新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
ちょっと雲が出てきて、午前中に比べると少し暑さがやわらいでいます。
茨城
県護国神社に遺品館建設へ 茨城・水戸市
県護国神社に遺品館建設へ 茨城・水戸市
神奈川
三十一文字の思い多様/横浜開港150年記念百人一首
三十一文字の思い多様/横浜開港150年記念百人一首
山口
「ひこにゃん」萩市でも人気 彦根の使節、毛利家菩提寺など見学
福岡
<博多港>龍馬ゆかりの「観光丸」が寄港
佐賀
佐賀城歴史館入館100万人突破 福岡の丹辺さんに記念品
佐賀城本丸歴史館:来館者100万人達成 /佐賀
開館5年で100万人 佐賀城本丸歴史館 主婦らに記念品
茨城
県護国神社に遺品館建設へ 茨城・水戸市
県護国神社に遺品館建設へ 茨城・水戸市
水戸市見川の茨城県護国神社に、先の大戦などでの戦没者の遺品を展示する遺品館が建設される。来年4月に行われる春の例大祭までに開館する予定。遺族から遺品を募り、まとまったスペースで「戦争の証言」を展示する。同神社は「平和の尊さを伝えていきたい」と話している。(前田明彦)
県護国神社の前身は、幕末から明治維新の動乱で亡くなった県内出身者を祭るため、明治11年に創設された「鎮魂社」。当時は常磐神社(同市常磐町)の境内にあったが、昭和16年に「県護国神社」となり、現在の場所に移った。幕末以後の戦没者ら6万3494柱を祭っている。
同神社ではこれまで、戦没者の遺族らから寄贈された遺品を、社務所の隣で展示するなどしていた。だが、総代や県内各地の遺族会から「遺品をきちんと展示するスペースがほしい」という声があがり、同神社は遺品館の創設を決定。境内整備事業の一環として、神社建物の補修と、駐車場などの境内整備事業とともに、総工費約3千万円をかけて、本殿脇の森林を切り開いた場所に遺品館をつくることにした。
遺品館の建設にあたっては、寄付の集まりが思うように進まずに、計画が先延ばしになったこともあったという。また、当初は2階建ての予定を1階建てに変更するなど、さまざまな問題もあった。だが、これらの紆余(うよ)曲折を経て、ようやく今秋にも、念願の遺品館建設が始まることとなった。
遺品館は床面積約160平方メートル。遺品の展示スペースは約60平方メートルで、残りは休憩スペースとして活用する。遺品は今後、県内各地の戦没者の遺族らから寄贈されたものを展示する予定。毎年、終戦の日に戦没者慰霊祭を主催する「英霊にこたえる会県本部」の副会長、原善昭(よしてる)さん(75)は「ようやく先人たちを祭る神社に、こういう施設が建てられることになった。大変喜んでいる」と話す。
年月の経過に伴い戦争の記憶の薄れが懸念されているが、同神社の佐藤昭典宮司(65)も「遺品を展示することで、目で見て分かりやすい形で戦争の悲惨さ、平和の尊さを後世に伝えていきたい」と話している。
神奈川
三十一文字の思い多様/横浜開港150年記念百人一首
三十一文字の思い多様/横浜開港150年記念百人一首
開港150周年を祝い、ハマの歴史を詠んでみませんか-。こんな呼び掛けで市民の短歌を公募し、まとめた「横浜開港一五〇年記念 百人一首」が完成した。年齢も仕事もさまざまな人たちが、多彩な視点で港町の魅力を照らした。歌集であり、ひと味違った見聞録ともなっている。
「文芸仲間が集まって、150周年記念に何かできないか」。横浜歌人会(塩野崎宏代表委員)と、横浜文芸懇話会(諸角せつ子会長)の間で話が盛り上がり、昨年9月から今年3月にかけて歌を募集した。
幕末-現代の横浜の歴史をテーマに寄せられた作品は、9歳から90歳までの136人の力作245首。主催した2団体を代表し、俳人の諸角さんも含めた4人が100首を厳選。「開港」「大桟橋」「戦後哀話」など9章に分けて本にまとめた。
「我が土地に米軍兵舎建てられて二十有余年意のままならず」
戦後、家の土地を米軍に接収された経験を持つ篠崎和子さんの作品だ。人々の記憶から消えつつある出来事や土地を思い起こさせる歌は少なくない。
一方、9歳の大庭柾人君が詠んだ「生糸の倉庫でありし赤レンガいま横浜の観光スポット」のように、みなとみらい21地区など現代の横浜を象徴する風景を点描する作品も並ぶ。父親が2代目横浜駅の設計者という廣瀬美枝さんは「眼裏(まなうら)に旧横浜駅舎いまも在り父の手がけたモダン建築」と歌った。
塩野崎さんは「横浜を見つめる視点が実に多くあるものだ、と感心します。本当に面白い作品が集まった」と話す。
同書は新書判変形サイズ、525円。アトム出版刊行。作家の紀田順一郎さん(県立神奈川近代文学館館長)が序文を寄せている。
山口
「ひこにゃん」萩市でも人気 彦根の使節、毛利家菩提寺など見学
幕末の「安政の大獄」から約150年を経て、吉田松陰のふるさと山口県萩市を21日から3日間の予定で訪れている彦根市の使節団は22日、江戸時代に兵器製造のため造られた製鉄用の反射炉や、毛利家の菩提(ぼだい)寺など市内の名所を見学した。
一行は、NPO法人・萩観光ガイド協会のメンバーに案内されながら、城下町だった萩市内を散策。旧湯川家屋敷(市指定史跡)では、野菜や食器を洗うために川の水を家の中に引き入れた「ハトバ」を興味深そうにのぞき込んだ。
初日の21日は、松陰の墓所に参った後、萩市の市民団体の説明を受けながら、松陰生誕の地や幕末の志士を育てた松下村塾などを見学し、松陰の生い立ちや人となりに思いをはせた。
地元の小学生らの歓迎を受ける獅山向洋彦根市長(手前)ら
公募の市民や市関係者らによる使節団に、人気キャラクター「ひこにゃん」も同行。萩市民館での歓迎セレモニーでは、出迎えた地元の小学生らに「ひこにゃーん!」と呼ばれるなど、なかなかの人気だった。このあと松陰神社の参拝にも参加するなど、ひこにゃんは両市の仲直りにも一役買っていた。
(森若奈)
福岡
<博多港>龍馬ゆかりの「観光丸」が寄港
◇10年放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の舞台、長崎県を宣伝しようと、坂本龍馬ゆかりの蒸気帆船「観光丸」が22日、福岡市博多区の博多港に寄港した。21年ぶり。
◇観光丸は幕末、長崎海軍伝習所が訓練に用いた日本初の帆船。3本のマストと右舷の外輪が特徴で、87年に復元後は佐世保市のハウステンボスで遊覧用に親しまれている。
◇今月、横浜→神戸→広島→松山→福岡とPR航海を続けた観光丸。龍馬が活躍した時代から1世紀半。大政奉還ならぬ「政権交代」にかまびすしい平成の列島をどう見たか?【阿部周一】
佐賀
佐賀城歴史館入館100万人突破 福岡の丹辺さんに記念品
佐賀城本丸歴史館:来館者100万人達成 /佐賀
県立佐賀城本丸歴史館(佐賀市)の入館者数が22日、100万人を突破した。100万人目は福岡県筑紫野市の主婦丹辺照美さん(50)で、記念証書や人間国宝の青磁作家・中島宏さんがつくった湯飲みなどの記念品が贈られた。
同歴史館は、鍋島藩10代目藩主鍋島直正の時代に建設された本丸御殿の一部を復元し、2004年8月に開館。入場無料で、近代化に向け日本が激動した幕末・維新期の歴史を分かりやすく伝えるための資料を展示している。
丹辺さんは、佐賀大3年の次男(21)宅を訪ねる途中に初めて立ち寄ったといい、「すごく驚いているけどありがたい。じっくり館内を見て回ります」と笑顔だった。
開館5年で100万人 佐賀城本丸歴史館 主婦らに記念品
県立佐賀城本丸歴史館(佐賀市城内2丁目)の入館者数が22日、100万人を突破。100万人目となった福岡県筑紫野市の主婦丹辺照美さん(50)とその前後の入館者計3人に、記念品が贈られた。
同館は佐賀城本丸御殿の一部を忠実に復元し、2004年8月、佐賀城本丸跡に開館。日本の近代化に貢献した佐賀の幕末・維新期の歴史資料を展示。木造復元物としては全国最大規模という。
100万人目になった丹辺さんは、佐賀大に通う次男のもとを訪れ、夫とともに初めて同館へ足を運んだという。「すごく驚いてるし、ありがたい。展示物をしっかり楽しみたい」とにっこり。記念式典も催され、杉谷昭館長が「ボランティアなど多くの力添えでこの日を迎えることができた。今日を新たなスタートとしたい」と述べた。
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残暑厳しいですねぇ……今日は蒸し暑い上にアスファルトの輻射熱が激しいです。ちょっと外に出たこともあって、汗のため3回も着替えました(滝汗)。
昨日今日は幕末関係ニュースがごっそりありました……長くなりますが、よろしくお付き合いくださいませ。
北海道
末広町に「龍馬記念館」11月オープン
長野
【長野】鬼太郎の原画など300点 池田で妖怪画の企画展
鬼太郎の原画など300点 池田で妖怪画の企画展
山口
萩往還の起点、唐樋札場跡「高札場」の遺構出土
藩政時代の萩往還起点跡から「高札場」遺構出土
友好交流:因縁超え、吉田松陰に弔意 井伊家の子孫ら、きょうから萩市訪問 /滋賀
「安政の大獄」から150年 歴史的和解
ひこにゃんと使節団、松陰の墓参
「安政の大獄」から150年 歴史的和解 ひこにゃんと使節団、松陰の墓参
ひこにゃんの中の人、この暑い中をご苦労様でございますm(__)m。
雑記帳:彦根市長、萩市で松陰の墓参 ひこにゃんも訪問
雑記帳:彦根市長、萩市で松陰の墓参 ひこにゃんも訪問
雑記帳:彦根市長、萩市で松陰の墓参 ひこにゃんも訪問
彦根市長とひこにゃんが萩訪問、吉田松陰の墓参り
「安政の大獄」因縁、150年経て“和解” 井伊家子孫ら松陰の墓参り
彦根市長一行松陰の墓参り
モニュメント:高杉晋作と奇兵隊を顕彰、下関・竹崎公園に建立 /山口
福岡
龍馬ゆかりの船 福岡に寄港
長崎
2010年3月に「坂本龍馬幕末歴史検定」 全国4カ所、本県では初
雲仙ロマンティックスイーツ販売 幕末の食材で20品目
昨日今日は幕末関係ニュースがごっそりありました……長くなりますが、よろしくお付き合いくださいませ。
北海道
末広町に「龍馬記念館」11月オープン
NPO法人の実行委員会(三輪貞治理事長)が函館市末広町8に開設準備を進めてきた「北海道坂本龍馬記念館」のオープン予定日が、11月15日に決まった。オープンを記念し、実行委は「第1回幕末維新人物イラストコンテスト」の応募作品を募集中だ。
記念館は北海道開拓を夢みた幕末の志士、坂本龍馬の功績を伝えようと企画。建物は鉄骨造り平屋建ての約350平方㍍。外観は寺田屋をイメージして設計し、現在改築工事中だ。館内では同NPOが所有する坂本家ゆかりの貴重な品々を展示するほか、記念館を拠点として青少年の育成事業も展開する計画だ。
コンテストは記念館の趣旨を市民に理解してもらうのが狙い。対象は小学生以上。テーマは龍馬や勝海舟、榎本武揚など幕末維新に活躍した著名人の似顔絵やイラストで、未発表の創作原画(A4サイズ)とする。
応募方法は裏面に郵便番号、住所、氏名、生年月日、電話番号などを明記し、実行委(〒040―0053 函館市末広町8―6)に郵送する。1人につき3点まで。締め切りは10月20日必着。オープン日に表彰式を行う。受賞作品はポスターなどに活用する。
実行委の京田龍彦さんは「函館は龍馬に限らずさまざまな幕末の偉人がかかわる土地。ぜひ応募してほしい」とPR。11月15日は龍馬の誕生日と命日でもあり、三輪理事長は「龍馬ファンにとって特別な日」とし、「龍馬の夢を具現化したい。観光振興を図る上でも市民に応援してほしい」と話している。
長野
【長野】鬼太郎の原画など300点 池田で妖怪画の企画展
鬼太郎の原画など300点 池田で妖怪画の企画展
池田町立美術館で、夏休み特別企画展「ゲゲゲの鬼太郎と妖怪不思議ワールド」が開かれている。漫画家水木しげるさんの代表作ゲゲゲの鬼太郎の原画など300点を展示してある。9月6日まで。月曜休館。
水木さん関連の作品では、小豆洗いや座敷童子(わらし)などおなじみのタッチで描かれた日本の妖怪の複製画、浮世絵師歌川広重の「東海道五十三次」をモチーフにした木版画「妖怪道五十三次」なども展示。鬼太郎が生まれたいきさつが分かる漫画も見ることができる。
日本の妖怪画の歴史は古く、南北朝時代(1336~92年)に始まり江戸時代に隆盛を極めたという。幕末から明治初期の浮世絵師月岡芳年が描いた怪奇物の錦絵など、貴重な資料も公開している。
