新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
皆さん、CDを買って招待チケットもらって来た客と、わざわざこの回のチケット買って来た客とが混ざって、演じにくいとか言ってたけど、基本的に落語好きじゃなきゃ来ないと思います……(^_^;)。
録音しておいて、状態がよかったらCDを出すつもりなんでしょうか>来福レーベルさん。客席はいまいちぎくしゃくしている感じでした。
めがね泥/一之輔
最前列に空席があったのを「○○○しにいってる?」みたいなこと言ってかき回してました。
一之輔って『鈴ヶ森』とか『夏どろ』とか、気弱な泥棒の噺がとっても合う。今回も定吉にしてやられる新米泥棒でした。
粗忽長屋/白酒
まくらの、さん喬・雲助・権太楼の回でそれぞれのファンの方々がどう振る舞うかというのが面白かったです。落語協会の柳家一門の中でもさん喬権太楼となるとファンも純化されているのでしょうか。
ちょっと早口ですが、八や熊の台詞にも白酒さんらしいアレンジがあって楽しい『粗忽長屋』でした。
悋気の独楽/生志
立川流からの出演というところで寄席を経験していないコンプレックスを話しつつ、家元ネタ少々。兄弟子いじり少々。
声とか仕草とかに亡き談志家元を感じてしまうのがさすが談志一門。
はじめてのフライト/白鳥
小沢一郎ねたはさすがに賞味期限切れかも……いいストーリーなんだけどね。最後になるかも知れないと思って、聴衆参加型のところはしっかり身体を動かしました。
笠碁/文左衞門
録音→CD収録を予定しているような感じでしたが、台詞や呼吸のひとつひとつがよく練られているのでよろしいんじゃないでしょうか。『笠碁』は、碁盤に石を置く場面がビジュアルで見られないとちょっと残念ではありますが……。
録音しておいて、状態がよかったらCDを出すつもりなんでしょうか>来福レーベルさん。客席はいまいちぎくしゃくしている感じでした。
めがね泥/一之輔
最前列に空席があったのを「○○○しにいってる?」みたいなこと言ってかき回してました。
一之輔って『鈴ヶ森』とか『夏どろ』とか、気弱な泥棒の噺がとっても合う。今回も定吉にしてやられる新米泥棒でした。
粗忽長屋/白酒
まくらの、さん喬・雲助・権太楼の回でそれぞれのファンの方々がどう振る舞うかというのが面白かったです。落語協会の柳家一門の中でもさん喬権太楼となるとファンも純化されているのでしょうか。
ちょっと早口ですが、八や熊の台詞にも白酒さんらしいアレンジがあって楽しい『粗忽長屋』でした。
悋気の独楽/生志
立川流からの出演というところで寄席を経験していないコンプレックスを話しつつ、家元ネタ少々。兄弟子いじり少々。
声とか仕草とかに亡き談志家元を感じてしまうのがさすが談志一門。
はじめてのフライト/白鳥
小沢一郎ねたはさすがに賞味期限切れかも……いいストーリーなんだけどね。最後になるかも知れないと思って、聴衆参加型のところはしっかり身体を動かしました。
笠碁/文左衞門
録音→CD収録を予定しているような感じでしたが、台詞や呼吸のひとつひとつがよく練られているのでよろしいんじゃないでしょうか。『笠碁』は、碁盤に石を置く場面がビジュアルで見られないとちょっと残念ではありますが……。
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毎回、企画が楽しみな「渋谷に福来たるSPECIAL」。今回は四派爆笑編。
壺算/兼好
途中から聴いたのだけど、軽やかで洒脱なのが身上だなぁ。店の者が女性だという演出も、この人のニンに合っている。
粗忽の釘/鯉昇
普通は箒をかける釘を打つという設定なんだけど、鯉昇師版は女房のおばの形見のロザリオをかけるための釘という設定なんだ……なんか、山伏がじゃらっと首にかける数珠よりでかいロザリオなんでしょうか(汗)。
金明竹/談笑
私、談笑師を聴きすぎているのかも知れません……何度聴いても笑えるのが落語ではあるのですが、津軽弁の口上の内容も結構わかってしまうと笑えなくなってしまう(汗)。
試し酒/たい平
ライブで聴くのは2回目ぐらい? わかりやすくて聴きやすい、たい平師。久蔵が一瞬、大槻出身になっていたがその後は丹波出身ということになっていた(苦笑)。
壺算/兼好
途中から聴いたのだけど、軽やかで洒脱なのが身上だなぁ。店の者が女性だという演出も、この人のニンに合っている。
粗忽の釘/鯉昇
普通は箒をかける釘を打つという設定なんだけど、鯉昇師版は女房のおばの形見のロザリオをかけるための釘という設定なんだ……なんか、山伏がじゃらっと首にかける数珠よりでかいロザリオなんでしょうか(汗)。
金明竹/談笑
私、談笑師を聴きすぎているのかも知れません……何度聴いても笑えるのが落語ではあるのですが、津軽弁の口上の内容も結構わかってしまうと笑えなくなってしまう(汗)。
試し酒/たい平
ライブで聴くのは2回目ぐらい? わかりやすくて聴きやすい、たい平師。久蔵が一瞬、大槻出身になっていたがその後は丹波出身ということになっていた(苦笑)。
一昨日、東京では平年より10日早い桜が開花したようです。これから一週間の天気予報を見るとけっこう暖かい(というか平年より高い)日が続くようなので、東京の桜はこれから10日ぐらいでしょうか……今年は函館の桜の見頃を想定して旅行を予定しているのですが、函館も平年より10日早かったりしたら見逃すかも……(汗)。
北海道
ことしの土方は俺だ 函館野外劇オーディション
京都
戊辰戦争の戦略図、初公開 新政府軍の会津攻め一目で 京都
コラム
新選組が名を挙げた「池田屋事件」の背景 敵の謀略暴いたのは…
逆境に負けない八重の生き方とは?
エンターテインメント
『八重の桜』会津弁わかりにくく「字幕ほしい」と会津藩士末裔
ミュージカル「薄桜鬼」沖田総司篇 新選組の新たなる物語 高浩美の アニメ×ステージ&ミュージカル談義(1/3)
北海道
ことしの土方は俺だ 函館野外劇オーディション
NPO法人市民創作「函館野外劇」の会(中村由紀夫理事長代行)は10日、今年の第26回公演のメーンキャストオーディションを行った。同会スタッフを含む33人が参加、役柄への思いをアピールした。
募集していたのはペリー提督や武田斐三郎、コロポックル、弁士など全21役。昨年も出演していた参加者は「初心に帰ってがんばりたい」「やり残したことがあった」と、中村理事長代行ら審査員4人に劇への思いを訴え、台本に沿って朗々としたせりふを披露した。
箱館戦争シーンの土方歳三役の希望者は3人。声を張り上げ、迫力ある殺陣や決めポーズでPRしていた。参加4年目で初めて土方役に応募した函館工業高校2年、河野憲嗣君(16)は「心が強い土方への思いは誰にも負けない。今日の演技には納得できなかったけど、いい結果を待ちたい」と話していた。
審査結果は12日に郵送通知し、24日から稽古を開始。今年の公演は7月5日~8月10日の全11回。
京都
戊辰戦争の戦略図、初公開 新政府軍の会津攻め一目で 京都
■霊山歴史館 軍監の書き写しか
戊辰戦争時の新政府軍の会津若松での戦略図「奥州会津若松戦地略図」の写しが見つかり、京都市東山区の霊山歴史館で公開されている。現物は残っておらず、写しの公開も初めて。同館では「会津での新政府軍の戦略が一目でわかる希少な史料」としている。(鈴木俊輔)
◇
奥州会津若松戦地略図は、戊辰戦争時の会津若松戦の戦略を描いた図。慶応4(1868)年に作られたとされ、新政府軍が会津若松を四方から攻めたことがはっきりとわかる。
現物は残っておらず、今回公開されているのは戦い後、各藩から参加した軍監が、藩に資料として持ち帰るために書き写したうちの1枚とみられている。横浜市在住の男性が、同館に寄贈し、今年1月に始まった通年特別展示「会津の武士道」で初公開された。
同館は「若松城への政府軍の戦略が一目でわかる。戦いの勝者側にも敗者側にもなかなか残らない希少な史料」としている。
特別展示は12月26日まで3期に分かれて開催され、現在は第1期。「八重の時代」と題し、新島八重ゆかりの品を中心に5月6日まで展示する。奥州会津若松戦地略図は3期通じて公開する予定。問い合わせは同館(電)075・531・3773へ。
コラム
新選組が名を挙げた「池田屋事件」の背景 敵の謀略暴いたのは…
「四条河原町の桝屋の動きがどうも騒がしい」。新選組の秘密警察「監察」の島田魁(かい)、山崎烝(すすむ)らから報告を受けた局長の近藤勇と副長の土方歳三が桝屋の家宅捜索を命じたのが元治元(1864)年6月5日だった。
「御用改めである」。武田観柳斎を筆頭に新選組が踏み込み、くまなく捜索したところ武器弾薬類や諸藩浪士関係の書類が出てきたため店の主、喜右衛門を逮捕する。
この桝屋喜右衛門こそが反幕府の皇族、有栖川宮熾仁(たるひと)親王と長州藩の間をつないだ尊王攘夷(尊攘)派の志士、古高俊太郎だった。
近江国古高村(現在の滋賀県守山市)で代官所の下級役人の子として生まれた古高は尊攘派の儒学者、梅田雲浜(うんぴん)に弟子入り。肥後藩出身の尊攘派で長州藩でも影響力を持つ宮部鼎蔵(ていぞう)とも親交があり、店は尊攘派の拠点になっていた。
文久3(1863)年8月18日、会津藩、薩摩藩ら公武合体派によるクーデターで京都から追放された長州藩ら尊攘派が巻き返しを狙っている最中だっただけに、古高の逮捕は大きな打撃だったに違いない。
古高の動きの裏に潜む事の重大性を読んだ近藤と土方が、壬生の八木邸と並ぶもうひとつの屯所・前川邸で行った取り調べはすさまじいものだった。
2階建ての土蔵で逆さづりにし、1階で胴、2階で足をむち打つ。それでも口を割らないため、土方がくぎを足の甲から裏に打ち抜き、そこに火の付いたロウソクを立てさせる。こんな冷酷な攻めに音を上げた古高はついに恐るべき計画を自供した。
祇園祭の風の強い日に御所に火を放ち、そのすきに公武合体派の中川宮を幽閉。将軍後見職の一橋慶喜と京都守護職の松平容保(かたもり)を殺害するとともに孝明天皇を長州へ誘拐する-というものだった。
さらに捜査を進めたところ、古高逮捕を受けて計画の実行か中止を決める会合を三条小橋近くの池田屋か四国屋で開くことも判明した。
上洛する将軍、徳川家茂の警護のため京へ入った近藤ら。いかつい風体から“壬生浪(みぶろう)”とさげすまれたその名を一躍天下に知らしめた池田屋事件はこうやって幕を開けたのだった。(園田和洋)
逆境に負けない八重の生き方とは?
