゴールドのケースで彫金、ギョーシエ彫りがほどこされたMoulinier Bautte & Cie社のものです。
右手前は1835年頃にJ.F.Bautte & Cie社で作られた、装飾ペンダント時計。ブルーを基調に、エナメル製のハーフパールの花模様がほどこされています。左奥は1820年頃Moulinier Bautte & Cie社で作られたイエローゴールド製の懐中時計。
1888年製の傑作トゥールビヨン
上写真の右手前は1888年に製造された「スリーブリッジ トゥールビヨン」です。ジラール・ペルゴの傑作とされる懐中時計も実に魅力的なクラシック時計でした。こちらは、ニューシャテル天文台の1級証明書を取得しています。ニューシャテル天文台とは、スイスで開催されていた時計の精度を競うコンクールを意味します。紋章が入ったギョーシェ彫りのゴールドケース、エナメルの文字盤を採用し、トゥールビヨンムーブメントを搭載する、当時の最先端技術を盛り込んだ高性能モデルなのです。
左手前はジラール・ペルゴ社により1860年頃製作された、小冊子型ペンダント時計。彫金とブルーエナメル装飾が施されたイエローゴールドケースが使われています。奥には1870年頃にジラール・ペルゴで製作された、十字型のペンダント時計も見えます。
兄が作ったマリン・クロノメーター
フランソワ・ペルゴの兄、アンリ・ペルゴもまた家業を支える重要な人物でした。こちらは、そのアンリ作とされ、1860年頃に出身地であり時計の聖地でもあるスイスのル・ロックルで作られたマリン・クロノメーターです。洋上で正確な時刻を刻み、また、経度を正確に割り出すことができました。
船が波にもまれても正確な時刻を示すという、水平を保つ木製ケースの作りの良さにまず感心。ブラウンにゴールドケースと白の文字盤のバランスが美しく、現代でも充分通用するデザインです。
幕末の日本人に愛された、異邦人フランソワ・ペルゴ
日本初の時計師とされるフランソワ・ペルゴは、横浜に居を構え、没後は同じく横浜にある外国人墓地に埋葬されたことでもわかるように、日本とのつながりが大変深い人物でした。大政奉還(1867年)の約3年前という幕末の江戸で、スイスと日本は通商条約を締結しましたが、そのために派遣されたエメ・アンベール使節団の特派員が、フランソワ・ペルゴだったのです。
外交官エメ・アンベールは帰国後の1870年『幕末日本図絵』を出版します。その特派員としてフランソワ・ペルゴが活躍した結果、彼自身もまた日本の文化への造詣を深めていったのです。
1870年に仏・パリの出版社であるアシェット社から2巻で発刊された、エメ・アンベール著『幕末日本図絵』。外交官からの要請で、フランソワ・ペルゴは日本の歴史、民衆伝説、おとぎ話、子供の歌などを収集。横浜の写真家から写真を抜粋してスイスに送り、同著の完成に貢献しました。
フランソワ・ペルゴの義兄であるルシアン・ランドリがニューシャーテルの自然科学博物館に寄贈したという、獅子面も往時を偲ばせます。
(以下略)
男子専科STYLE http://danshi-senka.jp/
取材・文/堀ミキヒロ
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1880(明治13)年に容保が明治政府宛てに送った嘆願書の草案だそうです。戊辰戦争から10年以上たった時点でも困窮している元会津藩関係者の苦境がしのばれます。
会津藩主・松平容保の嘆願書草案発見 秋月悌次郎が執筆
会津藩主・松平容保の嘆願書草案発見 秋月悌次郎が執筆
藩政時代、最後の会津藩主・松平容保(かたもり)の側近として仕えた秋月悌次郎(1824~1900年)の遺物から、1880(明治13)年に容保が明治政府宛てに送った嘆願書の草案が3日までに見つかった。元藩士の復権に向け、安積開拓事業に参画して容保自らと元藩士の県内への移住を求める内容。戊辰戦争(1868年)で敗れ、困窮する元藩士を救うための書簡だったが、認められなかった。
秋月悌次郎顕彰会(会津若松市)顧問を務める金城学院大名誉教授の中西達治さん(76)=岐阜県、中世日本文学=が、秋月家に残されていた文書から発見した。
草案では「断然志ヲ決シテ開墾地ニ移住シ 旧臣等ト(中略)国家ノ万一ニ補アラン事ヲ期セリ」(意を決して開墾地に移住し、旧臣と国の大事業を補助したい)と事業参画への意欲を示した。また「士族ノ如キハ 既ニ困難ノ極ニ陥リ 奈何トモスベカラズ」(士族は困難の極みに陥り、どうすることもできない)と元藩士の困窮を訴え、安積平野の開拓地に移住することで元藩士の本県帰還を促そうとしたとみられる。
秋月家から嘆願書の草案が発見されたことから、起草したのは悌次郎だったことが判明。容保が計画の実現に向け、文面からは、秋月らと連携して細心の注意を払った様子がうかがえる。中西さんは「容保の代弁者として草案を書いた秋月が、容保から、いかに信任を得ていたかを知ることができる」と述べた。
旧会津藩は青森県で斗南藩として再興したが、元藩士や家族約1万7千人は苦しい生活を強いられた。多くの人が会津に戻るのは1871年の廃藩置県が行われて以降だ。
初の国営開拓事業となった安積開拓では、人員確保のため全国9藩の士族約2千人が集められた。国策として士族が本格的に移住を始めるのは1878年から。容保が明治政府に嘆願書を出した事実は政府高官の日記に記されており、研究者には知られていた。しかし、移住が実現しなかったこともあり、一般的にはあまり知られていない。
郡山市によると、安積開拓を先導した元米沢藩士の県典事(課長職)中條政恒が容保を誘い、大勢の元会津藩士を入植させようと計画した。容保もこれに賛同し移住の準備を進めていたが、元米沢藩士の県令山吉盛典が中條の計画を独断だとし、元会津藩士の大量帰還や容保の移住は頓挫した。
あけましておめでとうございます。2003年末から始めた当ブログ、干支で一回りを超えましたが、これからも細々と続けていきたく存じます。よろしくお願いします。
静岡
鉄の大砲 今どこに? 韮山反射炉で鋳造
東京
巣枝翁見聞夜話福生・酒蔵当主先祖、「幕末」生き生きと 飢饉、大地震を記述 研究会が読みやすく /東京
富山
国泰寺救った筆さばき 山岡鉄舟の千双屏風を展示
福岡
「幕末の山笠」伝える墨絵 博多・櫛田神社に奉納 安政5年、幻の舁き山の下絵か
静岡
鉄の大砲 今どこに? 韮山反射炉で鋳造
◆靖国所蔵品 可能性あり靖国神社は、江川英龍の親友であり江川家の相談役でもあった斎藤弥九郎が練兵館を開いていた場所でもあるのですが、大砲の来歴とは繋がらないですよね……研究が進むといいなぁと思います。
靖国神社に展示してある韮山反射炉製とされる大砲=東京都千代田区で
写真
世界文化遺産に昨年登録された韮山反射炉(伊豆の国市)をめぐる謎がある。青銅製大砲が主流だった幕末、鉄製大砲を造るために建造されたが、韮山で鋳造した大砲と確認された現物が一つもない。反射炉を出発点に、韮山の鋳造と伝わる鉄製大砲を所蔵する靖国神社(東京都千代田区)、韮山の大砲設置を予定した東京湾の品川台場周辺を訪ね、韮山製大砲のありかを探した。
江戸幕府の韮山代官・江川坦庵(たんなん)(一八〇一~五五年)が中心となって建てた韮山反射炉の北側に大砲が設置してある。地元の木村鋳造所(清水町)が一九九八年に造った鉄製大砲の復元品だ。伊豆の国市によると、韮山反射炉では鉄製が少なくとも四門造られた記録がある。
写真
反射炉から車で北へ五分の代官屋敷「江川邸」。韮山代官を代々務めた江川家の資料十万点以上を所蔵する。土間に展示している大砲も復元品だった。資料を研究する江川文庫の橋本敬之学芸員(63)は「多くの資料があるものの、大砲の実物はない」と打ち明ける。
靖国神社の遊就館(ゆうしゅうかん)は、武器や美術品など十万点を所蔵する。幕末から戊辰(ぼしん)戦争(一八六八~六九年)の資料が並ぶ二階の展示室に、韮山製とされる大砲があった。茶褐色にさびており、全長一三二センチ、口径六・七センチと想像より小ぶり。砲口につけた六つの線で砲弾を回転させるライフルカノン砲だ。「三百匁玉旋條砲(もんめだませんじょうほう)」と表示し、解説に「幕末に韮山の反射炉で鋳造された前装火縄式のカノン砲」とある。遊就館の担当者は「大砲は鉄製で、一八八一年に旧日本陸軍の砲兵第一方面(東京)から奉納された」と説明する。
世界文化遺産登録から半年を迎える韮山反射炉=伊豆の国市で
写真
韮山製大砲は海上砲台・品川台場設置のために造られた。大砲を江戸に送った記録はあるものの、品川歴史館(東京都品川区)の富川武史学芸員(36)は「台場にあった大砲の実物は見つかっていない」という。「明治期に台場を管轄していた軍が大砲を保管していて、靖国神社に奉納した可能性はある」と推測した。
靖国神社所蔵の大砲は、韮山製なのか。伊豆の国市の工藤雄一郎学芸員(47)は「現段階では青銅製のライフル砲を造った資料しかない」と指摘する。一方で、江川文庫の橋本学芸員は「韮山で鉄製ライフル砲の製造を試みたと言う研究者もいる」と話す。富川学芸員は「伊豆の国市と江川文庫、靖国神社が協力して調査できれば成果が出るのでは」と期待した。
(山田晃史、写真も)
<韮山反射炉> 1853(嘉永6)年のペリー来航を受け、江戸幕府が江戸湾(東京湾)の防備を固める目的で大砲を鋳造した溶解炉。54年に着工し、57年に完成。炉の天井がアーチ状になっており、熱を反射して一点に集中させる構造から反射炉と呼ばれる。炉は全部で4つあり、煙突を合わせた高さは15・7メートル。稼働は7年間だったが、実際に稼働したもので国内で唯一完全な形で現存している。2015年7月、「明治日本の産業革命遺産」の23施設のひとつとして世界文化遺産に登録された。
東京
巣枝翁見聞夜話福生・酒蔵当主先祖、「幕末」生き生きと 飢饉、大地震を記述 研究会が読みやすく /東京
福生市の老舗の酒蔵、田村酒造場の当主の先祖、田村金右衛門(俳名・巣枝(そうし))が1869(明治2)年に書いた「巣枝翁見聞夜話」を、中高生でも読めるよう書き改めた本が完成した。天保の飢饉(ききん)、安政の大地震と江戸城修復などの史実が金右衛門の目を通して描かれ、幕末の多摩の人々の息づかいが伝わってくる。【柴田朗】
金右衛門は1809(文化6)年、福生村(現在の福生市)生まれ。名主の田村勘次郎の次男で、勘次郎の義弟の養子に。その後、勘次郎が所有する酒蔵の一つで、宮沢村(昭島市)にあった酒蔵を譲り受けた。
酒蔵経営や酒の価格など、酒関連の記述が多いが、当時の人気の酒は「甘口」で、「からき酒は不造物(ふぞうもの)とて、う(売)れ申さず」など、江戸の人々の好みにも触れている。
33(天保4)年から36(同7)年にかけての天保の飢饉は金右衛門が20代の頃。熱病が流行して「家内残らず死去いたし候者多し」「高石に爪(つま)づきころぶと、死すなり」などの記述も。
55(安政2)年の安政の大地震では発生直後に江戸を訪ねて「人何万人とも無く死す」「御城石垣皆くずれ」などの状況を報告。しかし翌年にほぼ修復され、「公儀の御勢い、此(こ)の頃大そう成ることなり」と感心している。八王子市に落ちた隕石(いんせき)、竜巻なども詳細に記した。
夜話の最終話は「打ち壊し」。押しかけた人々が66(慶応2)年6月16日に家屋や酒蔵を破壊し、その後、金右衛門はついに酒蔵経営を断念した。
解読した福生古文書研究会会長の峰岸秀雄さん(80)は「夜話に記されているキツネに化かされた話などは、私が子供の頃、祖母から聞かされた。福生の民衆史としても興味深い」と話している。
同書は全88ページ。問い合わせは同研究会会員の日野さよ子さん(042・552・7566)。
〔都内版〕
富山
国泰寺救った筆さばき 山岡鉄舟の千双屏風を展示
高岡市博物館
高岡市博物館は、「幕末三舟」の一人、山岡鉄舟(一八三六~八八年)の筆で、同市太田の臨済宗国泰寺派大本山「国泰寺」に奉納された「千双屏風(びょうぶ)」と呼ばれる漢詩屏風(六曲一双)を展示している。二月二十八日まで。(武田寛史)
屏風は二隻あり、一隻が縦百七十三センチ、横三百四十七センチ。右隻を展示しており、来年一月二十六日から左隻に展示替えする。
鉄舟が、明治初期に国泰寺五十四世の越叟義格(えっそうぎかく)と親しくなり、廃仏毀釈(きしゃく)による寺の窮状を訴える越叟のために揮毫(きごう)し、奉納した千二百双の屏風が千双屏風。
その後、同寺院五十五世、雪門玄松(せつもんげんしょう)が屏風を売り歩き、同寺の天皇殿や禅堂を再建。山門も改築して寺院の再興を遂げたと伝えられる。所有していた同市内の高林礼一氏が、同博物館に寄贈した。
鉄舟は剣、禅、書の達人として知られ、戊辰戦争では勝海舟の使者として西郷隆盛に面会。六八(慶応四)年の江戸無血開城の道を開いた人物。書に優れた鉄舟の力強い筆さばき、洒脱(しゃだつ)な書体が見どころ。
同博物館の仁ケ竹(にがたけ)亮介主査学芸員(40)は「高岡にとっては歴史的な価値がある。一歩踏み込んで、鉄舟や国泰寺の深い歴史を読み取れる資料なので、ぜひ見てほしい」と話している。年末年始の休館は二十八日~一月四日。一月五日から開館する。開館時間午前九時~午後五時。入館は無料。
福岡
「幕末の山笠」伝える墨絵 博多・櫛田神社に奉納 安政5年、幻の舁き山の下絵か
博多祇園山笠で知られる福岡市博多区上川端町の櫛田神社(阿部憲之介宮司)に、幕末の1858(安政5)年の作とみられる墨で描かれた山笠の絵2枚が奉納された。担いで走る舁(か)き山笠と飾り山笠の区別のなかった時代の山笠らしく、そびえ立つような威容。絵に残された筆書きから現在は無くなった「福神流」の山笠とみられる。山笠を作る人形師が関係者に構想を示すために描いた下絵とみられ、山笠の歴史を知る上で貴重な資料となりそうだ。
奉納したのは、福岡県太宰府市観世音寺の高瀬利明さん(81)。かつて同区上呉服町で家具店を営んでいた高瀬さんの実家に伝わっていた品で、傷みが激しいため秋ごろから専門業者の元で修復が進められていた。
歴代の山笠の記録を収録した「博多祇園山笠史談」によると、安政5年の福神流の山笠の題は「万貨一国富」で、当番町は現在の上呉服町の一角(山笠の運営単位では上魚町)に当たる「魚町上」。一方、2枚の絵にも「魚町上」の文字が記されており、片方には「中央榎木鉢蓬茂生 韓人王 安政五年四番見送り使用」と読める文字もある。
2枚は、同じ山笠の「表」と「見送り(後方)」とみられ、その姿は、現在の飾り山笠のように高く、楼閣や橋が立体的に配置された典型的な江戸期の様式。中国風の衣装を着た男性の人形が表に2体、見送りに1体飾られ、宝物を満載した荷車が置かれるなど豪華な雰囲気を演出している。
福岡市博物館の宮野弘樹学芸員によると、当時は山笠の飾り付けなどを決めるには藩の許可が必要で、藩に提出する正式な絵は鮮やかに彩色され「表」だけ描かれたケースが多いという。宮野学芸員は墨絵について「正式な許可申請の前に町内で打ち合わせた段階の絵だろう。当時の山笠の制作過程を明らかにする上で興味深い」と話す。上魚町の元町総代吉井利雄さん(85)は「こうした古い山笠の絵が残り、保存されるのはうれしいことだ」と話した。
ほぼ一ヶ月ぶりの幕末ニュースです。