夏休みとあって連日多くの親子連れが来館。絵の迫力に圧倒され怖がる子どもの姿も見られた。会場では、妖怪の面をつくるコーナーや鬼太郎グッズの販売も行われている。
開館時間は午前9時から午後5時まで。入館料は一般600円、高校生・大学生450円。中学生以下は無料。
(中沢稔之)
山口
萩往還の起点、唐樋札場跡「高札場」の遺構出土
萩市は同市東田町の江戸時代の遺構「唐樋(からひ)札場跡」から、幕府や藩のおきてを記した高札場の遺構が出土したと発表した。22日午後1時半から、市民向けの現地説明会を開く。
唐樋札場は江戸時代、萩往還や赤間関街道、石州街道など防長両国に通じる起点で、番所とともに高札場が設置されたほか、罪人のさらし場にもなっていた。明治時代になって廃止され、高札場は大正時代には税務署、戦後は商業施設が建てられた。商業施設の老朽化に伴い、市が昨年度、土地を買収、今年2~5月にかけて発掘調査した。
市によると、高札場は建物の基礎部分が東西3・9メートル、南北7・5メートルで、覆い屋の柱が4本あったと推測され、基礎部分の化粧石や2か所の柱穴などが見つかった。
市は今後、高札場を復元し、周辺を公園として整備する方針。また唐樋札場跡が萩往還の起点という重要性から、国指定史跡「萩往還」へ追加指定を目指す。
説明会の問い合わせは、市文化財保護課(0838・25・3654)へ。
藩政時代の萩往還起点跡から「高札場」遺構出土
萩市は同市東田町の江戸時代の遺構「唐樋(からひ)札場跡」から、幕府や藩のおきてを記した高札場の遺構が出土したと発表した。22日午後1時半から、市民向けの現地説明会を開く。
唐樋札場は江戸時代、萩往還や赤間関街道、石州街道など防長両国に通じる起点で、番所とともに高札場が設置されたほか、罪人のさらし場にもなっていた。明治時代になって廃止され、高札場は大正時代には税務署、戦後は商業施設が建てられた。商業施設の老朽化に伴い、市が昨年度、土地を買収、今年2~5月にかけて発掘調査した。
市によると、高札場は建物の基礎部分が東西3・9メートル、南北7・5メートルで、覆い屋の柱が4本あったと推測され、基礎部分の化粧石や2か所の柱穴などが見つかった。
市は今後、高札場を復元し、周辺を公園として整備する方針。また唐樋札場跡が萩往還の起点という重要性から、国指定史跡「萩往還」へ追加指定を目指す。
説明会の問い合わせは、市文化財保護課(0838・25・3654)へ。
友好交流:因縁超え、吉田松陰に弔意 井伊家の子孫ら、きょうから萩市訪問 /滋賀
◇きょうから3日間、萩市訪問--吉田松陰の墓参りなど
「安政の大獄」(1858~59)で江戸幕府大老として吉田松陰(1830~59)ら尊王攘夷(じょうい)派を弾圧した彦根藩十三代藩主・井伊直弼(1815~60)の地元、彦根市の市長や井伊家当主らが21日から3日間、山口県萩市を訪問し、松陰の墓参りなどをする。公募した市民ら24人で編成する「萩市訪問市民使節団」で、11月には萩市長らが彦根を訪れる計画もある。約150年の時を経て幕末の因縁を超え、両市の友好交流が始まる。【松井圀夫】
彦根市は「桜田門外の変」で直弼を殺害した水戸藩士の地元、水戸市とは1968年に親善都市提携をしているが、直弼が処罰した尊王攘夷派の志士らの地元とは交流がなかった。「独裁者」という直弼のイメージ払拭も狙う。
彦根市は今年1月、萩市などとともに歴史的風致を生かした国の「歴史まちづくり法」に基づく事業認定を受けたこともあり、萩市に交流を打診し、調整を続けていた。
今回、獅山向洋市長や井伊家十八代当主で彦根城博物館の井伊直岳館長、市の人気キャラクター「ひこにゃん」が訪問する。松陰誕生地や墓所、松陰が開いた「松下村塾」などゆかりの地を訪問し、萩市側は野村興児市長や「松陰先生の墓を守る会」の人たちが迎える。獅山市長は「過去の歴史のわだかまりを超えて、ともに歴史的なまちづくりを進める都市として交流を図ることは意義深い」としている。
「安政の大獄」から150年 歴史的和解
ひこにゃんと使節団、松陰の墓参
「安政の大獄」から150年 歴史的和解 ひこにゃんと使節団、松陰の墓参
幕末の「安政の大獄」(1858~59年)を主導した大老井伊直弼(なおすけ)ゆかりの滋賀県彦根市の市民使節団が21日、大獄で刑死した吉田松陰の墓参を山口県萩市で行った。井伊家当主直岳(なおたけ)さん(40)らが手を合わせて追悼し、松陰没後150年目に歴史的な和解を果たした。
墓参は午後2時すぎから、地元団体「松陰先生の墓を守る会」の案内で行われ、直岳さんらが焼香した。獅山向洋彦根市長が「これからの150年は仲良くしたい」と述べると、野村興児萩市長は「恩讐(おんしゅう)を超えて友好交流を始めるきっかけにしたい」と応じた。
彦根市の人気キャラクター「ひこにゃん」も同行し、墓参後に松下村塾跡にある松陰神社を訪れて熱烈な歓迎を受けた。
市民使節団は公募の市民や市職員ら24人がメンバー。22日は高杉晋作生誕地などのある萩市の城下町を見学する。
ひこにゃんの中の人、この暑い中をご苦労様でございますm(__)m。
雑記帳:彦根市長、萩市で松陰の墓参 ひこにゃんも訪問
雑記帳:彦根市長、萩市で松陰の墓参 ひこにゃんも訪問
雑記帳:彦根市長、萩市で松陰の墓参 ひこにゃんも訪問
幕末の「安政の大獄」で思想家、吉田松陰を死罪にした大老・井伊直弼(なおすけ)の地元、滋賀県彦根市の獅山(ししやま)向洋市長らが21日、山口県萩市を訪れ、松陰の墓に参った。
会合で両市長が隣り合わせたのがきっかけ。彦根市側が「過去を越えて交流を」と打診し、萩市側も快諾。キャラクター「ひこにゃん」も同行し、松陰神社に参拝した。
墓を大切にしてきた萩市民の一人は「今日で憎しみが氷解した。大老も松陰先生も、立場は違えど日本のことを思って行動された」。重い言葉を、現代の政治家は何と聞く。【中本泰代】
彦根市長とひこにゃんが萩訪問、吉田松陰の墓参り
幕末の思想家・吉田松陰が刑死した「安政の大獄」を断行した井伊直弼ゆかりの滋賀県彦根市の獅山向洋市長や井伊家18代当主の井伊直岳・彦根城博物館長らが21日、萩市で松陰の墓参りをした。
直弼の功績を見直している彦根市が、没後150年を迎える松陰に弔意を表し、萩市との友好親善を図ろうと訪問。公募で選ばれた市民や人気キャラクターの「ひこにゃん」も同行した。萩市椿東の松陰墓所で「松陰先生の墓を守る会」による墓前祭が営まれ、獅山市長や井伊館長らが焼香した。
歓迎セレモニーや交流会も開かれ、萩市の野村興児市長は「恩しゅうを超えて新しい交流を」と呼びかけ、獅山市長も「2人は信念を曲げず、亡くなられた幕末の英傑。誇りを持って尊敬し合うべき。これからの150年は仲良くお付き合いを」と述べた。
「安政の大獄」因縁、150年経て“和解” 井伊家子孫ら松陰の墓参り
開国を推し進めた幕末の大老・井伊直弼(なおすけ)の地元、滋賀県彦根市の使節団が21日、山口県萩市を訪問、直弼が指揮した「安政の大獄」で死罪となった尊王攘夷(じょうい)派の指導者・吉田松陰の墓参りをした。
訪問には、井伊家18代当主で彦根城博物館長の井伊直岳さん(40)と獅山向洋彦根市長、「井伊直弼と開国150年祭」実行委員会会長の北村昌造・彦根商工会議所会頭ら24人が参加。萩市民館で迎えた野村興児(こうじ)萩市長は「歴史の事実を超えて、新しい交流ができれば」と話した。
松陰の墓前で手を合わせた井伊さんは「直弼も松陰先生も志半ばで死を迎え、やり遂げたいこともあったと思います」と先人をしのび、追悼の意を表した。地元の市民団体「松陰先生の墓を守る会」の井上弘行会長は「当初はわだかまりがあったが、井伊さんや彦根市長の話を聞いていて、気持ちが通じるところがあった」と話した。
野村市長によると、年内には萩市からの答礼使節団が彦根市を訪れる予定という。
彦根市長一行松陰の墓参り
萩市と友好図る
幕末の思想家・吉田松陰が刑死した「安政の大獄」を断行した井伊直弼ゆかりの滋賀県彦根市の獅山向洋市長や井伊家18代当主の井伊直岳・彦根城博物館長らが21日、萩市で松陰の墓参りをした。
直弼の功績を見直している彦根市が、没後150年を迎える松陰に弔意を表し、萩市との友好親善を図ろうと訪問。公募で選ばれた市民や人気キャラクターの「ひこにゃん」も同行した。萩市椿東の松陰墓所で「松陰先生の墓を守る会」による墓前祭が営まれ、獅山市長や井伊館長らが焼香した。
歓迎セレモニーや交流会も開かれ、萩市の野村興児市長は「恩しゅうを超えて新しい交流を」と呼びかけ、獅山市長も「2人は信念を曲げず、亡くなられた幕末の英傑。誇りを持って尊敬し合うべき。これからの150年は仲良くお付き合いを」と述べた。
モニュメント:高杉晋作と奇兵隊を顕彰、下関・竹崎公園に建立 /山口
明治維新の先駆けとなった幕末の志士、高杉晋作(1839~67)と奇兵隊を顕彰するモニュメント「風の予言者 高杉晋作と奇兵隊」が下関市竹崎町の竹崎公園に完成し、20日披露された。中尾友昭市長や晋作ファンら約70人が集まり、先人の遺徳をしのんだ。
市内の企業や文化団体が集まる「志士の杜推進実行委員会」(山本徹会長)が、「偉大な先人たちの志を現代の人たちに伝えたい」と募金などを基に約2500万円をかけて建立。奇兵隊士を表す岩の上に、晋作が堂々と構える。青銅製で台座を合わせると高さ約4・3メートルにも。赤間神宮前公園の「安徳帝と二位の尼」像などで知られる彫刻家、浜野邦昭さん(58)が制作した。
実行委顧問で幕末や明治維新をテーマに多くの作品を描いた市内在住の直木賞作家、古川薫さん(84)は「竹崎町は幕末の豪商、白石正一郎宅があり、そこで奇兵隊が結成された。モニュメントの場所としてもふさわしい」と話す。
実行委による幕末の志士関連のモニュメントは、同市あるかぽーとに建立(03年)された坂本龍馬と高杉晋作の「青春交響の塔」に続いて2作目。【尾垣和幸】
福岡
龍馬ゆかりの船 福岡に寄港
幕末の志士・坂本龍馬らが、かつて航海術を学んだ日本初の蒸気帆船「観光丸」が当時の設計図などをもとに復元されきょう、博多港で一般公開されています。
これが復元された蒸気帆船「観光丸」です。
「観光丸」は、1855年にオランダから幕府に献上されました。
当時の長崎海軍伝習所の練習艦として、坂本龍馬ら幕末の志士が西洋の航海術を学んだ船で、22年前に当時の設計図をもとに長崎の民間企業が復元したものです。
かつて龍馬が倒幕の話し合いをするために、現在の太宰府市に立ち寄ったとされることから今回、ゆかりのある福岡市に寄港し一般公開されています。
「観光丸」の船内には、龍馬が使ったとされるピストルの複製などが展示されていて、訪れた人たちは興味深そうに見入っていました。
長崎
2010年3月に「坂本龍馬幕末歴史検定」 全国4カ所、本県では初
幕末の志士、坂本龍馬についての知識を高める第2回坂本龍馬幕末歴史検定(全国龍馬社中主催、長崎新聞社など共催、日本出版販売株式会社企画・運営)が来年3月21日、長崎市文教町の長崎大など龍馬ゆかりの全国4カ所で開かれることが決まった。本県では初開催。来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」が放送される中、本県の文化振興、観光活性化を図る。
同検定は昨年11月に東京、京都、名古屋で第1回を開催。2回目の来年は、龍馬が亀山社中や海援隊を率いて飛躍を遂げた長崎をはじめ、東京、京都、高知で実施する。「龍馬の生き方や、龍馬を取り巻く時代背景を学ぶ検定。龍馬精神を探求するとともに、地域振興につなげたい」と企画。長崎商工会議所主催の長崎歴史文化観光検定との連動も検討している
龍馬検定は初級、中級があり、両方の併願もできる。合格者には認定証などを贈る。受験料は初級が4300円、中級が5600円、併願は8910円。検定内容、申し込み受け付けなどの詳細は決定次第、公式ホームページ(http://www.kentei-uketsuke.com/ryoma/)と長崎新聞で発表する。今後、公式テキストや問題集も発売する。
雲仙ロマンティックスイーツ販売 幕末の食材で20品目
「雲仙ロマンティックスイーツ」と銘打って、雲仙市内の菓子店や土産品、ホテルなど12店舗でケーキ、まんじゅう、アイス、酒など味自慢の計20品目を売り出している。