幕末から昭和にかけて、激動の時代を生きた会津出身の女性、新島八重。戊辰戦争の敗戦で迎えた新しい時代にあっても、幼少時に学んだ武士道の精神を胸に自らの信念を貫いた生き方は、当時の女性としては異例のことだった。今年のNHK大河ドラマの主人公である八重の生涯を紹介する展覧会が、江戸東京博物館で開かれる。
会場の展示は、明治元(1868)年に新政府軍の砲撃を受けて開城した会津鶴ヶ城の古写真から始まる。会津藩砲術師範の父を持ち、砲術に親しんだ八重は銃を手に城に立て籠もって戦った。八重のモットー「ならぬことはならぬ(不義には生きない)」の基となった会津藩の教えから、日清・日露戦争で篤志看護婦として従軍し“日本のナイチンゲール”になるまでの八重の軌跡を、ゆかりの品々約200点を通してたどる。
アメリカ留学経験者で同志社英学校を創立した夫、新島襄は八重の内面の美しさを“ハンサム”と評したという。展覧会では、往時の暮らしを偲ばせる新島旧邸の部屋も再現、気高く生きた“ハンサム・ウーマン”の実像と出会える。
2013年NHK大河ドラマ特別展「八重の桜」
<開催日>2013年3月12日~5月6日
<会場>東京都墨田区・江戸東京博物館(総武線両国駅下車)
<問>電話:03(3626)9974
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/
エンターテインメント
『八重の桜』会津弁わかりにくく「字幕ほしい」と会津藩士末裔
「会津弁がわかりにくいので字幕をつけて欲しい」
「何言ってるのか聞き取りにくいよね」
綾瀬はるか(27才)が主演しているNHK大河ドラマ『八重の桜』に、視聴者からこんな声が上がっている。この作品は、会津藩の砲術指南の家に生まれ、のちに同志社大学を創設した新島襄の妻となった八重の生涯を描いたストーリーで、八重や会津藩士たちのセリフはすべて会津弁だ。
山口県の下関市立中央図書館館長の安冨静夫さんが言う。
「綾瀬さんが演じる八重さんの会津弁は忠実すぎるところは味があるのですが、よく聞かないとわからないところもありますね。それに、ドラマは会津藩からの視点になっているので、長州が敵のように描かれるのは複雑な思いではあります」
山口県はかつて長州藩があった地。長州藩は、戊辰戦争を官軍として会津と戦った。明治以降、会津藩の悲劇や白虎隊の悲愴なストーリーが明らかになる一方で、長らく長州は悪者として描かれてきた。長州には、近代日本の礎を作ったというプライドと会津の遺恨を背負っているという、複雑な思いを感じながら見ている人もいるようだ。
『八重の桜』の会津弁がわかりにくいという指摘は、地元会津の人からも出ている。
「綾瀬さんの会津弁はネイティブに近いのですが、どちらかといえば現在では年配者が使っている会津弁という感じがして、会津地方以外の人には字幕が必要かもしれないと思いました。また、八重が子供だったころの放送回では、われわれが使っている会津弁とは違い、地元の人間ですら“字幕がほしい”と思ったぐらいです」
と言うのは、会津藩士の末裔で会津若松観光物産協会の佐藤功武さん。会津弁とひと口にいっても、実はさまざま。ドラマの舞台となる城下の会津若松と、ひと山越えた集落とでも違いがあるという。
「たとえば“あなた”は会津若松では“おめ、にしゃ”。南会津では“にし”と言います。“にしゃどこだ?”となれば“あなたどこから来た?”という意味になります」(佐藤さん)
会津以外の地域に住む人にとっては「?」な言葉のオンパレード。そこで『八重の桜』によく登場する方言を解説していく。
●「ごめんなんしょ」「ありがとなし」
語尾に「し」や「くなんしょ」をつけることで目上に対する尊敬語になるという。
「“し”は“です”、“くなんしょ”は“ください”という意味になります。“ごめんなんしょ”であれば“ごめんなさい”。どちらかといえば“失礼します”の意味で使われ、英語でいえば“エクスキューズミー”に近いニュアンスになります」(佐藤さん)
●「なじょ」
八重が相手に何かを尋ねるときに使う「なじょした?」という方言もよく出てくる。「なじょ」は、「どうした」など状態をあらわす「何如」が語源。これは相手の様子をうかがうときによく使うと教えてくれたのは、小料理屋『こんべぇ』(東京・新橋)を営む会津出身の星喜久江さん。
「私が生まれ育った大内宿のある下郷という地域では子供たちに“学校はどう?”と聞くときに“学校なじょだ?”と尋ねます。使うのは60代以上の年配者が中心ですが、今でもよく飛び交う言葉ですね」(星さん)
※女性セブン2013年3月28日号
ミュージカル「薄桜鬼」沖田総司篇 新選組の新たなる物語 高浩美の アニメ×ステージ&ミュージカル談義(1/3)
高浩美の アニメ×ステージ&ミュージカル談義 第15回
ミュージカル「薄桜鬼」沖田総司篇
幕末を駆け抜けた新選組の新たなる物語「薄桜鬼」
歌でダンスで殺陣でダイナミックに、あの世界観が舞台に蘇る
[取材・構成: 高浩美]
■ 新選組はいつの時代でも人気の“コンテンツ”
2008年に発売された大ヒット恋愛アドベンチャーゲーム『薄桜鬼~新撰組奇譚~』、ゲームはシリーズ化されて続けて発売、累計160万本以上のヒット作となった。その後アニメ化され、こちらのシリーズも大好評を博している。CDはもちろん、WEBラジオあり小説あり、とにかく人気“コンテンツ”である。
また、『るるぶ薄桜鬼』(2013年2月13日発売・JTBパブリッシング)も刊行され、『薄桜鬼』のゆかりの地を訪ねるというもの。ストーリーや台詞、名場面イラストを紹介しつつ、“見る、食べる、遊ぶ”といった旅行ガイドも満載されている。
さらに今年の夏にはテレビアニメ『薄桜鬼 黎明録』スタート、OVA『薄桜鬼 雪華録 第六章 千景篇』6月発売、さらに『劇場版 薄桜鬼』が公開、こちらは完全新作、新ストーリーの2部作と『薄桜鬼』プロジェクトが目白押し、ファンにはとっては嬉しい限りだろう。
舞台は2010年に「薄桜鬼 新選組炎舞録」、2012年ミュージカル『薄桜鬼』斉藤一篇が上演された。そして今年は新選組の人気登場人物である沖田総司篇が上演される。
新選組、といえば、近年は三谷幸喜脚本によるNHK大河ドラマ『新選組!』があったが、新選組を題材にしたドラマや映画はとにかく多い。
明治政府が倒幕派だったので、新選組に関する歴史的研究は遅れたようだが、新選組の人気は明治時代の講談から始まったようである。その後、小説や映画、ドラマ、ゲーム、漫画等になり、新選組ゆかりの地に行くファンも多く、数々のイベントもある。もちろん観光資源としても“活用”され、東京都日野市は“新選組のふるさと”、新選組資料館等もある。これほどの息の長い人気“コンテンツ”は他にはないだろう。
ミュージカル「薄桜鬼」沖田総司篇
3月14日~24日
サンシャイン劇場
http://www.maql.co.jp/special/m-hakuoki/
■ 魅力的なキャラクター、悲劇的な運命、そして幕末という時代
新選組の魅力はなんといっても登場人物の多彩さと彼らのたどった悲劇的な運命だろう。新選組の隊士の多くは浪士であり、町人、農民出身の者もいた。局長の近藤勇自身も農民の三男だったし、土方歳三も農民の出身だった。沖田総司は肺結核で夭折、その他の面々も粛清されたり脱走したり、と数奇な運命をたどる。どの人物も“主人公”になれる中味の濃いキャラクターばかり。
つかこうへいの戯曲「幕末純情伝」では沖田総司は女性として登場させているし、とにかく新選組は作家の想像力をかき立てられる題材なのだろう。そして今回のミュージカル「薄桜鬼」は沖田総司が中心となる。
また、新選組と対立関係にある倒幕派も多士済々。坂本龍馬始め、勝海舟、西郷隆盛等、とにかくキャラ揃い。“対立関係”にあるものが強大だったり魅力的であったりすると、それだけ主役は際だつ。「薄桜鬼」もそうだが、新選組等の幕府側を扱った作品も倒幕派中心に描かれた作品も、どちらも正直面白い。
今、オンエアされている大河ドラマ「八重の桜」も時代はまさしく幕末、NHKの大河ドラマで繰り返し幕末物が放送される所以ではないだろうか。
■ 幕末の、『薄桜鬼』の世界がバージョンアップ!
プレイベントのトークショーも盛り上がった今回の公演、まずは客席扉から沖田総司登場で冒頭から盛り上がる、という趣向。そして、勢いのある殺陣で一気にヒートアップ。エンターテインメント性溢れる構成で観客のテンションを上昇気流に乗せる。『薄桜鬼』の特長である史実とフィクションのミックスで観ながらにして“幕末”時代のおさらいも出来る。
徳川家茂上洛、張り切る新選組のメンバー。“事実と非事実”が舞台で交錯、融合し、“化学反応”を起こして独自の空間が出現する。ダンス×殺陣は大きな見どころのひとつ。今、流行りのステップと殺陣を上手い具合にミックスさせてダイナミック、かつ躍動感溢れる場面を創造する。
今回は新たに雪村千鶴の兄である南雲薫が登場し、物語の鍵を握る。完全新作で新たな新選組伝説が紡ぎ出される。
沖田総司役の廣瀬大介始め、初演の斉藤一篇からの面々、だいぶ役にも慣れた感じで、よくハマッていたのが印象的。南雲薫役の鈴木拡樹はカンパニー初参加だが、よく馴染んでおり、殺陣も上手くこなしており、沖田総司との一騎打ちは見せ場となっている。また妹の千鶴役の山本沙也加との“ど演歌デュエット”はかなり笑えるシーンに。
さらに今年の10月には第3弾土方歳三篇も上演決定、『薄桜鬼』、ますます目が離せない。
ミュージカル「薄桜鬼」沖田総司篇
3月14日~24日
サンシャイン劇場
http://www.maql.co.jp/special/m-hakuoki/
「薄桜鬼」オフィシャルサイト
http://www.geneonuniversal.jp/rondorobe/anime/hakuoki/
「薄桜鬼」総合サイト
http://www.otomate.jp/portal/hakuoki_sogo/
古今亭菊之丞さんが文化庁の平成24年度芸術選奨文部科学大臣賞新人賞を受賞、またご再婚とダブルおめでたなので、トリでご出演の末廣亭へ。
二重の喜び古今亭菊之丞、女性アナと結婚
【昼席】
「らくだ」小燕枝
……昼席夜席の入れ替えなしの末廣亭ならもう少し早く入っておけばよかった(汗)、せめて小燕枝師匠の「らくだ」は端から聴きたかったなぁ。
ちょうど屑屋さんが丁の目の半次に勧められる酒を呑みながら変貌する場面から、らくだの髪を落とすために剃刀を借りてこいと屑屋さんが半次に命令する場面まで。
ここから先はちょっとグロい展開もあるので、いいとこでサゲだなぁと思う。
【夜席】
「小ほめ」しあわせ
「権助提灯」歌太郎
奇術/マギー隆司
「花見小僧」燕路
燕路さんも、小燕枝さんと同じく、出番が浅くても中入り前でもトリでも嬉しい落語家さん。10日早い桜開花情報が昨日聞こえたところで季節ものの「花見小僧」。
小僧さんに与えられる盆暮れのお休み「藪入り」のことを「宿り」とも言うんですね。「宿下がり」を略して「宿り」なのね。
「謎解き千早振る」菊輔
巻物持って登場する菊輔師匠の「謎解き千早振る」2回目。落語の「千早振る」は百人一首の在原業平の句をトンデモ話にしてしまうご隠居と熊さんの会話だが、こちらは本歌を解説して現代語訳をくっつけたりする新作落語……マンガの「ちはやふる」の紹介もあり。笑いどころは女子高生語版2パターンでしょうか。
曲ごま/紋之助
今日は調子良かった(笑)。ミスってテンパる時も面白いし、調子が良くて「よーし」とノリよく勧める時も面白い。今日のお客さんは初めて見る方も何人かいたようで素直に感嘆の「ほー」が出てくる感じだったのでノリやすかったようです。
「ろくろ首」はん治
はん治さんの古典落語、初めて聴いたかも(苦笑)。「ぼやき居酒屋」も「背中で老いてる唐獅子牡丹」も嫌いではないけど、この方の古典落語聴いてみたかったのでちょっと嬉しい。
そして安定して面白い。与太郎でなくて松公が主人公なのは上方バージョンの名残りですね。
「九郎蔵狐」藤兵衛
桂藤兵衛さん、初めてです。上方の「饅頭怖い」から「狐が怖い」というところを独立させた噺。「九郎蔵狐」でいいのかな。
紙切り/正楽
何をリクエストされても作品にできる正楽師匠はすごい。そして、だいたい台詞は決まっているんだけど、いつ聴いても笑わされる。
今日は「ろくろ首」とか「芝浜」とか落語のネタが多め。最後は「花見」で、これまた満開の桜の下で踊っている酔客とか、見事。
「勘定板」駒三
江戸時代のトイレ事情を詳しめに解説していただいたおかげで、地方によってはトイレを「閑所(かんしょ)」と呼んでいたこと、排泄物を水に流すために「閑所板」なるものを使っていたことをしっかりインプットしました。
なので、田舎から出てきた宿の客が「かんじょぶつ(閑所で用足す)」を「勘定払う」と聞き違える宿屋の番頭とのとんちんかんなやりとりが大爆笑もの。
「看板のピン」文楽
当代文楽師匠の鉄板ネタだと思います。
中入り
「くしゃみ講釈」菊太楼
胡椒の代わりに唐辛子粉で……って、目鼻はヒーヒー痛くなるでしょうがくしゃみは出ないと思います、とネタに心のなかでツッコミをいれつつも、もの忘れが激しい主人公とか、覗きカラクリの「八百屋お七」の語りとか、面白いです。
漫談/ロケット団
今日はワールドベースボールクラシックの話題とか最近の時事ネタ中心。隣のカップルとか、笑い過ぎるくらい笑ってました。
私は「北の国から」ネタがなかったのでちょっと寂しい(汗)。
「浮世床」一之輔
白酒さん代演で一之輔さん。一之輔さんの「浮世床」はまさしく男子校の部室風景っぽい(苦笑)。
「六尺棒」朝馬
先代馬生師のお弟子さんで芸名を吉原朝馬さん。その芸名にちなんだかどうかは知らないが、吉原で遊び惚けて帰宅したどら息子と父親の喧嘩を描いた「六尺棒」。
「お見立て」菊之丞
大拍手とともに「おめでとう」のかけ声もちらほら。今日はいつも以上に歌舞伎役者風の男ぶりに磨きがかかって見えました。
「ネタがかぶる」ではないのですが「看板のピン」「六尺棒」「お見立て」の三本のマクラが「三どら煩悩」……このくらいはOKなのかな。
菊師お得意のネタのひとつ。客あしらいに手慣れた喜瀬川花魁の年増だけど売れっ子花魁で嘘も方便な女っぷり、杢兵衛お大尽(菊師版では出身地に言及はないものの、作品によっては流山の大商家の主人らしい……流山って利根川から江戸への水運の要地であるとともに味醂を初めとした醸造所の基地でもあったのだが、ずいぶんな田舎者扱い……)、そのふたりの間で右往左往する牛太郎の喜助と、コミカルで活き活きとしたトリねたでした。
改めて、芸術選奨新人賞受賞、ご結婚、おめでとうございますm(__)m。芸にますます磨きがかかりますよう。
二重の喜び古今亭菊之丞、女性アナと結婚
【昼席】
「らくだ」小燕枝