2003年末に当ブログを開設し、干支で一回りしました。当初は大河ドラマ『新選組!』の感想と幕末関係ニュース中心にやってきました。最近は関心が落語と歌舞伎に移り、なかなか幕末関係ニュースをまとめられていませんが、細々ながらも十年以上続いているということが当ブログの特色と思い、引き続き細々とやっていきます。史実の土方歳三さまへの片想いは、16年続いておりますし。
埼玉
新選組「近藤勇」捕縛の古文書、熊谷では手控帳に 収集資料に同じ記載 郷土史家・佐藤さん /埼玉
北海道
新選組の歌冊子に 函館の湊さん、歳三の「辞世の句」含め32首
「幕末の三筆」貫名菘翁展 来年3月まで札幌で /北海道
高知
以蔵の合祀巡る文書 県護国神社で発見
2003年末に当ブログを開設し、干支で一回りしました。当初は大河ドラマ『新選組!』の感想と幕末関係ニュース中心にやってきました。最近は関心が落語と歌舞伎に移り、なかなか幕末関係ニュースをまとめられていませんが、細々ながらも十年以上続いているということが当ブログの特色と思い、引き続き細々とやっていきます。史実の土方歳三さまへの片想いは、16年続いておりますし。
埼玉
新選組「近藤勇」捕縛の古文書、熊谷では手控帳に 収集資料に同じ記載 郷土史家・佐藤さん /埼玉
幕末期に反幕府勢力の取り締まりに活躍した新選組局長・近藤勇が千葉県流山市で捕らえられた状況を示す古文書が長野県佐久市の池田信二さん(76)宅で見つかったことを本紙埼玉版(11月17日付)が報じていたが、熊谷市でも同様の史実を記した文書が発見された。岩村田藩(佐久市)藩士らが、近藤ら「悪党共」を取り押さえたとする内容で、本紙記事を読んだ熊谷市新堀の郷土史家、佐藤繁さん(74)が自身の収集資料にも同様の記載があると、池田さんに連絡して判明した。【鴇沢哲雄】
佐藤さんは江戸時代の武家社会の研究をしている。7年ほど前に前橋市の古書店で数百点の文書類を購入していたが、その中に含まれる大福帳型の「手控帳」に近藤が捕らわれた際の記述があった。
手控帳は縦18センチ、横13センチ、厚さ2センチ。表紙には「慶応四年 辰二月」とあり、佐藤さんは、持ち主として記された「大林村(現越谷市)」の「弥五郎」は「名主」ではないかと推測する。内容は雑記帳で、日光・奥州街道を往来する大名や宿場間の連絡事項、人足への支払いなどさまざまな事項を記している。
この中に「御官軍 池田権之助様 堀恭之進様」とあり、岩村田藩「家老代」と記されている「権之助」は、戊辰戦争の際に関東出兵した同藩の指揮官の一人。同藩の73人の行動として「辰四月一日夜千住宿御泊り 同二日当宿御通行粕壁宿御泊り 同三日当宿御通行にて流山ヘ来たり悪党共取り押さえ大沢町ヘ御立戻り 翌四日当宿御出立して粕壁宿へ」などと書かれ、近藤らを指す「悪党共」を取り押さえる前後の立ち寄り先として「当宿」(越谷宿)「粕壁宿」(春日部宿)「大沢町」(越谷)が登場する。
佐藤さんは「手控帳は書状などの写しではなく、さまざまな情報の一部として官軍の動きを記録したものではないか」と分析。この内容は、佐久市の池田さん宅で見つかった古文書の内容と一致している。
今月7日には、池田さんや、池田家文書を研究している川口市の郷土史家・伊澤隆男さん(74)、熊谷市で江戸時代から豪農として続いてきた根岸家第17代当主の友憲さん(72)が集まって文書の内容を確認。今回の新発見を喜び、今後も史実発掘で協力していくことを約束した。
北海道
新選組の歌冊子に 函館の湊さん、歳三の「辞世の句」含め32首
【函館】函館市美原2の「詩吟朗詠水月流賢心朗吟会」会長、湊賢心(みなとけんしん)=本名・賢一=さん(76)が、新選組副長で、箱館戦争で戦死した土方歳三の「辞世の句」とされる和歌を含め、新選組隊士の歌32首を詩歌構成吟「箱館新選組隊士たちの和歌集を詠む」として冊子にまとめた。
詩歌構成吟は幾つかの漢詩や和歌をテーマに基づいて組み合わせ、吟じる方法。湊さんは毎年1冊、構成吟の冊子を作っており、今回で9作目となる。
土方歳三の辞世の句はこれまで「たとひ身は蝦夷(えぞ)の島根に朽ちるとも魂は東(あずま)の君やまもらん」が広く知られており、湊さんも舞台でたびたびこの歌を吟じたことがあるという。
しかし、知人から「別の辞世の句が見つかった」と聞かされて興味を持ち、幕末期の人物の書状などを展示している京都市の「霊山(りょうぜん)歴史館」から、その句が載った2013年発行の紀要を取り寄せた。
紀要によると、土方の辞世の句は最後まで行動を共にした隊士島田魁がまとめたとする歌集の中にある。これには隊士32人の歌が収められ、このうち土方の歌は「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照るかと」。箱館戦争の総攻撃の前夜、旧幕府軍の幹部が集まって開いた宴席で詠んだ可能性が高いとしている。
「本当に土方の辞世の句かはわからないが、こちらの方が最後の戦に向かう心象が歌われているように思う」と湊さん。この1首のほか、隊士31人の31首についても苦心しながら現代語に解釈し、1冊にまとめた。「函館にゆかりのある土方に、こういう歌もあると知ってもらえたら」と話す。
冊子はA4判、36ページ。希望者は湊さん(電)0138・47・8625へ。(内田晶子)
「幕末の三筆」貫名菘翁展 来年3月まで札幌で /北海道
「幕末の三筆」の一人、貫名菘翁(ぬきなすうおう)(1778〜1863年)の書画作品を集めた特別展が小原道城書道美術館(札幌市中央区北2西2セコム損保札幌ビル2階)で開かれている。
貫名菘翁は、江戸時代後期を代表する文化人で、四国・徳島で生まれた。高野山に入り、空海の書を学び、30代に儒学(朱子学)を教える私塾を京都で開いた。書画をはじめ儒学、漢詩に通じ、特に書は同時代に江戸を拠点とした巻菱湖(まきりょうこ)、市河米庵(いちかわべいあん)とともに「幕末の三筆」と称揚される。晋唐風の中国古典を追究した書風は、明治時代に活躍した書家、日下部鳴鶴(くさかべめいかく)、さらに鳴鶴の門人の比田井天来(ひだいてんらい)へつながり、現代書道に大きな影響を与えた。
今回の特別展は、美術館所蔵の作品群の中から計44点を公開。蘇軾(そしょく)作の漢詩「赤壁賦」を記した六曲屏風(びょうぶ)をはじめ、漢詩に山水画を添えた掛け軸、扁額(へんがく)など快作が一堂に展示されている。同館の宮田成生事務局長は「貫名菘翁の作品がこれほどまとまって鑑賞できる機会は少ない。江戸時代一流の教養人による温雅秀麗な書画をぜひ堪能していただきたい」と話している。
会期は来年3月31日まで(火曜日、26日〜1月12日は休館)。入館料は300円(大学生以下無料)。問い合わせは日本書道評論社(011・552・2100)。【坂本智尚】
高知
以蔵の合祀巡る文書 県護国神社で発見
◇明治政府の却下裏付け
幕末に土佐勤王党に所属し、敵対する人物を暗殺したことから、「人斬り」との異名で知られる岡田以蔵(1838~65年)。明治期、旧勤王党員らが、以蔵を靖国神社や大島岬神社(高知県護国神社)に合祀ごうしし、顕彰するよう求めていたことを裏付ける資料が県護国神社で見つかった。このとき、以蔵の合祀は実現しなかったが、合祀を巡る具体的なやりとりの記録の原本が見つかるのは初めてという。
(畑本明義)
武市半平太ら維新を巡って亡くなった土佐藩の関係者80人は、1883年(明治16年)、戊辰戦争の戦死者以外では初めて、靖国神社と大島岬神社への合祀が決まった。しかし、以蔵は勤王党員だったにもかかわらず、合祀されなかった。
今回見つかった資料は、85年(同18年)に、田中光顕や土方久元ら中央で活動していた旧土佐藩関係者らから地元の旧勤王党員らに宛てた手紙と、旧勤王党員で後に警視総監も務めた西山志澄らが86年(同19年)に、現在の県知事にあたる県令の田辺良顕に宛てた手紙の控え。県護国神社宝物管理学芸員の松岡司さんが、神社に保管された「南海忠烈碑建碑関連文書」の中から見つけた。
資料によると、田中らは「合祀からもれた諸士について、県令からまだ上申がないが、どうなっているか」と県令を通じて政府に合祀を上申するよう催促。これを受け、西山らは、以蔵や近藤長次郎ら6人について「国事に殉じたが、不幸にして栄典にもれ、いまだに安らかな眠りにつけないでいる」と、合祀を上申するよう田辺に願い出ている。また、その後89年(同22年)に、高知県知事名で「岡田以蔵を除くの外」として、以蔵を除く5人に合祀の許しが出たことを伝える公文書の写しもあった。
以蔵は、京都で捕らえられ、土佐勤王党を弾圧する土佐藩の拷問を受けて自白したことが、勤王党の同志の逮捕につながったとされる。以蔵は、1983年になって県護国神社に合祀が認められたが、近藤長次郎らも名を刻まれる同神社内の顕彰碑「南海忠烈碑」には、今も名がない。
松岡さんは、今回の資料について「以蔵の顕彰を政府側が却下したことの裏付けとなる資料だ」とし、「政府での顕彰作業の中心人物だった田中光顕はかつて勤王党員だった。以蔵の自白が武市半平太や、ほかの勤王党員を苦しめたことから、顕彰は認めることはできなかったのだろう」と話している。
今回、長野で新史料発見。「新政府軍が流山で近藤を捕らえ、『越谷』経由で『板橋本陣』に送り『彦根藩に引き渡した』」という内容。近藤勇が板橋本陣で処刑された時は彦根藩預かりだったのでしょうか??
長野
近藤勇:千葉で捕らえ彦根藩へ 佐久・池田家で文書発見 広大・久保田教授ら 旧岩村田藩士らの動き記録 /長野
北海道
「箱館戦争」を観光ルートに 乙部の協力隊員が考案
京都
龍馬ファン 酢屋で献杯
奈良
幕末ウオーク:梅田雲浜ゆかりの地散策 15日、夢咲塾 大和高田 /奈良
岡山
元・気・人:幕末の新たな漂流記を見つけた倉敷市職員、山本太郎さん /岡山
高知
坂本龍馬:「長刀兵法目録」公開へ 北辰一刀流から授与
日本酒「極印龍馬」発売 幕末の英雄・今年生誕180周年
幕末〜明治期の古写真が無料ダウンロード!幕末の写真家 日下部金兵衛による美しい日本の姿
幕末の偉人たちがジャンプ作家になった「幕末のジャンプ」が圧倒的な完成度
『明治大正史 上・下』 中村隆英著
長野
近藤勇:千葉で捕らえ彦根藩へ 佐久・池田家で文書発見 広大・久保田教授ら 旧岩村田藩士らの動き記録 /長野
幕末期に反幕府勢力の取り締まりに活躍した新選組局長・近藤勇が千葉県流山市内で捕らえられた状況などを記した明治期の文書が佐久市塚原の池田信二さん(76)方で発見された。旧岩村田藩(現佐久市)の藩士を含めた新政府軍が流山で近藤を捕らえ、「越谷」経由で「板橋本陣」に送り「彦根藩に引き渡した」とする内容で、専門家も「貴重な資料」とお墨付きを与えている。
池田さんは、岩村田藩に仕えた池田家の子孫。10代目当主の父信一郎さん(故人)が、新政府軍と旧幕府勢力が戦った戊辰(ぼしん)戦争での岩村田藩の動きを手書きしたノートを残しており、藩兵らが中山道を往来して「蕨」や「春日部」で活動したとの記載があったことから、池田さんと高校時代の同級生で埼玉県川口市芝の郷土史家、伊澤隆男さん(74)が興味を持ち、池田さん方で原本を探していた。
今回の原本探しには江戸期の文学を専門とする広島大の久保田啓一教授(55)も協力。江戸初期から明治にかけた数多くの文書類を整理し、原本を見つけた。
見つかった原本は明治政府が1872(明治5)年に全国に発した国史の編纂(へんさん)令により、池田家8代目当主の清兵衛善教(よしのり)が6年の歳月をかけて調査し、県に報告した記録だった。
今回、原本で裏付けられた内容によると、岩村田藩の73人が1868(慶応4)年3月6日、岩倉具視総督の要請で関東に出兵。同11日に桶川、翌12日に蕨を経て、新政府軍の本陣があった板橋に至り、4月14日まで本陣の宿舎の警護にあたった。
この間の4月1日、岩村田藩士らは宇都宮への出陣命令を受け、夕方に千住に到着。夜半に幕府方の彰義隊の残党を捕らえた。2日に春日部に移り、3日に「流山村に賊がいる」との報で流山の酒造家に向かうと、大勢の幕臣とみられる士を発見した。
この一団の中に近藤がいた。古文書には「(岩村田藩士らが)首領と対面し、銃八十七丁を引き渡させた。大久保大和(近藤の偽名)を捕らえ、越谷に護送の上、翌4日板橋本陣に送り、彦根藩に引き渡した」との内容が記されていた。
岩村田藩は1703(元禄16)年、徳川譜代大名の内藤家が国替えで移って創設され、わずか1万5000石の小藩だった。
2002年から池田家の古文書の整理を進めてきた久保田教授はこれまでに約1500件の文献目録を作成している。文書は日記や手紙、民俗・軍事に関する記録など多岐にわたる。公家や書家による漢詩など貴重な資料も含まれていた。
久保田教授は「18世紀以降の生活や文化、土地の支配状況などが分かる貴重な資料ばかり。池田家文書がなければ、佐久市の歴史は語れない」と評価している。文書を保管してきた池田さんは「今後の研究のために役立ててほしい」と今回の発見を喜んだ。【鴇沢哲雄】
北海道
「箱館戦争」を観光ルートに 乙部の協力隊員が考案
【乙部】町の地域おこし協力隊員今昭人さん(54)が、乙部、木古内、森町の3町を中心に、箱館戦争ゆかりの地を巡る広域観光ルートづくりに取り組んでいる。来春の北海道新幹線開業に向け渡島、檜山の連携を強め、道南全体の観光を盛り上げる狙い。今さんは「本州からの交流人口拡大につなげたい」と意気込んでいる。
今さんは5月から、乙部町内の「官軍上陸の地」の観光ガイドを担当。約半年で300人以上を案内し、箱館戦争に関心を持つ観光客が多いことを実感したという。
箱館戦争の舞台は、函館市内の国特別史跡「五稜郭跡」や新選組副長土方歳三の戦死地以外にも、旧幕府軍と新政府軍の足跡が道南各地に残る。今さんは、ゆかりの地を結ぶルートは観光素材になると確信し、10月から木古内、森町などの観光関係者に協力を呼び掛けた。
現在考案中のルートは「木古内口の戦い」のあった木古内発着で、乙部の「官軍上陸の地」、森町の「榎本軍鷲ノ木上陸跡地」などを巡る内容。それぞれ現地で、ガイドによる説明が受けられるようにする。10月下旬には鹿部町職員らを「官軍上陸の地」に案内し、ガイド方法や観光ルートの趣旨を説明した。
今後は広域的なパンフレットを制作してルートをPR。将来的には函館や江差、松前、鹿部などのスポットも組み込み、内容を拡充していく考えだ。今さんは「修学旅行コースとしても売り込んでいきたい」と話している。(後藤真)
京都
龍馬ファン 酢屋で献杯
幕末の志士・坂本龍馬の命日に当たる15日、京都滞在中に身を寄せていたことで知られる「酢屋」(中京区)で、偉業をしのぶ「龍馬祭」があり、ファンら約200人が参加した。
酢屋は1721年創業。材木商と運送業を営んでいたが、6代目・中川嘉兵衛が土佐藩邸に出入りしていたのが縁で龍馬を迎えたとされる。この日は10代目の中川敦子さんが「今年は龍馬生誕180年の節目。今も学ぶことは多く、この場で思い起こしてほしい」とあいさつ。参加者は献杯した後、店の前に設けられた祭壇で手を合わせた。