同市職員らでつくる「オヤジスイーツ調査隊」と、同市愛野町を「愛の聖地」と呼ぶなど地域活性化に取り組む日本ロマンチスト協会との共同企画。幕末の風雲児坂本龍馬が1864年に愛野町に宿泊した歴史に着目。当時、地域にあった食材を活用したものなどを「雲仙ロマンティックスイーツ」の認定条件に掲げた。
併せて「ハートの形や中央で折れるものなど2人で分け合える形態」「つくり手のロマンが感じられるものを」と、同調査隊が各店舗に商品開発を依頼した。
隊員の一人柴田英知さん(31)=市観光物産まちづくり推進課主事=は「龍馬は日本で初めて新婚旅行に出掛けたとされ、ロマンチストだったはず。龍馬の足跡に思いをはせながら、雲仙味自慢の品々をぜひ味わってほしい」と話している。
かなり暑かったですが、この暑さも来週月曜日までのようですね。
東京
『龍馬』を世界に発信 ミュージカルオペラ下町でも
野口五郎が勝海舟役……『レミゼラブル』のマリウスとか演じられていた方が勝海舟とはなぁ。歳月の流れを感じます。
大阪
ちょんまげ道中 一覧
大坂に蘭学の適塾 学生も必死に勉強
あの2階部屋は迫力ありました。ここで増田蔵六(大村益次郎)がトップ塾生をキープしたんたなぁとか、大鳥圭介が芝居役者の声音をまねて同窓の友人を朝起こしたんだよなとか(マニアックでしょうか・笑)、刀傷をつけたのは一体誰だったんだろうとか考えたり(西本願寺に新選組が駐屯した時のお堂を移築した)亀山本徳寺の刀傷を連想しながら思ったり。
岡山
洪庵の医師の道 後押しした故郷
鳥取
中ノ御門の礎石出土 鳥取城跡 22日現地説明会
山口
高杉晋作も駆け抜けた 萩往還の起点「唐樋札場」跡が出土
萩往還の起点「唐樋札場」跡が出土 高杉晋作も駆け抜けた
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(24)東大教授・山内昌之 中山忠光
「臆病(おくびょう)の貴種・徳川慶喜よりもはるかに侍らしい気概」というところに複雑な気持ちを感じました……^_^;。
【次代への名言】8月19日・『鼠小僧』河竹黙阿弥
盗みはすれど仁義を守り、富めるを貪(むさ)ぼり貧しきを救ふは天の道なり」(『鼠小僧(ねずみこぞう)』 河竹黙阿弥(かわたけもくあみ))
ときは天保3(1832)年のきょう(旧暦)、お江戸を揺るがせた怪(快)盗、鼠小僧次郎吉が市中引き回しのうえ、処刑され、獄門にかけられた。
さまざな資料を駆使した、子母沢寛(しもざわ・かん)の『鼠小僧次郎吉異聞』によると、実際の次郎吉はあまり見栄えのしない小男。なぜ町家ではなく、大名屋敷ばかり狙ったのかについては「表玄関は蟻の入るすきもない厳重さですが、裏や庭口からならこれほど入りやすいものはありません」。また、盗んだお金は貧民に-ではなく、ばくちですったのだ、という。
それがなぜ、義賊なのか。
後世からみれば幕末は近いが、まだ武家政権の崩壊など夢にも思えないころだ。本当のところはどうあれ、庶民は権力者を狙いうちにする次郎吉に痛快と反骨を感じ、半世紀前の怪盗、稲葉小僧(いなばこぞう)の伝説(黙阿弥の『鼠小僧』の主人公は「稲葉幸蔵(いなばこうぞう)」である)とあいまって彼は講談や歌舞伎の英雄となったのだろう。
現代に生きる「鼠小僧」としては芥川龍之介の短編『鼠小僧次郎吉』や野田秀樹さんの『野田版・鼠小僧』がある。でも、からまった悪因果がほぐれた終幕、名判官が鼠小僧(幸蔵)をだまって見逃す「黙阿弥版」は、やっぱりいいなあ。
東京
『龍馬』を世界に発信 ミュージカルオペラ下町でも
幕末の志士、坂本龍馬を題材にしたミュージカルオペラ「龍馬」が今秋、全国を巡回する。十一月の東京公演では龍馬が師と仰いだ幕臣、勝海舟の生誕地・墨田区の住民らが協力。二〇一一年にはパリやニューヨークの舞台も予定している。
舞台は高知県在住のオペラ歌手、岡本光正さんが企画。「社会が混迷する今こそ龍馬のスケールの大きさや輝きが求められる」と県内外に呼び掛け、二年前に実行委員会を発足した。ジェームス三木さんが脚本、俳優の江守徹さんが演出を担当する。十月二十四日に龍馬の出身地、高知県で初演。東京公演は十一月十七~二十三日、台東区の浅草公会堂で行われる。
先月、浅草であった出演者らの顔合わせには「勝海舟を顕彰する会」代表世話人で墨田区在住の広田健史さんが参加した。同区役所前にある勝海舟像の建立に尽力した一人。来月には像の前で出演者らと成功祈願を行う。
会場のある浅草の老舗そば屋のおかみで、「全国おかみさん会」理事長の冨永照子さんも実行委の一人。「東京の下町っ子と土佐のいごっそうはきっぷが似ている」と共感、東京でのけいこ場や宿泊先の準備など出演者らの受け入れ態勢を整える。
勝海舟役は、歌手の野口五郎さん。「共演者らのチームワークに最高の歌と芝居と踊りで、下町の英雄を演じたい」と語った。龍馬役はオペラ歌手の平良交一さんが務める。
東京公演の問い合わせは、スガジャズダンススタジオ内の龍馬東京オフィス=電03(5284)8440=へ。
野口五郎が勝海舟役……『レミゼラブル』のマリウスとか演じられていた方が勝海舟とはなぁ。歳月の流れを感じます。
大阪
ちょんまげ道中 一覧
大坂に蘭学の適塾 学生も必死に勉強
緒方洪庵は1838年(天保9年)、当時の大坂に適塾を開く。大坂は前年、大塩平八郎の乱が起きたばかりだったが、自由を謳歌する気風があった。
北浜に当時の適塾が保存されていて、見学ができる。町屋造り1階の前方が教室、後方が居室。中庭に面した洪庵の書斎は涼しげで愛用の机も残っている。2階は塾生が寝泊まりする大部屋だ。塾生の生活は厳しく、定期的に蘭学のテストがあり、その成績で部屋の居場所が決まっていた。広さはひとり畳1畳のみ!
奥には通称「ヅーフ部屋」があり、たった1冊しかなかった蘭語のヅーフ辞書を、塾生が奪い合うように学問をしたという。大名家から依頼されて、この貴重な辞書を1枚18文で書き写すのが、苦学生のいいアルバイトになったとか。大部屋の中央の柱には、エネルギーが有り余った塾生がつけた刀傷が残っていた。
しかし、経営は大変。塾生の食事は毎月1と6の日はねぎとサツマイモ、5と10の日は豆腐汁などと決まっていたが、若者たちは魚屋で売れ残った雑魚をさばいて食べたりしたらしい。そんな彼らを見守ったのは、洪庵の妻、八重さん。塾生だった福沢諭吉も八重を大坂の母と慕ったそうだ。努力家の洪庵先生と必死に勉学する塾生たち。なんだかいい光景だ。(ペリー荻野 コラムニスト)
(2009年8月19日 読売新聞)
あの2階部屋は迫力ありました。ここで増田蔵六(大村益次郎)がトップ塾生をキープしたんたなぁとか、大鳥圭介が芝居役者の声音をまねて同窓の友人を朝起こしたんだよなとか(マニアックでしょうか・笑)、刀傷をつけたのは一体誰だったんだろうとか考えたり(西本願寺に新選組が駐屯した時のお堂を移築した)亀山本徳寺の刀傷を連想しながら思ったり。
岡山
洪庵の医師の道 後押しした故郷
緒方洪庵の足跡を訪ねて、岡山市足守へ。日本書紀にも名前がある古い里で、1810年(文化7年)備中足守藩士の子として生まれた洪庵は、数え16歳で父に従って当時の大坂に出るまで、この故郷で大きくなった。
現在、江戸時代の武家屋敷や商家が保存・再建され、歴史散歩ができる。私たちはレンタサイクルで町並みを見物しながら、洪庵生誕の地を目指した。
暑い暑い。が、ありがたいことに緑は豊かで木陰は涼しくてほっとする。「水辺にホタルが舞うのが名物だよ」と、自転車屋さんが教えてくれた。
生誕の地には洪庵の業績を称えた大きな石碑と銅像が。顔は目が大きく好奇心旺盛といった印象だ。洪庵は足守に戻ったものの「体が弱くて武士には向かないので医学を志す」と置き手紙をして再び大坂へ。後に見込まれて江戸、長崎で学び、大坂に適塾を開く。そこでは福沢諭吉はじめ多くの才人を育て、種痘を広めて人々を救った。
父は武士を捨てた息子を初めは嘆いたようだが、洪庵が大坂で塾を開き、種痘を広めることができたのは父の人脈もあったからとも言われる。種痘を早くから応援してくれたのも足守藩だった。洪庵は故郷のありがたさをかみしめたに違いない。(ペリー荻野 コラムニスト)
(2009年8月12日 読売新聞)
鳥取
中ノ御門の礎石出土 鳥取城跡 22日現地説明会
鳥取城の正面玄関である大手登城路にあった中ノ御門の礎石2基が19日までに見つかった。幕末期の正門に当たる門で、当時の位置に原形のまま出土。門の構造を知る上で貴重という。
大手登城路の復元を目指している鳥取市教委が発掘した。
礎石は同市東町2丁目の鳥取西高通学路横から出土。幅と長さが各1メートルと、80センチ×65センチの2基で、それぞれ中央部に15センチ四方の柱のほぞ穴があった。礎石の上面には、四角い柱の跡が残っていた。
さらに明治時代に中ノ御門が撤去された後、門の近くにあった石垣を解体して土中に埋め、整地してスロープ状の道にした跡も確認された。道を造るために土地の高低差を少なくしたとみられる。
同市教委文化財課鳥取城整備推進係の佐々木孝文係長は「江戸時代の絵図や明治時代の写真がある中ノ御門の礎石がそのまま出土しており、門の構造や規模が分かる」と話している。
現地説明会は22日午後1時から。雨天中止。
山口
高杉晋作も駆け抜けた 萩往還の起点「唐樋札場」跡が出土
萩往還の起点「唐樋札場」跡が出土 高杉晋作も駆け抜けた
江戸時代に山陰の城下町・萩と瀬戸内の港・三田尻を結んだ国史跡の街道「萩往還」の起点とされる高札場「唐樋札場(からひふだば)」の遺構が山口県萩市で見つかった。長州藩主・毛利氏の参勤交代ルートで、吉田松陰や高杉晋作ら幕末の志士も駆け抜けた“歴史街道”の全容を知る貴重な資料になりそうだ。
萩往還は、萩城(萩市)と、山陽側の港町・三田尻(同県防府市)を結ぶ全長50キロの街道で、江戸初期に毛利氏が参勤交代道として整備。幕末には、安政の大獄で死罪となる吉田松陰が江戸に送られる際に通ったり、高杉晋作や久坂玄瑞ら尊皇倒幕の志士たちが往来した道として知られる。
萩市が今年2月から、同市東田町で行った発掘調査で、建物の基礎となる基壇の化粧石や柱穴などがみつかり、現存する絵図から江戸時代の高札場「唐樋札場」の遺構と分かった。
高札場は、幕府や藩の掟(おきて)を庶民に知らせるため設けられ、罪人のさらし場にも使われた。とくに唐樋札場は、萩往還をはじめ、萩と下関を結ぶ「赤間関街道」などの起点にもなり、交通の要衝としてにぎわった。同市文化財保護課は「陰陽連絡道として、幕末の“星雲の志”を運ぶ重要な役割を果たした街道の起点。国史跡への追加指定を目指したい」と話している。
22日午後1時半から現地説明会が開かれる。問い合わせは同課((電)0838・25・3654)。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(24)東大教授・山内昌之 中山忠光
かかしと政治家
静岡7区から無所属で立候補した城内実氏は、選挙ポスターに無断で写真を載せたとしてタレントから抗議を受けた。城内氏といえば、安倍晋三元首相の側近でありながら郵政民営化に反対し、前回選挙で刺客候補を立てられ、惜敗した政治家である。
その主張への賛否はともかく、城内氏は苦節4年、政治家に必要な率直さと筋を曲げない誠実さで全国レベルでも知られるようになった。それだけに、芸能人頼みのポーズには落胆した人も多いのではないか。城内氏は、自分こそ新世代のスターになれる可能性を過小評価するか、うっかり忘れていたのかもしれない。一般論でいえば、本物のスターは“かかし”の助けなど必要としないのだ。
たしかに幕末のように、身分制秩序が牢固(ろうこ)として残る時代の変革には、新たな理念を広めるために行動するスターが必要となる。この点では天誅(てんちゅう)組にかつがれた中山忠光ほどピタリと役柄にはまった男も珍しいだろう。
気性が荒く、直情径行
忠光は、後に明治天皇となる皇子を生んだ慶子の父、権大納言の中山忠能の七男として生まれた。未来の天皇とすぐ血のつながる貴種が、天誅組という名を一度聞けば忘れない、過激派組織に担ぎ出されたのだ。ちょうど孝明天皇が大和に行幸(ぎょうこう)し、尊皇攘夷(じょうい)を決行すると聞きつけ、事前に大和五条の代官所を襲って、代官はじめ5人の役人の首を切ったのだから、忠光も相当血気あふれる若者というほかない。