……昼席夜席の入れ替えなしの末廣亭ならもう少し早く入っておけばよかった(汗)、せめて小燕枝師匠の「らくだ」は端から聴きたかったなぁ。
ちょうど屑屋さんが丁の目の半次に勧められる酒を呑みながら変貌する場面から、らくだの髪を落とすために剃刀を借りてこいと屑屋さんが半次に命令する場面まで。
ここから先はちょっとグロい展開もあるので、いいとこでサゲだなぁと思う。
【夜席】
「小ほめ」しあわせ
「権助提灯」歌太郎
奇術/マギー隆司
「花見小僧」燕路
燕路さんも、小燕枝さんと同じく、出番が浅くても中入り前でもトリでも嬉しい落語家さん。10日早い桜開花情報が昨日聞こえたところで季節ものの「花見小僧」。
小僧さんに与えられる盆暮れのお休み「藪入り」のことを「宿り」とも言うんですね。「宿下がり」を略して「宿り」なのね。
「謎解き千早振る」菊輔
巻物持って登場する菊輔師匠の「謎解き千早振る」2回目。落語の「千早振る」は百人一首の在原業平の句をトンデモ話にしてしまうご隠居と熊さんの会話だが、こちらは本歌を解説して現代語訳をくっつけたりする新作落語……マンガの「ちはやふる」の紹介もあり。笑いどころは女子高生語版2パターンでしょうか。
曲ごま/紋之助
今日は調子良かった(笑)。ミスってテンパる時も面白いし、調子が良くて「よーし」とノリよく勧める時も面白い。今日のお客さんは初めて見る方も何人かいたようで素直に感嘆の「ほー」が出てくる感じだったのでノリやすかったようです。
「ろくろ首」はん治
はん治さんの古典落語、初めて聴いたかも(苦笑)。「ぼやき居酒屋」も「背中で老いてる唐獅子牡丹」も嫌いではないけど、この方の古典落語聴いてみたかったのでちょっと嬉しい。
そして安定して面白い。与太郎でなくて松公が主人公なのは上方バージョンの名残りですね。
「九郎蔵狐」藤兵衛
桂藤兵衛さん、初めてです。上方の「饅頭怖い」から「狐が怖い」というところを独立させた噺。「九郎蔵狐」でいいのかな。
紙切り/正楽
何をリクエストされても作品にできる正楽師匠はすごい。そして、だいたい台詞は決まっているんだけど、いつ聴いても笑わされる。
今日は「ろくろ首」とか「芝浜」とか落語のネタが多め。最後は「花見」で、これまた満開の桜の下で踊っている酔客とか、見事。
「勘定板」駒三
江戸時代のトイレ事情を詳しめに解説していただいたおかげで、地方によってはトイレを「閑所(かんしょ)」と呼んでいたこと、排泄物を水に流すために「閑所板」なるものを使っていたことをしっかりインプットしました。
なので、田舎から出てきた宿の客が「かんじょぶつ(閑所で用足す)」を「勘定払う」と聞き違える宿屋の番頭とのとんちんかんなやりとりが大爆笑もの。
「看板のピン」文楽
当代文楽師匠の鉄板ネタだと思います。
中入り
「くしゃみ講釈」菊太楼
胡椒の代わりに唐辛子粉で……って、目鼻はヒーヒー痛くなるでしょうがくしゃみは出ないと思います、とネタに心のなかでツッコミをいれつつも、もの忘れが激しい主人公とか、覗きカラクリの「八百屋お七」の語りとか、面白いです。
漫談/ロケット団
今日はワールドベースボールクラシックの話題とか最近の時事ネタ中心。隣のカップルとか、笑い過ぎるくらい笑ってました。
私は「北の国から」ネタがなかったのでちょっと寂しい(汗)。
「浮世床」一之輔
白酒さん代演で一之輔さん。一之輔さんの「浮世床」はまさしく男子校の部室風景っぽい(苦笑)。
「六尺棒」朝馬
先代馬生師のお弟子さんで芸名を吉原朝馬さん。その芸名にちなんだかどうかは知らないが、吉原で遊び惚けて帰宅したどら息子と父親の喧嘩を描いた「六尺棒」。
「お見立て」菊之丞
大拍手とともに「おめでとう」のかけ声もちらほら。今日はいつも以上に歌舞伎役者風の男ぶりに磨きがかかって見えました。
「ネタがかぶる」ではないのですが「看板のピン」「六尺棒」「お見立て」の三本のマクラが「三どら煩悩」……このくらいはOKなのかな。
菊師お得意のネタのひとつ。客あしらいに手慣れた喜瀬川花魁の年増だけど売れっ子花魁で嘘も方便な女っぷり、杢兵衛お大尽(菊師版では出身地に言及はないものの、作品によっては流山の大商家の主人らしい……流山って利根川から江戸への水運の要地であるとともに味醂を初めとした醸造所の基地でもあったのだが、ずいぶんな田舎者扱い……)、そのふたりの間で右往左往する牛太郎の喜助と、コミカルで活き活きとしたトリねたでした。
改めて、芸術選奨新人賞受賞、ご結婚、おめでとうございますm(__)m。芸にますます磨きがかかりますよう。
『八重の桜』は、今日が池田屋事件の回ですね。
福島
県内外の児童・生徒無料 5月開幕「八重の桜展」
神奈川
役者絵描けば幕末随一、砂子の里資料館で三代歌川豊国展/川崎
京都
新選組隊士になりきった 京都の商店街でコスプレ
以降は、朝日の有料サービスとなります。
毎小ミュージアム:幕末維新ミュージアム 霊山歴史館
京都府文化財、新たに10件 本満寺蓮乗院霊屋など
大阪
淀川べりの要塞、松平容保の深慮 楠葉台場跡(大阪府枚方市) 古きを歩けば(48)
熊本
熊本近代文学館:宮部鼎蔵の日記展示 象山の漢詩記載 /熊本
エンターテインメント
【オリコン】恋愛ゲーム『薄桜鬼』旅行本が人気 部門別で首位に
福島
県内外の児童・生徒無料 5月開幕「八重の桜展」
県は、5月17日に県立博物館(会津若松市)で開幕する企画展「八重の桜展」(7月3日まで)について、県内外の小、中、高校の児童・生徒は観覧無料とする。
期間中は教育旅行シーズンと重なるため、無料化を東京電力福島第1原発事故の影響で落ち込んだ教育旅行需要の回復に向けた起爆剤としたい考えだ。
5日の2月県議会一般質問で、水野さち子議員(ふくしま未来ネットワーク、会津若松市)の質問に杉昭重県教育長が答えた。
八重の桜展は、放送中のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロインで、会津出身の新島八重のゆかりの和歌短冊や帽子など資料約200点を展示する。戊辰戦争前後の会津藩時代から京都で活躍する時代まで、八重の生涯や人物像を資料を通して紹介する。杉教育長は「県内外の多くの子どもに本県の歴史や伝統・文化に触れる機会を提供したい」と無料化の意義を強調した。
県は「風評被害は根強いが、八重の桜展の無料化を教育旅行の回復のきっかけとしたい」としている。
神奈川
役者絵描けば幕末随一、砂子の里資料館で三代歌川豊国展/川崎
幕末の浮世絵師で役者絵を描かせれば当代随一といわれた三代歌川豊国の作品を集めた展覧会が23日まで、京急川崎駅そばの川崎・砂子の里資料館で開かれている。
三代豊国は1786年生まれ。初代に入門し、若いころは国貞を名乗っていた。展覧会には国貞時代の1818年ごろの初期の作品から、三代豊国となった1860年代の作品まで約60点が展示されている。
片岡仁左衛門、中村芝翫、市川海老蔵、坂東三津五郎などの役者が演じる役と花をなぞらえて、謎解きのように楽しむ「当世見立三十六花撰」のひとそろいは、なかなか見られないという。
「歌川派を安定させた幕末の重鎮。広重とも親しかった。この機会にぜひ」と斎藤文夫館長は話している。
入場無料。日曜・祝日休館。問い合わせは、同館電話044(222)0310。
京都
新選組隊士になりきった 京都の商店街でコスプレ
幕末、新選組が尊王攘夷(じょうい)派の志士を襲撃した「池田屋騒動址(あと)」がある三条小橋商店街(中京区)で3日、新選組隊士のコスプレイベントがあった。訪れた人たちは、コスプレーヤーのパフォーマンスや写真撮影を楽しんだ。
同商店街振興組合が主催し、今年で2回目。商店街の歴史をアピールして…
以降は、朝日の有料サービスとなります。
毎小ミュージアム:幕末維新ミュージアム 霊山歴史館
◇幕末ばくまつから明治維新めいじいしんの歴史れきしを調しらべる
1970年ねん、幕末ばくまつから明治維新めいじいしんにかけての歴史れきしを調しらべる専門博物館せんもんはくぶつかんとして、当時とうじの政治せいじの中心地ちゅうしんち・京都きょうとに開館かいかんしました。維新いしんに命いのちをかけた坂本龍馬さかもとりょうまや桂小五郎かつらこごろう、中岡慎太郎なかおかしんたろうなどの志士ししをまつる墓はかや慰霊碑いれいひがある「京都霊山護国神社きょうとりょうぜんごこくじんじゃ」の向むかいにあります。
高杉晋作たかすぎしんさくが自作じさくの漢詩かんしを記しるした鉄てつの扇おうぎや、龍馬りょうまを斬きったとされる刀かたななど倒幕派志士とうばくはししのゆかりの品しなと、幕府側ばくふがわである新選組しんせんぐみの腕章わんしょう、徳川慶喜とくがわよしのぶの書しょなど、あわせて5000点てんを超こえる資料しりょうが集あつまります。順次公開じゅんじこうかいされる約やく100点てんの展示物てんじぶつから、維新いしんを総合的そうごうてきにとらえることができます。
今年ことしの通年特別展つうねんとくべつてんは、NHK大河たいがドラマにちなんだ「会津あいづの武士道ぶしどう」。5月がつ6日むいかまでの第だい1期きは、主人公しゅじんこうの新島八重にいじまやえの生涯しょうがいと、幕末ばくまつの会津藩あいづはんの歴史れきしを紹介しょうかいしています。(丸)
■京都市東山区きょうとしひがしやまく
▽最寄もより駅えき:JR「京都きょうと」駅えきから、市しバスで「清水道きよみずみち」か「東山安井ひがしやまやすい」下車げしゃ、徒歩とほ7分ふん
▽開館かいかん:開館かいかんは午前ごぜん10時じ。閉館へいかんは時期じきによって、午後ごご5時半じはん、午後ごご6時半じはん、午後ごご7時半じはんのいずれか
▽入館料にゅうかんりょう:小中学生しょうちゅうがくせい300円えん、高校生こうこうせい400円えん、大人おとな700円えん(常設展じょうせつてんのみの期間きかんは、それぞれ200円えん、300円えん、500円えん)
電話 075・531・3773
京都府文化財、新たに10件 本満寺蓮乗院霊屋など
京都府教委は5日、本満寺蓮乗院霊屋(れんじょういんたまや)(京都市上京区)や人面付土器頭部片(与謝野町)など、新たに10件(京料理・会席料理含む)を府文化財に指定・登録することを決めた。府文化財は計712件(指定464、登録217など)となる。
本満寺は日蓮宗の寺院。蓮乗院は、越前北ノ庄藩(福井藩)の藩祖松平(結城)秀康の正室で、霊屋には越前産笏谷石(しゃくだにいし)が使われ、元和7(1621)年と刻まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、江戸初期の石造建築を伝える。人面付土器は、旧加悦町の温江遺跡から出土した。鶏のとさかのような突起が特徴的で部分的に赤い顔料が残る。弥生前期の人面付土器の出土は珍しい。
◆そのほかの指定、登録文化財◆
◇…指定…◇
【建造物】「隣華院客殿ほか3棟」(京都市右京区・隣華院)1824年完成の客殿で、妙心寺山内でも最大級。豪華な造りで長谷川等伯の水墨山水画などもある。庫裏や表門など江戸時代の塔頭寺院の景観を残す。
「麟祥院霊屋」(右京区・麟祥院)徳川家光の乳母で寺開基の春日局をまつる。江戸前期の建築で内部の彫刻や金具の意匠が細密。後水尾天皇の二条城行幸時に造営された建物の遺構と伝わる。
「恵心院本堂」(宇治市・恵心院)1676年に建立。万福寺の造営にかかわった大工が棟梁を務めた。須弥(しゅみ)壇室と護摩壇室を一つ屋根で納め、左右非対称で珍しい。
【美術工芸品】「報恩寺本堂障壁画」(舞鶴市・報恩寺)幕末の京都の絵師塩川文麟が描いた44面の襖(ふすま)絵。本堂全体に優れた技術で虎や龍、鶴などが描かれている。
「木造神像」(西京区・松尾大社)摂社や末社の16体の木彫神像群。平安後期を代表する月読社の女神坐像や笑った表情の男神像や銘文が入った最古の像も含まれる。
「唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく) 伝東福門院所用」(左京区・霊鑑寺)後水尾天皇に入内(じゅだい)した徳川秀忠の娘・東福門院の所用品と伝わる。優美な十二単(ひとえ)に檜(ひ)扇などがそろい、江戸前期の染織品として資料価値が高い。
◇…登録…◇
【建造物】
「麟祥院本堂ほか2棟」本堂は六間取りで、内部に江戸時代の絵師海北友雪の襖絵がある。明治時代に仁和寺近くから現在地に移転したが、庫裏とともに建築当初の江戸前期の部材が多く残る。
大阪
淀川べりの要塞、松平容保の深慮 楠葉台場跡(大阪府枚方市) 古きを歩けば(48)
住宅地の外れに田畑が広がり、農道を住民が行きかう。何の変哲もない風景だが、古絵図を手にあぜ道をたどれば幕末の要塞の姿が浮かび、戊辰戦争の砲声が聞こえてくる。
外郭線が今もあぜ道となって残り、幕末の姿をしのべる楠葉台場跡(大阪府枚方市)
■勝海舟が築造指揮、内陸部唯一の台場
京都府立総合資料館が所蔵する当時の設計図。南面のみ稜堡を築いて防御を固めた構造だ。敷地内を京街道が縦貫し、中央にある番所の前を通過するようになっている
ここは大阪府枚方市の淀川沿い、楠葉台場跡だ。幕末、日本沿岸に出没する外国船に備え、幕府は各地に西洋式の台場の築造を進めた。外国船が淀川をさかのぼって京へ押し寄せることを恐れた朝廷は、同川沿いにも台場設置を要望。京都守護職だった会津藩主、松平容保が幕府に築造を建白し、勝海舟が指揮を執って慶応元(1865)年、淀川左岸に楠葉、右岸に梶原の両台場が完成した。内陸部に設けられた台場は全国でここだけという。
楠葉台場の設計図が京都府立総合資料館(京都市)に伝わっている。総面積は約3万8000平方メートル。火薬庫や見張り台を備え、外周に土塁と堀が巡っていた。ただし防御機能は京の反対側(川下側)にあたる南面に限られ、この面のみ五稜郭同様の欧州式築城術による稜堡(りょうほ=突出部)を採用して砲台を設置。堀や土塁も、南面は幅約12~16メートルあったが、それ以外は2分の1~3分の1の規模で仕切り程度だったとみられる。
上空からの眺めを設計図と比較すると、京阪電鉄が通る西面を除き、外郭線が今も地割としてよく残っていることが分かる(提供=枚方市教育委員会)
台場の北にあった橋本陣屋を宿舎に福山や宮津、小浜などの藩兵が交代で警備にあたった。台場の隣地および対岸には船番所が設けられ、川を往来する舟に目を光らせた。
梶原台場は明治維新後、開発で消滅。楠葉台場も農地になったが、京阪電鉄が通っている西面を除いて外郭線があぜ道などの地割として良好に残り、全容をうかがうことができる。枚方市教育委員会が発掘したところ「堀や虎口(入り口)、火薬庫など、ほぼ設計図通りの遺構が残っていました」と担当した竹原伸仁さんが教えてくれた。
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■真の狙いは攘夷派、長州藩への備え?