酢屋では30日まで、龍馬の手紙(重要文化財)の写本や弁当箱などを陳列する追悼展を開催。遺品を見て回った愛知県西尾市の会社員榊原崇さん(37)は「若くして活躍した龍馬のすごさが実感できた」と話していた。
奈良
幕末ウオーク:梅田雲浜ゆかりの地散策 15日、夢咲塾 大和高田 /奈良
大和高田市のまちづくり団体「夢咲(ゆめさき)塾」(水本一次代表)は15日、幕末に活躍した尊皇攘夷派の志士で、今年生誕200年を迎える梅田雲浜(うんぴん)(1815〜59)の足跡をたどる「幕末ウオーク」を開く。参加無料。
雲浜は現在の福井県小浜市生まれ。大和高田市の豪商・村島内蔵進の娘千代子を後妻に迎え、村島宅などに仮住まいして高田と長州藩との物産交易を仲介。大老・井伊直弼による「安政の大獄」で獄死した。
幕末ウオークは、大和高田と縁がある雲浜を広く知ってもらおうと企画。午前9時に大和高田さざんかホール(同市本郷町)に集合。市内にある雲浜の顕彰碑などゆかりの地を散策する。問い合わせは水本代表(080・5301・8286)。【山本和良】
岡山
元・気・人:幕末の新たな漂流記を見つけた倉敷市職員、山本太郎さん /岡山
◇史料発掘し地域の歴史に光を 山本太郎さん(54)
鎖国中の19世紀半ば、乗っていた船が漂流し、米国の商船に助けられた後、サンフランシスコや上海などを巡って帰国した備中地域出身の船乗り「徳兵衛」の物語。帰郷後に徳兵衛が町民に語った体験が記された「漂流記」があった。倉敷市歴史資料整備室の責任者として、津山市史の編さんに協力して津山郷土博物館(津山市)で調査していた今春、所蔵品の中にA5判約40ページに及ぶ史料を発見。「本当にこんな偶然があるんだ」と、史料を手に取った時の驚きを振り返る。
数奇な運命をたどった徳兵衛だが、漂流当時は徳兵衛含め17人おり、これまで他の漂流仲間への聞き書きなどを基に多くの書籍で描かれてきた。見つけた史料はその後、これまで知られていないものだったと判明。「幸運な偶然が、県内で徳兵衛の調査が進む契機になれば」と期待する。
倉敷市出身で、東京大で日本史を学んだ。近世史が専門だったが、大学の講義にはあまり興味が湧かなかったという。レスリング部の活動に力を入れ、主将も務めた。「学生時代のトータルの成績は勝ち越しでした」と胸を張る。
予備校時代の日本史の講師が岡山県史編集に携わっていたことから、学生時代の夏休みに誘われ、史料調査で県内を歩き回った。「生の資料に接し、史実を発見するおもしろさを実感した」という。
市に就職後、「新修倉敷市史」の編集に携わり、2005年に完結させた。その後も歴史資料の調査・保管や展示、研究誌「倉敷の歴史」発行などを続ける。「近世の倉敷は地主制が発達し、旧家に史料が大量に保管され、読むたびに新しい発見がある。さらに史料を掘り起こし、地域の歴史に光を当てたい」と話す。【小林一彦】
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「新修倉敷市史」は、旧3市合併(1967年)による新市発足20周年記念事業の一環として89年に編集作業が始まった。94〜2005年に計13巻が発刊された。編集には約50人の専門家が携わり、県内市町村史として突出した充実度を誇る。
高知
坂本龍馬:「長刀兵法目録」公開へ 北辰一刀流から授与
幕末の志士・坂本龍馬(1835〜67年)が剣術の流派「北辰(ほくしん)一刀流」から授与されたなぎなたの免状「長刀兵法目録」が今月13日から、高知県香南市のテーマパーク「アクトランド」で一般公開される。個人所有だったが、入手した同ランドが幕末維新史に詳しい京都国立博物館の宮川禎一・列品管理室長に初めて本格的な調査を依頼した。宮川室長は「まだ無名だった龍馬の江戸での修行時代を伝える一級の史料だ」としている。
長刀兵法目録は長さ270センチの巻物仕立てで、書かれた時期は安政五(1858)年と記されている。「駒返」「金剛剣」など、長刀の技と思われる21項目のほか、流派開祖の千葉周作や師匠で周作の弟、千葉定吉らの名が記されている。また、龍馬の婚約者と伝えられる定吉の娘の佐那(さな)の名もあった。剣術に関する皆伝は坂本家の子孫が火災に遭って焼失したとされる中で、貴重な現存史料となる。
宮川室長は「定吉自らの筆で、先祖の系譜も丁寧に書かれている。龍馬の実力が認められたからこそ与えられたのだろう」と分析。定吉の子孫の稲岡麻衣さん(33)=東京都東村山市=は「祖先が龍馬さんに渡した目録がきれいな状態で残っていたとは大変光栄だ」と話している。【岡崎英遠】
日本酒「極印龍馬」発売 幕末の英雄・今年生誕180周年
坂本龍馬生誕180周年となる今年、「龍馬」の名前を冠した日本酒「極印龍馬」が発売され、坂本家9代目当主の坂本登さんらが出席して銀座の高級サロン「一徳」で発表会が行われた。
本商品は、ラベルの「龍馬」という字は登さん本人が手がけ、日本酒は京都で340年の歴史を持つ酒蔵「増田徳兵衛商店」が製造。やわらかい口当たりで、口の中で米の豊かな香りが広がる日本酒に仕上がった。
増田徳兵衛商店14代目当主の増田徳兵衛さんは「万国共通で、食事や会話が楽しめるお酒をイメージしました」と商品をPR。登さんも「このお酒で日本の心を世界に発信できれば」と語った。本商品は「化粧箱入り」(3700円税別)ほか、計5種類で展開する。販売は公式サイト(http://www.ryoma-sake.com/gokuin/)などで展開する。
幕末〜明治期の古写真が無料ダウンロード!幕末の写真家 日下部金兵衛による美しい日本の姿
江戸時代後期〜明治期の日本の写真文化を語る上で外せない人物がいます。古写真ファンにとっては知られた存在なのが、日下部金兵衛。
日下部金兵衛は江戸時代末期から昭和初期にかけて活躍した写真家。横浜のフェリーチェ・ベアトの写真スタジオで着色技師として1863年まで働いた後、1881年には自身の写真スタジオを開きました。
ベアトの弟子、日下部金兵衛が撮影した着色写真はニューヨーク公共図書館のNew York Public Library Deigital Collectionに作品がストックされています。モノクロ写真に手作業で着色した写真は、独特の雰囲気で素敵。1880年ごろから1890年頃までの日本の風景を切り取った貴重な写真が102枚。現在も人気の観光スポットや、美しい日本の風景、当時の人々の様子を伝え、私たちの心を奪います。
当時、外国人の土産用に売られることも多かった着色写真は彩色写真、横浜写真とも呼ばれ、金兵衛の制作したアルバムは、表紙に蒔絵や螺鈿細工を施し、かなりの評判となり外国人に人気となりました。実は日本ではあまり知名度が高くなかった日下部金兵衛。多数の作品が海を渡っていたため、海外では「Kimbei」として広く知られていたそうです。
現在公開されているコレクションの中から幾つかの作品をピックアップしてご紹介します。ページ最後にはダウンロード方法もご紹介していますので是非チェックしてみてください。
New York Public Library Deigital Collectionで公開されている写真は無料でダウンロード可能です。こちらのページにアクセスし、写真のサムネイルをクリックして詳細ページの画像の下にある下向き矢印の箱の形のアイコンをクリック。DOWNLOAD OPTIONSから希望のサイズをクリックすると自動的にダウンロードがスタートします。
サイトにはご紹介した他にも魅力的な写真が多数。今も変わらない姿を残すもの、現在は失われてしまった風景、当時に思いを馳せつつご堪能ください。
Japan. – NYPL Digital Collections
日本の文化と「今」をつなぐ – Japaaan
幕末の偉人たちがジャンプ作家になった「幕末のジャンプ」が圧倒的な完成度
日本一の少年マンガ誌「週刊少年ジャンプ」。これがもし幕末にあったら? Twitterユーザーのスエヒロさんが考案した「幕末のジャンプ」がハイクオリティです。
【平安時代のジャンプほか】
坂本龍馬から吉田松陰、ペリー、沖田総司に至るまで、江戸時代末期の偉人たちがジャンプ作家になったケースを想像。巻末コメントの1ページのみですが、それぞれの個性が生かされていて興味深いです。タイトル一覧は以下のとおり。
・坂本龍馬:「バクマツ。」
・吉田松陰:「獄中先生しょ〜いん」
・近藤勇:「幕末リーダー伝いさみ!」
・桂小五郎:「逃げる!お兄さん」
・ペリー:「くろふねっ」
・徳川慶喜:「バクフの王子様」
・西郷隆盛:「サイゴゴゴーゴ・ゴーゴゴ」
・土方歳三:「トシの奇妙な冒険」
・篤姫:「大奥ゾーン」
・勝海舟:「無血開城る」
・大久保利通:「トシミチの碁」
・岡田以蔵:「ピャーと斬る!イゾウ」
・沖田総司:「DEATH SWORD」(作者急病のため休載)
どれも傑作の予感がヒシヒシとします。特に「トシの奇妙な冒険(土方歳三)」は絶対名作だろ! あらためて提示されると、土方歳三が荒木飛呂彦先生本人に見えてきます。この視点はなかった。
なお、こうしたジャンプ×歴史ネタはスエヒロさんの18番。過去にも「平安時代のジャンプ」「徳川将軍だらけのジャンプ」などステキな妄想を披露しています。
『明治大正史 上・下』 中村隆英著
人物並べ克明に語る
上下2巻、約800ページに及ぶ近代日本黎明れいめい史の大著だ。とはいえ講義録だけに言葉は平明、教室でそれを聴くようにすらすらと頭に入る。教壇に立つのは、統計学および数量経済史の大家として東京大学で長く教鞭きょうべんをとり、エコノミストとしても活躍した中村隆英氏。
歴史の分野では大佛次郎賞をとった名著『昭和史』(東洋経済新報社、1993年)を残して一昨年に鬼籍に入られたが、実はそれにつながる『明治大正史』の口述筆記が存在していたことがわかった。本書はその公刊である。
各巻末に置かれた主要登場人物の索引。西郷隆盛、渋沢栄一、福沢諭吉、島崎藤村、九代目市川団十郎……。幕末から大正にいたる政治家・思想家から実業家、芸術家や芸人まで、幅の広さに驚くとともに、これこそが本書の最大の特長を物語っていることに気づかされる。
歴史叙述の話法として、従来二つの主流があった。一つは学者が書く歴史。マルクス主義などの歴史理論に当てはめて、たとえば日本の近代化は経済の後進性ゆえに歪ゆがんだなどと説く、分析的な叙述である。もう一つは物語としての歴史で、劇や小説の姿をとる。こちらは玉石混じるだろうが、日本の近代史に関していえば、司馬遼太郎『坂の上の雲』というマスターピースを私たちは持っている。
あるいは前者に反発し、ときに後者に寄り添いつつ、だがどちらにも属さない第3の流れとして、驚くほど深く幅広い著者の知の泉からこんこんと湧き出したのがこの本の叙述だ。幕末から明治へ、日清・日露の戦争を経て大正へ。政治・経済・文化が相互不可分にからみあった歴史の流れを、さまざまな登場人物の生きかたを並べることによって克明に描き出す。良い意味での学者的な知に根ざしつつも、温かな共感をもって大正までの日本の歩みをつづった、もう一つの『坂の上の雲』といえる。過去から今を見据える1冊となるだろう。
◇なかむら・たかふさ=1925~2013年。著書に『日本経済―その成長と構造』など。
東京大学出版会 各3000円
テレビ朝日系で放送中の「サムライせんせい」面白いです。錦戸亮が演じる、現代にタイムスリップしてきた武市半平太も面白いし、先に現代にタイムスリップしてすっかり現代人になりきっている坂本龍馬(演・神木隆之介)も面白い。特に龍馬のチャラさ軽さはいい感じ。
関ジャニ錦戸主演「サムライせんせい」、原作の幕末大好き女子・黒江S介が語る世界観
神木隆之介、“チャラい龍馬”を好演 過去の経験を肥やしに
本日放送のドラマ「サムライせんせい」で神木隆之介さんがメイド姿に! 神木「なんとコメントしていいのやら笑」
関ジャニ錦戸主演「サムライせんせい」、原作の幕末大好き女子・黒江S介が語る世界観
現在テレビ朝日系で放送中の関ジャニ∞の錦戸亮演じる幕末の志士・武市半平太が現代にタイムスリップして現代を痛快に斬りまくる金曜ナイトドラマ「サムライせんせい」。その原作マンガを生み出した黒江S介先生に直撃インタビューを敢行!
S介先生は、実は幕末が大好きな若手女性漫画家。そんなS介先生が、自身が生み出した「サムライせんせい」の独特な世界観や登場人物像などを語ってくれた。
■志半ばで死んだ頑固一徹な武市半平太に「現代でやりたい事を楽しくやらせてあげたい」
現代にタイムスリップする幕末の志士・武市半平太 (c)Esusuke Croe/Libre Publishing
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――幕末の志士が現代にタイムスリップしてくるという、ありそうでなかった設定はどういうきっかけで漫画にしようと思われたんですか?
【S介】そうですね、元々幕末という時代が好きで幕末のお話を漫画にしようと思ったのが最初なのですか、幕末の漫画ってもう世の中に沢山あるので、新しい設定にしたいと。
幕末の志士は頑固一徹のサムライ、しかも志半ばて亡くなった方ばかりなので、彼らが現代にタイムスリップして楽しくやりたかった事を成し遂げるようなお話を書こうと思いました。
――幕末の志士は、坂本龍馬や高杉晋作など、様々な人物がいる中で何故、ドラマで関ジャニ∞の錦戸さんが演じられている武市半平太を主人公にしようと思ったんですか?
【S介】西洋文化が取り入れられた激動の時代にあって、「異国文化を排除し、神国日本は我々武士の手で守らなければ」といった信念を持っていたのが武市半平太なんです。
尊王攘夷派の武市に傾倒していた中岡慎太郎も、(武市らが最終的に捕縛されてしまった事の影響もありますが)「このままではいけない」と最終的には思想を変えている。武市は最後まで絶対に信念を変えること無く、志半ばでなくなったという、幕末に一番そぐわない存在だと思ったので、その頑固一徹な武市に、現代でやりたい事を楽しくやらせてあげたいなと。
■龍馬のイメージは「自分がいかに楽しめるかと思って行動する人物」
ジャーナリスト・楢崎として活躍する、坂本龍馬 (c)Esusuke Croe/Libre Publishing
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――ドラマで神木隆之介さんが演じている、坂本龍馬の設定についてはどうですか?一般的なイメージより柔軟で、現代にめちゃくちゃ馴染んでいますが(笑)
【S介】今一般的に言われている「英雄・坂本龍馬」のイメージが苦手で、こんな完璧な超人は居るはずが無いと……(笑)一介の浪人である龍馬が殿様に会って大金を借りてきたエピソードなどありますが、それがすべて龍馬一人の手柄だと賞賛されているのもなんだかな…と(笑)
坂本龍馬について調べれば調べるほど、要領の良さが際立つエピソードが沢山あって、どちらかと言うと英雄というよりは、実際は口が達者で日本の為というより、自分がいかに楽しめるかと思って行動するような人物像だったのではと考えました。なので、現代にタイムスリップしてきても楽しんでいるという設定になりました(笑)
――ジャーナリストという設定についてはどうですか?