堺から楠木正成ゆかりの金剛山を越えて大和に入る道中、忠光は薄化粧して鉄奬(かね)、つまりおはぐろを付けて緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)を着ていたので、村人らに旅役者の一座と間違えられたという笑えない話も残っている。
この役者もどきの貴族はいたって気性が荒く、直情径行でもあった。八月十八日の政変で、長州藩と三条実美(さねとみ)ら尊皇攘夷派の公卿が京を追われると、大和を天皇親政の拠点にするもくろみは一夜にして崩れ去った。
徹底抗戦の末、非業の死
それでもあきらめず、山中で徹底抗戦を続ける。やはり忠光は内裏(だいり)びなのようなお飾りだけのスターではなかった。鎮圧軍に包囲されても屈しなかった忠光は、各藩の兵士と戦い、追及をかわしながら長州へ逃げのびたのだから敢闘精神も見事である。
しかし、その地で徳川幕府への恭順を説いた俗論党などの魔手に襲われ、死を遂げたのは痛ましい。公家には珍しく卑怯(ひきょう)でなかったあたりも、並の大名より優れており、臆病(おくびょう)の貴種・徳川慶喜よりもはるかに侍らしい気概さえ感じるから歴史は単純でない。
指導者の運に見放され
忠光は20歳で非業の死を遂げるまで、明治維新の指導者となる運に見放されながらも、健気(けなげ)に政治信念に殉じた若者にほかならない。もし彼が生きながらえ明治の政治家になっていたなら、甥(おい)の明治天皇と組んで、いかなる新政治を展開したのだろうか、想像するだけでも興味が尽きない。
相撲など武張ったものが好きな天皇と、公家離れした激しさを秘めた忠光では相当に気が合ったかもしれない。そうした“歴史のイフ”も考えながら、忠光の残した名歌を読むと、つい政治家の資質についても考えたくなる。
〈思ひきや 野田の案山子(かかし)の梓弓(あずさゆみ) 引きも放たで 朽ちはつるとは〉
弓を抱き、月日とともに朽ち果てるとは思いもよらなかった、とは華やかなスターになりながら、指導者として成長せずに世を去る無念を告白するかのようだ。かかしには、地位や外見ばかりで相応の能力がない者の意味もある。
平和な時代に政治を志す人びとには、かかしの弓のようにうわべで鳥を追い払うだけの政治屋にはならないでほしいものだ。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】中山忠光
なかやま・ただみつ 弘化2(1845)年生まれ。幕末の公家。父、忠能(ただやす)のもとに出入りする志士らと交友を結び、次第に尊皇攘夷(じょうい)派公家として頭角を現す。文久3(1863)年に19歳の若さで朝廷の国事寄人(よりうど)に任じられるが、ひそかに長州入りして官位を返上、下関の外国船砲撃に参加した。京都に戻った後は吉村虎太郎らと天誅組を組織し、孝明天皇の大和行幸をめぐって大和で挙兵、五条の代官所を襲った。八月十八日の政変後、幕府の討伐を受けて長州に逃れるが、元治元(1864)年11月、下関で刺客に暗殺された。享年20。
「臆病(おくびょう)の貴種・徳川慶喜よりもはるかに侍らしい気概」というところに複雑な気持ちを感じました……^_^;。
【次代への名言】8月19日・『鼠小僧』河竹黙阿弥
盗みはすれど仁義を守り、富めるを貪(むさ)ぼり貧しきを救ふは天の道なり」(『鼠小僧(ねずみこぞう)』 河竹黙阿弥(かわたけもくあみ))
ときは天保3(1832)年のきょう(旧暦)、お江戸を揺るがせた怪(快)盗、鼠小僧次郎吉が市中引き回しのうえ、処刑され、獄門にかけられた。
さまざな資料を駆使した、子母沢寛(しもざわ・かん)の『鼠小僧次郎吉異聞』によると、実際の次郎吉はあまり見栄えのしない小男。なぜ町家ではなく、大名屋敷ばかり狙ったのかについては「表玄関は蟻の入るすきもない厳重さですが、裏や庭口からならこれほど入りやすいものはありません」。また、盗んだお金は貧民に-ではなく、ばくちですったのだ、という。
それがなぜ、義賊なのか。
後世からみれば幕末は近いが、まだ武家政権の崩壊など夢にも思えないころだ。本当のところはどうあれ、庶民は権力者を狙いうちにする次郎吉に痛快と反骨を感じ、半世紀前の怪盗、稲葉小僧(いなばこぞう)の伝説(黙阿弥の『鼠小僧』の主人公は「稲葉幸蔵(いなばこうぞう)」である)とあいまって彼は講談や歌舞伎の英雄となったのだろう。
現代に生きる「鼠小僧」としては芥川龍之介の短編『鼠小僧次郎吉』や野田秀樹さんの『野田版・鼠小僧』がある。でも、からまった悪因果がほぐれた終幕、名判官が鼠小僧(幸蔵)をだまって見逃す「黙阿弥版」は、やっぱりいいなあ。
朝晩涼しくなってきました。ミンミンゼミとアブラゼミとツクツクボウシの鳴き声もちょっと勢いがなくなってきた感じです。そろそろヒグラシの「カナカナ……」も混じってきそうです。
福岡
観光丸、21年ぶりに博多港へ寄港~長崎龍馬大航海2009~
佐賀
番組「葉隠墓園」DVD 武雄市内16小中校に
長崎
9月13日にも街頭募金活動 丸山公園に龍馬銅像を建てる会
福岡
観光丸、21年ぶりに博多港へ寄港~長崎龍馬大航海2009~
長崎県の観光丸が、坂本龍馬のゆかりの地である、神戸・広島・松山に立ち寄ったあと、21年ぶりに福岡に入港する。
当日は船内の「ミニ龍馬館」において「龍馬ピストル(複製品)」や「血染めの掛け軸の写真(原本は京都国立博物館所蔵)」の展示のほか、幕末の長崎を紹介する公開講座「旅する長崎学」や太宰府天満宮禰宜学芸員・味酒氏による講演も行なわれる。
また、埠頭では太宰府市「かさの家」による梅ヶ枝餅の実演販売や、福岡市の銘菓販売(「めんべい」、「めんたい味かりんとう」など)、福岡県の観光PRなども行なわれる。
<日時>
8月22日(土)10時~17時
<場所>
マリンメッセ福岡横 イベントバース
(福岡市博多区沖浜町7-1)
<詳細・お問い合わせ>
福岡県庁ホームページ 「長崎龍馬大航海2009」~観光丸が21年ぶりに博多港に寄港します!
佐賀
番組「葉隠墓園」DVD 武雄市内16小中校に
武雄市のケーブルワン(原隆司社長)は、同社が制作した番組「葉隠墓苑―先人たちに想いを馳せて―」のDVDを「子どもたちの郷土史学習に役立てて」と、武雄市校長会を通して市内の小中学校16校に贈った。
番組は、140年前の戊辰戦争で、武雄藩士が秋田藩の援軍として出兵した史実を通し、関係者の思いや両市の交流などを描いた。秋田県出身で同社アナウンス室長の小杉裕子さんが企画から編集、ナレーションまで担当。このほどあった「第35回日本ケーブルテレビ大賞番組コンクール」で奨励賞を受賞した。
御船が丘小(早田幸徳校長)であった寄贈式では、同社の大野裕志専務と小杉さんが、同会の早田会長に手渡した。早田会長は「子どもたちの心の教育に活用したい」とお礼の言葉を述べた。
長崎
9月13日にも街頭募金活動 丸山公園に龍馬銅像を建てる会
長崎市の丸山公園に幕末の志士・坂本龍馬の銅像を建立し、新たな観光スポットとすることを計画している「丸山公園に龍馬の銅像を建てる会」(川添一巳実行委員長)は18日、市内で実行委員会を開き、街頭募金活動などで集めた寄付額が約500万円に達したことや今後のスケジュールなどを報告した。
同会は、来年放映のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて銅像建立を企画。地元の自治体や経済人ら有志で5月に発足した。
実行委は募金活動の状況を報告。9月13日午前11時半からも同市浜町のアーケードで募金を予定しており、川添委員長は「ありがたい寄付が着々と集まっている。目標額の700万円達成に向けて最後まで頑張ろう」と述べた。
銅像のデザインを担当する版画家の小〓侃氏は「銅像の原型はほぼ完成した。格好のいい龍馬に仕上がっている。多くの関係者に見てほしい」と話した。
このほか、同会の活動状況を掲載するホームページ(http://maruyama.ryoma.bkd.jp/)を立ち上げたことも報告した。
1万円以上10万円未満の寄付者は、11月に予定している除幕式を告知する新聞広告に名前を記載して返礼することや、10万円以上を寄付した人は、銅像の台座に名前を記載することを決定。記載の希望者を募る。問い合わせは同会事務局(電095・825・4191)。
最高気温が30度を割って、ちょっと一息入れられました。
福島
小学生が茶道などで会津の歴史を体験
東京
朗読や音楽で「燃えよ剣」 要潤が抜き読み
要潤さんの声、『タイムスクープハンター』でぐっと来るものがありました(*^。^*)。あのお姿、あのお声で朗読って、素敵……パフォーマンス(殺陣でしょうか?)にも興味津々ですが、7千円はちょっと厳しいものが(^^ゞ。
谷中・全生庵で「幽霊画展」-歌川広重の作品など37点展示
谷中・全生庵で「幽霊画展」-歌川広重の作品など37点展示
「明治時代の政治家である山岡鉄舟」という紹介にちょっと違和感を感じてしまいました……「元幕臣で明治期には政治家」とか「元幕臣で明治期には政治家、明治天皇の侍従」なら自分にはしっくり来るのかな。何しろ「幕末の三舟」のひとりなんで、幕末に触れられないとちみっと違和感が……(苦笑)。
広島
復元「観光丸」で長崎PR
福島
小学生が茶道などで会津の歴史を体験
小学生を対象に茶道など会津の歴史を体験するイベントが16日、会津若松市文化センターなどで行われた。
会津若松商工会議所青年部の主催。
児童約30人が参加した。
会津で長い歴史を持つ茶道を体験し、戊辰戦争や白虎隊について学ぶ電気紙芝居を見学した。
場所を鶴ケ城の鐘撞(かねつき)堂に移し、子ども自らが鐘をついた。
東京
朗読や音楽で「燃えよ剣」 要潤が抜き読み
朗読や音楽などを組み合わせて物語を再現する「朗読活劇レチタ・カルダ」が9月13日、東京・芝の増上寺で上演される。新選組副長・土方歳三が主人公の司馬遼太郎「燃えよ剣」を、要潤が抜き読みする。高岸弘樹の歌と沖仁のフラメンコギターを朗読に織り交ぜる。刀を使った要のパフォーマンスもある。午後6時開演。7千円。電話03・3498・9999(キョードー東京)。
要潤さんの声、『タイムスクープハンター』でぐっと来るものがありました(*^。^*)。あのお姿、あのお声で朗読って、素敵……パフォーマンス(殺陣でしょうか?)にも興味津々ですが、7千円はちょっと厳しいものが(^^ゞ。
谷中・全生庵で「幽霊画展」-歌川広重の作品など37点展示
谷中・全生庵で「幽霊画展」-歌川広重の作品など37点展示
谷中・三崎坂にある「全生庵」(台東区谷中5、TEL 03-3821-4715)の本堂で現在、江戸から明治期にかけての幽霊画を展示する「三遊亭圓朝コレクション 幽霊画展」が開催されている。
同展は、江戸から明治時代にかけて活躍した落語家・三遊亭圓朝の命日となる「圓朝忌」に合わせて、毎年開催されているもの。「牡丹燈籠」「四谷怪談」など多くの怪談ばなしを創作したことでも知られる圓朝がコレクションしていた幽霊画37点を展示。展示作品には歌川広重や円山応挙ら、幕末から明治期を代表する作家の作品が並ぶ。
同展でボランティアを務める異儀田(いぎた)さんは「幽霊画は、江戸時代には魔よけの意味を込めて多くの家に飾られていた。『 怖いもの』 という先入観が強いものの、美しさを感じる作品も多い。来場者の中には若いカップルや外国人観光客などの姿も多い」と話す。
全生庵は、明治時代の政治家である山岡鉄舟によって1883(明治16)年に建立された寺院。圓朝は山岡鉄舟と親交があったことから、没後この寺に埋葬され、圓朝が収集していた幽霊画コレクションも寄贈された。
展示時間は10時~17時。入場料は500円。8月31日まで。
「明治時代の政治家である山岡鉄舟」という紹介にちょっと違和感を感じてしまいました……「元幕臣で明治期には政治家」とか「元幕臣で明治期には政治家、明治天皇の侍従」なら自分にはしっくり来るのかな。何しろ「幕末の三舟」のひとりなんで、幕末に触れられないとちみっと違和感が……(苦笑)。
広島
復元「観光丸」で長崎PR
江戸幕府の長崎海軍伝習所の練習艦「観光丸」を復元した船が16日、広島観音マリーナ(広島市西区)に寄港した。家族連れたち約2千人が見学に訪れ、幕末の歴史ロマンに浸った。
観光丸は1855年に幕府がオランダから寄贈を受けた国内初の蒸気帆船。1987年に復元した同名の船は全長66メートル。最大で高さ32メートルのマスト3本とディーゼルエンジンで航行する。船内には当時乗船した坂本竜馬と勝海舟の銅像も展示している。西区の公務員辻野聡さん(43)は「デザインが想像以上にきれいで立派」と感心していた。