稜堡や堀の輪郭が、農道の描くカーブに浮かび上がる。遺跡は保存され、2年後をメドに歴史公園として整備される見通しだ
設計図を見ると奇妙なことに気付く。北面と南面に入り口が設けられ、京と大坂を結んでいた京街道が台場を縦貫しているのだ。要塞とは人を近寄らせないための施設のはずだが、街道を通る一般の人々が中を行き交っていたことになる。「台場内には番所が設けてありました。容保の本当の狙いは外国船撃退ではなく、尊皇攘夷派志士を京に入れないため、また長州藩への備えとして、京の入り口に陸上の関門を設けることだったのでしょう」。同台場を研究する京都府長岡京市教育委員会の馬部隆弘さんはこうにらむ。
そもそも朝廷が台場設置を要望した当初、諸藩からは「浅瀬の多い淀川を大型蒸気船が航行するのは困難。河岸に台場の必要性は低い」との意見が大勢を占め、立ち消えになりかけたという。だがその後、会津藩が意見をひるがえし、築造が決まった経緯があった。
遺跡の傍らに立つ石碑。「橋本砲台場」と刻んであるのは、北にあった橋本陣屋と混同したとみられる
「転機は文久3(1863)年、等持院(京都市)にあった室町将軍の木像の頭部を尊攘派の志士が『逆賊』として切断し、賀茂川の河原にさらした『足利三代木像梟首(きゅうしゅ)事件』です」と馬部さんは指摘する。この事件で会津藩は尊攘派への融和策を捨て、対決姿勢に転じる。台場築造もその一環で、尊攘派の反発を抑えるために朝廷の要望を隠れみのにした可能性が高いという。容保が朝廷と良好な関係を築いたり、会津や幕府の存在を広く一般にアピールしたりするのにも大いに役立ったのだろう。
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■設計図を手に調査、8年前に位置特定
慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の合戦の最終局面で楠葉台場が登場する。台場の北にあたる鳥羽・伏見で敗れた幕府軍は、京街道を後退して橋本陣屋に集結。その時、対岸にいた津藩兵が新政府側に寝返り、橋本陣屋や楠葉台場に激しい砲火を浴びせた。「台場から反撃したとされていますが構造上、無理です。幕府軍は台場を離れ、散開して応戦しつつ大阪へ退却したのでは」。馬部さんはこう推察する。防御機能のほとんどない京方面から敵が攻めてくる想定外の事態に、軍事施設としては全く役に立たなかったようだ。
【アクセス】京阪橋本駅から徒歩約12分
楠葉台場に関する史料は地元にはなく、正確な場所も長らく不明だった。馬部さんは設計図を手に一帯を踏査し、8年前、あぜ道の形から台場跡の位置を特定した。「不自然なL字形の田を見つけ、北面の外郭線と一致するのに気付いて興奮しました」。会津や小浜など全国各地にあった関連史料も丹念に収集し、台場の全体像を解き明かした。
遺跡一帯は区画整理の計画が持ち上がっていたが、保存を訴える馬部さんらの声に応えて文化庁が2年前、「幕末の緊迫した状況を示す貴重な遺跡」として国史跡に指定。2015年春をメドに歴史公園に整備される見通しだ。「まさか全面的に保存されるとは思っていませんでした」。馬部さんは笑みを浮かべる。
(文=編集委員 竹内義治 写真=伊藤航)
熊本
熊本近代文学館:宮部鼎蔵の日記展示 象山の漢詩記載 /熊本
熊本藩出身で尊皇攘夷(じょうい)派の幕末の志士、宮部鼎蔵(ていぞう)が吉田松陰と房総半島や三浦半島の砲台を視察した際の日記が、熊本近代文学館(熊本市中央区出水)で開催中の徳富蘇峰生誕150年記念展「『黒い眼と茶色の目』の周辺」で展示されている。日記には、開国論者の佐久間象山の漢詩が記され、熊大文学部の三沢純准教授(日本近代史)は「両者はあまり接点がない印象があるが、実際は宮部が象山に共感していたことが分かり、宮部の思想や行動を見るうえで意義深い史料」と説明する。
宮部は交友があった松陰と房総半島や東北を巡行。その後、尊皇攘夷派の活動家となったが、池田屋事件(1864年)で新選組に襲撃され、自刃した。
日記は和紙(縦約12センチ、横約11センチ)22枚に記され、後年に散逸を防ぐため屏風(びょうぶ)に仕立てている。所蔵していた宮部の子孫が死去したため、昨年3月に遺族が県立図書館に寄託した。
日記には、宮部と松陰が1851(嘉永4)年6月13日から21日まで砲台12カ所を視察し、三浦半島の観音崎にある砲台が機能していないことや、宿で異国船の目撃情報に触れたことなどを記載。最終部分では、西洋の進んだ学問を取り入れる必要性を訴える象山の漢詩が和紙1枚半にわたって書かれている。
三沢准教授は「漢詩の後ろに『右 佐久間修理(佐久間象山)』とある。宮部か象山本人の記載かは筆跡鑑定もしていないため現時点では判断できない」としている。
記念展は25日まで。開館は午前9時半~午後5時15分。火曜と毎月最終金曜は休館。入場無料。問い合わせは文学館096・384・5000。【松田栄二郎】
エンターテインメント
【オリコン】恋愛ゲーム『薄桜鬼』旅行本が人気 部門別で首位に
女性向け恋愛アドベンチャーゲーム『薄桜鬼』の旅行ガイドブック『るるぶ 薄桜鬼』(2月27日発売・JTBパブリッシング)が、週間1.4万部を売り上げ、3/11付オリコン“本”ランキングでBOOK(総合)部門25位に初登場、ジャンル別の「旅行ガイド部門」で首位を獲得した。
<先週の本ランキング>剛力彩芽主演ドラマの原作が1位に
新選組を題材とした同ゲームは、2008年の発売以来累計60万本が販売されている人気作。これまでアニメ化のほか、ミュージカルや舞台化もされており、今夏には劇場版アニメの公開も予定している。
『るるぶ 薄桜鬼』では、『薄桜鬼』の舞台となった新選組ゆかりの地である、京都・日野・会津・函館を、ストーリーやセリフ、名場面イラストとともに紹介。そのほか幕末歴史スポットや「るるぶシリーズ」ならではの“見る・食べる・遊ぶ”といった情報も掲載している。
そのほか、今週のBOOK(総合)部門は、人気ゲームガイド『遊☆戯☆王 デュエルターミナル マスターガイド』(集英社)が初登場首位。文芸では、西尾維新の最新作『悲痛伝』(講談社)、NEWS・加藤シゲアキの最新作『閃光スクランブル』(角川グループパブリッシング)が初登場で6位、7位にランクイン。また、今年の本屋大賞候補作で、ノミネート発表直後からジワジワと順位を上げていた川村元気『世界から猫が消えたなら』(マガジンハウス)が、先週の20位から10位に順位を上げ初のTOP10入りを果たした。
別冊花とゆめ 4月号「誠のくに」
ほんの何ページかですが、読めます。髙久村の一場面、そして時代を遡って一が御家人の次男として剣術修行に励んでいる様子。ここから試衛館との関わりややむなく上京する事情が語られるのでしょうね……史実を菅野さんがどのように料理して、あの美麗な洋装土方さん(美化され過ぎていてちょっと照れる・苦笑)を描くか楽しみです。
ほんの何ページかですが、読めます。髙久村の一場面、そして時代を遡って一が御家人の次男として剣術修行に励んでいる様子。ここから試衛館との関わりややむなく上京する事情が語られるのでしょうね……史実を菅野さんがどのように料理して、あの美麗な洋装土方さん(美化され過ぎていてちょっと照れる・苦笑)を描くか楽しみです。
幕末ニュースの続きです。
コラム
会津に詳しい作家・中村彰彦さんのコラムです。
[八重と幕末会津](1)会津若松城籠城戦を戦い抜く
[八重と幕末会津](2)京都で新たな人生を切り拓く
会津戦争がもたらした 八重の家族・それぞれの道/歴史街道編集部
八重の初婚相手「川崎尚之助」、相次ぎ書籍化 米沢との関わりなど紹介
坂本龍馬暗殺 真犯人は? 幕末史上最大の謎…幕府、新選組、薩摩、長州の名も
エンターテインメント
別花に菅野文の新選組シリーズ、「紅茶王子」新作予告も
「誠のくに」コミックス化を心待ちにしております。
三谷幸喜、『渡辺晋賞』受賞「ずっと好きなことをやり続けてきた」
三谷さん、おめでとうございます。なお大河は『新選組!』です……よくある間違いですが。
ややこしい? “幕末大河”同じ俳優が別役で出演
私なんぞ生瀬さんは『新選組!』の殿内さんです。
恋愛SLG「新撰組恋遊戯~幕末幻想異聞~」がGREEとかれぺっとで配信に
キャラデザインが『薄桜鬼』に似過ぎ……大丈夫かと思うぐらい(汗)。
コラム
会津に詳しい作家・中村彰彦さんのコラムです。
[八重と幕末会津](1)会津若松城籠城戦を戦い抜く
「戦う女」八重の獅子奮迅の働き
新島八重 - 旧姓・山本八重は、幕末の弘化2年(1845)に会津藩の砲術(銃術)師範の家に生まれ、会津戦争では当時最新鋭の7連発式スペンサー銃を手に活躍。明治以後は京都に移ってキリスト者となり、同志社大学を設立する新島襄と結ばれ、共に理想の教育実現に努めます。さらに日清・日露戦争では従軍看護婦として働くなど、その一生を「公」のために尽くした人物でした。
彼女を表現するのに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」「日本のナイチンゲール」などという言葉が使われるのは、このような八重の生き方を反映してのものです(ちなみに、「ハンサム・ウーマン」とは、新島襄が八重を「生き方がハンサム」と評したことに由来します)。
その八重が明治44年(1911)に、男装して腰に刀を差し、銃を持って掲影した写真があります。八重は会津若松城に籠城する際、鳥羽伏見の戦いで斃れた弟・三郎の形見の衣服をまとい、断髪して戦い抜いていますから、これは往時を偲んで撮った1枚にほかなりません。
この写真で注目すべきは刀の差し方です。普通、刀は鍔が帯に当たるまで深く差し込み、鐺(刀の鞘の末端)が下に下がる差し方が多いでしょう。しかし八重は、刀の柄をかなり前に出しています。帯から鍔までにゆとりがなければ、すぐに鯉口を切る(刀を抜くために鍔を左手親指で押し出す)ことができないからです。しかも、刀身をほぼ水平に横たえています。これは刀を抜いて即座に斬る「抜即斬」の構えです。つまりこの写真は、女性がたまたま刀を差したものではなく、八重が実戦を知る「戦う女」だったことを如実に示す1枚なのです。
膂力がなければ刀を存分に扱うことも、重たい銃を射撃することもできませんが、八重はすでに13歳の時、四斗俵(重さ60キロ)を肩まで4回も上げ下げできたほどの腕力の持ち主でした。後年の写真を見ても、腕は太く、胸に厚みがあり、どっしりした臼のような腰をしています。晩年に「今の世なら運動選手になったかもしれない」と述べるほど、運動神経も優れていました。
日本には「女武者」の伝統があります。『平家物語』に登場する、木曾義仲に従った巴御前。強弓を引いて鎌倉幕府軍と戦った越後の板額御前。戦国時代、立花道雪の一人娘で女城主となった立花誾千代……。江戸時代の各藩にも、常日頃から腰に大小を差して奥殿に仕え、いざというときは戦う「別式女」「帯剣女」「刀腰婦」と呼ばれる女性たちがいました。この系譜を見れば、「鉄砲」を扱う女性が出てきても不思議ではありません。八重は、父も兄も砲術師範ですから習うより慣れろで銃術を習得していったのでしょう。
八重は、会津若松城の籠城戦で大活躍します。ことに西軍(新政府軍)が城下に侵攻してきた慶応4年(1868)8月23日には、多くの藩士たちがまだ国境で戦っており、城内は老兵や婦人、子供ばかりでした。しかも会津藩の装備はゲベール銃など旧式銃中心でしたから、八重が7連発式のスペンサー銃を手に獅子奮迅の働きをしなければ、城の北出丸は突破され、たった一日で落城の憂き目にあったかもしれません。
その日、攻め込んで来たのは土佐藩と薩摩藩の砲隊でしたが、土佐藩兵の死傷率はかなり高く、また、薩摩藩の砲隊を率いていた大山厳も足を撃たれています。土佐藩兵や大山を撃ったのも、銃の性能から考えると八重であった可能性が高いのです。
会津藩の「教育」の凄み
ところで会津藩には、八重のように銃で戦わずとも、中野竹子をはじめ薙刀などを手に敢然と戦った女性たちが数多くいました。会津戦争の大きな特徴は、男性藩士はもちろん、女性たちや子供たちも極めて勇敢に身を処したことにあります。なぜでしょうか。その大きな理由は教育にありました。
会津藩の教育は、有名な「什の掟」から始まります。6歳から9歳までの藩士の子供(男子)が同じ町内で10人前後の集まり(什)を作り、次のような掟を唱えるのです。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ。
一、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ。
一、虚言を言ふことはなりませぬ。
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ。
一、戸外で物を食べてはなりませぬ。
一、戸外で夫人と言葉を交へてはなりませぬ。
ならぬことはならぬものです」
「什」に入らない女子も、同じ雰囲気の中で成長したことはいうまでもありません。
さらに藩士の男子は10歳になると藩校・日新館に入学します。ここで最初に学ぶのが『日新館童子訓』という教科書です。5代藩主・松平容頌が編纂したもので、人として大切な倫理を、その具体例となる古今の逸話を通して学べる構成になっていました。
たとえばその第34話では、戦国時代の筑前の武将・高橋紹運が島津の大軍に城を攻められ降伏を勧告された折に、「人生は朝露が日差しに消えるようにはかないもので、ただ長く世に残るのは義名だけと存ずるにより、降参つかまつらず」と答えて最期まで戦い抜き、城の士卒1800人も1人も逃げずに運命を共にした故事が書かれています。
この他にも忠義については、南北朝時代に大塔宮の身代わりに切腹した村上義光や、節義を全うした楠木正成・正行父子などが紹介されています。もちろん書かれているのは「忠義」ばかりではありません。親孝行の具体例として、会津藩内の実話も数多く収録されています。「それぞれのシチュエーションで、武家としていかに行動すべきか」がしっかりと教育されていたのです。
会津藩の凄みは、この教科書を木版刷りにして、藩士の全戸に配布していたことでしょう。そのため女性たちの多くも、この本を暗誦できるほどに読み込んでいました。八重も晩年に至るまで『童子訓』を暗誦し、籠城の苦労を乗り越えられたのは教育のおかげだと語っています。会津戦争で女性や子供が義を貫き通したのは、まさにこの教科書があればこそだったのです。
ちなみに会津藩祖・保科正之が家訓に「婦人女子の言一切聞くべからず」と書いたことから、会津藩では女性を蔑視したように思われる向きもありますが、それは大きな誤解です。この家訓はあくまで、藩主や家老はじめ為政者が、女性の寝物語のおねだりにほだされて政治を左右することを戒めるものであり、いま述べたように会津藩の女性たちも、武家としていかに行動すべきかを学んで、積極的に生きていたのです。
[八重と幕末会津](2)京都で新たな人生を切り拓く
なぜキリスト教の道に入ったか
八重は会津戦争を戦い抜いた後、京都に移り住んでキリスト教の洗礼を受け、新島襄と結婚します。どんな経緯で京都に移って襄と出会い、新たな人生を切り拓いたのかは別稿に譲るとして、ここでは、なぜ八重がキリスト教の道に入ったのかを考えてみましょう。
実は明治以後、会津藩士やその子供の中でクリスチャンになった者はそう珍しくありませんでした。藩が敗亡し、それまで信じてきた価値観が壊されてゆく中で、「それを超える大きな価値観」に惹かれる部分があったのでしょう。
会津藩では先述の教育を通して、藩主への忠義と親への孝を中心とする倫理的価値観が組み立てられていました。にもかかわらず敗戦と廃藩置県で主君を喪失し、親も戦死――そんな状況に置かれた会津人がキリスト教の絶対的な神に救いを求めたのは、よくわかる気がします。さらに「己の良心のみに従う」キリスト教の倫理観は、維新以後、「勝てば官軍」の論理で理不尽にも賊名を被った会津人の心を支えてくれるものだったでしょう。