【S介】坂本龍馬という人物は、大量の手紙が遺っていて、非常に筆まめで、いろいろな所に行ってはメモを取って、家族や仲間に手紙を送っていたようです。なので現代で職に就くなら、これは文筆家かジャーナリストどちらかだろうと思いました。世界中色んな所に行ってみたいという気持ちはあったと思うので、情報収集にも便利なジャーナリストという設定にしました。
■武市は最初は小学校の先生だった?
佐伯真人の経営する学習塾で先生を務める武市半平太 (c)Esusuke Croe/Libre Publishing
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――あと、150年前から武士がタイムスリップしてきたのに、意外に落ち着いて冷静に対応している、佐伯家のお爺ちゃん・真人。ドラマでは森本レオさんが演じてらっしゃいますが、佐伯さんには何か意外な設定があったり?
【S介】いろいろ考えていますがこの後の漫画の展開をお待ちいただければと(笑) 佐伯さんみたいなキャラクターはいないと話が進まない設定なので、最初からお話に不可欠なキャラでした。
――その佐伯さんは、武市半平太に子どもたちの先生になってほしいという事で、結構そこがほっこりする設定だと思うのですが。
【S介】最初は小学校の先生にしようと思ったのですが、流石に戸籍も無いし無理があったので、個人経営の塾の先生という設定にしました。実際、武市半平太は幕末でも土佐勤王党で“先生”とも呼ばれていましたし。
■こだわりのキャラクターは「サチコ」
――半平太以外に黒江先生がこだわっている思い入れのあるキャラクターを選ぶとしたら誰ですか?
【S介】サチコですね。テンプレ通りのヒロインではなくて、男まさりでちょっとおバカで憎めないという、見ている人にとって絶妙にイライラさせずにいい子だと思えるような、キャラクター作りをしています。
――原作に出てくる、寅之助の説明を受けてのサチコの歴史解釈はすごく納得するものがありますね。
【S介】すごく吸収力があり、自分のことに置き換えて答えるという実はすごい子なんです(笑)細かい突っ込みどころは沢山あるのですが、大枠での捉え方は間違ってないと言う(笑)
■ドラマ版のサチコ的、寅之助的キャラは別人物
――黒島結菜さんがドラマでやっているサチコもそんな感じなのですか?
【S介】実はドラマでは、比嘉愛未さんの演じる佐伯晴香が原作の寅之助みたいな役どころで歴史の解説役を担っていて、スナックを経営している石田ニコルさん演じる篠原理央さんが原作のサチコ的な役割を担っているようですね。原作版とはちょっと変わっていますが、こちらも楽しめる設定だと思います。
■舞台は、武市の故郷・湯布院をイメージ
――ドラマでは物語の舞台は神里村ということになっていますが、原作ではどういう町のイメージですか?
【S介】マンガでは架空の町という設定です。イメージはいろんな田舎町や地方都市をイメージしたのですが、ベースは武市半平太の生まれ故郷・土佐国吹井村(現在の高知県高知市)で、街全体の様子は、大分県の湯布院から観光地を抜いた感じをイメージしています。
――湯布院は私の実家の近くですね(笑)昔の学校が荒れていた時代は、それこそドラマでジャニーズWESTの藤井さんが演じている佐伯寅之助みたいな人たちが沢山居ました(笑)
■最初のネームは「完全なギャグ漫画」
武市半平太と坂本龍馬 (c)Esusuke Croe/Libre Publishing
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――この作品、ドラマから入った方も多いと思うのですが、錦戸さんが侍を演じるので映画「ちょんまげぷりん」のイメージもあって、ギャグドラマかなと思ったら、ドラマも原作マンガもコメディ要素もありつつ、真面目な武市半平太のピュアな奮闘ぶりが描かれている感動作品だったのでビックリしたのですが、この設定は最初から考えたものなのですか?
【S介】実は一番最初に考えたネームは完全なギャグ漫画だったんですが、武市半平太を主人公に据えた時点でギャグにするには重いぞと(笑)しかも獄中からタイムスリップさせたりしたので…(笑)悲劇的な死を迎えた方なので、その辺りは丁寧に描いていきたいなと思ってこの設定にしました。
■この先のドラマ版とマンガ版の展開は?
サムライせんせい第一巻のカバーイラスト (c)Esusuke Croe/Libre Publishing
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――現在、ドラマの方では(インタビュー時点で)2話目まで終わり、原作の2巻までのエピソードも一通り登場しましたが、この先どういった展開になるのか楽しみです。
【S介】そうですね、ドラマ化のお話を頂いた時はまだ第2巻までしかお話ができていなかったので、ドラマの3話目以降は原作の設定を活かしつつオリジナルストーリーで楽しめるようになるようです。マンガの方はまたドラマと違った展開を考えているので、どちらも楽しんでいただけたらと思います。
――そろそろ第3巻をみなさん楽しみにしていると思いますが、次巻はいつごろ…?
【S介】2016年夏発売とアナウンスしてしまったので(笑)、頑張って『クロフネZERO』で発表して行きたいと思います。
今は番外編を掲載していますが、そろそろ本編の続きをと思っていますのでお楽しみにお待ち頂けると嬉しいです。
――最後に皆さんにメッセージをお願いします。
【S介】ドラマとは今後全く違った展開になりますが、元々原作を読んでくださっている方はもちろん、ドラマから原作も読んでみようかなとなった方にも楽しんで頂ける話作りを目指そうと思っております。どうぞもう少しお付き合い頂けましたら幸いです。
黒江S介先生の大いなる幕末愛から生み出された「サムライせんせい」(リブレ出版)は、現在第2巻まで発売中。
神木隆之介、“チャラい龍馬”を好演 過去の経験を肥やしに
テレビ朝日系ドラマ『サムライせんせい』(毎週金曜 後11:15※一部地域を除く)に出演中の神木隆之介。今回の役どころは現代にタイムスリップしてしまった、坂本龍馬だ。ジャケットを着て、伊達メガネをかけ、教科書などでよく見る坂本龍馬の肖像とは全然違う。現代の生活に溶け込んで、「マジで~?」「~じゃん?」と言葉遣いも態度もチャラいけど…。「いわゆる史実上の龍馬をイメージして役づくりをしました」と神木はいう。
「福山雅治さんの『龍馬伝』を見直したり、そのサウンドトラックを聴きながら龍馬の名言集を読んだり、どっぷりハマってしまいました(笑)。龍馬について調べたり、考えたりしているうちに、人望の厚かった龍馬は誰の懐にも入り込める、ちゃめっ気のある人間だったんじゃないかなと思いました。そこを重視して演じています」。
同ドラマは、幕末の土佐藩で尊王攘夷論を唱え、志士たちを率いた武市半平太(錦戸亮)が、現代のとある村にタイムスリップ。学習塾の先生となり、村で巻き起こるさまざまな問題を、サムライにしかできない方法で解決していく和製SFコメディー。
半平太より一足早く、現代にタイムスリップしていた龍馬。幕末の土佐藩では“親友”だった二人は、平成の日本で再会。「なぜ、二人がタイムスリップしてしまったのか。その謎がひも解かれていきます。ヒントは、『武市さんと龍馬と同じ志を持っていながら別の道を歩んでいった』という史実にあります」と後半の見どころを語る。
子役時代からドラマ・映画で多彩な役柄を演じてきた。過去に組んだことがあるスタッフと再び現場をともにする機会も増え、「どのくらい成長したか、見定められる時期に入ってきました」と恥ずかしげに笑う。
同ドラマの放送枠では、2011年10月期に宮藤官九郎脚本の『11人もいる!』に主演。その時、演出を担当した片山修氏(テレビ朝日)が本作にも参加している。「『11人もいる!』では波乱万丈を乗り越えて、コメディー作品を演じる楽しさを学びました。『サムライせんせい』では武市の存在そのもののギャップと違和感を面白がってもらえるように、龍馬としても立ち居振る舞いやちょっとした間(ま)を際立たせていきたいです」。
神木の強みは、出演した作品すべてを経験として、演技の肥やしにしてしまうところだ。「いままで、いろんな作品で経験してきたことが、『サムライせんせい』の龍馬を演じる上でも役に立っています。殺陣は映画『るろうに剣心』、相手の心をつかむ話し方はドラマ『学校のカイダン』(日本テレビ)でスピーチライターを演じたことが役に立っているな、思いました」。
一風変わった龍馬を演じた経験も、今後の俳優人生に少なからず影響を与えていくことは間違いないだろう。
本日放送のドラマ「サムライせんせい」で神木隆之介さんがメイド姿に! 神木「なんとコメントしていいのやら笑」
言わずもがな似合ってます。
11月13日放送予定のドラマ「サムライせんせい」第4話で、坂本龍馬を演じる俳優の神木隆之介さんがメイド姿になることが明らかとなりました。番組特設ページでは、その一場面を見ることができます。
メイド服姿の神木隆之介さん
特設ページに公開されたメイド服姿の神木隆之介さん(坂本龍馬役)
「サムライせんせい」は、黒江S介さんによるマンガを原作とした作品で、Webコミックサイト「クロフネZERO」では数話が無料で公開されています。平成の時代にタイムスリップした錦戸亮さん演じる幕末の志士・武市半平太が、文化のギャップに戸惑いながらも、現代の学習塾で臨時講師をしながら生活し、現代社会が抱える問題を痛快に切っていくという作品で、神木さん演じる龍馬は現代で楢崎と名乗り、時代に溶け込んだ生活をしているというキャラクター。
今回の女装について、神木さんはTwitterで「皆さま 今夜『サムライせんせい』第4話がオンエアです。なんと。坂本龍馬が。メイド姿に。なんとコメントしていいのやら笑 今宵も心温まる、そして感動する回になっています! 大事なものを守り抜く男の姿をぜひご覧下さい(^-^) りゅう」とコメント。ツイートには女性を中心としたファンたちから声援が送られていました。放送は23時15分からです(一部地域を除く)。
福島
二本松の菊、長州の首相に
二本松市で開催中の菊の祭典「二本松の菊人形」に合わせて、観光PR役の「菊むすめ」と「二本松少年隊」が29日、首相官邸で安倍首相を表敬訪問した。
同行した新野洋市長は「観光客数も伸びており、明るく元気に情報発信したい」と意気込みを語り、菊の鉢植えを贈られた首相は「全国から観光客がたくさん来て、菊も売れるといいですね」と笑顔で応じた。
新野市長は、戊辰ぼしん戦争で戦死した二本松少年隊の史実も安倍首相に説明したが、二本松藩を攻めた長州藩は現在の山口県。同県出身の首相が「(私は)長州だけどね」と苦笑いすると、市長は「今は逆にお世話になっています」と慌てて返す場面もあった。
京都
花魁に浪人に新撰組のバーも! 京都府で幻想的な「太秦江戸酒場 琳派の秋」
京都府京都市の東映太秦映画村で10月31日~11月1日、「太秦江戸酒場 琳派の秋」が開催される。
雰囲気漂う会場の様子
江戸時代にタイムスリップ
同イベントでは、江戸時代にタイムスリップしたかのように侍や町娘の行き交う舞台の中、京都の日本酒の飲み比べや食事などを楽しめる。今年で400年を迎える「琳派」と太秦ならではの「時代劇」をテーマに、伝統文化の趣と着物でそぞろ歩く楽しさを満喫できる。また、和装レンタルサービスも用意されている。
場内各所には呑み処が出現する。佐々木酒造「聚楽第」、羽田酒造「初日の出」、松井酒造「神蔵」、松本酒造「桃の滴」、玉乃光酒造「玉乃光」、月桂冠「月桂冠」、増田徳兵衞商店「月の桂」など多数の蔵元が来場し、実際に日本酒の作り手と直接語らいながら味わうことができる。
また、「京の日本酒きき酒セット」(専用きき猪口付きで小判3枚)、「京の名店の酒肴セット」(小判2枚)、「粕汁、おちょぼおでん5種盛り」(各小判1枚)、「わさびいなり、穴子棒寿司」(各小判1枚)などが用意され、飲食専用金券「太秦小判」3,000円(600円×5枚綴り)で利用できる。
さらに、まるで時代劇の登場人物のひとりとして浪人と酒を酌み交わす「浪人BAR」や、近藤勇・土方歳三・沖田総司ら新選組隊士と酒を飲んで倒幕派浪人の討伐に立ち会える「新選組BAR」、花魁と髪結師の恋物語をテーマにした「奇想の現代遊郭&花魁BAR」など、江戸時代を演出した酒処が多数用意されている。また、それぞれ東映役者陣が参加し、本格的な雰囲気の中で日本酒を味わえる。
フードゾーンでは、東福寺や泉涌寺、智積院など東山の数々の寺院御用達の「京料理 沖よし」や、室町期創業と伝えられる「中村楼」、京都の祭の名物料理、鯖寿司が自慢の「いづう」、京料理や懐石料理に欠かせない京湯葉の老舗「京湯葉 千丸屋」など、京都の名料理店が軒を連ねる。
そのほか、「職人処」と題して京都を代表するアーティストや伝統工芸の職人たちによる様々なワークショップを開催する。琳派の画法を体験できる「琳派月見宴の間」や、伝統の婚礼の装いと儀式を着付師と職人・アーティストで現代に再現する「江戸時代の花嫁道中」、江戸時代の隠切支丹を現代の職人に学ぶ「隠切支丹の間」など、多彩なテーマで行われる。
開催時間は18時から21時までとなる。料金は先払い制(申込先着順)で、各日5,000円(入場料のみ)。チケットはイベントサイトから購入できる。
京町家や戦国時代モチーフの個室居酒屋で「池田屋事件フェア」開催、「武将カクテル」の提供も!
京都の町家をモチーフにした和食個室居酒屋「京町恋しぐれ」と系列店である動乱の戦国時代をモチーフにした和食個室居酒屋「乱世の個室 戦国武勇伝」では、「歴女」「刀女子」と呼ばれる歴史や刀が好きな女性に向けたイベントを開催します。
京の町屋をモチーフにした「和」の癒し空間、「京町恋しぐれ」
店内に一歩足を踏み入れると、そこは風情ある京の町が広がり、牛若丸と弁慶が出会ったという五条大橋や清水の舞台や川のせせらぎに癒される川床のような空間を演出する「京町恋しぐれ」。季節の食材を使用した限定メニュー、店内装飾で四季を演出。また様々なタイプの個室が揃い、デートから宴会まであらゆるシチュエーションに対応、人気を集めています。
幕末が好きな方へ、「池田屋事件」フェア開催!
京都の町家をモチーフに、風流な空間を演出する「京町恋しぐれ」では、和のハロウィンを開催中。店内には池田屋エリアが出現、幕末に起きた政変「池田屋事件」をモチーフにしたユニークなサービスやメニューなどを提供します。
女性に人気の高い新撰組隊員、沖田総司と土方歳三をイメージしたカクテルや幕末をイメージした食事メニューを用意。それだけではなく、限定商品を注文すると、新撰組隊士に扮したスタッフが池田屋事件さながらに席に乱入と、歴史好き、幕末好きには楽しいイベントとなっています。
また、池田屋エリアで飲食をした方に全10問のクイズを出題、全問正解するとスペシャルメニューがもらえます。
戦国時代をモチーフにした和食個室居酒屋「乱世の個室 戦国武勇伝」
武将の生き様が体感できる異空間溢れた「乱世の個室 戦国武勇伝」。エントランスには真田幸村を中心に甲冑が並び、カップルカウンター席「織田信長」をはじめ、「関ヶ原の大合戦」や「大阪の役」をテーマにした個室で武将の生きざまを体感できる和食個室居酒屋として人気を集めています。
「武将総選挙」フェア開催中!人気武将をイメージしたカクテルが登場!