普段は、長崎県佐世保市のハウステンボスに係留している。来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の舞台となる長崎県が、地元の魅力をPRしようと神戸、広島、松山、福岡の4市を巡る航海を企画。17日、松山市に向けて出港した。
暑いことは暑いですが、空気が乾燥して涼しい風が通り、過ごしやすくなりました。
福井
資料で弾圧の背景検証 「橋本左内と安政の大獄」展
散策路にレトロなガス灯 福井・足羽川右岸堤防
愛知
円龍の屏風を長野さんが修復 春日井「密蔵院」江戸末期の僧
兵庫
幕末ロマン、神戸へ 竜馬ゆかりの帆船初入港
コラム
【次代への名言】8月16日・河井継之助
ブックレビュー
今週の本棚:三浦雅士・評 『江戸演劇史 上・下』=渡辺保・著
福井
資料で弾圧の背景検証 「橋本左内と安政の大獄」展
幕末の福井藩士、橋本左内の刑死の真相を探る「橋本左内と安政の大獄」展が14日、福井市立郷土歴史博物館で始まった。20代半ばで短い生涯を終えた左内の活動を紹介しながら、弾圧した者と処分された者の双方の資料約40点から、背景を検証する企画だ。10月12日まで。
当時の福井藩主、松平春嶽の意向に基づいて将軍継承問題に奔走した左内の活動や、立場を異にした大老井伊直弼との政争に敗れて安政の大獄に至る過程や、左内と同時に処罰された吉田松陰についても紹介している。左内が刑死した後、その偉業を残した史料も展示されている。
会場は5つのコーナーに分かれ、左内の優れた見識を評価し恐れていた人たちの思いが春獄の書や松陰の手記、大獄関係者処罰案などに記されている。互いに会うことを望みながら、対面が実現しなかった松陰への思いをつづった詩は、刑死した後に松陰に渡されたという。
左内没後は春獄をはじめ、多くの人がその死を悼み、左内とともに「明治」という時代の扉を押し開いた中根雪江による左内の伝記もある。(梅沢あゆみ)
散策路にレトロなガス灯 福井・足羽川右岸堤防
福井市中央3丁目の足羽川右岸堤防の散策路に、昔懐かしいガス灯がお目見えし13日夕、点灯式が行われた。夕闇が迫る川沿いに幻想的な明かりがともった。
付近の通称・浜町通りかいわいは、幕末の横井小楠ら偉人ゆかりの地で、近代は行政の中心地、高級料亭街としても栄えた。市は、足羽川右岸の幸橋から九十九橋までの堤防沿いの市道を「さくらの小径(こみち)」として整備し、歴史や「和」が感じられるような一帯へと景観形成を図っている。ガス灯設置もその一環。
ガス灯は高さ2・8メートルの三灯式で明治期の趣が漂うレトロな外観。約200メートルの間に約10メートル間隔で12基を設置し、両端のガス灯はデザインが異なるあんどん形となっている。
点灯式は幸橋近くで行われ、吹矢清和副市長ら約50人が参加。関係者がスイッチを押すと、温かい色合いの照明がともり、居合わせた市民から「きれいね」と声が上がっていた。ガス灯はタイマー付きで、当面は午後7時から同11時ごろまで点灯する。(藤井雄次)
愛知
円龍の屏風を長野さんが修復 春日井「密蔵院」江戸末期の僧
江戸末期、天台宗の名刹(めいさつ)・密蔵院(春日井市熊野町)の住職を務め、風流人としても知られた僧侶、円龍の屏風(びょうぶ)を、知多市南粕谷の表具デザイナー長野修二郎さん(69)が修復した。ゆかりの品々とともに、10月4日に開かれる同院の寺宝展で特別展示される。
屏風は1860年作の六曲で、高さ1・4メートル、全幅3メートル。ふすま紙に墨で梅、菊、竹、ランが描かれている。6年前に円龍の弟子筋に当たる知多市内の旧家が引っ越す際、処分する予定だった品の一つだった。
処分するはずだっただけに傷みは激しかったが、下張りに使われる不用な手紙や習字などが貴重な史料になるため、地元愛好家らでつくる「知多歴史民俗研究会」に当時から所属している長野さんが「解体して調べたい」と引き取った。
「墨だけで六曲をもたせるのは、腕も良い証拠」と、絵柄も気に入ったことから、長野さんが2年がかりで修復。当初は誰の作かも分からなかったが、絵の左上に記された「月道人(げつどうじん)」の雅号や、下張りの手紙などに書かれた内容を手掛かりに作者を円龍と特定した。
円龍に関する知識を深めようと、長野さんは昨年から、密蔵院と寺宝展を毎年開いているグループ「密蔵院語り部の会」にも入会。今年の展示企画が検討される中で、屏風の出品を持ち掛けて展示が実現、円龍に焦点を当てた寺宝展開催が固まった。
同会代表の大島信衛さん(74)=春日井市岩成台=は「知多市で見つかったのは(密蔵院が)広く交流があった証し。円龍に焦点を当てる寺宝展は初めてで、屏風は目玉の一つ」と話している。(田中富隆)
兵庫
幕末ロマン、神戸へ 竜馬ゆかりの帆船初入港
江戸時代にオランダから幕府に寄贈され、坂本龍馬が航海術を学んだ帆船を復元した「観光丸」が神戸港に初入港し、14日、見学イベントが開かれた。朝早くから親子連れなど約200人が列を作り、約4200人が大きな白い帆や忠実に再現された船内の飾りに見入った。
来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映を前に、長崎県の観光推進で来港。観光丸は1855年に寄贈され、龍馬や勝海舟らが乗船し、操舵方法を学んだ。1867年に解体されたが、1988年オランダに残っていた設計図と模型から約1年かけて復元。現在は、同県佐世保市のテーマパーク「ハウステンボス」で航行している。
船内は、当時使われたイロコ材という木材を使い、飾りの彫刻も設計図通りに忠実に再現されている。帆は海面から約32メートルの高さで張られており、最大で約40畳もあるため迫力満点。龍馬が履いていたブーツのレプリカの展示のほか、オランダ木靴の絵付け体験もあり、訪れた人たちが興味深そうに見つめていた。
兵庫区の主婦(55)は「船内はレトロな感じで落ち着けた。長崎に行って、走っている観光丸に乗ってみたい」と話した。
観光丸は同日午後6時に神戸港を出発。22日まで広島や松山など、龍馬ゆかりの4港を巡る。(中務庸子)
コラム
【次代への名言】8月16日・河井継之助
■「我が心事、天知る、地知る」(河井継之助)
河井継之助は幕末の異才。歴史ファンには司馬遼太郎の名作『峠』の主人公としておなじみだろう。
「勢(いきおい)と申す者ほど、恐る可(べ)き者は之(こ)れ無く候。追々(おいおい)、外人を真似(まね)て、風態・制度の一変せん事、或いは近きに在(あ)るか (中略)今日の洋風・洋式も、十年の後には怪しく無(な)き者に至る可きか」。徳川幕府の大老、井伊直弼が暗殺された直後の1860年4月(旧暦)の手紙にある。明治維新は68年だから、継之助の予感は的中する。また「勢」が非門閥の彼を長岡藩家老上席・軍事総裁に押し上げ、数倍の兵力の官軍に立ち向かわせた。
冒頭は4カ月後に明治元年となる慶応4年5月、無益な流血を避けるための官軍との交渉が決裂したときのことば(東洋文庫『塵壼(ちりつぼ)』所収)。日の丸の扇子を手に戊辰戦争の最激戦を陣頭指揮した継之助だったが、流れ弾が左足に命中、その傷がもとで同じ年のきょう、死去する。
享年41。「天下になくてはならぬ人となるか、有ってはならぬ人となれ」「どんなに偉くとも、人情に通ぜず、血と涙が無くては駄目(だめ)だ」-。継之助が後輩に残したことばだ。前者は「狂」、後者は「仁」。この両立が、いまもあせぬ彼の魅力でもある。
ブックレビュー
今週の本棚:三浦雅士・評 『江戸演劇史 上・下』=渡辺保・著
(講談社・各2940円)
◇浮かび上がる人間の演劇的な本性
面白い。二冊で千頁(ページ)を越すが、読みやすい。司馬遼太郎が『日本全史』を書いたようなもの。
渡辺保といえば劇評のベテラン。むろん演劇史にも詳しい。すでに『忠臣蔵』『娘道成寺』『東洲斎写楽』の江戸三部作、さらに『四代目市川団十郎』『黙阿弥の明治維新』などの大著がある。なにをいまさら江戸演劇の通史を書く必要があるか。本人もそう思ったという。だが、書いて良かった。通史を書かなければ見えてこないものがあるのだ。
千頁を越すとはいえ、扱うのは三百年近い。勢いテンポが早くなる。改行を多くし、要点を列記する。「以上三点」という語が頻繁に登場する。が、必要な細部はじつに綿密。
たとえば冒頭。信長、秀吉、家康の、能とのかかわりを列記する。信長は能のみならず、幸若(こうわか)舞、風流(ふりゅう)踊を愛した。風流踊は自ら女装して踊った。秀吉は自分の一生を能にして、自ら舞ったが、女装まではしなかった。むしろ自分の管轄下に置こうとした。家康は鑑賞するほうが好きで、能の厳粛さを利用し、幕府の式楽として制度化した。三人三様。
ここで一転、後陽成天皇が登場する。秀吉の擁立したこの天皇の生母と愛妾(あいしょう)が芸能好きで、さまざまな芸能を参内させた。なかに、ややこ踊すなわち子どもの踊と、女能、女曲(くせ)舞も入る。この風潮のなかから「出雲のお国」が登場した。
お国歌舞伎の特徴は、(1)能舞台を流用し、音楽も能仕立てだが、(2)内容は当時の「茶屋遊び」など現代風俗で、(3)女が男装し、男が女装したこと。以上三点。要は官能性で、それを利用したのが遊女屋。スポンサーとなって、高価な三味線を取り入れ、遊女歌舞伎としてショーアップした。これを江戸に移したのが猿若勘三郎、すなわち中村屋の先祖。
江戸初期、北七大夫が登場し、喜多流を打ち立てる。その生涯の特徴は、(1)反骨、(2)反体制で、観世、宝生、金春(こんぱる)、金剛の大和四座体制に抗して新流を起こし、(3)能のテンポを極端に遅くして、幕府の権威に頼らない、能自体の権威を確立した。
将軍家光は芸能好きで、能のみならず歌舞伎も上演させた。将軍綱吉も同じ。能役者を「廊下番」として抱え、「将軍の私設劇場の劇団員」にした。過ぎたるは禍(わざわい)のもと、逆に能の発展を阻害する。綱吉の死後、「廊下番」は制限され、能はあくまでも式楽に限定された。権力と芸能の均衡する一点だが、古典化された能は時代の先端を走る演劇ではなくなった。歌舞伎と明暗を分けた。
その歌舞伎が力を得たのは浄瑠璃によってである。中世から続く語り物の伝統は、三味線を得た浄瑠璃によって一挙にその世界を深める。薩摩浄雲が登場し、竹本義太夫が、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)が登場する。そこから常磐津、富本、清元、新内が派生する。歌舞伎はまずこの音楽の官能性を我が物にした。
近松門左衛門が力を発揮するのは坂田藤十郎と出会ったからではない。人形浄瑠璃に移って、物語の世界を十分に描いたからだ。さらにその浄瑠璃が歌舞伎に移されて、以前は狂言と踊りのコラージュにすぎなかった歌舞伎に、続きものの物語世界が生まれたのである。
舞台装置と機構に一大転換をもたらした並木正三も凄(すご)いし、露骨に資本の論理を導入した大久保今助も面白い。だが、鶴屋南北も、河竹黙阿弥も、結局、近松と同じことをしたと思わせる一節はさらに面白い。
南北は、今助の金融資本によるスター独占に抗するために、怪談と早替わりを考えだした。黙阿弥は、およそスター的な容姿ではなかった小団次を生かすために、(1)市井の庶民のリアルなドラマを取り上げ、(2)歌に近い七五調の台詞(せりふ)を編み出し、(3)浮世絵をそのまま芝居にした。作者の例を挙げたが、役者がどのように時代の人間像を象徴したかの例を挙げれば際限がない。
俯瞰(ふかん)によって浮き彫りにされるのは、京、大坂、江戸三都市の盛衰。芝居が繁盛するそのつど幕府は弾圧する。いわゆる三大改革である。だが、武士でさえもその魅力に抗し切れなかったからこそ、弾圧したのだ。生きている人間たちによって担われた江戸時代が、これほど生々しく描かれた本は稀(まれ)だ。
とはいえ本書はあくまでも演劇史。歴史を通して人間の演劇的な本性を露(あら)わにする。生きるとは演ずること。人はすべて二重三重に演じている。多くの指摘が、たとえばバレエの歴史にもそのまま当てはまる。
結果的に本書は、不易流行の真理を見事に説明している。不易に達するためには流行を潜(くぐ)らなければならない。だが、流行を超えるためには不易に達する必要がある。そこで登場するのが歴史意識であり、それが不易すなわち古典=永遠と、流行すなわち新作=現在を結ぶ。この不易とはしかし、生きる人間の官能の歓(よろこ)びと哀(かな)しみにほかならない。だが、それこそ人間社会の本質ではないか。ときには舞台が目に見えるように、あるいは声と三味線が聞こえるように描かれた本書を読み終えて、名著の感を深くする理由だ。