そして会津の人々は、会津戦争であまりに大きな悲劇に直面しました。家族や友が血しぶきの中で死んでゆく死屍累々たる光景を見て、死とは何か、生きるとは何かを考え抜かざるを得なかったはずです。キリスト教では、霊魂は不滅で、死ねば天国で愛する者たちと再会できると教えます。この教えは、数多くの悲痛な死に接した会津人たちにとって、大きな救いになったのかもしれません。
八重は日清・日露戦争では従軍看護婦を務めています。実は明治以後、八重だけでなく多くの会津女性たちが、看護婦の道を選びました。その理由は、いま述べたことの裏返しでしょう。会津の女性たちは籠城中、自分の帯の芯までほぐして包帯代わりとし、負傷兵を手当てしますが、薬も医学的知識もない中で、彼らが死んでゆくのをただ見守るしかできませんでした。彼女たちは強烈な無力感に打ちのめされていたはずです。
その無念を晴らしたい、という思いが会津の女性たちにはあったのではないでしょうか。禁門の変から戊辰戦争まで、3000名余の会津人が犠牲になった代わりに、明治以後の看護学の基礎ができあがったとも言えるのです。
胸に「誇り」を抱いていたからこそ
もう1つ、八重にとって大きかったのは、敬愛する兄・山本覚馬の存在でした。
若き日に江戸に留学して佐久間象山や勝海舟らに砲術などを学んだ覚馬は、その先端知識を生かして幕末の会津藩で活躍。戊辰戦争中に薩摩藩に捕まり軟禁されますが、挫けずに「管見」という先見性と具体性に富んだ提言書を提出し、それを見込まれて維新後は京都の近代化に尽くします。覚馬の力は大変なもので、明治政府が学制を発布する前から、京都では小学校が設立されていました。さらに彼は石鹸、ガラス、陶磁器、清涼飲料水など様々な工業製品の研究・製造を進めた京都舎密局や、養蚕場、伏見製鉄所などを開設。その後の京都産業界の礎を築きます。そして、新島襄が同志社大学を設立するのを大きくバックアップしたのも覚馬でした。
八重と覚馬は、言いたいことをはっきりと言い、芯の通った生き方を貫き、しかも付き合うと決して嫌なタイプではないという点で、よく似た兄妹です。八重の強さ、先進性、積極性は、どこか「この兄にしてこの妹あり」と感じさせます。
八重もいち早くキリスト教徒となり、新島襄と結婚した後は、派手な洋装で西洋的な「レディファースト」の姿勢を実践。守旧的な京都人から後ろ指を差されることさえありました。
明治以降の彼らは、傍目にはまるで西洋かぶれであるかのように見えたかもしれません。しかし、そんな彼らを支えたのは、「武士として恥じることのない生き方」を貫いてきた会津人としての誇りだったのではないか、と私は思います。八重が後年、会津戦争当時の格好をした写真を撮らせていることからしても、「自分は苛酷な会津籠城戦を戦い抜いた女だ」という誇りをずっと胸に抱いていただろうことがわかります。そして、その「誇り」があったからこそ、力強く新たな道を踏み出すことができたのではないでしょうか。
八重の生き方は、私たちに「とてつもない挫折から立ち上がる強さとは何か」「自分らしさを貫く力とは何か」「気持ちよく、堂々と生き抜く清々しさとは何か」を強く訴えかけます。そしてそのために、いかに「自分自身への誇り」が重要かも教えてくれるのです。
いかに生きるか、そして、そのために自分が誇りとすべきものは何か。彼女の人生に触れつつ、そのことを考えてみてはいかがでしょうか。
会津戦争がもたらした 八重の家族・それぞれの道/歴史街道編集部
鳥羽伏見の戦いで、兄・覚馬は行方不明(処刑されたと伝えられた)、弟・三郎は戦死 ―― その悲報で幕を開けた「八重の戊辰戦争」だったが、会津戦争によって、さらなる悲劇に見舞われることになる。
61歳の父・権八は、50歳以上の藩士で構成された玄武隊に所属して連戦していた。しかし、南方の兵端を断つベく攻めてきた西軍(新政府軍)と激突した一ノ堰で、遂に戦死する。降伏間近の9月17日のことであった。
降伏開城すると、藩士は猪苗代、そして東京で謹慎を命じられ、女性や老人、子供は塩川(喜多方市塩川)から喜多方周辺の農家に当面住むように命じられる。八重と母佐久、兄嫁うら、姪みねの4人もしばらくはそこに滞在していたようだが、その後、米沢に移った。会津に留学して川崎尚之助に砲術を師事していた米沢藩士・内藤新一郎が、山本家の窮状を見かねて援助の手を差し伸へてくれたのである。
やがて覚馬が京都で生存していることがわかり、一家は明治4年(1871)、京都へ向かうことになる。しかしそこに覚馬の嫁うらの姿はなかった。その時すでに京都では、身体が不自由になった覚馬を時栄という女性が献身的に支えていた。京都で覚馬が開いた洋学所に学んだ丹波郷士・小田勝太郎が、目の不自由な覚馬のために、自分の妹・時栄に身の回りの世話をさせたのがきっかけだというが、八重たちが京都に向かった年には、久栄という娘も誕生している。恐らくうらは、自ら身を引く決断を下したのであろう。
また、八重の最初の夫、川崎尚之助もいなかった。尚之助は会津戦争の頃には会津藩士になっていたらしく、他の藩士と共に謹慎した後、会津藩が再興を許された地・斗南(青森・下北半島)に向かったのである。なぜ八重たちを連れず、単身で斗南に向かったのか。藩士に取り立ててくれた会津藩への恩義を感じつつ、しかし蘭学者らしい合理的精神で斗南での苦労を予見し、当座、かつての弟子で米沢藩士の内藤に家族を預けたほうが安心と考えたのだろうか。
とはいえ酷寒の地、斗南の苦境は尚之助の想像さえはるかに超えた。藩士の餓死の危機を脱するために、尚之助はデンマーク領事で商人でもあったデュースから広東米を調達しようとする。しかし、仲介した日本人貿易商が契約を履行せず、尚之助はデュースから損害賠償の訴訟を起こされてしまった。藩を巻き込むことを恐れた尚之助は、すべての罪を一身にかぶり、東京での司法裁判に臨むのである。八重とはこの時に離緑したのだろうか(一説に会津戦争前後に離緑ともいう)。
八重と共に京都に向かった母佐久と姪のみねのその後にも触れておこう。
佐久は因循なところが全くなく、八重の受洗に続いて明治9年(1876)末にキリスト教の洗礼を受ける。そして同志社女学校の舎監を務め、女子生徒たちに実の祖母のようにやさしく接し、「山本のおばあさま」と慕われた。
みねも佐久と共に洗礼を受けた。後に同志社女学校を卒業。同志社兵学校第一回卒業生で横井小楠の長男である横井時雄と、明治14年(1881)に結ばれる。だが、明治20年(1887)、長男の平馬を出産後、病死する。
時代の激動に翻弄された山本家。明治以降の八重たちの歩みの陰には、一人ひとりのドラマがあったのである。
《『歴史街道』2013年2月号より》
八重の初婚相手「川崎尚之助」、相次ぎ書籍化 米沢との関わりなど紹介
NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン新島八重の初婚相手・川崎尚之助。謎も多かったその生涯が、新史料の発見で明らかになり書籍化などが相次いでいる。川崎は米沢藩士にとって砲術の師匠で、米沢との関わりや市立米沢図書館の史料の存在も含めて紹介されている。
川崎の生涯を描いているのは、戊辰(ぼしん)戦争後の消息や先祖などに関する新史料を見つけた歴史研究家あさくらゆうさんの著作と、八重の再婚相手・新島襄が創立した同志社大の元職員竹内力雄さん(京都市)の論文。
それによると、川崎は今の兵庫県豊岡市に当たる出石藩出身で、米沢出身・大木忠益の江戸の塾で八重の兄・山本覚馬と知り合い、会津藩蘭(らん)学所の教授となった。戊辰戦争では妻八重と共に鶴ケ城に籠城して戦ったが、敗戦後に離別。八重は京都で、兄の知人の新島襄と再婚した。
戊辰戦争後の川崎の消息は不明で、「会津を捨てて逃げた」とも言われていたが、あさくらさんが札幌市の北海道立文書館で見つけた記録で、藩士として会津藩再興先の斗南藩(青森県)に移住、藩のため米を調達しようとしてトラブルとなり裁判中、責任をかぶったまま東京で死亡した事が分かった。会津のために尽くした末の最期だった。
米沢藩士では、八重が母らと1年間世話になった内藤新一郎、後に海軍文官となった小森沢長政らも川崎の弟子だった。小森沢の実家は内藤家に近く、あさくらさんは「小森沢の実兄の宮島誠一郎(官僚・政治家)が、京都に出向いた際に覚馬に母や妹八重の居場所を教えた可能性は高い」とする。
あさくらさんは1年がかりで川崎の古里豊岡市など全国を回り、米沢図書館では内藤ら米沢藩士が会津での開戦直前、八重の実家に寄宿していた事を示す史料も発見した。川崎の子孫も突き止め、「川崎尚之助と八重―一途に生きた男の生涯」(知道出版、1575円)にまとめた。
竹内さんも、独自の調査とあさくらさんの発見を基にした論文を「会津人群像第22号」(歴史春秋社、1260円)に掲載した。米沢図書館に残る内藤の日記原文も紹介した内容で、小冊子「八重の夫・川崎尚之助の真実」(500円)にもまとめて同志社生協ブック&ショップ=075(251)4427=で販売している。
坂本龍馬暗殺 真犯人は? 幕末史上最大の謎…幕府、新選組、薩摩、長州の名も
【関西歴史事件簿】
慶応3(1867)年11月15日午後9時ごろ、シーンと静まりかえった河原町の醤油(しょうゆ)屋、近江屋からバタバタという音とともに「こなくそ!!」という叫び声が響き渡った。騒ぎは一瞬で収まったが、2階の8畳間にはひとりの土佐脱藩浪士が血を流して倒れていた。坂本龍馬だ。
龍馬は頭など34カ所に傷を受けてすでに死亡していた。ペリー来航以降、鎖国体制が崩れて諸外国の圧力が強まる中、弱体化した幕府に代わる新体制づくりに奔走した龍馬は、33歳という短い一生を終えた。
事件はこんな形で進んでいった。
襲われた近江屋2階は屋根裏で、天井は低い。夕刻から盟友・中岡慎太郎の訪問を受けた龍馬は風邪気味のため軍鶏(しゃも)鍋を食べようと近くの本屋の峰吉に肉を買いに走らせた。
その直後、十津川郷士を名乗る2人の男が「龍馬に会いたい」と、元力士の使用人、山田藤吉に申し出てきた。龍馬に取り次いだ後に2人を先導して階段を登っていた矢先、藤吉が後ろから斬られる。
藤吉の崩れる大きな物音に、龍馬は「ほたえな(ふざけるな)」と声をあげると、いきなり部屋の襖が開き、2人男に斬りつけられたのだ。
額を斬られた龍馬。今度は刀のある床へ向いて背中を斬られる。傷は浅く何とか刀までたどり着くが、刀を握る龍馬の頭上から刀が振りかかってきた。
鞘(さや)で払おうとするも不幸に鞘が天井に当たり、除けきれずに頭に深傷を負う。これが致命傷になる。中岡も隣の屋根に逃げたが28カ所に傷を負い、2日後に亡くなる。
軍鶏肉を手に近江屋に戻ってきた峰吉の知らせで、龍馬の仲間が大勢駆けつけたが、犯人の姿はすでになかった。
誰が龍馬を“やった”のか。これだけ有名な事件にもかかわらず犯人は分かっておらず、諸説が飛び交い、幕末史上最大のミステリーといわれる。
最も有力視されているのは幕府の京都見廻組与領(くみがしら)の佐々木只三郎(旗本)とその部下。このほか新選組の原田左之助、薩摩藩の中村半次郎らの名前があがり、少数派ながら長州藩、土佐藩説もある。
近江屋は四条河原町から北へ徒歩数分。龍馬のいた母屋は現在の河原町通の上に建っていたことから、当時の道路は現在の通りの東側歩道と同位置、同幅(約4メートル)。この結果、河原町蛸薬師交差点近くに建つ事件の石碑周辺がまさに殺害現場にあたる。
石碑と現場がここまでピタリとくるケースは、結構珍しい。(園田和洋)
エンターテインメント
別花に菅野文の新選組シリーズ、「紅茶王子」新作予告も
本日2月26日に発売された別冊花とゆめ4月号(白泉社)にて、「オトメン(乙男)」で知られる菅野文の集中連載「誠のくに」がスタートした。
「誠のくに」は菅野が新選組を描くシリーズの、8年ぶりとなる最新作。幕末の会津藩の歴史を題材とした検定試験「会津幕末歴史検定」が3月17日に開催されることを記念して、連載がスタートした。また今号の付録は、菅野のイラストを使用した大判ポストカードセット。「誠のくに」のほか「北走新選組」「凍鉄の花」といった、新選組シリーズ過去作のイラストも使用されている。
なお山田南平「紅茶王子」の新シリーズが、4月26日発売の別冊花とゆめ6月号にて集中連載としてスタートすることが発表された。ファンは続報を楽しみに待とう。
「誠のくに」コミックス化を心待ちにしております。
三谷幸喜、『渡辺晋賞』受賞「ずっと好きなことをやり続けてきた」
脚本家の三谷幸喜氏が2日、都内で行われた『第8回渡辺晋賞 授賞式』(渡辺音楽文化フォーラム主催)に出席した。大衆文化の発展に貢献したエンターテイメント業界のプロデューサーを選考対象とし、年1回、顕彰。三谷氏は「ずっと好きなことをやり続けてきて、今ここに立てているのがうれしい」と受賞を喜んだ。
映画『清須会議』の出演者が大集合
三谷氏は舞台・映画・テレビと多くのメディアの脚本を手掛け、映画監督、舞台演出、そして出演とマルチな役割をこなしながら、「三谷ブランド」と称される軽妙洒脱なエンターテインメント作品を創出し続け、多くの人の心をとらえてきた。そのプロデュース力が評価された。
三谷氏はスピーチで「『刑事コロンボ』が大好きで、『古畑任三郎』に繋がって、新選組と大河ドラマが大好きで大河ドラマ『新撰組』に繋がりました。子供のころから柴田勝家や丹羽長秀といった武将が好きだったのですが、そこから、柴田勝家が主役の『清州会議』(11月公開)という映画に繋がりました」と最新作もしっかりアピール。
授賞式には三谷氏の翻案・演出の舞台『桜の園』に出演したタレントの青木さやかが祝福に駆け付け、花束を手渡した。
■過去の受賞者(敬称略)
第1回:亀山千広(フジテレビプロデューサー、代表作『踊る大捜査線』)
第2回:鈴木敏夫(スタジオジブリプロデューサー)
第3回:本多一夫(本多劇場グループ代表)
第4回:松浦勝人(エイベックス・グループ・ホールディングス代表取締役社長)
第5回:秋元康(AKB48プロデューサー)
第6回:三枝成彰(作曲家・音楽プロデューサー)
第7回:大里洋吉(芸能事務所・アミューズ会長)
三谷さん、おめでとうございます。なお大河は『新選組!』です……よくある間違いですが。
ややこしい? “幕末大河”同じ俳優が別役で出演
NHK大河ドラマは放送中の「八重の桜」を含めてこの6年間で3本も幕末ものだ。2008年が「篤姫」で、10年は「龍馬伝」。
しかも、1週間に放送されるテレビドラマはいま、民放とNHKを合わせると、相当の数にのぼっている。
したがって、お気づきと思うが、“幕末大河”に同じ俳優が別の役で出演しているケースが目立つ。使い回しとは言わないが、いかがなものか…なんてことは全然思わなくて、オヤジ、そのことを逆に楽しんで「八重の桜」を見ている。WBCの壮行試合と重なろうが「八重」優先だ。
筆頭が生瀬勝久。「龍馬伝」で吉田松陰、「八重の桜」では勝海舟。どっちも幕末の偉人の代表格だが、「八重の桜」で松陰(小栗旬)の処刑の報を聞いて海舟(生瀬)が悲嘆する場面はややこしかった(笑)。
八重の兄・山本覚馬(西島秀俊)との2ショット場面にもニヤリ。生瀬と西島はフジの連ドラで映画化されたばかりの「ストロベリーナイト」でも共演している。竹内結子ひきいる警視庁捜査一課殺人犯捜査十係“姫川班”の活躍を描く警察ドラマで、西島は姫川班のメンバー。姫川主任を密かに思う二枚目だ。かたや生瀬はヘンな大阪弁をつかって姫川班にちょっかい出す捜査仲間。2人がチョンマゲ結って真面目に“ニッポンの夜明け”を語るのだ(笑)。
「八重の桜」で八重(綾瀬はるか)の幼なじみの貫地谷しほりは、一緒に長刀の稽古に励むが、「龍馬伝」では北辰一刀流千葉道場の娘で、腕に憶えのある龍馬(福山雅治)をこてんぱんに打ち負かしていた。だから、貫地谷が長刀を握ると、免許皆伝の腕前に見えてしまう(笑)。
その綾瀬ときたら「JIN-仁-」の印象が強すぎ、会津の山本家に吉田松陰が泊まったときも2人が初対面のようには見えなかった(笑)。(新橋のネクタイ巻き)
私なんぞ生瀬さんは『新選組!』の殿内さんです。
恋愛SLG「新撰組恋遊戯~幕末幻想異聞~」がGREEとかれぺっとで配信に
愛か誠か、生か死か。
動乱の京都に芽吹く、甘く切ない恋の花――
「新撰組恋遊戯 ~幕末幻想異聞~」
女性向け恋愛シミュレーションゲーム
「GREE」「かれぺっと」にて配信開始!