「戦国武勇伝」に訪れた歴史好きの女性に好きな武将を伺うアンケートを実施、現在結果を発表中の同店では、選ばれた人気武将上位10名をイメージし、オリジナルカクテルを期間限定で提供しています。
堂々の1位に選ばれた伊達政宗をイメージした「梵天丸、蒼き竜への飛翔」は半月型の前立と眼帯で政宗を表現したラズベリーベースの爽やかなカクテル。
2位石田三成、3位には真田幸村と人気の武将がランクイン、オリジナルカクテルを飲んで戦国に想いを寄せましょう。
また、オリジナルカクテルに相性抜群の料理も充実。武将や合戦をモチーフにしたユニークなメニューは味も本格的で満足できること間違いありません。
この秋は、ぜひロマンあふれる2つの時代にタイムスリップして、非日常を味わってみてください。
■店舗詳細
店舗名:京町恋しぐれ
住所:東京都新宿区新宿3-27-10 武蔵野会館6F
イベント名:「池田屋事件」フェア
開催期間:10月1日(木)〜31日(土)
営業時間:【月、日】17:00~23:00 【火~土・祝前日】17:00~翌4:00
定休日:なし
Facebook:https://www.facebook.com/dd.kyomachikoisigure.sinjyuku
店舗名:乱世の個室 戦国武勇伝
住所:東京都新宿区歌舞伎町1-6-2 T-wingビル4F
イベント名:「武将総選挙」フェア
期間:2016年1月31日(日)まで
営業時間:【月~木】17:00~24:00 【金・土・祝前日】17:00~翌3:00
【日・祝日】17:00~23:30
定休日:無し(施設に準ずる)
公式サイト:http://www.diamond-dining.jp/shop_info/sengoku-buyuden/
Facebook:https://www.facebook.com/sengokubuyuden?fref=ts
兵庫
幕末の出石舞台に時代劇 豊岡の市民劇団が公演へ
兵庫県豊岡市出石町の市民劇団「憧憬(あこがれ)チャンプルー」の公演「出石でござる 夏の燕」が28日、豊岡市出石町柳の芝居小屋「出石永楽館」である。幕末の出石城下町を舞台に旅芸人一座と投宿先の番頭らが繰り広げる人情物語。中嶋勝己代表(52)は「2年ぶりだが気負わずに臨みたい。幅広い世代に楽しんでほしい」と意気込んでいる。
同劇団は2005年の設立から毎年1回、オリジナル劇を披露してきたが、昨年はメンバーの交代などで休演。そのため今回が10回目の記念公演となる。
現在、団員は30~50代の男女計10人。昨年から脚本を練り上げたり、けいこをしたりして本番に備えてきた。団員不足を補うため、今回の公演では出石高校の生徒や教員が役者や裏方として初参加することになった。
「-夏の燕」は、出石弁のせりふ回しで展開する。時代劇だが、劇中の音楽は洋楽ポップスや歌謡曲を使い、モダンな雰囲気に仕上げ、幅広い世代が楽しめるように工夫した。
旅芸人役の同校2年生の男子生徒(17)は今春からけいこを重ねてきた。「永楽館の広い舞台で演じるプレッシャーはあるけど、本番が楽しみ。観客に楽しかったと思ってもらえるように頑張りたい」と話している。
開場は午後6時半で、開演が午後7時半。入場料一般1500円。同劇団TEL0796・52・5591
(斎藤雅志)
山口
タウンたうん:第二奇兵隊史跡めぐり小冊子 光 /山口
光市教育委員会(0833・74・3607)は、幕末維新に活躍した長州藩諸隊の一つ、第二奇兵隊ゆかりの市内の史跡を紹介するガイドマップ「第二奇兵隊 史跡めぐり」を発行した。5000部を印刷し、市内の小中…詳しくは有料登録して読んでください。
佐賀
直正公、国内戦争ためらい 戊辰戦争と会津と佐賀藩講演会
戊辰戦争(1868~69年)で佐賀藩が鶴ケ城(会津城)に撃ち込んだアームストロング砲には空弾が混じっていた-。アームストロング砲を所有していた佐賀藩が、旧幕府軍に“手加減”したとする秘話を紹介する歴史講演会が、佐賀市の佐賀城本丸歴史館であった。会津と佐賀の歴史研究者が「破裂弾でない空弾が混じっていたので城内の女性や子どもの犠牲が少なくな ...続きは有料で登録すると読めます。
オランダ
「開陽丸」建造150年 オランダで式典
江戸幕府が幕末にオランダに発注した軍艦、「開陽丸」の建造から150年になるのに合わせ、造船所のあったオランダ南西部の港で、当時の乗組員の子孫が出席して記念の式典が開かれました。
「開陽丸」は江戸幕府が海軍力の増強のため、高い造船技術を持っていたオランダに発注した当時としては最大級の軍艦で1865年11月、オランダ南西部のドルトレヒトで建造されました。その後、開陽丸は幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争のさなか、北海道の江差沖で座礁、沈没した「悲運の船」として知られています。
ドルトレヒトでは開陽丸の建造から150年になるのを記念して30日、造船所があった港で市が主催する式典が開かれ、乗組員として操船の技術や知識を学ぶためオランダに派遣された15人の若者の子孫にあたる20人余りが招かれました。このうち、戊辰戦争で幕府軍を率い、その後、明治時代の近代化に貢献した榎本武揚のひ孫にあたる榎本隆充さんは「開陽丸は沈没してしまったが、曽祖父たちがオランダで学んだ知識は、新たな時代に生かされたと思うと感慨深い」と話していました。
現地の博物館では、開陽丸を紹介する特別展も始まり、建造中の写真や、進水式の様子を描いた絵画などが展示されています。ドルトレヒトのブロック市長は「両国の絆の歴史を多くの人に知ってもらいたい」と話していました。
ビジネス
ACOS、新選組をイメージした浅葱色と白がさわやかな「だんだらパーカー」
コスプレショップ「ACOS(アコス)」より、新選組をイメージした「だんだらパーカー」が登場する。発売は2016年2月11日(木)ごろの予定で、価格は6,200円(税別)。科学と感性のBtoBマーケティング第21回:明治維新から学ぶマーケティングナレッジの獲得法
新選組といえばこの色と模様。浅葱色と白のさわやかなカラーが印象的で、だんだらのジグザグデザインがスタイリッシュなパーカーとなっている。さらっとした生地で、春先の羽織にもぴったり。全国13店舗を展開するブランド「ACOS」よりリリース予定で、現在全国のACOS・アニメイト各店にて予約受付中となっている。
予約およびそのほか詳細についてはACOS公式サイトにて。
(C)ACOS
私には、今の日本のBtoBマーケティングの状況は、明治維新の日本ととても似ているように見えています。新しい技術や兵器、それをベースにした戦い方のナレッジが勝敗を左右する決定的な要因になった時代に、それを取り入れた集団と、取り入れることを拒んだ集団の明暗がはっきり分かれたからです。
歴史は繰り返す、とはよく言われる言葉ですが、150年前の日本と現代を対比させて考察してみましょう。
徳川幕府が鎖国令を出して以降の260年間、大半の日本人は世界の科学技術、兵器やその運用を中心にした戦略・戦術の発展を知る術がありませんでした。幕府は「世界を覗く窓」として長崎の出島に限定したオランダとの交易だけを残しましたが、そのオランダがイングランドとの英蘭戦争の敗戦で欧州世界の中ですっかり没落してしまったことにも気付かないくらい情報に疎く、東の果てで孤立していたのです。
そうして、大名も武士も町人も農民も、世界の情勢や発展など気にしないで、国内のことだけを見ていれば良かった時代が十数代も続いたのです。
日本のBtoBも、戦後の復興の過程で1億人の国民が生み出す旺盛な消費を背景にした国内市場と、為替メリットに支えられて伸び続ける海外市場のお陰で、マーケティングなどしなくてもどんどん成長できる時代が戦後50年以上続きました。法人営業の世界で売り上げをつくるのは営業の足と汗であり、熱心な訪問こそが数字をつくる王道だったのです。
この時代、企業内でマーケティングを学ぶ者は「変わり者」であり、「理屈屋」であり、欧米型のマーケティングなどは「現場を知らない人間が語る机上の空論」と片付けられていました。海外まで行って経営やマーケティングを学んできても、自分の会社では身につけた知識を活用するチャンスはないと諦めた人たちが、外資系企業やコンサルティングファームに流出し、日本企業の社内には相変わらず「足と汗派」が根を張っていました。
幕末の頃に撮影された幕府方の侍の写真を見ると、戦国時代から伝わる先祖伝来の甲冑に陣羽織をまとい、持っているのは戦国時代に織田信長が敵を殲滅(せんめつ)したのと同じタイプの火縄銃でした。
彼らは怠け者でも、愚か者でも、臆病者でもなく、それどころか、平安時代から続く武家の伝統を大切にしながらも、謙虚で情け深く、さらに高い教養を身につけた尊敬すべき人たちでした。侍は幼少から剣、槍、弓などを修行し、同時に素読を通して哲学や兵法を学んでいました。
素晴らしいのですが時代錯誤なのです。当時多くの藩で採用されていた古典的な兵法は、「敵の遠くに在りては弓にて、近づかば槍、刀で合戦に及ぶべし」というものでした。人柄も素晴らしく、同時代の世界を見渡しても高い教養を備えた人たちが、自分たちが先祖伝来大切にしてきた方法で主君や藩を守れると信じていたのです。
日本が鎖国している間に、欧州ではフランス革命によってブルボン王家が倒れ、その混乱の中からナポレオンが台頭しました。ナポレオンは、傭兵を中心に組織され王家の私兵だったそれまでの軍隊の概念を覆し、徴兵制を土台にしたフランス軍を組織し、砲兵を要とした師団に編成し、それを信頼する元帥に指揮させることで欧州を席捲する軍事国家を創り上げました。
北のオランダから南のイタリア、スペインまでを勢力下に収め、無敵を誇ったナポレオンがワーテルローの戦いで敗れると、欧州ではプロイセンが台頭しました。ナポレオンとの長い戦いの経験から戦略・戦術、指揮命令、将校の教育などを徹底的に研究し、近代陸軍の父と言われるモルトケ率いる参謀本部を中心として再構築されたプロイセン軍は、普仏戦争でナポレオン三世率いるフランス軍に勝利し、やがてドイツを統一したのです。
現代のBtoBマーケティングでもナポレオンの登場と同じレベルの変革が起きました。欧米に元々存在したマーケティングのフレームワークや、それらをベースに発展したダイレクトマーケティングなどが、1980年代にデジタルテクノロジーと出会ったことで化学反応を起こし、デジタルマーケティングへと急速に進化したのです。
それまで「地域の中での売上構成比」だったシェアの概念が、個人や世帯の生涯価値(LTV:ライフタイムバリュー)へと変化し、それを獲得するツールとしてCRM(Customer Relationship Management)が発生しました。BtoBの世界でも営業案件を可視化して受注決定率を引き上げ、製造原価を適正化する目的でSFA(Sales Force Automation)が普及し始めました。
そして1990年代になってインターネットの出現でこの流れは一気に加速します。大量のメールを配信するメール配信ツールや、Webをダイナミックに生成するCMS(Contents Management System)、キャンペーンを管理するためのキャンペーンマネジメントシステムなどが次々とリリースされ、1999年に初めてのMA(Marketing Automation)ベンダーとしてEloquaが産声を上げたのです。しかしこうした海外の動きはほとんど日本のマーケティングに影響を与えませんでした。興味本位にCRMやSFAを導入する企業はあっても、それが欧米のように経営戦略に組み込まれ、実運用に乗ることはなかったのです。
鎖国の中で時間が止まっていた幕末の日本で、全国に大小合わせて約300存在した藩の中で他とは全く違う考え方の藩が2つだけ存在しました。薩摩と長州です。薩摩は生麦事件を発端とする薩英戦争で、長州は攘夷を発端とする下関戦争で、それぞれ欧米の戦艦と戦闘を交え、コテンパンに敗北したことで、今までの日本古来の戦い方や兵器では全く歯が立たないことを、身を持って知ったのです。
この2つの藩が中心となった新政府と旧幕府勢力との戊辰戦争は、鳥羽・伏見から函館五稜郭まで続きましたが、結局、西洋式の軍制と武器を携えた新政府軍は一度も負けることなく明治国家を作りました。
明治政府は、日本の300年間進化しなかった戦い方を徹底的に払拭し、ナポレオンやモルトケが創り上げた西洋式の軍制を貪欲に取り入れます。陸軍ではプロイセンの参謀本部を作り上げたモルトケの愛弟子メッケルを陸軍大学校教官に招聘し、海軍では当時世界の海軍を理論的に牽引していたアルフレッド・マハンのいる米国に秋山真之を留学させました。
このメッケルの愛弟子たちが日露戦争で活躍した将官と、その中心人物の児玉源太郎であり、マハンに師事した秋山は日本海海戦でのバルチック艦隊との決戦の作戦を立て、歴史的な勝利を収めました。
我々は今、幕末の日本と酷似した世界にいます。
実際に海外に出かけ、自分の目や耳で欧米企業のマーケティングやセールスを観た者は、圧倒的な遅れを痛感し、何とか追いつこうと懸命に自社や業界に働きかけを行っています。しかし、多くの者はそれを信じようとしないで、「自分たちがそんなに遅れているはずがない」と言い、旧来のやり方を変えることに抵抗しています。抵抗勢力である自社の情報システム部門、法務部門などへの説得に疲弊し、せっかくマーケティングの知識や経験を持ち、自社の製品やサービスに対するプライドも持っている有能な人材が会社を去っていくのを私は何人見送ったか分からないほどです。
その中で、既に海外売上比率が高い、つまり海外競合企業のマーケティングレベルを肌感覚で知っている日本の製造業がマーケティングに本気で取り組むようになりました。弊社のクライアントも今では60%以上が製造業なのです。
幕末にも少数ながら佐久間象山のようにナポレオンやその戦術、兵器を研究していた学者はいましたし、長崎で西洋の銃や大砲を手に入れることは可能でした。しかし多くの藩は西洋兵学を学ばせようとはせず、流行に乗り遅れないために数丁の銃や、大砲を購入してお茶を濁しました。西洋式の軍制改革には手を付けず、財政難を理由にそれ以上の武器も購入しようとはしなかったのです。これが戊辰戦争で旧幕府勢力が常に新政府軍より多い軍勢を持ちながら、ついに一度も勝てなかった理由です。
大切なことは「いかに戦うか?」という戦略であり、「どう戦うのか」という戦術です。そして兵器はそれを実現する道具です。戦闘教義とも呼ばれる軍制を改革しなくては最新の兵器も宝の持ち腐れです。
マーケティングも同じで、「どういうマーケティングを行うか?」という基本設計が最も重要で、MAやCMSやSFAはそれを実現するための道具なのです。
まず、マーケティングを学び、マーケティングのナレッジを蓄積する。社内に無ければ明治政府が行ったように外部から招聘するか、最も優秀な者を外部に留学させてでもナレッジを獲得する。そうして培ったナレッジのレベルが明日の戦いの勝敗を分けるのだと私は考えています。
日本企業が再び世界で輝くために、そして今、自分の会社の中でもがいている人に心からエールを送ります。
東京
絵画と写真が混在、幕末から明治の表現を辿る ── 江戸東京博物館で「浮世絵から写真へ ─ 視覚の文明開化 ─」
幕末、もうひとつの交代劇…。
幕末から明治の浮世絵を眺めてみると、写真への並々ならぬ関心がにじみ出しています。逆に、当時の写真には浮世絵にインスパイアされたと思われる様子が見られ、互いに意識し合い、絡み合いながらさまざまな面白い作品を生み出されていました。
内田九一「小川泰堂居士夫妻肖像」
江戸東京博物館で開催中の特別展「浮世絵から写真へー視覚の文明開化ー」は、幕末から明治にかけて互いに影響を与えあい、生み出された不可思議な作品や接点について注目した展覧会となっています。