今日も朝から暑いですね……でもツクツクボーシが鳴いていたり、風に涼しさが混じっていたり、晩夏の気配が感じられます。
茨城
土浦藩に仕えた書家の傑作披露 関家の作品29点
福井
左内の詩や遺品、没後150年展 福井市歴博
富山
名刀、愛刀、歴史の重みに興奮 県水墨美術館「秘蔵展」 盆休みでにぎわう
広島
高知よさこい招待 福山夏まつり乱舞 「いろは丸」が縁
福岡
直方日若踊:保存育成会、初盆の家庭訪問 上品な舞で供養--直方 /福岡
直方日若踊:保存育成会、初盆の家庭訪問 上品な舞で供養--直方 /福岡
福岡県護国神社で「みたままつり」始まる 16日まで
福岡県護国神社で「みたままつり」始まる 16日まで
茨城
土浦藩に仕えた書家の傑作披露 関家の作品29点
江戸時代の土浦藩に百五十年間にわたって仕えた関家の書家たちが残した書を紹介するテーマ展「書の達人-土浦藩士関家の人々」が三十日まで、土浦市立博物館(同市中央一)で開かれている。
関家は一七二三(享保八)年に思恭(しきょう)が儒者として藩士に取り立てられたことから始まり、幕末の雪江(せっこう)まで五代にわたって藩に仕え、代々書家として名を残した。
テーマ展では同館所蔵の二十九点を展示。思恭が「唐詩選」から三編を選んで書いた巨大なびょうぶ、宴席などでその楽しさを即興で書と絵にしたためた「書画合作」、風景や肖像の絵に褒め言葉を添えた書「賛」など。木塚久仁子学芸員は「関家の人々は土浦でもあまり知られていないが、作品は優れて貴重なものばかり。見事な筆遣いを鑑賞していただきたい」と話している。 (塙幸雄)
福井
左内の詩や遺品、没後150年展 福井市歴博
幕末に活躍した福井藩士、橋本左内(1834~1859年)の没後150年を記念した企画展「橋本左内と安政の大獄」(福井新聞社後援)が、福井県の福井市立郷土歴史博物館で開かれている。
企画展は左内の遺品や関係資料など42点が並び、「国事奔走時代」や「大獄の経過そして左内の刑死」など5つのテーマで構成している。
処刑前の獄中で、左内が同じ獄中にいた吉田松陰にあてて送った詩や、その詩を受け取った後に松陰が書いた遺書「留魂録」を紹介。それらの資料からは、お互いに認め合いながらも、最後まで対面できなかった2人の無念さなどを感じ取ることができる。さらに、松陰の遺書からは左内が死ぬ直前まで学問に努めていた様子もうかがえる。
また、安政の大獄に連座した人々の処罰案が記されている国指定重要文化財の「彦根藩井伊家文書」も展示している。
同文書からは、左内の刑ははじめ島流しの「遠島」と書かれていたが、死罪を意味する付け札がその上から張られ、処罰が修正されたことが分かる。
企画展は10月12日まで(9月1、2日は休館)。開館は午前9時から午後7時まで。観覧料は400円で、中学生以下、70歳以上、心身障害者とその付き添いは無料。
富山
名刀、愛刀、歴史の重みに興奮 県水墨美術館「秘蔵展」 盆休みでにぎわう
富山市の富山県水墨美術館で開催中の「大名家秘蔵の名刀展―源平の武将から維新の志士たちまでの愛刀―」(日本美術刀剣保存協会県支部、富山新聞社など主催)は14日、お盆休みを利用して多くの愛好者が訪れ、直江兼続や織田信長所用の刀などを間近に見て歴史の重みを味わった。
会場には、大名家が家宝としてきた名刀など、国宝、重要文化財を含む48振が展示されている。
会場内のパネルには、徳川将軍家が、諸大名が代替わりするたびに所有する優れた刀を献上させ、それを家格や禄高によって下賜することで支配体制を確立していったことが説明されており、来場者は権力の象徴としての刀剣の役割を学んだ。
高岡市から訪れた20代男性は「どの刀もとてもかっこよく、テンションが上がった」と興奮した面持ちで語った。金沢市の小学6年女児は「一つ一つの刀に歴史があることを知って面白いと思った」と話した。
同展は9月23日まで。観覧料は一般500円、大学生400円、高校生以下無料。
広島
高知よさこい招待 福山夏まつり乱舞 「いろは丸」が縁
福山市で開催中の「福山夏まつり」で14日、幕末の志士・坂本龍馬の生涯を描くNHKの大河ドラマ「龍馬伝」にちなみ、高知市からよさこい踊りのチームを招待したイベント「いろは丸YOSAKOI」が初めて開かれ、高知、福山両市の計11チーム約310人が迫力ある踊りを繰り広げた。
福山市は、同市鞆町が、龍馬率いる海援隊の「いろは丸」と紀州藩の軍艦が衝突した「いろは丸事件」ゆかりの土地であることを生かし、観光キャンペーンを実施しており、イベントもその一環として企画された。踊りは、市中央公園(福山市霞町)など4会場で披露され、高知市から来た「ほにや」「帯屋町筋」の2チームはそれぞれ、力強い動きを見せ、観客らを魅了していた。両チームは15日午前11時から、福山市鞆町の常夜灯前でも踊る。
祭り最終日の15日午後7時30分からは、芦田川大橋上流で約1万発の花火が打ち上げられ、フィナーレを飾る。
福岡
直方日若踊:保存育成会、初盆の家庭訪問 上品な舞で供養--直方 /福岡
直方日若踊:保存育成会、初盆の家庭訪問 上品な舞で供養--直方 /福岡
13日はお盆の入り。直方市中心部では、県指定無形民俗文化財の伝統芸能「直方日若(ひわか)踊」を伝承する保存育成会メンバーが初盆の家庭を訪問し、上品な舞で供養していた。
日若踊は直方藩士が幕末、大阪で習った舞いと地元の踊りを融合したのが発祥とされる。素朴な「思案橋踊」と優雅な「本手踊」からなる。笠(かさ)をかぶった踊り子が長唄と三味線に合わせて踊る。中心部3地区に保存育成会がある。
新町保存育成会(吉田富士雄会長)はこの日、26人が町内を回った。初盆を迎えた会社役員、徳永浩平さん(60)は「格式高い舞。故人も喜んでいるはずです」と目を細めた。【入江直樹】
〔筑豊版〕
福岡県護国神社で「みたままつり」始まる 16日まで
福岡県護国神社で「みたままつり」始まる 16日まで
先の大戦での戦没者らをぼんぼりで慰霊する「みたままつり」が13日、福岡市中央区の福岡県護国神社で始まった。約6000個の明かりが境内を淡く照らすなか、参拝客らが先祖に思いをはせながら、お盆のひとときを過ごした。16日まで。
まつりは明治維新以降に犠牲になった県内の戦没者(12万余柱)を追悼しようと、1964年から毎年夏に実施。例年、帰省で戻った家族らといっしょに、県内各地から大勢の参拝客が訪れる。
13日は午後6時半から本殿脇でみこによる神楽舞が始まると、浴衣姿の親子連れらが周囲に集まり、厳かな舞に見入っていた。
開催中の4日間、奉納行事として神楽舞や雅楽、西南学院大の学生による管弦楽などが披露される。
昨日はこの夏一番の暑さだったんではないでしょうか。陽が落ちてもアスファルトから輻射熱が立ち上って、なかなか涼しくなりませんでしたから……今日も、昨日ほどではないにしても、暑くなりそうです。
埼玉
小川町便り:乗り合い馬車で自然を楽しんで--「花和楽の湯」で15、16日 /埼玉
神奈川
慶應義塾創立150周年と神奈川開港・開国150周年、横浜開港150年を記念し、福澤諭吉にスポットを。
愛知
二川宿の歴史、一冊に 資料館・三世副館長が出版
石川
日本元気劇場 石川県加賀市
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(23)東大教授・山内昌之 松前崇広
『新選組!』で一場面だけ登場しましたね。一場面でも、形式張らず、開明的な姿が印象に残っています。さすが三谷さん、よくご存じで。
しかし、老中を罷免されて38歳で亡くなっていたとは(皮肉にも、「一会桑」が潰す側になっていたんですね)……あと2年生きて幕閣に戻っていたら、幕末の政局にどう関わっていただろうと惜しまれます。
そして、後を継いだ徳広は病弱で、政務を執った重臣に対するクーデターが起きたりしているうちに、榎本武揚さんら旧幕府軍が蝦夷地を占領、徳広は敗走中に病死……合掌。
埼玉
小川町便り:乗り合い馬車で自然を楽しんで--「花和楽の湯」で15、16日 /埼玉
自然豊かな小川町をゆっくりと楽しんでもらおうと、日帰り温泉「花和楽の湯」は15、16日の2日間、乗り合い馬車を走らせる。馬車内で町の歴史や伝統産業などを案内するガイドサービスもあり、町の魅力を堪能できる。
環境に優しい馬車を今後、町の観光の目玉にしたいと同温泉が企画。運行コースは小川町駅から「花和楽の湯」までの約2キロで、所要時間は約15分。明治維新期に活躍した山岡鉄舟ゆかりの割烹(かっぽう)旅館など町の歴史を聞きながら町並みを楽しめるほか、商店街でいったん降り、地元名物のコロッケなどを味わうこともできる。
運行時間は午前11時~午後4時で、運賃は500円。完全予約制。花和楽の湯は「歴史的な景観が残る町並みをスローな馬車に乗って楽しみませんか」と乗車を呼びかけている。乗車時間や予約の申し込みなどは花和楽の湯(電話0493・73・2683)。【鷲頭彰子】
神奈川
慶應義塾創立150周年と神奈川開港・開国150周年、横浜開港150年を記念し、福澤諭吉にスポットを。
慶應義塾を創設し、「学問のすゝめ」などの著述で知られる福澤諭吉。幕末から明治に生きた彼と神奈川、横浜の関係をさまざまな資料を通して紹介する。
『福翁自伝』の中には、開港後間もない横浜を訪れ、それをきっかけに蘭学から英学に転向したことや、咸臨丸にて渡米する際に浦賀に上陸したエピソードなどが語られ、また門下生には神奈川の政財界・教育界で活躍した人物も多く、箱根にもしばしば静養に出かけるなど、さまざまな形で神奈川とつながっていた福澤諭吉。その多様な関わりを関連資料から紹介する。
愛知
二川宿の歴史、一冊に 資料館・三世副館長が出版
古文書1万点20年かけ調査
豊橋市二川宿本陣資料館の三世(みつよ)善徳・副館長(49)が東海道33番目の宿場町「二川宿」の歴史をわかりやすくまとめた「東海道二川宿 本陣・旅籠(はたご)の残る町」(愛知大学綜合郷土研究所ブックレット、A5判82ページ)を出版した。宿帳33冊を含む古文書約1万点を20年がかりで調べた成果が生かされている。
二川宿は慶長6年(1601年)に宿駅制度の制定とほぼ同じ頃に整備され、大名などが宿泊する本陣と庶民が泊まる旅籠が立ち並び、当時の面影は同資料館の一角に残っている。文化4年(1807年)~明治3年(1870年)に営業した馬場家にスポットをあてている。年間60回程度の利用があったが、旅籠業だけでは経営が厳しかったことが、同家に伝わる宿帳などの資料から分かっている。
同宿の旅籠は68軒確認できるが、幕末までに大半が廃業している。三世副館長は「当時は、豊川稲荷などをお参りするため、二川宿を通らない旅人が多かったのも一因」と分析している。
ブックレットは一部840円。同市内の主要書店で販売している。
石川
日本元気劇場 石川県加賀市
人気呼ぶ忍者体験
石川県加賀市に体験とショーを主体にしたエンターテインメントパーク「日本元気劇場」がオープンした。2006年に休業した加賀百万石時代村を、全国で旅館チェーンを展開する大江戸温泉物語が再生した。
見どころの一つが実物大で再現された戦艦「三笠」。1905年、世界最強といわれたロシア・バルチック艦隊を撃破した日本海海戦の連合艦隊旗艦だ。全長80メートル、幅24メートルあり、内部はミュージアムになっている。NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」のロケ地に決まり、9月に主役の本木雅弘さんらが来訪する予定。
敷地はナゴヤドーム8個分以上。旧時代村の伝統的街並みや建物をリニューアルしたほか、足湯やレストランに、10の劇場を設置し、忍者、新選組など時代劇をメーンに毎日開催する。子供たちに人気が高いのは忍者衣装に着替えて場内を探検する忍者体験。金沢市から家族で来ていた小学5年の宮本嘉人君は「手裏剣投げが面白かった」。お父さんは「どちらかといえば男の子の遊び場だね」。
開放感のある新「総湯」