ジグノシステムジャパン株式会社(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:沼尻 一彦)は2013年2月27日(水)に、ソーシャルネットワーキングサービス「GREE」「かれぺっと」にて、女性向け恋愛シミュレーションゲーム『新撰組恋遊戯 ~幕末幻想異聞~』をフィーチャーフォン版・スマートフォン版同時に配信開始いたしました。
『新撰組恋遊戯 ~幕末幻想異聞~』とは、あなたが主人公となって、誠の志のもとに生きる新選組隊士たちとの恋愛を楽しむ、女性向け恋愛シミュレーションゲームです。
<ストーリー>
元治元年、京都。
病弱な弟を救うため、長州藩の間者となったあなたは、命令により新撰組に近づくことに。
しかし、彼らに隠されたある「真実」を知った時、あなたの運命は、否応無く因果の渦中へと巻き込まれていく。
誠を貫く男達と共に駆け抜けたその先で、淡い恋の花を咲かせるか、それとも徒花となって儚く散りゆくのか。
決めるのは、あなた次第――
<ゲームの特徴>
ゲーム中の選択肢に正解したりアバターを獲得することで、彼との「好感度」が上がります。好感度によって物語が分岐し、それぞれのエンディングを迎えます。物語の途中には「蜜月ルート」が発生することも。「蜜月ルート」は、いつもより甘く胸の高鳴るシチュエーションが楽しめる、スペシャルストーリーです!また、好感度がアップするアバターには、可愛いアイテムがいっぱい! ガチャで手に入る美麗アバターで、トータルコーディネートも楽しめます。
キャラデザインが『薄桜鬼』に似過ぎ……大丈夫かと思うぐらい(汗)。
ども、白牡丹です。去年までは花粉症じゃなかったのですが、今年の大量花粉飛来にくしゃみ、かゆみ目、鼻水を発症しております(涙)。昨日の落語会でもふたつみっつくしゃみを連発し、皆様にご迷惑をおかけしました……今日は外出を控えております。
北海道
【3/9】歴史講座「箱館戦争~開陽丸と五稜郭の調査から」
文中にリンク貼りましたが、道南ブロック博物館施設等連絡協議会ブログの幕末維新・箱館戦争関係の記事が何気にマニアックで面白いです。「大脱出」「同心たちの箱館戦争」「旧幕府軍兵士と鷲ノ木の住人たち」「箱館戦争と写真」など史実ネタから、「箱館戦争と化け猫伝説」「土方はタンポポを見たか?」といった意外性のある記事まで、いろいろと楽しめます。
幕末の水田開発 詳細記す 江差
福島
八重と覚馬がつないだ“縁” 京都、会津若松商議所が協定締結
新島八重の生き方学ぶ 国学院大創立130周年講演 郡山
大河ドラマ「八重の桜」の会津若松市、ドラマ効果で観光は「雪解け間近」
栃木
展示:大田原藩と戊辰戦争展、那須与一伝承館で /栃木
千葉
ひな飾り:14代将軍徳川家茂の正室・和宮が所有 佐倉・国立歴史民俗博物館で展示 /千葉
山梨
黒駒勝蔵の実像に迫る 笛吹で企画展 山梨
新潟
三条市が体感ツアーバスを計画 八十里越の秘境楽しんで 新潟
京都
気のゆるみが悲劇招く? 殺生禁じた洛中でなく、洛外に潜んだ龍馬
京丹波の隕石も注目を 幕末に落下、今は東京の博物館に
広島
文化審答申:岩倉具視資料、重文指定へ 幕末〜明治の書簡など /広島
山口
「歴女」が維新の里、萩市で幕末談議
北海道
【3/9】歴史講座「箱館戦争~開陽丸と五稜郭の調査から」
函館の歴史を語るときに、欠かせないテーマが箱館戦争。幕末から明治維新にかけての激動の時代、その歴史遺産である開陽丸と五稜郭についての歴史講座が、函館市中央図書館で開催されます。
発表者は、長年発掘調査や復元整備を担当してきた博物館学芸員。また、26人の学芸員が、インターネット上でリレー形式の日替わり投稿記事も展開中。歴史ファン必見の、幕末維新や箱館戦争に関する興味深い話を読むことができます。⇒こちらから
郷土学講座・歴史編「箱館戦争~開陽丸と五稜郭の調査から」
日時 2013年3月9日(土)14~16時
会場 函館市中央図書館視聴覚ホール(五稜郭町26-1)
内容 江差沖から引き揚げられた開陽丸
五稜郭の調査からわかった箱館戦争
定員 150名(先着順)
受講料 無料。資料代200円
問い合わせ 道南ブロック博物館施設等連絡協議会事務局
(市立函館博物館内 0138-23-5480)
文中にリンク貼りましたが、道南ブロック博物館施設等連絡協議会ブログの幕末維新・箱館戦争関係の記事が何気にマニアックで面白いです。「大脱出」「同心たちの箱館戦争」「旧幕府軍兵士と鷲ノ木の住人たち」「箱館戦争と写真」など史実ネタから、「箱館戦争と化け猫伝説」「土方はタンポポを見たか?」といった意外性のある記事まで、いろいろと楽しめます。
幕末の水田開発 詳細記す 江差
【江差、厚沢部】檜山南部有数の穀倉地帯である厚沢部川流域の水田地帯。幕末期に始まったその開発の詳細が分かる史料が、昨年8月に江差町教委に寄贈された。当時の松前藩家臣が記したもので、町教委の宮原浩学芸員は「江戸時代の水田開発に関する文献が少ない道内では貴重」という。町教委は、2日の江差学講座で解説する。
史料は、松前藩の江差役所の役人、脇新左衛門(1816~没年不明)が記した藩の書類や日記帳など194点。札幌市在住の子孫が寄贈した。藩が1859年(安政6年)から始めた厚沢部川流域の水田開発は、これまで概要は知られていたが、詳細は不明だった。
宮原学芸員によると藩の大規模水田開発はこの時が初めて。当時、蝦夷地(えぞち)の大部分を直轄化した幕府が現在の函館や北斗周辺で水田開発に着手。道南の一部を領地としていた藩も、交易税以外の収入源を確保するため、稲作事業を本格化させたらしい。
史料では、開発区域は河口付近の江差町水堀から、内陸の厚沢部町館(たて)まで広範囲にわたる。開始後8年で水田面積は計126ヘクタールと、東京ドーム約27個分の広さに及んだ。
稲作のノウハウがなかった藩は、越後(新潟県)の農民に移住を呼び掛けた。移住者の優遇措置を記した「開墾規定書」では、男1人につき金3両の手当や、年貢は5年間納めなくていい、など好条件が書かれている。移住者は数年間で数十戸。越前(福井県)の農民も加わり、今も子孫が居住している。
江差学講座は2日午前10時から町文化会館で開催。藤島一巳学芸員解説の「江差の文化財保護のあゆみ」もある。申し込みは町教委社会教育課(電)0139・52・1047へ。(山田一輝)
福島
八重と覚馬がつないだ“縁” 京都、会津若松商議所が協定締結
東日本大震災からまもなく2年。被災地の復興を産業面から支援しようと、京都商工会議所は会津若松商工会議所(福島県会津若松市)と1月、相互交流に関する協定を締結し、今年を「相互交流Year」として、産業や観光など多彩な分野で交流活動を展開する。両商議所の間で交流の機運が急速に高まったカゲには、両市を舞台にした今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン・新島八重と、京都の発展に寄与した兄、山本覚馬の兄妹の存在があった。
そもそもの発端は震災の復興支援。関西広域連合の支援の取り組みで、京都府が福島県の担当だったことから、京商は1カ月間、福島商工会議所に職員を派遣するなどの支援活動を続け、現地との関係が深まった。
そうこうしているうちに、今年の大河ドラマが両都市を舞台とした「八重の桜」であることもあって、昨年4月に会津若松会議所の首脳が京都を訪れた際、「ドラマ放映に合わせて交流活動を、という話が持ち上がった」(京商産業振興部)という。
京商は京都ブランドの発信を目的に、毎年東京と地方都市で1回づつ「京都ブランドフォーラム」を開催しており、こうした縁で昨年11月に会津若松市で開催。交流の機運が急速に高まり、具体的な話が進んだ。
ドラマのヒロイン・新島八重は会津若松の出身。戊辰戦争で会津藩が敗戦したのち、兄の山本覚馬を頼って京都に入り、同志社大学の創設者である新島襄と結ばれる。その生き様は「ハンサム・ウーマン」と称された。
一方、兄の山本覚馬は幕府の要請で京都守護職に就いた会津藩主・松平容保とともに京都に入り、紆余曲折を経た後、京都府顧問として京都の近代化に大きな役割を果たし、初代の府会議長に就任した。
新島襄の同志社大学創設の舞台裏には、山本の働きがあったとされる。また、山本は京都博覧会の開催など産業振興の面でも大きな足跡を残し、明治18年5月から11月まで、京商の第2代会長(当時)を務めている。こうした“深い縁”があっては、いやがうえにも交流の機運は高まろうというもの。関係者の“熱い思い”も十分想像できる。
京都の近代化を進め、政治家、経済人としても活躍した山本覚馬。同志社設立を支えた新島八重。この兄妹は京都の近代化を支えた立役者だ。「被災地は依然、風評被害が大きい。京商として最大限の支援活動をしたい」(京商産業振興部)。京商としては“恩返し”の思いがあるようだ。
1月に会津若松市内のホテルで開かれた調印式には、京商から立石義雄会頭ら35人、会津若松会議所から宮森泰弘会頭ら70人が出席。京都、会津若松の両市長も出席し、立石会頭は「交流を着実に実行し、絆を深めていきたい」とあいさつ。宮森会頭は「震災復興の原動力になる」と応じた。
調印式には立会人として会津松平家第14代当主の松平保久氏が出席。「ご本人のたっての要請もあって、両市のつながりについて特別講演をしていただいた」(京商産業振興部)という。
両商議所は視察団を結成し、お互いに派遣。経営者の交流を促進して被災地の産業・観光復興を後押しするほか、京都で会津若松市の物産展を開催し、現地商品の販売にも一役買いたいという。
また、両市とも歴史が深いだけに「優れた伝統工芸品でも交流事業を考えたい」(同)。両者の間で具体的な交流事業の内容やスケジュールを詰め、順次実施していくことにしている。
新島襄、八重夫妻や山本覚馬が駆け抜けたのは、幕末から明治、昭和へと、日本が近代化に向かった激動の時代だが、1世紀以上も昔の人々が今の両商議所を結びつけたことを思うと…。“縁”とは不思議なものだ。(佐久間史信)
新島八重の生き方学ぶ 国学院大創立130周年講演 郡山
国学院大創立130周年記念講演は23日、福島県郡山市の開成山大神宮参集殿で開かれ、NHK大河ドラマ「八重の桜」のエグゼクティブ・プロデューサーの内藤慎介氏が講演した。
国学院大院友会県中通り支部と国学院大院友会の主催。福島県出身の新島八重の生き方を学び、東日本大震災で被災した県民が復興する一助になればと企画した。
会員を含め約120人が参加した。内藤氏は「八重の桜」をテーマに、戊辰戦争で敗れた会津藩側から光を当てていくことで、歴史には残らなかった事実が見えてくると強調した。制作の裏話を交えながら、「八重はもちろん、八重の兄・山本覚馬ら大勢の偉人がいたことを知ってほしい」と呼び掛けた。
大河ドラマ「八重の桜」の会津若松市、ドラマ効果で観光は「雪解け間近」
NHKの大河ドラマ「八重の桜」が始まって1カ月あまり。主演の綾瀬はるかが演じるのは、同志社創立者である新島襄の妻・八重。物語は八重が生まれ育った福島県会津若松市を舞台としている。
その会津若松市だが、現在、観光需要の減少が問題となっている。平成21年の観光客数が約340万人だったのに対し、平成22年は約270万人、平成23年は約230万人と、2年連続で落ち込んでしまうという結果に。大きな要因は修学旅行生の激減によるものだそう。
さらに詳しい内容を、会津若松観光物産協会の統括本部長、渋谷民男さんに聞いてみた。
「東日本大震災の前は、多くの学校(県外841校、県内240校)に修学旅行として足を運んでいただけたのですが、平成23年度に訪れた県外の学校は100校にまで落ち込みました。我々も専門の推進委員を3人用意いたしまして各地の学校を回り、今年中に何とか400校には戻したいと考えています」
しかし修学旅行生に比べると、一般の観光客は戻りつつあるのだそう。会津若松の観光地や温泉(東山温泉、芦ノ牧温泉など)への、観光客の回復状況を教えてもらった。
「震災前と比べまして、一番の観光地である鶴ヶ城は9割くらい。その他のところは6割程で、全体としては7割程度にまで回復しています。温泉は規模の大きいところは宣伝に力を入れることができるので、戻りが早かったようです」
さて、これまでも大河ドラマの舞台となると、観光地として一気に注目を集めたケースは多いが、会津若松市はいかがだろう?