「和装西洋男女図」絹本彩色 海外土産として量産されたものだそう。顔は写真を使用してリアルに仕上げられています。
本展では、浮世絵・錦絵と写真とが織りなした多彩な表現を紹介し、日本文化の近代化の一面を明らかにしていきます。当時の最先端技術である写真と、超絶技巧が確立していた浮世絵の意外な共通点が見えてきます。
当時は白黒写真だけだったはずなのに、なぜカラー写真が?の秘密も解明。当時の日本人が関心を寄せた油絵などの舶来のテクニックをとりいれた作品、泥絵、ガラス絵、写真油絵などの不思議な作品たちも並びます。
「富士山風景図」 写真貼付ガラス絵 絵の中に写真が貼り込まれています。
気軽にスマホやデジカメで写真を撮影できる今だからこそ、写真が特別だった時代の作品を振り返ってみてはいかがでしょうか。
特別展「浮世絵から写真へー視覚の文明開化ー」
会期:2015年10月10日(土)~12月6日(日)
会場:江戸東京博物館 1階特別展示室
開館時間: 午前9時30分~午後5時30分(土曜日は午後7時30分まで)
休館日:月曜日休館(月曜日が祝日または振替休日の場合は翌日)
浮世絵から写真へー視覚の文明開化ー – 江戸東京博物館
日本の文化と「今」をつなぐ – Japaaan
山口
山口県萩市、観光の起爆剤「大河ドラマ」と「世界遺産」が同時にきた町の経済効果とは
エンターテインメント
宝塚版『るろうに剣心』がガチすぎて話題に 「クオリティぱねぇ」「カッコよすぎる!」
ちなみに、今週金曜日から3週間、映画版「るろうに剣心」3作がテレビ放映されます。
絵画と写真が混在、幕末から明治の表現を辿る ── 江戸東京博物館で「浮世絵から写真へ ─ 視覚の文明開化 ─」
2015年10月14日(月)、東京・墨田区の江戸東京博物館で「浮世絵から写真へ ─ 視覚の文明開化 ─」が開催されている。
幕末から明治にかけ、従来からあった浮世絵をはじめとする絵と、新たにもたらされた写真が、それぞれの枠を超えて展開していった様子を紹介する企画。
江戸時代の浮世絵に触発されたと思われる明治初期の風景写真や、浮世絵と写真の双方で行われた「百美人」企画などを展示。泥絵やガラス絵、そして現在では見ることができない幻の技法である「写真油絵」など、明治時代に生み出された新しい絵画も紹介し、日本文化の近代化の一面を明らかにする。
「浮世絵から写真へ ─ 視覚の文明開化 ─」は江戸東京博物館で、2015年12月6日(日)まで開催。観覧料は一般 1,350円、大学生・専門学校生 1,080円、小学生・中学生・高校生・65歳以上 680円。
発信:インターネットミュージアム
>江戸東京博物館 施設詳細ページ
>「浮世絵から写真へ ─ 視覚の文明開化 ─」情報ページ
>江戸東京博物館 公式ページ
幕末、もうひとつの交代劇…。
古写真と浮世絵の特別展「浮世絵から写真へ – 視覚の文明開化」開催中
幕末から明治の浮世絵を眺めてみると、写真への並々ならぬ関心がにじみ出しています。逆に、当時の写真には浮世絵にインスパイアされたと思われる様子が見られ、互いに意識し合い、絡み合いながらさまざまな面白い作品を生み出されていました。
内田九一「小川泰堂居士夫妻肖像」
江戸東京博物館で開催中の特別展「浮世絵から写真へー視覚の文明開化ー」は、幕末から明治にかけて互いに影響を与えあい、生み出された不可思議な作品や接点について注目した展覧会となっています。
「和装西洋男女図」絹本彩色 海外土産として量産されたものだそう。顔は写真を使用してリアルに仕上げられています。
本展では、浮世絵・錦絵と写真とが織りなした多彩な表現を紹介し、日本文化の近代化の一面を明らかにしていきます。当時の最先端技術である写真と、超絶技巧が確立していた浮世絵の意外な共通点が見えてきます。
当時は白黒写真だけだったはずなのに、なぜカラー写真が?の秘密も解明。当時の日本人が関心を寄せた油絵などの舶来のテクニックをとりいれた作品、泥絵、ガラス絵、写真油絵などの不思議な作品たちも並びます。
「富士山風景図」 写真貼付ガラス絵 絵の中に写真が貼り込まれています。
気軽にスマホやデジカメで写真を撮影できる今だからこそ、写真が特別だった時代の作品を振り返ってみてはいかがでしょうか。
特別展「浮世絵から写真へー視覚の文明開化ー」
会期:2015年10月10日(土)~12月6日(日)
会場:江戸東京博物館 1階特別展示室
開館時間: 午前9時30分~午後5時30分(土曜日は午後7時30分まで)
休館日:月曜日休館(月曜日が祝日または振替休日の場合は翌日)
浮世絵から写真へー視覚の文明開化ー – 江戸東京博物館
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山口
山口県萩市、観光の起爆剤「大河ドラマ」と「世界遺産」が同時にきた町の経済効果とは
日本全国の観光地にとって、「観光まちおこし」の起爆剤になる存在といえば「NHKの大河ドラマ」と「世界遺産の登録」だろう。大河ドラマは昔に比べれば視聴率が落ちて効果が薄れたと言われるが、世界遺産のほうは外国人観光客の呼び込み効果も大。平泉も、富士山も、富岡製糸場も、登録直後は観光客が激増している。今年、その大河ドラマと世界遺産登録がダブルでやってきた町がある。それは山口県の萩市。はたしてその経済効果はどれぐらい大きかったのだろうか?私は『花燃ゆ』挫折組なのでドラマについてはノーコメントで(^_^;)。
執筆:経済ジャーナリスト 寺尾 淳
大河ドラマの経済効果、世界遺産の経済効果
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1963年の『花の生涯』に始まるNHKの日曜日夜の大河ドラマはほとんどが時代劇で、時代は戦国時代と幕末が多い。歴代平均視聴率の最高は1987年の『独眼竜政宗』で39.7%、2位が1988年の『武田信玄』で39.2%、3位が1984年の『春日局』で33.1%だった、最高視聴率の『独眼竜政宗』は大河ドラマ観光ブームの先駆けになり、主人公の伊達政宗に縁が深い山形県米沢市、宮城県仙台市には大勢の観光客が押し寄せた。
しかし、最近の大河ドラマの平均視聴率は2010年の『龍馬伝』以来、5年連続で10%台で低迷し、観光誘発効果も地元が期待するほどは大きくなく「大河ドラマはもう頼りにならない」とも言われている。
日銀の支店が推計した最近の大河ドラマの経済効果は、2009年の『天地人』は204億円(新潟支店)、2010年の『龍馬伝』は234億円(高知支店)、2012年の『平清盛』は150億円(神戸支店)、2013年の『八重の桜』は113億円(福島支店)で、バブル経済の時代で経済効果が300億円とも500億円とも言われていた歴代視聴率1位の『独眼竜政宗』や2位の『武田信玄』と比べると、スケールが小さくなっている。
それと比べると、ずっと頼りになる存在がユネスコの「世界遺産」だろう。自然遺産も文化遺産も、登録されれば国際的に著名な観光地に一変し、ガイドブックに載って外国からの観光客も大きく増加する。
記憶に新しいのが群馬県富岡市の富岡製糸場で、2014年6月に世界遺産に登録されると、2013年は31万4516人だった入場者が2014年は133万7720人へ一気に4.25倍になった。経済効果は34億円(群馬経済研究所)。
富士山(2013年登録)の場合は、2014年の山梨県の観光客数が初めて3000万人を超え、日銀甲府支店は経済効果を194億円と推計した。これは、同じ2013年に日銀福島支店が算出した大河ドラマ『八重の桜』の経済効果推計113億円の約1.7倍にのぼる。
日本銀行も、今や地域の観光振興には大河ドラマよりも世界遺産のほうが効果が大であることを、数字ではっきり示している。平泉(2011年6月登録)は観光客が約3割増で、岩手経済研究所は経済効果を63億円と推計した。
だが今年、その大河ドラマも世界遺産登録も両方、半年の間隔をおいてやってきた都市がある。それは長州藩の城下町だった山口県萩市。2015年の大河ドラマは吉田松陰の妹が主人公の『花燃ゆ』で、その吉田松陰が教えた松下村塾など市内5か所の史跡が7月5日、ユネスコの世界遺産委員会で「明治日本の産業革命遺産」に登録された。
萩市の生産人口の半分以上が観光に関わりを持っている
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萩・江戸屋横町
大河ドラマ『花燃ゆ』の経済効果は昨年、日銀下関支店が観光客が5%増加して215億円になると推計している。会津若松市が舞台だった『八重の桜』の113億円の1.9倍あり、最近では坂本龍馬が主人公の『龍馬伝』234億円(高知県分)に次ぐ規模。それに世界遺産登録の経済効果が加わることになる。
世界遺産の構成遺産でもある萩市中心部は、幕末の歴史に名を刻んだ長州藩士の武家屋敷も商家も寺社仏閣も、まるで映画のセットのように時代劇の舞台そのままに残り、しかも規模が大きい。
江戸時代の大きな藩の城下町は明治以降は県庁所在地になり都市の近代化が進められたため、萩のように江戸時代の町並みがそのまま残っているのは他に例がない(出石や津和野などは小藩)。歴史的な町並みが多く残っていると言われる金沢市や松江市も、それは中心市街地面積のごく一部。県庁が萩ではなく山口に置かれたこと、大火や戦災にあわなかったことが幸いして、今では貴重な観光資源になっている。
それは裏返せば、近代的な産業がなかなか育たず、都市の近代化が進まなかったことを意味する。萩市や、安倍首相の父祖の地の長門市、青海島がある山口県の日本海沿いの北浦地方は、石油化学コンビナートも貿易港もある瀬戸内海沿岸の山陽地方に比べると製造業や商業の集積が遅れている。そのため萩市の経済は、史跡や歴史的町並みを活かした観光業に大きく依存している。
2010年の国勢調査によると生産人口の16.2%が第一次産業、19.6%が第二次産業、64.1%が第三次産業に従事し、第三次産業の大部分は宿泊、飲食、交通など観光との関連が深いので、「萩市の生産人口の半分以上は観光と関わりを持っている」と言っても決して過言ではない。
その観光客数は2014年は前年比5.3%増の約230万人で、市の人口約5万人の46倍もあった(山口県観光振興課「平成26年・山口県の宿泊者及び観光客の動向について」)。だからこそ、大河ドラマも世界遺産も、町の経済へのインパクトは大きくなる。
大河ドラマと世界遺産で景況に二つの山が出現
景気がダイレクトに反映しやすく、地域経済の毎月の動向を把握しやすい経済指標に有効求人倍率がある。各都道府県にある厚生労働省の出先機関「労働局」が、各ハローワーク別の数値を集計・発表している。
山口労働局のハローワーク萩の有効求人倍率のデータを見ると、2012年平均は1.00、2013年平均は1.07、2014年平均は1.15で、2014年12月も1.27だったが、年が明けて大河ドラマがスタートすると1月にいきなり1.55にはね上がり、2月も1.55を維持した。この地域がいかに観光産業に依存しているか、大河ドラマ効果による観光客増を当て込んで、人を採用してそれに備えようとしたかがわかる。
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「大河ドラマの年」のドラマの舞台のハローワークの有効求人倍率の推移
(単位:倍)
(出典:山口、福島、高知の各労働局の統計資料より/パートを含む常用)
ところが、『花燃ゆ』はこれまでの大河ドラマにはなかったほど視聴率が不振で、1ケタの回が9月までに5回もあった。ゴールデンウィークが終わると観光客の増加も一段落し、ハローワーク萩の有効求人倍率は5月、前年平均を下回る1.13まで急降下した。
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松下村塾。「明治日本の産業革命遺産」の構成遺産のうち萩市は5か所もある
そこへもたらされたのが、7月5日にユネスコの世界遺産委員会で「明治日本の産業革命遺産」が登録されたというニュースだった。全国23か所の構成遺産のうち萩市は松下村塾など5か所あり長崎市の8か所に次いで多い。大河ドラマが低調でも、もう一つの観光の起爆剤「世界遺産の登録」がもたらされ、ハローワーク萩の有効求人倍率は7月は1.23、8月は1.26と回復をみせはじめた。
それは地元の金融機関が中小企業を対象に実施する景況感調査にも反映している。山口県下関市にある西中国信用金庫調査室が10月16日に発表した「しんきん景況レポート」第43回によると、萩市、長門市が含まれる山口県北部地域の景況感指数は、2014年7~9月期は-17.4、10~12月期は+8.7、2015年1~3月期は-8.7、4~6月期は+13.0、7~9月期実績は当初予想の-4.3がプラスマイナスゼロに上方修正され、10~12月期の予想は+17.4の大幅増を見込んでいる。
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山口県北部地域の景況感指数の推移(萩市、長門市)
(出典:西中国信用金庫調査室「しんきん景況レポート」第43回)
有効求人倍率よりやや遅れて4~6月期に今年第1のピークがきて、踊り場を経て10~12月期に第2のピークを迎えようとしている。西中国信用金庫調査室では「大河ドラマ効果に世界遺産効果が加わり、観光関連の卸売業、小売業、サービス業を中心に大幅に改善することが見込まれている」とレポート。現状、「山口県で最も景況感が良い地域」と話している。いま、萩の観光関連企業は「世界遺産登録で今年二度目の観光ブームが来る」と意気込み、いったん落ち込んだ採用意欲を取り戻しているところだろうか?
萩の今年の景況が「ツインピーク」になっているのは、やはり約半年の間隔をあけて大河ドラマと世界遺産登録が同じ年にやってきたから。大河ドラマだけでは、そうはならない。NHKの大河ドラマの視聴率は毎年、第1回の頃が最も高く、春から夏にかけてだんだん低下する傾向がある。
しかし「ご当地」のハローワークの有効求人倍率はそれに反比例して、尻上がりに少しずつ上昇する傾向がある。会津若松も、2010年の『龍馬伝』の高知県もそうだった。その点、ハイレベルのスタートダッシュを切り、夏前に中だるみして再び上昇に転じた萩は、特異なパターンを描いている。
ただ、怖いのは反動減。隣県島根県の石見銀山は2007年に世界遺産に登録され、観光客数が2006年の40万人から2007年は71万人、2008年は81万人に増加したが、その2年後の2010年は40万人と元に戻ってしまった。世界遺産といっても、いつまでも観光客がゾロゾロやって来るわけではない。
なお、2年前に大河ドラマの舞台になった会津若松市の産業別生産人口は、5.5%が第一次産業、24.7%が第二次産業、65.9%が第三次産業に従事している(2010年国勢調査)。富士通系などの進出企業も多い。2014年の観光客数は289万人で萩の230万人よりも多いが、人口(12万6200人)比でいえば約23倍で萩の半分。大河ドラマ効果で前年比100万人アップの396万人の観光客が訪れた2013年でも、約31倍どまりだった。観光産業への依存度は萩ほどは高くない。
2016年のNHKの大河ドラマは真田幸村が主人公の『真田丸』で、主な舞台は長野県上田市。北陸新幹線や北信越自動車道が通る人口約16万人の長野県第3の都市で電気機器、自動車部品など工場が立地し、製造品出荷額は安曇野市に次ぐ長野県第2位という工業都市でもある。菅平高原や別所温泉があり年間観光客数は約400万人と多いが、地域経済の観光への依存度は萩市や会津若松市ほどは高くない。世界遺産の候補になりそうな史跡や自然も見当たらないが、上田市の経済は来年、どれぐらい潤うのだろうか?