汗を流すなら車で約25分、新「総湯」が誕生した山代温泉へ。ヒノキをふんだんに使った2階建てで、浴室側面には九谷焼作家30人の作品がタイルにして張り付けられ、目も体も和ませてくれる。加水していない2種類の温泉が楽しめる。周辺は温泉情緒あふれる街並みに整備中で、来秋には明治時代の総湯を復元する古「総湯」も完成する。
▼メモ 日本元気劇場は、JR北陸線加賀温泉駅下車、タクシーで約10分。無料巡回バスあり。マイカーは北陸道・加賀ICから約15分。入園料は中学生以上500円、小学生300円。戦艦三笠は600円、400円。忍者体験は1000円。お得なフリーパスあり。午前9時半~午後10時(31日までナイター営業)。(電)0761(75)1100
総湯の入浴料は、中学生以上420円、小学生130円、幼児50円。午前6時~午後10時営業、第4水曜休み。(電)0761(76)0144
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(23)東大教授・山内昌之 松前崇広
■官僚と黒幕の悪ずれ
民主党は、政権をとったあかつきには、中央官庁に多数の議員を入れて政策決定に責任をもつと公言している。事務次官会議の廃止や国家戦略局の新設によって、明治以来の官僚制度にメスを入れるのだろう。
その志は壮とすべきだが、法の運用や「ステイトクラフト」(国政術)を知りつくした官僚のソフィスティケーションを打ち破るのは決して簡単でない。官僚のソフィスティケーションとは、早い話が「悪ずれ」を意味する。しかし、政治の「悪ずれ」は何も明治以降の官僚内閣制で初めて登場したわけでない。
異例中の異例の老中
江戸時代の幕府官僚政治でトップに立つのは、譜代大名から選ばれた老中である。この職は、寺社奉行や若年寄、そして大坂城代や京都所司代というキャリアを経験した大名が就いた。この特権空間には、どれほど優秀でも外様大名は入れなかった。独裁者の5代将軍綱吉は、土佐中村藩3万石の山内豊明を若年寄に任命したが、豊明は1週間で辞任した。
その背後には、外様の新参者に対する周囲の“いじめ”や陰湿な雰囲気も無視できない。改革で有名な上杉鷹山(ようざん)や、『甲子夜話(かっしやわ)』の文人大名の松浦静山(せいざん)も幕閣には入れなかった。わずかに幕末に老中になった真田幸貫(ゆきつら)の場合は、将軍吉宗の孫・松平定信の実子だったという毛並みからであろう。
こうした点から、慶応元(1865)年に松前崇広が老中になったのは、異例中の異例である。生粋の外様大名で、北辺の蝦夷地福山(松前)の小藩領主にすぎなかったからだ。その小大名が寺社奉行や老中格を経て宰相の地位を射止めたのは、時代が崇広のような人物を必要としたからだ。
路線打破を狙った幕府
彼は、21歳で藩主になるまで自ら料理をつくるほど下情に通じ、蘭学と英語から始まって文学や兵学に詳しく、西洋の事情や科学を知っていたという。尊皇攘夷(じょうい)という時代錯誤の路線打破を狙った幕府には、かっこうの才幹であった。
実際、崇広の松前藩は領内で遭難した英国商船の乗組員19人を全員救助して、外国人領事から称賛と感謝の辞を送られたこともある。攘夷決行の詔勅(しょうちょく)が出た直後の事件であったが、開国論と人道主義を合わせた崇広の姿勢こそ政治外交のリアリズムとして理想的な姿になるはずだった。
事実、元治元(1864)年になってイギリスのビクトリア女王は、崇広に感謝の意を込めて、松前家の定紋(丸に割菱)を刻んだ金時計を贈ったほどだ。外交の信頼関係は、このようなところから芽生えるのだ。
しかし、崇広が手腕を振るうには時代の狂気がすさまじすぎた。彼を信頼した将軍の家茂は、孝明天皇の攘夷論をくつがえせず、京都で独立権力を行使した一橋・会津・桑名の3者は家茂の供で大坂に下ってきた崇広らの江戸権力と真っ向から対決した。陸海軍総裁ともなった崇広は長州戦争の責任者でもあったが、英・仏・米・蘭の軍艦の圧力もあって、同じ老中の阿部正外(まさと)と図って兵庫開港の決意をしたのである。慶応元年のことだ。
「一会桑」がつぶす側に
外交問題は幕府の行政裁量権の範囲に属し、勅許を仰ぐ必要はなく、幕権を示すためにも兵庫を開港するという堂々の議論なのであった。将軍家茂の裁可も取り付けたのに、肝心の「一会桑」つまり将軍と幕権を支えるべき一族と家門の政治家は、幕府改革の期待を担って登場した外様大名必死の決意をつぶしてしまった。これは悲喜劇というほかない。
政治で「悪ずれ」するのは官僚だけでない。黒幕政治家の悪ずれほど始末に負えないものはなく、国民は政権交代の舞台裏をよく監視しなくてはならない。
謹慎を命じられた崇広は、罷免の翌年4月に松前の地で無念の病死を遂げた。新暦では6月だから、彼に遅咲きの北桜を見るいとまのあったことが痛々しい。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】松前崇広
まつまえ・たかひろ 文政12(1829)年、蝦夷(えぞ)松前藩の藩主・松前章広の六男として生まれる。松前藩主を継ぐが、安政2(1855)年に領地が幕府の直轄地となり、替え地として陸奥梁川(やながわ)(福島)などに約3万石を与えられる。その後、寺社奉行を経て老中、陸海軍総裁に就任。慶応元年、英・米・仏・蘭からの兵庫開港要求問題で、老中の阿部正外とともに朝廷から勅許を得ずに開港を決めたため、老中を罷免、謹慎を命じられた。慶応2(1866)年、38歳で死去。
『新選組!』で一場面だけ登場しましたね。一場面でも、形式張らず、開明的な姿が印象に残っています。さすが三谷さん、よくご存じで。
しかし、老中を罷免されて38歳で亡くなっていたとは(皮肉にも、「一会桑」が潰す側になっていたんですね)……あと2年生きて幕閣に戻っていたら、幕末の政局にどう関わっていただろうと惜しまれます。
そして、後を継いだ徳広は病弱で、政務を執った重臣に対するクーデターが起きたりしているうちに、榎本武揚さんら旧幕府軍が蝦夷地を占領、徳広は敗走中に病死……合掌。
気温は高かった(猛暑)でしたが、風がよく通りました。明日は関東一帯は今日以上の猛暑との予報(汗)ですが、この夏の暑さのピークになりそうです。
北海道
観客一体 感動の閉幕…野外劇閉幕
野外劇、終わってしまったんですね……開港150周年バージョンだっただけに見たかったなぁ(; ;)。
復元「北前船」入港…みちのく丸
東京
調布・西光寺で「四万六千日観音会」-地口絵とうろう70基ともる /東京
「地口絵」というんですね、浅草の伝法院通りの街灯(灯籠ではなかったと思いますが)が駄洒落が入った絵だったので記憶しています。
大分
あん人こん人:縫製業で炭焼き職人・小野信吉さん /大分
長崎
竜馬のロマンで地域も変える 雲仙・愛野町 地場産お菓子をPR 勝海舟と宿泊の故事生かし
「勝との二人旅にちなんで2人で分け合える」「いずれもカップルで食べやすいよう、ペアになったものや、真ん中から二つに割れるなどの工夫をしている」……ここで「腐女子受けを狙っているのかっ!?」とひっくり返りそうになった白牡丹は腐っているんでしょうか(でもBLは苦手です……昨日も女性週刊誌の「BL入門」というマンガにトライしてみましたが、途中で挫折^_^;)。
「龍馬伝館」年明け開設 長崎歴文博、ドラマ撮影セット再現
北海道
観客一体 感動の閉幕…野外劇閉幕
国の特別史跡・五稜郭跡(五稜郭公園)の特設ステージで演じられていた、NPO法人市民創作「函館野外劇」の会(フィリップ・グロード理事長)主催の第22回公演「星の城、明日に輝け」の最終公演が9日夜、開かれた。客席は約1500人で満員となり、函館の歴史絵巻を楽しんだ。
今年は7月3日開幕。函館開港150周年を祝い、ペリー提督来航からの開港シーンを華やかにし、文明開化の場面では、男爵いもの生みの親として知られる川田龍吉男爵が愛用した日本最古の自家用車「ロコモビル」の複製が初登場するなど話題を呼んだ。今月7日には1988年の第1回公演からの入場者が延べ20万人に達した。
フィナーレには出演者全員が舞台へ登場。テーマ曲「星のまちHAKODATE」を、観客とともにペンライトを振りながら合唱。華麗な花火の打ち上げとともに幕を閉じた。同会の寺坂伊佐夫副理事長が「今年は雨天の影響で当初予定していた11回公演から8回公演へ変更したものの、最終週の3日間は大盛況で9000人以上が来場者があった。市民や観光客、ボランティアのキャストやスタッフのおかげ。来年も皆さまとここでお会いしましょう」とあいさつした。年間の入場者数が1万人を割り込んだのは4年ぶり。
来場した函館市日吉町の山本百絵さん(59)は「これだけの舞台をボランティアの人たちで支えるのは大変だろうが、これからも続けてほしい」と話していた。
野外劇、終わってしまったんですね……開港150周年バージョンだっただけに見たかったなぁ(; ;)。
復元「北前船」入港…みちのく丸
青森市で復元された北前船「みちのく丸」が9日、函館開港150周年記念事業のメーンイベント「ドリームボックス150」の会場、函館港「緑の島」に接岸し早速、市民らに一般公開された。
同復元船は全長32メートル、幅8・5メートル、帆柱までの高さ28メートル。北前船は江戸時代から明治時代にかけて、日本海を大阪から本道まで結んだ輸送船で、みちのく丸の船型は1本の帆柱と大きな横帆をあげて帆走する大型和船「千石船」。2005年に、みちのく北方漁船博物館財団(青森市)が復元し、同博物館に係留・展示されている。昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」のロケにも使われた。
開港150周年と、「青函ツインシティ」提携20周年を記念し、16日までのメーンイベント開催中、緑の島で一般公開される。
接岸後のセレモニーでは、函館市の谷沢広副市長の歓迎あいさつの後、青森セーリングクラブの若井敬一郎会長が「これからも積極的な青函連携に取り組む」とした青森市長のメッセージ文を読み上げた。
大勢の市民が船内を見学し、先着順に青森県産リンゴ1個がプレゼントされた。函館市東川町の中村俊彦さん(68)は「すべて手作りと聞きびっくり。昔の人の技術の高さを改めて感じた」と話していた。
東京
調布・西光寺で「四万六千日観音会」-地口絵とうろう70基ともる /東京
調布市の西光寺(調布市上石原1)で8月10日、「四万六千日観音会(しまんろくせんにちかんのんえ)」が行われた。(調布経済新聞)
同寺は開山が応永年間(1394年~1428年)といわれる古刹(こさつ)で、市重宝に指定されている本尊・大日如来像をはじめ、江戸時代の最高級の彫技といわれる三十三応現身像などが安置されている。また、新選組が改称した後の甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を率いる近藤勇が休息を取った寺としても知られている。
同観音会はおよそ250年前から続く伝統行事で、参拝すると四万六千日参拝したのと同じ功徳を得られると言われ、江戸時代の祭りの風物詩「地口行灯(じぐちあんどん)」に「煮たものふうふ(似たもの夫婦)」などのような「駄じゃれ」や「語呂合わせ」を絵や文字で表現した「地口絵」のとうろうをともす。この「地口絵」は現在、高齢化のために描く職人が少なくなっているという。
当日は祈願護摩に合わせて境内参道の両脇に設置された約70基の「地口絵灯籠(じぐちえとうろう)」が一斉にともった。同時に開催予定だった盆踊りと模擬店は、台風の影響を考え11日と12日に順延となった。同寺副住職の長谷さんは「地口絵や盆踊りはテレビや漫画も無かった時代、庶民の楽しみだった。お子さまも楽しめる模擬店もあるので、地元の伝統芸能をのぞいてみては」と話す。
開催時間は18時から。12日まで。
「地口絵」というんですね、浅草の伝法院通りの街灯(灯籠ではなかったと思いますが)が駄洒落が入った絵だったので記憶しています。
大分
あん人こん人:縫製業で炭焼き職人・小野信吉さん /大分
◇「七転び八起き」だるまの人生--小野信吉さん(72)=豊後高田市
平安時代から続く臨済宗・健福院の住職でもある。4年前まで、手広く縫製業を営んでいたが、中国製に押され、事業を縮小。今では、妻八代子さん(74)と2人だけで、テレビドラマや映画でおなじみの「新撰組」の羽織風法被などを縫い、土産用として京都の業者に卸している。