「まだ雪が残っていますので、これから車での訪問がもっと増えると考えています。雪が解けてからが本番というところでしょうか。今後も大阪の大丸梅田店をはじめとして、お客様に会津若松関連の素敵なものをプレゼントしたり、各地で物産展などを開催して、広くアピールしていきます」
会津若松では、大河ドラマにちなんで戊辰戦争前後のイベントが続々と企画・開催されていれる。
鶴ヶ城天守閣では、「幕末武器類紹介」(1月18日~4月8日)が開催中。そのあとには「~幕末特集~会津人 戊辰戦争のまえとあと」(4月12日~9月30日)が開催予定。また会津新撰組記念館では「山本(新島)八重と鉄砲展」が今年の12月まで開催されており、會津藩校日新館では「山本覚馬と妹・八重」が4月から開催予定となっている。
「八重の桜」にゆかりのあるイベントを満喫したあとは、東山温泉でゆったりと湯に浸かる。そんな楽しみ方ができる会津若松市は、今年の観光名所として注目を集めるに違いない。
■会津若松観光ナビ
http://www.aizukanko.com/
栃木
展示:大田原藩と戊辰戦争展、那須与一伝承館で /栃木
145年前の大田原市の歴史に光を当てる「大田原藩と戊辰戦争」展が、同市南金丸の与一伝承館で開かれている。3月24日まで。
大田原藩は1万1400石の外様大名で、1600~1871年、藩主14代にわたって歴史を刻んだ。戊辰戦争では新政府軍側についたため1868年、大田原城は旧幕府軍の会津藩の攻撃を受けた。
会場では、攻撃が迫って城を脱出したという14代目藩主の〓丸(としまる)(後の勝清、当時7歳)の写真や戦況を報告する「太政官日誌」や、大田原藩士が付けた3種類の袖印、古地図、書簡など約40点が展示されている。
3月3、17日には展示解説がある。入館料は高校生以上は300円(10人以上の団体は250円)。中学生以下は無料。問い合わせは同館(電話0287・20・0220)。【柴田光二】
千葉
ひな飾り:14代将軍徳川家茂の正室・和宮が所有 佐倉・国立歴史民俗博物館で展示 /千葉
3日のひな祭りにちなみ、佐倉市の国立歴史民俗博物館で、第14代将軍徳川家茂(いえもち)の正室となった皇女和宮(かずのみや)が所有していたというひな飾りが展示されている。御所のある京都で作られた内裏びな人形2体と江戸で作られたひな道具をセットに飾っていたとされ、幕末動乱期に「公武合体」のため天皇家から将軍家に嫁いだ和宮の生涯を垣間見ることができる。31日まで。
和宮は仁孝(にんこう)天皇の第8皇女として京都に生まれた。対立する朝廷と幕府の関係を修復するため、将軍家に降嫁。幕末から明治維新にかけて波乱の生涯を送ったことで知られている。
和宮のひな飾りは徳川将軍家とその子孫に受け継がれ、文化庁に寄贈された。内裏びなは高さ約16センチと小ぶりだが、「一番御位よろしきの故 小さくとも上位にならべること」とされ、徳川宗家に伝わった数多くある人形のなかでも特に大切に扱われた。同館の澤田和人准教授は「(政権を朝廷に返した大政奉還後も)徳川家存続に力を尽くした和宮の伝来ということで、大切にされてきたのだろう」と分析する。
内裏びなは朝廷や公家が行う儀式で着る装束を着用。特に女びなの上着は、和宮が京都で織らせた自身の着物と同じ模様をしており、人形自体が和宮の分身として京都で作られたと推測されている。
一方、約80点あるひな道具は、江戸上野池之端(現東京都台東区)にあった有名なひな人形店「七澤(ななさわ)屋」が制作したとされている。一枚一枚に文字と絵が描かれた幅約1センチの小倉百人一首や、面が1ミリ四方にも満たないさいころ、幕末に流行したガラス製の器など精巧なミニチュアが並ぶ。
ひな祭りは江戸時代に入って広まり、装飾はその時々の流行を取り入れながら豪華になっていったという。特に七澤屋の品は「家が建つほど高価なぜいたく品」と言われ、大名家などが求めたが、現在はほとんど残っておらず、展示のひな道具は江戸時代の工芸技術の高さを知る貴重な資料だ。澤田准教授は「肉眼ではなかなか見えない所にまでこだわっており、じっくりと見てほしい」と話している。【味澤由妃】
3月3日朝刊
山梨
黒駒勝蔵の実像に迫る 笛吹で企画展 山梨
■「時代を動かしたアウトロー」
江戸時代末期、駿河の清水次郎長の好敵手として、東海一円に名を知られた甲州の博徒、黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう)の潜伏先を記した古文書が見つかった。勝蔵がなぜ博徒として大きな存在になったかを示す貴重な史料の一つとして、勝蔵の実像を解き明かす県立博物館(笛吹市御坂町成田)の企画展「時代を動かしたアウトローたち」(産経新聞甲府支局など後援)で展示され、話題を呼んでいる。
●潜伏先を記した古文書見つかる
無宿 勝蔵
同 綱五郎
右両人其外(そのほかの)もの共者(どもは)当時駿州吉原在(ざい)
宮島村重吉事(こと)年蔵与申(ともうす)もの之方江(のかたへ)
八月下旬罷越候由(まかりこしそうろうよし)…(以下略)
新発見の古文書「無宿勝蔵・綱五郎動静ニ付書置(つきかきおき)」は人づてで届いた勝蔵の所在を示す手控え(メモ書き)。先祖が村役人だった笛吹市内の民家で見つかり、勝蔵と子分の綱五郎の所在について「吉原(静岡県富士市)の宮島年蔵方を8月下旬に訪れた」という内容が書かれている。
駿河との間で物や人の往来が盛んだったことから、富士川舟運や鎌倉往還などをめぐり、勝蔵と次郎長の対立は激しかったとされる。甲州を拠点としていた勝蔵だが、度重なる抗争で代官所の取り締まりが厳しくなり、活動の主軸を甲斐国外に移すようになっていった。アウトローだった勝蔵の居所は“極秘”で、所在を示す史料は珍しいという。
古文書は勝蔵の潜伏先を次郎長の本拠、清水(静岡市清水区)からも近い吉原と明かしているが、年号の記述はない。年蔵は次郎長と対立する博徒で、次郎長の伝記にも名が登場するという。
無宿は一族に迷惑をかけないため戸籍を抜けたという意味。勝蔵は天保3(1832)年、現在の笛吹市の生まれ。25歳で無宿人となり、官軍に属して戊辰戦争にも参戦。明治4(1871)年に博徒時代の罪で斬首された。
明治初期の山梨県史綱抄録(こうしょうろく)(国立公文書館蔵)に勝蔵が逮捕された際の口述書があり、子分の綱五郎の名も出てくる。同博物館の高橋修学芸員は「粗末な紙に記された手控えだが、勝蔵の実像を知る重要な史料」とした上で、勝蔵が博徒として名をはせた背景に、動静を伝え合う「使い」(メッセンジャー)や庇護者の存在を指摘する。約4年前、民家から持ち込まれた古文書約3000枚を高橋学芸員らが読み込む中で見つかった。
アウトロー(無法者)を企画展で扱うことについて、高橋学芸員は「タブーへのチャレンジだが、博徒は当時の物流を陰で支え、文化的素養のある人も少なくなかった。歴史の本質を探る上で避けて通れない存在」とし、「当時の甲州の“大親分”の多くは明治維新前後に処刑されたり抗争で死んだりして血脈が途絶えたため、歴史として客観的に見つめ直せる」と話す。このほか、勝蔵と次郎長の肖像画、次郎長自筆の書簡など約80点を展示。3月18日まで。詳細は同博物館(電)055・261・2631。
新潟
三条市が体感ツアーバスを計画 八十里越の秘境楽しんで 新潟
三条市は、開通前の国道289号八十里越を利用し、福島県只見町側に向かう「秘境八十里越体感ツアーバス」を初めて計画している。八十里越は作家、司馬遼太郎の小説「峠」の舞台になり、戊辰戦争に敗れた長岡藩の河井継之助が敗走したルート。負傷して担架に乗せられた河井が「八十里こし抜け武士の越す峠」と自嘲の句を詠んだことで知られる。同市は「バスツアーを通し、289号の早期開通に向けて機運を高めたい」としている。
新潟・福島県境の289号八十里越は事業区間約20キロ。国土交通省と新潟・福島両県の施工で平成元年に着工したが、トンネルが計14本あり、冬の半年間は工事ができず、厳しい地形条件もあって難工事が続き、供用開始の目標年度などは定められていない。県境の9号トンネル(3173メートル)は22年11月に貫通し、昨年は工事用道路などを利用して只見町の商工関係者が新潟側を訪問、早期開通をアピールした。
ツアーバスは6月中旬から11月上旬にかけ、毎週2回、計約40回の定期運行を目指す。三条市の道の駅「漢学の里しただ」を出発し、新潟側の渓谷美などを楽しみ、9号トンネルを抜けて只見側の雄大なブナ林などを見学した後、Uターンする半日コース。雪解けや工事の状況、天候などによりコースの変更などもあるという。
また、同期間中に数回、江戸時代に八十里越の交通を取り締まったという只見町の叶津口留番所(かのうづくちどめばんしょ)跡、同町の河井継之助記念館まで足を延ばした後、国道252号を魚沼市側に抜けて三条まで戻る特別コースも企画する予定。
三条市営業戦略室は「八十里越は優れた見どころがいっぱいある。なかなか訪れることができない秘境を堪能してもらい、八十里越ファンを増やしていきたい」と話している。
京都
気のゆるみが悲劇招く? 殺生禁じた洛中でなく、洛外に潜んだ龍馬
京都では幕末の当時、天皇が君臨する洛中では捕物や殺生はやらないというのが、暗黙の了解にあった。このため、奉行所の役人たちは洛中で犯人の後をずっとつけて、洛外に出たところで逮捕、あるいは切り倒していたというのだ。
幕末の兵法学者、佐久間象山が殺害された高瀬川周辺や新選組を一躍有名にした池田屋はまさに洛外だった。当時、東の京極が寺町通だったため、寺町通の東側に建っていた近江屋は洛外にあたる。
龍馬も殺害される前年の慶応2(1866)年、伏見・寺田屋で奉行所の役人に襲撃されて重傷を負った苦い経験から、襲撃に対する心構えは十分できていたはず。
龍馬が身を潜める近江屋は土佐藩御用達の商人で、河原町通をはさんだ向かいには土佐藩邸があった。さらには母屋の隣の土蔵で寝起きをし、いざというときには、隣の誓願寺に逃げ込むはしごを用意していたというほどの警戒ぶりだった。
現在、河原町蛸薬師の交差点を東に入ったビルの一角に建つ岬神社は土佐藩邸内にあったことから、「土佐稲荷」の名前で知られている。ここから殺害現場の石碑までは数分とかからない。
だが、龍馬はこの日、風邪気味のためか、母屋2階の8畳間で火鉢にあたりながら中岡慎太郎と話し込んでいた。とはいえこの8畳間も2階西端にあたり、刺客が階段を上がったとしても別の部屋もあり、簡単に攻撃を受けない位置にはあった。
龍馬が無血による政権交代を願って奔走した「大政奉還(幕府が朝廷に政権を返上)」が実現した直後ということもあり、何らかの気のゆるみがあったのかもしれない。
犯人については、関係者の証言から京都見廻組与頭(くみがしら)の佐々木只三郎(たださぶろう)▽犯人が叫んだ「こなくそ」の方言から薩摩藩士▽現場に残った刀の鞘から新選組・原田佐之助▽武力による倒幕を訴えた長州藩-など。
黒幕には、無血による政権交代を好まない英・スコットランドの武器商、トーマス・グラバーらの名前があがるなど諸説あるが、いずれも確証なく、謎に包まれたままだ。(園田和洋)
京丹波の隕石も注目を 幕末に落下、今は東京の博物館に
ロシアの隕石(いんせき)が話題を呼ぶなか、京丹波町曽根で幕末に落下した隕石が再び注目を浴びている。石質隕石としては日本で3番目の重さで、府内では唯一確認されている落下隕石だ。現地には複製や記念碑も残る。地元住民は「これを機に、丹波でも隕石が落ちたという歴史を広く知ってほしい」と話している。
「宇宙から丹波町への贈物」。現在の京丹波町曽根地区にある隕石記念碑には、そう刻まれている。1993年、周辺のほ場整備完成に合わせて、府が設置した。そばには強化プラスチックで作られた隕石の複製が置かれている。
地元の古文書によると、1866(慶応2)年6月7日、曽根地域の麦畑に落下したと伝わる。「天に大砲を発するがごとき二音あり」と記されている。隕石は地元の代官家で代々保管されていた。現在は府が所有し、寄託を受けた国立科学博物館(東京都台東区)で常設展示されている。幅29センチ、高さ18センチ、重さ17・1キロで、かんらん石、輝石、鉄とニッケルの合金などからできている。
隕石を一時預かっていた庄屋の子孫の岩崎孝雄さん(72)は、区長だった5年前、曽根区公民館近くに「曽根隕石の地」と記した看板を設置した。岩崎さんは「ロシアの映像を見て、ここの隕石もあんな感じだったのだろうかと想像している」と語る。
1992年11月に府立丹波自然運動公園で特別展示されたほかは、地元で実物を見る機会はほとんどない。記念碑の近くで農地を耕す奥山義雄さん(75)は、「最近は地元でも隕石を知らない人が多いだろう」と残念がり、「学校で子どもたちにも教えてほしい」と願っている。
広島
文化審答申:岩倉具視資料、重文指定へ 幕末〜明治の書簡など /広島
廿日市市にある「海の見える杜美術館」所蔵の岩倉具視関係資料約1700点が27日、国の文化審議会から重要文化財に指定するよう答申された。幕末から明治の激動の時代を伝える1級の資料群で、専門家が調査・分析を進めている。
資料は同館の前身が86年に京都市の古書店から購入。西郷隆盛や大久保利通、伊藤博文らが岩倉に宛てた書簡や意見書など。これまで知られていなかった資料も多く、政治史研究上の価値が高い。
資料の研究を進める佐々木克・京都大名誉教授が今回確認した資料では、新政府の会議(閣議)出席者の押印がある議案や決議書面があった。
新政府は、王政復古の大号令で「至当の公議をつくし」、五箇条の御誓文で「万機公論に決すべし」と、「公議公論」をうたった。しかし政策決定過程を巡る資料はなく、「薩長討幕派の専制政府」とも言われた。