エンターテインメント
宝塚版『るろうに剣心』がガチすぎて話題に 「クオリティぱねぇ」「カッコよすぎる!」
宝塚歌劇団が和月伸宏原作の『るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-』の初ミュージカル化を公演、この度宝塚公式twitterで作品の画像が投稿され、そのあまりのカッコ良さがネット上で話題となっている。私も昨日、画像を見て同感でした(笑)。きっとヒットするでしょう。
今回公演する浪漫活劇『るろうに剣心』は、1994年4月に「週刊少年ジャンプ」にて連載開始後、シリーズ売上累計5900万部を超える大ヒットコミックとなりアニメや実写映画でも次々と大ヒットとなった作品である。そして今回、宝塚歌劇が小池修一郎脚本・演出により、この作品の初のミュージカル化に挑戦。幕末に伝説の人斬りとして恐れられ、明治維新後は"不殺"を誓った剣客・緋村剣心を主人公に、新たな登場人物を加え華麗に繰り広げられる浪漫活劇 〈アクションロマネスク〉となっている。
宝塚歌劇団雪組トップスターの早霧せいなが主人公・緋村剣心を、咲妃みゆが神谷薫を、望海風斗がオリジナルキャラクターの加納惣三郎を演じる。
今回公開された完成度の高すぎる画像にネット上では、「綺麗すぎる」「男前すぎるw」「宝塚、すごいのぶっこんで来るなあ」「再現度高過ぎだろ・・・マジパネェ・・・」「うおおおおかっこいい!!!」「宝塚のるろ剣これは期待!」「てかみんなイケメンすぎる!!!」「すごくるろ剣の雰囲気とキャストがマッチしてて良い」「違和感ない気がする」「クオリティぱねぇw」「宝塚るろうに剣心ぱねぇ・・・」「結構見たい」と多くの反響を見せている。
雪組公演『るろうに剣心』は2016年2月5日(金)より公演
ちなみに、今週金曜日から3週間、映画版「るろうに剣心」3作がテレビ放映されます。
今週後半、朝ドラに大河ドラマ『新選組!』の土方副長がカメオ出演(……でいいんだよな?)が予定されています。ちょうど出張中なのでリアルタイム視聴できるかどうかわかりませんが、留守録はスタンバイできてます。
宮城
旧仙台藩士の奮闘紹介 亘理伊達家当主が講演
福島
元白虎隊士・山川健次郎の直筆書簡発見
二本松の菊人形開幕 幕末維新テーマ 平成27年11月23日まで
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長沢理玄:生誕200年 幕末に種痘接種、天然痘根絶の先駆 館林に顕彰碑、市民ら寄付募り /群馬
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かなりの画力の高さ!幕末の浮世絵師「尾形月耕」桃太郎を鬼のアングルから描いた作品も
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旧仙台藩士の奮闘紹介 亘理伊達家当主が講演
旧仙台藩士が現在の北海道伊達市に入植し、テンサイ栽培を始めた歴史に焦点を当てた講演会「北の大地で砂糖を作る-仙台藩士の甘い企て」が11日、仙台市青葉区の東北大片平さくらホールである。「朝敵」の汚名をそそごうと奮闘した武士集団の野望。そのてんまつは-。
講師は亘理伊達家の第20代当主で伊達市噴火湾文化研究所学芸員の伊達元成さん(36)が務める。亘理伊達家は戊辰戦争に敗れて領地を没収され、家臣ら2700人を従えて1870(明治3)年以降、北海道有珠地方に集団入植した。
当時の北海道は稲作ができず、寒冷地に適したテンサイの栽培を始めた。札幌農学校にいたクラーク博士の勧めもあったという。
屯田兵のように国から給与が支払われることもないため「早く商品作物を生産し、利益を上げ続けなければならなかった」と伊達さん。馬に引かせた耕運機など当時としては最新だった西洋技術の導入を図ったが、「武士の商法」で苦境に陥った時期もあった。
現在では、全国で生産されるテンサイのほぼ全量が北海道で栽培されている。2014年には356万トンを出荷。道内では精糖会社3社の計8工場が稼働する。
伊達さんは「北海道に渡った彼らに、古里へ帰るという選択肢はなかった。砂糖生産を成功させ、仙台藩の功績として内外に認めさせようとした」と話す。
入場無料。午後4~5時。連絡先は東北大東北アジア研究センター022(795)6009。
福島
元白虎隊士・山川健次郎の直筆書簡発見
元白虎隊士で、東京帝大などの総長を歴任した物理学者山川健次郎(1854~1931年)の自筆の書簡が見つかった。寄贈を受けた山川健次郎顕彰会(宗像精会長)によると、山川の直筆の文書は珍しい。
会津藩士の家に生まれた山川は、戊辰戦争(1868~69年)当時、白虎隊の隊士だった。明治に入って米エール大で学んだ後、東京帝大理学部で物理学を教え、東京、九州、京都各帝大の総長を務めた。
見つかったのは、水戸学の第一人者である深作安文東京帝大文学部教授に宛てた手紙やはがきなど計5点。8月に福島市のデパートで開かれた骨董(こっとう)市で販売されていた。顕彰会副会長の武田修若松ガス社長が30万円で購入して会に寄贈した。
1916年の毛筆の手紙では、旅行で不在のため、深作の見送りをできないことを伝えている。このほか、深作が自著を送ってくれたことに礼を述べたはがきや、大正天皇の大嘗祭(だいじょうさい)を祝うため、皇室に送ったとされる印刷物の文書もある。
今後、同市の観光・研修施設「会津藩校日新館」に展示する予定。山川健次郎顕彰会の森武久事務局長(71)は「気持ちの優しさが感じられる字。会津に先生のような偉人がいたことを多くの人に知ってほしい」と話す。
顕彰会は31日午後2時から会津若松市の会津若松ワシントンホテルで「山川健次郎顕彰フォーラム」を開催。会員や小学校教諭ら専門家が書簡の内容を解説する。入場無料。連絡先は森さん090(2279)1795。
二本松の菊人形開幕 幕末維新テーマ 平成27年11月23日まで
第61回二本松の菊人形は平成27年10月10日、福島県二本松市の県立霞ケ城公園で開幕した。
二本松菊栄会(会長・新野洋市長)の主催。「幕末維新伝」をテーマに「文明開化」「池田屋騒動」など8場面で構成され、幕末や明治維新の有名人物が菊人形で表現されている。千輪咲きなどが並ぶ菊花展ゾーンやガーデンゾーンもあり、色とりどりの計3万株の菊が飾られている。
初日から多くの来場者でにぎわった。郡山市から家族で訪れた岩沢ゆみ子さん(54)は「久しぶりに観賞したが、規模に驚いた」と話していた。
会期は11月23日まで。入場料は一般700円。中学生以下無料。問い合わせは菊栄会事務局 電話0243(55)5122へ。
(2015/10/11 09:38カテゴリー:愛でる)
群馬
長沢理玄:生誕200年 幕末に種痘接種、天然痘根絶の先駆 館林に顕彰碑、市民ら寄付募り /群馬
幕末期に天然痘の種痘を上州で初めて施し、多くの命を救った館林藩医・長沢理玄(りげん)(1815〜63年)の業績をたたえる顕彰碑が館林市本町に建立された。館林出身のデザイナー、田中茂雄さん(63)=東京都=が歴史に埋もれていた名医に再び光を当てようと寄付を募り、生誕200年の今年、建立にこぎつけた。【阿相久志】
山形出身の理玄は、藩主・秋元家の国替えとともに館林に移った。江戸で種痘接種法を学び、1851(嘉永4)年、館林で種痘を実施。当初は牛痘法への理解が進まず受け入れられなかったため、山形で種痘を広めた後、翌年になって藩主の協力の下、館林で本格的な種痘接種を始めた。
理玄は約9000人に種痘を施し、うち山形で1500人、館林では7500人に上ったという。天然痘は1980年に世界保健機関(WHO)が根絶を宣言したが、幕末期にはまだ感染力が強く、死亡率も高い感染症として恐れられ、民間信仰で長く「疱瘡(ほうそう)神」があがめられていた。
田中さんは館林城再建を目指す活動の中で理玄を知ったが、「館林に育ちながら子どものころ習ったこともなく存在を知らなかった」と驚いた。2012年に調べ始め、理玄の苦闘を小説「疱瘡長屋の名医」(02年)に描いた地元の作家、石村澄江さん(77)と出会った。
石村さんを会長に顕彰会が発足。勉強会を重ね、14年5月に企画展を開いた。理玄に関する資料を保管していた館林市邑楽郡医師会や地元経済界の協力も得て、建立が実現した。
顕彰碑は、理玄が歩いた幕末期の城下町の道筋をとどめる道と、東武館林駅と市役所を結ぶ幹線道が交差する角地に建てられた。碑の正面は、理玄が自費で建てた病院の跡地を向いている。碑には理玄が初めて種痘を藩家老の子どもたち4人に施す様子を再現した彩色画をはめ込んだ。田中さんは「文字だけだと子どもが読んでくれない。学校教育にも生かしてもらおうと絵を入れた」と話す。
4日の除幕式には長沢博さん(64)、滋さん(59)の兄弟をはじめ長沢家の子孫たちも参列。地元で商店を経営する博さんは「館林が歴史遺産のまちであることでも有名になってほしい」、小学校教諭の滋さんは「社会科の学習で使える大きな資料となる」と顕彰碑の完成を喜んでいた。
島根
幕末の津和野伝える百景 日本遺産センター11日オープン
島根県津和野町は9日、「津和野百景図」に基づく歴史文化ストーリーの日本遺産認定に伴い、同町後田に11日オープンする「津和野町日本遺産センター」の報道関係者向けの内覧会を開いた。実物の百景図やパネルを展示し、津和野の歴史や文化を伝えている。
同センターは、町出身の浮世絵研究家・永田生慈さんから無償で譲り受けた旧葛飾北斎美術館を改修した。
センター内には、栗本里治(さとはる)(号・格斎)が、江戸末期の津和野藩の風景や鷺舞(さぎまい)などの伝統行事、人々の暮らしを描いた津和野百景図の一部を展示。百景図全100枚の絵を解説付きパネルで紹介している。
同じく里治が幕末期の城下を描いた絵図のパネルや、津和野の魅力を四季、自然、歴史文化、食文化の4テーマで紹介するコーナーも設けた。
入場は無料で、開館時間は午前9時~午後5時。町商工観光課の米本潔・歴史まちづくり推進係長(47)は「多くの人に寄ってもらえる新たな観光拠点になればうれしい」と話した。
長崎
江戸ー幕末期の城下町・大村 キリスト信仰の名残り色濃く
キリスト教弾圧の哀史の遺跡
ORCを使った「しま旅」の時間調整に便利な歴史のまち・大村は、肥前大村藩2万7千石の城下町。中世から江戸時代を経て、明治維新に至るまで大村地方を治めてきた大村氏に関わる観光素材が点在している。
日本で最初のキリシタン大名となった大村純忠は、大友宗麟、有馬晴信と共に「天正遣欧少年使節」をローマに派遣したことで知られる。
大友純忠終焉の居館跡は「大友純忠史跡公園」として整備され、泉水の庭園跡も残っている。「本教寺」は大村藩初代藩主・大村喜前がキリスト教禁止後に建てた日蓮宗の寺院。歴代藩主を祀った6メートルを超す巨大な墓塔が立ち並び、その大きさには驚かされる。キリスト教から改宗した後も密かに信仰を続け、墓所のすべての石垣には十字架がつくなど大村藩の宗教政策がよくわかる。
「旧楠本正隆屋敷」は幕末に活躍した楠本正隆の屋敷だったところ。建物を含め石垣、庭園、家財道具に至るまで当時のまま残る貴重な施設だ。
このほかにも城下町の佇まいを残す本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路といった武家屋敷通りあり、今でも重厚な石垣が風格を漂わせている。なかでも色とりどりの海石を漆喰で固めた大村地方独特の「五色塀」は見ごたえがある。
四代藩主の純長が創建した「円隔寺」の庭園は江戸時代初期様式の石組み庭園で、東西50メートルの斜面を利用し、400個以上の石を組み合わせた造りは雄大だ。
豊臣秀吉から始まり江戸時代まで続くキリスト教弾圧の哀史の遺跡は、現在でも市内各地に数多く残っている。
コラム
かなりの画力の高さ!幕末の浮世絵師「尾形月耕」桃太郎を鬼のアングルから描いた作品も
主に明治時代に活躍した浮世絵師 尾形月耕(おがたげっこう)。まったく名前も知らずノーマークだった絵師なのですが、尾形月耕による作品集「月耕随筆」の中の1枚を見て秒速で大ファンになってしまいました。
その1枚というのがこちらの「龍昇天」。
尾形月耕「月耕随筆 龍昇天」
これはかっこいいですね!龍が天に昇る姿というのはよく描かれる題材だとは思うのですが、尾形月耕がかなりの画力を持っていることがうかがえる作品ではないでしょうか。
浮世絵師 尾形月耕は安政6年に江戸に生まれ、本名は名鏡正之助。独学で絵を学んだ後に絵師 菊池容斎に教えを受けました。提灯屋を営みながら絵を描くことは続け、明治10年には錦絵を自費出版して見事ヒットすることとなります。
尾形月耕と同時期に活躍した絵師としては月岡芳年が有名ですが、尾形月耕の絵のテイストは月岡芳年にどこか似ている気がします。月岡芳年が描く男性はとても男臭く好きなのですが、尾形月耕の描く男性もまた男らしさが溢れていて素敵ですよ。
尾形月耕「月耕随筆」
尾形月耕「月耕随筆 桃太郎」
鬼、めちゃくちゃかっこよろし!主人公にしてもいいレベルですw
鬼のアングルから桃太郎御一行様を見下ろした作品というのはなかなか見ないのでとっても新鮮。昔話を主人公ではない別の視点から描くっていうのはなかなか面白いですね。
最後に月耕随筆より作品を幾つかご紹介します。繊細な線の使い方や力強さなどその画力の高さを堪能してみてください。
画像出典: 古典籍閲覧ポータルデータベース 資料番号MM0629
日本の文化と「今」をつなぐ – Japaaan
作品集「月耕随筆」の中でもう一つ好きな作品があるのですが、それがこの桃太郎。
10月に入り、秋本番という気候になりました。週末は25度超える暑さだったり、この週末はまた台風来襲が見込まれたり、ゆっくり秋に浸れないのが残念です。
青森
弘前で「ひとりミュージカル」公演 元劇団四季俳優が「幕末の志士」演じる
福島
<白虎隊士>生家跡に石碑建立プロジェクト
<綾瀬はるか>出迎えてくれてありがとなし
群馬
館林に長沢理玄顕彰碑
福井
梅田雲浜:実像探る 幕末に活躍、小浜出身の勤王の志士 郷土研究会発刊 /福井
宮崎
都城六烈士:戊辰戦争前、京都で自害 慰霊碑計画 市民グループが募金 /宮崎
史実
龍馬の手紙草稿に登場、「林」との交流明らかに
柳楽優弥&瀬戸康史、幕末の男たちのギャップはまだ理解できない
コラム
牧太郎の大きな声では言えないが…:「薩長史観」は大嫌いだ!