緑の山を再生する活動にも取り組み、「雑木を再利用するには炭焼きが一番」と、07年に自分の山に炭窯を開いた。今では炭焼きも軌道にのり、年間60トン生産し、山口県のスーパーなどから引き合いがある。「七転び八起き」、まさにだるまのような人生を送っている夫婦だ。【大漉実知朗】
長崎
竜馬のロマンで地域も変える 雲仙・愛野町 地場産お菓子をPR 勝海舟と宿泊の故事生かし
地場産お菓子を使ったまちおこしに取り組む雲仙市は、幕末の風雲児坂本竜馬が市内に残した足跡にちなんだ「雲仙ロマンティックスイーツ」の売り込みを始めた。「日本を変える」という竜馬のロマンにあやかろうと、竜馬が食べた地元の食材を使って、市内の菓子店がお菓子や甘味を開発。来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送に合わせ、全国でPRする。
竜馬は1864(元治元)年、勝海舟とともに長崎を訪れた際、島原に上陸後、現在の雲仙市愛野町に宿泊したと伝えられる。この故事にあやかり、同市職員らでつくる「オヤジスイーツ調査隊」が、竜馬が食べたと思われるジャガイモ、ササゲ豆などを使った新スイーツの開発を、市内の菓子店に依頼していた。
新スイーツは(1)原料が地元産(2)作り手のロマンが感じられる(3)勝との二人旅にちなんで2人で分け合える‐ことを要件に同調査隊が認定証を渡す。スイートポテトやハート形のケーキ「ハニーハート」など12店舗の20品目が認定を受け、販売されている。いずれもカップルで食べやすいよう、ペアになったものや、真ん中から二つに割れるなどの工夫をしている。
愛野町を「名誉本部」として昨年4月に発足した「日本ロマンチスト協会」と連携し、東京などでのイベントに出品し、知名度の向上を目指す。試食した同市観光大使の坂上美保さん(35)は「男性にも食べやすく甘さ控えめ。愛の町のお菓子として全国に売り込みたい」と話していた。
「勝との二人旅にちなんで2人で分け合える」「いずれもカップルで食べやすいよう、ペアになったものや、真ん中から二つに割れるなどの工夫をしている」……ここで「腐女子受けを狙っているのかっ!?」とひっくり返りそうになった白牡丹は腐っているんでしょうか(でもBLは苦手です……昨日も女性週刊誌の「BL入門」というマンガにトライしてみましたが、途中で挫折^_^;)。
「龍馬伝館」年明け開設 長崎歴文博、ドラマ撮影セット再現
長崎歴史文化博物館(長崎市立山1丁目)と県は11日、幕末の志士坂本龍馬の生涯を描く来年のNHK大河ドラマにちなんだ「龍馬伝館」を同館内に開設すると正式に発表した。
開設期間は来年1月9日から1年間。同館と県、長崎市の3者で組織する実行委が運営する。集客目標は40万人。県は来館者の75%が県外からと見込んでいる。
展示会場には、江戸時代の長崎奉行所立山役所の建物を復元した「奉行所展示ゾーン」を使用。同奉行所は龍馬の部下が英国水兵殺害事件への関与を疑われて出頭したゆかりの史跡でもあり、「当時の雰囲気がそのまま味わえる」(大堀哲館長)ことが最大のセールスポイントだ。
約340平方メートルのスペースに、ドラマの撮影セットを再現し衣装や小道具を展示。物語の進行に合わせて見どころや登場人物を紹介する。長崎における龍馬の活動や交遊を掘り下げる「地元展示」を充実させ、オリジナル映像「長崎龍馬伝」を放映するハイビジョンシアターも設置する。
龍馬伝館設置に合わせ「幕末長崎古写真展」「実像坂本龍馬」など関連の特別企画展も予定している。大堀館長は「来年は龍馬一色で取り組む。全国から来崎する龍馬ファンを県内各地に誘導する役割も果たし、地域経済活性化に貢献したい」と話した。
龍馬伝館の観覧料は大人500円、高校生以下250円。
台風一過で暑くなるかと思ってましたが、今夜は熱帯夜から解放されるとか。うぅ、嬉しい……(^^)。
神奈川
「はとてんぷら」四千文…中華街最古のメニュー
「はとてんぷら」四千文…中華街最古のメニュー
ファストフードの基本「二八そば」が16文(幕末の数年間は物価高騰しているので当てはまらないかも知れませんが、江戸時代の長きにわたって16文でした)であることを考えると、「かもそば」も100倍以上、「はとてんぷら」に至っては……やはり高級料理なんですねぇ。
「浦賀ドッグ」で船と海を科学する体験イベント-横須賀の産業遺産を活用 /神奈川
「浦賀ドッグ」ぢゃなくて「浦賀ドック」ですがな(^^ゞ。
鳳凰丸建造とか、咸臨丸修理とか、中島三郎助ゆかりの地なので一度見に行きたいと思っています。
横浜ロイヤルパークホテル、ケーキショップ「コフレ」でシュークリームフェアを開催
詳細はリンク先参照ください。6種類全部美味しそう。
広島
日本初の蒸気帆船が広島に-長崎県が「龍馬」で県をPR /広島
ブックレビュー
現代版の名所案内 「森琴石と歩く大阪」出版
神奈川
「はとてんぷら」四千文…中華街最古のメニュー
「はとてんぷら」四千文…中華街最古のメニュー
横浜中華街(横浜市中区)で使われた、現存する最古のものとみられる130年以上前のメニューが、横浜開港資料館(同区)で行われている展示「横浜中華街150年 落地生根の歳月」で初公開されている。
同館主任調査研究員の伊藤泉美さんは「開港直後に完成した中華街の歴史を知る上で、貴重な資料」と話している。
このメニューを使っていたのは、中華料理店と劇場を兼ねた「会芳楼」。市民団体「横浜郷土研究会」副会長を務める生出恵哉さん(74)が約30年前に古書市で見つけ、自宅で保存していた。同館によると、会芳楼は1877年(明治10年)頃に閉店しており、幕末に使われていた可能性もあるという。
縦約15センチ、横約30センチの和紙でできたメニューには「かもそば(1800文)」「うし大皿(2500文)」「はとてんぷら(4000文)」など22種類の料理が並んでいる。1871年までの貨幣単位「文」は、1500文で干しうどん20束、150文で油揚げ5枚が買えたとされており、同店は高級店だったとみられるという。
展示は10月25日まで。
ファストフードの基本「二八そば」が16文(幕末の数年間は物価高騰しているので当てはまらないかも知れませんが、江戸時代の長きにわたって16文でした)であることを考えると、「かもそば」も100倍以上、「はとてんぷら」に至っては……やはり高級料理なんですねぇ。
「浦賀ドッグ」で船と海を科学する体験イベント-横須賀の産業遺産を活用 /神奈川
横須賀の産業遺産「浦賀ドッグ」を活用した体験イベント「船と海を科学しよう」が8月22日・23日、旧住友重機・浦賀工場跡地(横須賀市浦賀町4)で開催される。主催はレンガドック活用イベント実行委員会。(横須賀経済新聞)
同イベントは明治期に造られたレンガドックや昭和初期の工場などで、子どもたちが船や海の科学を体験できるイベント。スペシャル企画として「ドッグで迷路のアドベンチャー」、陸上ヨットに試乗できる「陸上ヨットでアドベンチャー」などを実施する。
「サイエンスショー」では、ポンプの原理を実験する「ドッグの水はどこまで上がる?」、ボーリングの玉を使った浮力実験「鉄の船が浮かぶわけ」などの体験教室を開くほか、ウミホタルや海の砂を観察するワークショップ、ホバークラフトや鉄の船作りのワークショップ(要事前申し込み)も行う。
2002年3月に閉鎖された「浦賀ドッグ」は、幕末に日本初の洋式大型軍艦「鳳凰丸(ほうおうまる)」を建造したほか、「咸臨丸」の修理、滑り台式大型船台や乾ドック、クレーン、接岸岸壁など造船技術の「産業遺産」が数多く残る。世界に4カ所しか現存していない「レンガ積みドライドック」は貴重な文化遺産といわれる。
同実行委員会広報担当者は「夏休みの子どもたちに横須賀の造船技術を知ってもらい、船や海の科学を楽しみながら体験してもらえたら」と話す。
開催時間は10時~16時。入場無料。詳細はサイトで確認できる。
「浦賀ドッグ」ぢゃなくて「浦賀ドック」ですがな(^^ゞ。
鳳凰丸建造とか、咸臨丸修理とか、中島三郎助ゆかりの地なので一度見に行きたいと思っています。
横浜ロイヤルパークホテル、ケーキショップ「コフレ」でシュークリームフェアを開催
シュークリームが6種類
シュー ボワ フェア開催 9月1日より
横浜ロイヤルパークホテル(横浜市西区みなとみらい/総支配人:小野寺康雄)ケーキショップ「コフレ」では、今年で横浜港が開港150周年を迎えたのに因み、幕末から明治にかけて横浜でフランス人菓子職人が開いた洋菓子店から日本に広まったといわれるシュークリームのフェアを開催します。
詳細はリンク先参照ください。6種類全部美味しそう。
広島
日本初の蒸気帆船が広島に-長崎県が「龍馬」で県をPR /広島
日本初の外輪型蒸気帆船「観光丸」が、坂本龍馬ゆかりの地に寄港する「長崎龍馬大航海2009」が8月13日から西日本の港で始まり、広島には16日、観音マリーナ(広島市西区観音新町)に寄港する。(広島経済新聞)
観光丸は、1855年にオランダ王国ウィレム3世から徳川幕府に献上され、長崎海軍伝習所の練習艦として使用された蒸気帆船。勝海舟ら幕末の武士たちは、この船で当時最新の航海術を学んだという。大きさは、全長65.80メートル、全幅14.50メートル、喫水4.2メートル、メーンマストの高さ32メートル、マスト数3本。ハウステンボス(長崎県佐世保市)が所有する現在の観光丸は、国立アムステルダム海事博物館所蔵の設計図と模型をもとに、オランダのフェロルメ造船所で復元・建造された。
現在は、横浜開港150周年事業に参加するため横浜港に停泊しているが、長崎への帰路につく途中、龍馬が脱藩したときにたどった松山やいろは丸事件の広島、塾頭を務めた海軍操練所がある神戸ら4カ所に寄港する。広島への寄港は今回が初めて。
会場では、船内見学に加え、ロープの上げ下ろしを行う「展帆作業」、船の先端渡りなど観光丸の魅力を体感できる「船内ツアー」を実施。このほか、先着500人にオーケーオフィスコーヒー(長崎市)が販売する「龍馬が愛した珈琲」のプレゼントや、ご当地イベントを開催するブースを設け、パネル展示なども行う。
長崎県は、坂本龍馬の生涯を描いた2010年に放映される大河ドラマ「龍馬伝」で舞台となったほか、龍馬が日本で始めて結成した商社「亀山社中」の拠点が置かれた場所でもあることから、県では推進協議会を置き、観光キャンペーンに力を入れている。
開催時間は10時~17時。体験ツアーは10時~、12時~。当日、会場への問い合わせは(TEL 080-4274-2961)まで。
ブックレビュー
現代版の名所案内 「森琴石と歩く大阪」出版
明治のガイドブックが紹介する大阪市内の名所109カ所を大阪市の学芸員仲間が散策し、その面影をリポートした「森琴石(もり・きんせき)と歩く大阪」(東方出版。A5判、244ページ。2520円)を出版した。明治期の南画・銅版画の大家、琴石の当時の精緻(せいち)な銅版画の挿絵も収録し、現在の写真なども併載する“現代版の大阪名所案内”にもなっている。
森琴石は、幕末から大正時代に活躍した文人画家。明治10年ごろを中心に銅版技術の第一人者として、地図や本の挿絵に精緻な銅版画を描いた。
琴石は、明治15年から21世紀につながる大阪の名所を訪ね歩き、明治15年にガイドブック「大阪名所独(ひとり)案内」として出版。当時の風景109カ所を琴石らしい精緻な銅版画として残している。そしてその絵に添うかのように著述家、伴源平が文章で名所・旧跡を紹介している。
このガイドブックの小冊子を美術全般、特に明治初期の銅版画や印刷物に造詣が深い大阪市学芸員、熊田司さん(60)が入手。「現代の視点から大阪市で働く学芸員仲間で手分けして歩いてみよう」との発案が出版のきっかけとなった。
熊田さんをはじめ伊藤純さん(大阪歴史博物館)ら15人の学芸員らが大阪日日新聞に2年2カ月間、110回にわたって「森琴石と歩くおおさかの町」(2002年5月16日-03年7月29日)と題して連載。昔からの名所旧跡をはじめ明治維新以降、近代国家の成長過程で創出された施設なども取り上げた。
学芸員は手分けして109カ所を回り、琴石に思いをはせながら名所旧跡を紹介。学芸員らの専門は多岐にわたるが、リポートには個々の興味や学識、個性が現れ、学芸員一人一人の「大阪名所独案内」となっている。問い合わせは電話06(6779)9571、同出版へ。
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