見つかった資料は、議論を経て政策決定をしていたことをうかがわせる。例えば、「自ラ良策アルベシ」などとする公務人の心得についての議案書では、木戸孝允、松平慶永、福岡孝弟ら5人の押印があった。さらに忠死者の祭祀(さいし)についての議案書には、大久保利通ら13人の押印があった。
佐々木名誉教授は「公議公論が単なるスローガンではなく、実践されていたことがよく分かる」と話している。【寺岡俊】
山口
「歴女」が維新の里、萩市で幕末談議
山口県萩市で23、24日、歴史好きな女性「歴女」が交流する「幕末・維新girl’sサミット」が開かれた。参加者は幕末の雰囲気が残る城下町を着物姿で散策し、歴史談議に花を咲かせた。
市が助成する町づくり事業の一環で、昨年12月から参加者を募集。全国から13~69歳の44人が集まった。サミット関係者は「SNSやブログなど、歴女同士の情報交換は盛ん。サミットで輪が広がれば、さらに市をPRできる」と期待する。
サミットでは、普段は観光客が入れない、坂本竜馬ゆかりの道場や吉田松陰が教えた松下村塾にも特別に入った。幕末史や松陰の思想について講義を受け、ワークショップでは人物や藩ごとに意見交換。維新の志士の中で特に人気の高い、萩出身の高杉晋作の話題では「大胆さと繊細さのギャップがたまらない」などと、人間性について白熱した議論が交わされた。
神奈川県から来た山崎菜々子さん(28)は、「(萩出身の)伊藤博文が一番好き。新しい友達もできて、すごく楽しい2日間だった。また萩に来たい」と笑顔で話した。(共同)
ネタ出しが『鰍沢』なので、初めて扇辰師匠の独演会に足を運びました。振り返ってみたら、2010年1月に初めて落語をライブで聴いたのが志の輔らくご@パルコで、その次が談春独演会@横浜にぎわい座で「鰍沢」と「大工調べ」だった……その当時でもチケット入手困難と言われていた志の輔・談春、最近はますます入手困難だなぁ。
扇辰師は、寄席の浅い出番でも中入り前でもトリでも違和感がない真打ちのひとりなので、自分にとっては『芝浜』に次いで落語初心者の時に聴き込んだ大ネタである『鰍沢』を期待して間違いはあるまいと思った。そして、期待通りの満足感。
一目上がり/小辰
寄席では辰じんとして前座の高座を見ているはず。尊敬している師匠だけど尊敬できなかったエピソードとして、ぎっくり腰になった師匠から電話を受けて新潟に2時間かけて向かったという噺で温めてくれた。
二つ目になるだけあって、安定した『一目上がり』。素直に笑えた。
鰍沢/扇辰
開口一番の小辰への意趣返しか、えーと……小辰さんとぴっかりさんは付き合っていないそうです(爆)。扇辰師匠が下座の小辰さんに念押してました。
雪ほど嫌いなものはないということでご出身の長岡での積雪の様子を語り、そこから『鰍沢』へ。法華宗とか身延山参りとかの解説はすっ飛ばし、吹雪の描写から旅人が道に迷って人里離れた一軒家に辿り着き、そこで雛には稀な妖艶な美女に一夜の宿を提供してもらう。その美女は、かつて吉原で歓待してくれた月の兎花魁のなれの果てだった。今はお熊と名乗る女が手ずからつくった玉子酒に眠気を催して床についた旅人は、帰宅した主人が残った玉子酒を飲んで昏倒するのを立ち聞きし、お熊が自分の懐を狙って玉子酒に一服盛ったのを知り、逃走する。
筋を正せば亭主に毒を盛ったのは自分であるはずなのだけど、自分の罪を認めたくない気持ちもあるのか、夫の敵は旅人だと宣言して鉄砲かついで雪の中を旅人を追うお熊……この辺りの描写は火サスっぽい。
扇辰さんの『鰍沢』は、新潟県長岡市という雪国育ちということからか、雪を払って炉に薪をくべて温まる場面に細やかな仕草があったり、雪の中を歩き回って凍えきった後に人家にたどりついて炉で暖まるにつれて手や顔がかゆくなるような様子があったり、仕草がとてもいい。お熊も、たたずまいや言葉からして、垢抜けて玄人っぽい様子。
ほんと、最後の「お題目」と「お材木」のオチが、それまでの火サス的盛り上がりからするとがっかり感があるネタではある。でも、これを三題噺としてつくってしまう圓朝は天才だと思う。
百川/扇辰
中入り後は、うってかわってひたすら馬鹿馬鹿しい『百川』。田舎者の百兵衛が、今でいったらミシュラン三つ星の名店(何しろペリーが二度目に江戸に来た時にディナーを提供したのが「百川」……日本料理の真髄を披露してもありがたいと思わない人たちだと思うのだが^_^;)。
談春さんで日本橋の『百川』を聴いているはずなのだけど……軽く、百兵衛さんの訛りによって巻き起こされる騒動を、楽しめる。
扇辰師は、寄席の浅い出番でも中入り前でもトリでも違和感がない真打ちのひとりなので、自分にとっては『芝浜』に次いで落語初心者の時に聴き込んだ大ネタである『鰍沢』を期待して間違いはあるまいと思った。そして、期待通りの満足感。
一目上がり/小辰
寄席では辰じんとして前座の高座を見ているはず。尊敬している師匠だけど尊敬できなかったエピソードとして、ぎっくり腰になった師匠から電話を受けて新潟に2時間かけて向かったという噺で温めてくれた。
二つ目になるだけあって、安定した『一目上がり』。素直に笑えた。
鰍沢/扇辰
開口一番の小辰への意趣返しか、えーと……小辰さんとぴっかりさんは付き合っていないそうです(爆)。扇辰師匠が下座の小辰さんに念押してました。
雪ほど嫌いなものはないということでご出身の長岡での積雪の様子を語り、そこから『鰍沢』へ。法華宗とか身延山参りとかの解説はすっ飛ばし、吹雪の描写から旅人が道に迷って人里離れた一軒家に辿り着き、そこで雛には稀な妖艶な美女に一夜の宿を提供してもらう。その美女は、かつて吉原で歓待してくれた月の兎花魁のなれの果てだった。今はお熊と名乗る女が手ずからつくった玉子酒に眠気を催して床についた旅人は、帰宅した主人が残った玉子酒を飲んで昏倒するのを立ち聞きし、お熊が自分の懐を狙って玉子酒に一服盛ったのを知り、逃走する。
筋を正せば亭主に毒を盛ったのは自分であるはずなのだけど、自分の罪を認めたくない気持ちもあるのか、夫の敵は旅人だと宣言して鉄砲かついで雪の中を旅人を追うお熊……この辺りの描写は火サスっぽい。
扇辰さんの『鰍沢』は、新潟県長岡市という雪国育ちということからか、雪を払って炉に薪をくべて温まる場面に細やかな仕草があったり、雪の中を歩き回って凍えきった後に人家にたどりついて炉で暖まるにつれて手や顔がかゆくなるような様子があったり、仕草がとてもいい。お熊も、たたずまいや言葉からして、垢抜けて玄人っぽい様子。
ほんと、最後の「お題目」と「お材木」のオチが、それまでの火サス的盛り上がりからするとがっかり感があるネタではある。でも、これを三題噺としてつくってしまう圓朝は天才だと思う。
百川/扇辰
中入り後は、うってかわってひたすら馬鹿馬鹿しい『百川』。田舎者の百兵衛が、今でいったらミシュラン三つ星の名店(何しろペリーが二度目に江戸に来た時にディナーを提供したのが「百川」……日本料理の真髄を披露してもありがたいと思わない人たちだと思うのだが^_^;)。
談春さんで日本橋の『百川』を聴いているはずなのだけど……軽く、百兵衛さんの訛りによって巻き起こされる騒動を、楽しめる。
2009年1月に志の輔らくご@パルコを皮切りに落語にはまったので、落語歴はまだ3年……2010年に出くわしたライブがとてもよかったので年間30から50の寄席や落語会を聴きに行くような落語オタクになってしまった(^_^;)。2010年に出会った中で今でも印象が強烈に残っているのは、志の輔らくご@パルコ、にぎわい座の志の輔『百年目』、志の輔『江戸の夢』、そして談春『佐平次』@神奈川音楽堂。自分には「紅葉坂の佐平次」として、談春さんのベスト・オブ・ベストな高座として記憶している。
だから談春師がネタ出しで『佐平次』をかけるとなったら、それも地元といっていい大井町のきゅりあんでの高座となったら、万難を排しても聴きに行くのだ。
こはる『千早ふる』
直近で文左衞門師の『千早ふる』を聴いたばかりだったので、同じネタなのに演者によって魅力が違うのをしみじみ感じた。文左衞門師版は、文師らしく、兄ぃと弟分(百人一首のかるたとりに凝ってる娘がいる)という関係性に対して、こはるちゃん版は、スタンダードなご隠居と熊公の関係。自分が聴いてきたいくつかのバージョンと比較してこはるちゃんオリジナルかなと思うのは、竜田川関が吉原で千早太夫に出会う経緯に絵画的な描写があったところ。
この後に上がった談春師曰く、18時半というちょっと早めな開演でわさわさと遅れて座席に着くお客様もいる中で、実に淡々と演じていたと。万難を排して最初から聴けた自分には、ゆったりした心持ちで楽しめた『千早ふる』だった。
談春『味噌蔵』
最近聴いた中では市馬師の『味噌蔵』がスタンダードなので、期待レベルが高くなってしまうのだけど……さすが談春師、市馬さんの楽しげな「ドガチャガ」と礒節にはとても及ばなかったものの、それ以外のところは談春さんらしい膨らませ方も含めて聴かせてもらった。
赤西屋の旦那が結婚して子供を設ける経緯は思い切りよくカット。旦那の留守を幸いにご馳走を注文して盛り上がる番頭以下使用人たちのはじけっぷりも、見込みに反して早く帰宅した旦那にうろたえる使用人たちの反応も面白かった。寄席ではトリネタになり得るネタではあるけど、談春さんには軽めに中入り前でやっていただくのが合っているなぁ。
談春『居残り佐平次』
デリハル2013のシリーズでは、東京各地を回る中でなるべく地元に近いネタをかけるそうだ。そして、品川区の大井町での今回口演は『居残り佐平次』……2010年9月の神奈川県立音楽堂での、自分的には通称「紅葉坂の『佐平次』」を聴いて以来、いまだに衝撃が記憶に残っている名演が比較対象になってしまうので、なまじの落語家さんの『佐平次』では満足できないだろうと思っている。談春さんが、その時の口演を超えられるかどうかって基準で聴くファンがいるって、談春さんの落語家人生は常にハードル高いよなぁ……。
こってりと一時間にわたって饒舌かつ気まぐれな佐平次に振り回されて、満足。翻弄される牛太郎と同じように、言いくるめられたり、恫喝されて怯えたり、ちょっとした気遣いにほだされたり、毒気に当てられてしまう。強いて云えば、紅葉坂の佐平次が襖から顔を出して周囲を見渡してブラックに笑った(表現しづらいのだけど喪黒福造がシシシと笑うのが近い)場面があって、祟り神のこわさと魅力を感じたのだけど、その一点がちょっと足りない感じ。でも佐平次が百戦錬磨のおばさん始めとする登場人物のすべてを振り回す『居残り佐平次』の面白さを伝えて余りある口演だった。さすが談春。
だから談春師がネタ出しで『佐平次』をかけるとなったら、それも地元といっていい大井町のきゅりあんでの高座となったら、万難を排しても聴きに行くのだ。
こはる『千早ふる』
直近で文左衞門師の『千早ふる』を聴いたばかりだったので、同じネタなのに演者によって魅力が違うのをしみじみ感じた。文左衞門師版は、文師らしく、兄ぃと弟分(百人一首のかるたとりに凝ってる娘がいる)という関係性に対して、こはるちゃん版は、スタンダードなご隠居と熊公の関係。自分が聴いてきたいくつかのバージョンと比較してこはるちゃんオリジナルかなと思うのは、竜田川関が吉原で千早太夫に出会う経緯に絵画的な描写があったところ。
この後に上がった談春師曰く、18時半というちょっと早めな開演でわさわさと遅れて座席に着くお客様もいる中で、実に淡々と演じていたと。万難を排して最初から聴けた自分には、ゆったりした心持ちで楽しめた『千早ふる』だった。
談春『味噌蔵』
最近聴いた中では市馬師の『味噌蔵』がスタンダードなので、期待レベルが高くなってしまうのだけど……さすが談春師、市馬さんの楽しげな「ドガチャガ」と礒節にはとても及ばなかったものの、それ以外のところは談春さんらしい膨らませ方も含めて聴かせてもらった。
赤西屋の旦那が結婚して子供を設ける経緯は思い切りよくカット。旦那の留守を幸いにご馳走を注文して盛り上がる番頭以下使用人たちのはじけっぷりも、見込みに反して早く帰宅した旦那にうろたえる使用人たちの反応も面白かった。寄席ではトリネタになり得るネタではあるけど、談春さんには軽めに中入り前でやっていただくのが合っているなぁ。
談春『居残り佐平次』
デリハル2013のシリーズでは、東京各地を回る中でなるべく地元に近いネタをかけるそうだ。そして、品川区の大井町での今回口演は『居残り佐平次』……2010年9月の神奈川県立音楽堂での、自分的には通称「紅葉坂の『佐平次』」を聴いて以来、いまだに衝撃が記憶に残っている名演が比較対象になってしまうので、なまじの落語家さんの『佐平次』では満足できないだろうと思っている。談春さんが、その時の口演を超えられるかどうかって基準で聴くファンがいるって、談春さんの落語家人生は常にハードル高いよなぁ……。
こってりと一時間にわたって饒舌かつ気まぐれな佐平次に振り回されて、満足。翻弄される牛太郎と同じように、言いくるめられたり、恫喝されて怯えたり、ちょっとした気遣いにほだされたり、毒気に当てられてしまう。強いて云えば、紅葉坂の佐平次が襖から顔を出して周囲を見渡してブラックに笑った(表現しづらいのだけど喪黒福造がシシシと笑うのが近い)場面があって、祟り神のこわさと魅力を感じたのだけど、その一点がちょっと足りない感じ。でも佐平次が百戦錬磨のおばさん始めとする登場人物のすべてを振り回す『居残り佐平次』の面白さを伝えて余りある口演だった。さすが談春。
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幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
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