青森
弘前で「ひとりミュージカル」公演 元劇団四季俳優が「幕末の志士」演じる
「津軽弘前屋台村かだれ横丁」(弘前市百石町)で10月11日、劇団四季出身の俳優・伊藤丈雄さんが「坂本龍馬×ひとりミュージカル」を開催する。
酒蔵を舞台に行われた黒石公演の様子(関連画像)
能楽師を祖父に持ち、大学在学中に2年間米国留学を経験したという伊藤さん。留学時に本場ブロードウェイのミュージカルに接したことから俳優を志し、卒業後、著名テーマパークのダンサーや劇団四季での舞台出演を経て、現在は脚本から作詞まですべてを伊藤さんが手掛ける「ひとりミュージカル」という新ジャンルを開拓。全国各地で巡業している。
青森県内での公演は2015年5月に行った青森市と黒石市に続いて3回目。13日には八戸市でも開催する。弘前公演について、伊藤さんは「四季それぞれの美しさを持つ青森県の中でも、弘前市は名高いお城を持つ伝統ある町。歴史とかかわりのある町で、日本史をテーマにした『ひとりミュージカル』とはどういうものなのかを皆さんの目と耳で感じ取ってもらえれば」と話す。
「初めての土地での公演は不安ばかり。しかし終わってみると地元の人たちの温かい声援に救われる」とも。「弘前で最高の舞台を届けたい」と意気込む。
12時開場、12時半開演。チケット=3,000円。問い合わせは(担当・境さん、TEL 090-1935-5527)まで。
福島
<白虎隊士>生家跡に石碑建立プロジェクト
戊辰戦争で新政府軍と戦い、集団自刃した会津藩の白虎隊の調査研究に取り組む「白虎隊の会」は、隊士の生家跡に石碑を設置するプロジェクトを始めた。第1弾として隊長代行を務めた篠田儀三郎と、唯一生き残った飯沼貞吉の生家の場所を調べ、会津若松市の跡地に石碑を建てた。今後、他の隊士の石碑も順次整備する計画だ。会津まつり:武者行列に18万人超 過去最高の人出
会は隊士の子孫や歴史ファンら全国の約150人がメンバー。義を重んじた隊士の思いを後世に伝える目的で活動する。2011年に会津若松市の飯盛山にある自刃の地に説明板、14年に強清水地区の白虎隊が戦った地に案内板を設置。それぞれで新たに分かった史実を書き記した。
白虎隊を追悼する行事は多いが、どのように招集され、登城したかは知られていない。出陣までの経緯を明らかにしようと、ことしは生家跡の整備事業を企画。福島県の地域づくり総合支援事業に採択され、補助を受けた。
調査の結果、篠田の生家は米代地区の建設会社の敷地、飯沼の生家は西栄町の生花店の敷地にあったことが判明。磐梯石で作った高さ1メートルの碑を建てた。
22日は篠田の生家跡で除幕式を行い、関係者ら約30人が出席した。会津若松市の劇団「び~ひゃらら」が、出陣命令を白虎隊が受けるまでの経緯を劇で再現した。
飯沼の孫で、白虎隊の会事務局長を務める飯沼一元さん(72)=東京都=は「白虎隊の自刃は約150年前の話だが、石碑のある場所に来ることによって、当時彼らがどういう気持ちだったかを感じ取ってもらえればうれしい」と話した。
シルバーウイーク最終日となった23日、福島県内の観光地はにぎわいを見せた。会津若松市では、会津まつりのメインイベント「会津藩公行列」があり、過去最高の18万3000人(前年比3000人増)が来場し、武者姿の行列に沿道から声援が送られた。
会津まつりは、戊辰戦争(1868年)で落命した会津藩士などの霊を慰め、先人をしのぶ行事として1953年から始まり、63回目。今年は鶴ケ城天守閣の再建50周年を記念し、従来の松平時代だけではなく、歴代の全藩主で編成した行列を組んだ。
藩主に加え、新選組や白虎隊などに扮(ふん)した500人が、ほら貝や和太鼓の音に「エイエイオー」と掛け声を乗せながら市内約6.5キロを3時間半かけて練り歩いた。
2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で主人公の新島八重を演じた綾瀬はるかさん(30)も、昨年に続き参加。沿道の観光客らに笑顔で手を振っていた。
友人と訪れた会津若松市城南町の主婦、高柳友子さん(70)は「会津が盛り上がってくれてうれしいね」と手をたたいていた。同協会の渋谷民男事務局長(68)は「今年は初めてボランティアを募り、祭りを運営した。今後も市民による手作りの祭りにしていきたい」と話した。【宮崎稔樹】
<綾瀬はるか>出迎えてくれてありがとなし
福島県会津若松市の会津まつりのメーン行事「会津藩公行列」が23日あり、歴代領主や白虎隊、新選組など会津ゆかりの人物に扮(ふん)した市民ら約500人が市中心部を練り歩いた。
幕末の会津が舞台となったNHK大河ドラマ「八重の桜」で主人公山本八重を演じた俳優の綾瀬はるかさんが昨年に続いてドラマの衣装を着て参加。「ことしもたくさん出迎えてくれてありがとなし。皆さんの笑顔を見ることができて幸せです」と会津弁であいさつし、大きな拍手を受けた。
鶴ケ城天守閣再建50周年のことしは、葦名直盛、伊達政宗、保科正之、松平容保ら歴代の領主や藩主の行列を編成。家臣を従え、勇壮に行進した。むつ市など、会津と交流が続く自治体の関係者も参加し、まつりを盛り上げた。
群馬
館林に長沢理玄顕彰碑
群馬で天然痘の予防に貢献した幕末の館林藩医、長沢理玄(1815~63年)の功績を伝える顕彰碑の除幕式が4日、館林市本町で行われた。
理玄は山形出身で、国替えになった藩主と共に館林に移住した。多くの死者を出した天然痘の予防接種「種痘」を江戸で学び、1851年、館林で初めて実施した。山形と館林で計約9000人に施したとされている。
「館林城の再建をめざす会」の田中茂雄会長(63)が、城下の歴史を調べる中で理玄に着目。理玄の生誕200年に合わせて、顕彰碑を建てることを呼びかけた。碑は、理玄が館林に設立した種痘所の方角を向いており、初めて種痘を子供たちに施した場面を描いたカラーの絵と、功績を紹介する文章が刻まれている。
除幕式には理玄の子孫や関係者ら約50人が集まった。子孫の長沢博さん(64)は「先祖の功績が見直されて感激している」と語った。田中さんは「碑を小学校の社会科の課外学習などに活用してもらい、子供たちに理玄の功績を伝えたい」と話している。
福井
梅田雲浜:実像探る 幕末に活躍、小浜出身の勤王の志士 郷土研究会発刊 /福井
◇徳富蘇峰も評価
幕末に尊皇攘夷(じょうい)運動のさきがけとなった小浜出身の勤王の志士、梅田雲浜(うんぴん)(1815〜59年)の生誕200年にあたり、民間団体の小浜市郷土研究会が書籍「明治維新の扉を拓いた 梅田雲濱の実像に迫る」(A5判、196ページ、税別1800円)を発刊した。研究会が今年設立60周年を迎えたことを記念して、2013年に「生誕二百年へ」をテーマに開催した文化展の内容を基にまとめた。
書籍では、明治から昭和のジャーナリスト徳富蘇峰が梅田雲浜を高く評価していたことに光を当てた。徳富は主宰していた国民新聞で「崎門学(朱子学の一派)の正統」として「(吉田)松陰や(橋本)左内には立派な全集が出ているのに、雲浜にはない。ただ、前者はよき背景を多く持ったがために広く高く評価されたから」と報じており、今回の書籍でもこうした人物評を詳しく紹介している。
編集協力者で自身も「梅田雲浜の人物像」(A5判、205ページ、税別1200円)の著書のある前小浜市長の村上利夫さんは「幕府が最も恐れた人物だったためと思うが、講演録など歴史的資料があまり残されていない。そんな中、よくまとめられたと感じる」とコメントした。【高橋一隆】
宮崎
都城六烈士:戊辰戦争前、京都で自害 慰霊碑計画 市民グループが募金 /宮崎
都城市の市民グループ「都城島津を温(たず)ねる会」が、薩摩藩などと幕府が争った戊辰戦争前に自害した「都城六烈士」を顕彰する慰霊碑の建立を計画している。六烈士は、京都・伏見の警備に派遣された都城島津家「私領一番隊」(121人)の隊士で、20歳前後の若者6人全員が身の潔白を示すために切腹した。同会は慰霊碑建立などの寄付(目標額300万円)を募っている。【重春次男】
◇「不遇の若者たちを知ってほしい」
同会によると、一番隊は戊辰戦争前年の1867年12月、伏見で幕府軍の動きを偵察する斥候や警備に当たっていた。同21日夜、一番隊の隊士6人が市中を見回り、幕府側の新撰組(しんせんぐみ)らしき約30人の武装行軍を発見し、本隊へ報告に戻る途中で、武装行軍側から銃声も聞こえたという。6人は逃げ帰ったと誤解され、斥候の任務は戦わずに報告するのが本命と釈明したが、同27日未明に6人全員が京都・東寺で自害した。隊士の大峰壮之助は「武士(もののふ)の義の一筋に思い立ち、命は露も思はざりけり」との辞世の句を残した。
当時、薩摩藩から軍律違反とされて遺骸は都城に戻されず、6人の墓碑は京都市の狐塚墓地にある。後年、任務を果たして義心に殉じたと名誉回復され、都城島津家の歴代当主が墓参しており、都城での慰霊碑建立は同会の悲願だという。
会の平井泉会長(61)は「明治維新で近代国家を築く礎となった若者たちが都城にもいた。その途上で、不遇にも亡くなった六烈士のみたまを里帰りさせ、六烈士のことを多くの人に知ってほしい」と話した。六烈士没後150年を迎える2017年に都城市都島町の島津墓地に慰霊碑建立と、京都市の墓碑改修を目指している。問い合わせは、同会事務局の都城市の旭丘(ひのお)神社0986・25・7150。
史実
龍馬の手紙草稿に登場、「林」との交流明らかに
坂本龍馬が暗殺される直前、土佐藩重臣の後藤象二郎宛てに書いた手紙の草稿に名前が記されていた「林市郎右衛門いちろううえもん」と、龍馬らとの交流の様子が明らかになった。エンターテインメント
NPO法人の京都龍馬会が20日、発表した。林は、新選組が尊皇攘夷じょうい派の長州藩士らを襲撃した池田屋事件との関わりもあったとされ、同会は「さらに裏付け調査を進めたい」としている。
林は、龍馬が1867年(慶応3年)10月、福井藩で三岡八郎に会い、新政府への協力を要請した際の様子を記した手紙の下書きに登場。下書き裏面に「■江国塩津 宿 林市郎右衛門」の記載があり、龍馬の新たな人間関係と注目された。
今回、同法人が滋賀県長浜市西浅井町の「塩津」で現地調査を行い、林が宿屋を営んでいたことが判明。林の子孫らが保管する掛け軸や、幕末から明治維新にかけての功労者への贈位の際に、林が政府に自己申告した「贈位申請書」も国立公文書館で見つかった。
贈位申請書によると、林は1862年、龍馬の仲間で土佐藩藩士の北添佶摩きつまらに請われて活動を開始。翌年に龍馬と出会い、「汽船購入のために金5万両を借り入れてほしい」などと依頼されたと記している。
また64年の池田屋事件では、北添の命を受け、事件直前に捕らえられた古高俊太郎の家に忍び込み、重要書類を焼き捨てたと記述。龍馬とは暗殺直前にも会い、龍馬が福井へ赴いた際、雪で塩津には寄らず、西近江路で帰京したことなどを話したとの記載もあった。
ただ、史実と申請書記載の時期が異なる部分もあり、さらに裏付け調査が必要だという。京都国立博物館の宮川禎一・学芸部列品管理室長は「幕末・明治維新は、武士だけでなく、知られざる市井の人々らも支えていたことがわかる貴重な発見」としている。
柳楽優弥&瀬戸康史、幕末の男たちのギャップはまだ理解できない
第39回モントリオール世界映画祭ワールド・コンペティション部門に正式出品された映画『合葬』。杉浦日向子さんの傑作漫画を映画化した本作で、幕末という時代の波に翻弄(ほんろう)された侍を演じた柳楽優弥と瀬戸康史が、役柄を通して感じた幕末の若者たちへの思いを明かした。見たいなぁと思っている作品ですが、先週から今週は落語と歌舞伎が優先で……(^_^;)。
【写真】過激ではかない…彰義隊の美しき男たち
本作は、慶応4年、300年近くにわたる徳川幕府が終わり、明治維新を迎えようとするときに、それを良しとせず、幕府の解体に最後まで抵抗した彰義隊に加わり、数奇な運命をたどることになった三人の若者を描いた物語。強い意志を持って彰義隊に入る極を演じた柳楽は、「時代劇自体、遠い存在のように感じるところがありましたが、杉浦さんの原作を読み、テーマが青春ということもあって(クランク)インする前からワクワクしていました」という。
一方、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で長州藩藩士を演じるなど幕末づいている瀬戸が演じたのは、養子先を追い出され、行くあてもなく極に引きずられて彰義隊に入る柾之助。「ふわふわっとしているキャラクターで、時代に流されているような役。こんな人があの時代にいたのかと驚きながら、自分と近いものも感じました」と話す。
撮影は昨年、全編真夏の京都で敢行。ほぼ同世代だけに「食事を一緒にしたりして仲良くなりました。年上の瀬戸さんは柾之助のようにふわっとして、場をまとめてくださいました」と柳楽が言えば、瀬戸は「(悌二郎役の岡山天音を含めて)生まれてきた環境も性格も違う三人の微妙で絶妙な空気感が、作品の世界観とどこか似ていて。うまく行ったのは二人のおかげです」とフォロー。抜群のチームワークが生まれ、激動の時代の中での男たちの友情と絆の物語を紡ぎ出している。
そんな男たちの刹那的な生きざまに対し、「彼らの生き方というのは現代の僕達にしてみれば本当の意味で理解しづらい部分もありますよね。国のため将軍のために一生懸命になり、死んでいくというのは切ないし、自我がないということにもなるような気がするんです。誰かのために生きるという考えは、僕が親にでもなったらわかるんでしょうか」と悩みながら答える瀬戸。柳楽も同じように、「同じ時代を描いた『許されざる者』にも出演しましたが、幕末にロマンを感じるというより、もっとその時代を知りたいですね。で、35歳ぐらいになったら、その境地に至りたい」と冗談っぽく語る。
わからないなりに、現代を生きる彼らが役柄を通して感じ取った激動の時代の青春。懸命に生きようとする若者たちの姿に、わたしたちも何か感じ取るものがありそうだ。(取材・文:前田かおり)
映画『合葬』は9月26日より新宿ピカデリーほか全国公開
コラム
牧太郎の大きな声では言えないが…:「薩長史観」は大嫌いだ!
断っておくが、江戸っ子である。
実家は東京・柳橋の「深川亭」という料亭。戊辰戦争で旧幕府軍を率いて蝦夷(えぞ)地を占領、一時は「蝦夷共和国」の総裁となった榎本武揚と縁が深く、箱館戦争で降伏、その後、明治政府に仕えた榎本は「深川亭」を拠点に「江戸っ子会」を起こし「江戸の思想」を守る同志を糾合していた。
そんな家柄だから、母は「勝てば官軍!」の薩長(さっちょう)が大嫌い。薩長のイナダイ(田舎代議士)は客にせず!がモットーで、結局、昭和38(1963)年に店を潰した。
僕はそんな環境で育ったから「明治維新は日本の夜明け」とは思わない。薩摩や長州の勤皇の志士が正義。皇国にあだなす徳川幕府の賊軍を撃破し、美しい皇国をつくった!というストーリーなんて……。
母は「明治時代、薩長の官僚は遊びが下手くそで、すぐ芸者を乱暴する。だから、柳橋の花柳界には薩長は来るな! 明治政府は遊ぶ場所がないので、新橋に新しい花柳界を作った」と教えてくれた。
勝てば官軍? たとえ道理にそむいていても、戦いに勝った者が正義となり、負けた者は不正。この「薩長史観」が日本国の戦争の背景には常に存在した。
天皇陛下は「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切」と述べられた。恐れ多いことだが、陛下は「勝てば官軍」の人々が、薩長史観を皇国史観と偽って暴走した、と看破されていらっしゃるのでは?
断っておくが、鹿児島県(薩摩)、山口県(長州)に悪感情を持ってはいない。でも、政治家の「薩長史観」には腹がたつ。
山口県出身の8人目の首相、安倍晋三さんは「勝てば官軍」の申し子だ。「美しい国」というキャッチコピーで「戦勝国から押し付けられた価値観を大事にする自虐的な歴史観から脱却しろ!」と言い続ける。「正しい戦争(=集団的自衛権行使)」に勝利しろ!と言わんばかりだ。
物事は勝敗によって正邪善悪が決まる!と信じ、「他国の戦争に巻き込まれることはない」などと平気でうそにうそを重ね、安保関連法を強行採決した。
江戸っ子は「正義」を装い「うそ八百」を並べるやつらが大嫌いだ。(客員編集委員)
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